第408話 偶然


「彼女は……瀬口早苗は生きているのか?」

 私の問いに、美しい女性は頷いた。

『もちろん死んでないわ。ここにいる他の生物同様に、自らが望んだ世界の中で生きていた。今はもう意識がそこに戻ってきていると思うけど』

『望んだ世界……?』とカグヤが疑問を言葉にする。

 恐ろしいほどに美しい女性は何も言わず、ただ微笑んでみせた。すると巨大な石柱の内部、蠢いていた肉塊の底から、全身を赤黒い粘液で濡らした生物が現れる。その生物はカマキリにも似た細長い胴体を持っていたが、全身はつるりとした深紫色の外骨格に覆われていた。しかし異様に肥大化した腹部だけは薄い皮膜に包まれていて、熟したザクロの果肉にも似た粒状の物体が数え切れないほど詰まっているのが見えた。また胴体には、指のような器官を備えた長い腕が四本ついていた。


 悍ましい姿をした生物は三メートルほどの巨体だったが、中脚と後脚を器用に動かして粘液に濡れる肉塊の上を移動し、瀬口早苗が入っていた球体を持ち上げた。液体の詰まったブヨブヨとした球体の先には、血管のような青黒い管がついていて、それは蠢く肉塊に向かって伸びていたが、悍ましい生物はそれを力任せに引き抜くと、球体を持って石柱から出てくる。


 化け物に向かってハンドガンを構えると、女性は頭を横に振った。

『人類がアジョエクの姿に嫌悪感を抱くことは知っているけど、安心して、あなたに危害を加えることは無いわ』

「あのカマキリみたいな化け物は、あんたが使役している生物なのか?」

『違う。跪くものたちは世界を問わず何処にでも現れて、自分たちのしたいことをしている。だから彼らが何を考えているのかは私にも分からない』

 石柱の内部に視線を向けると、数十体の悍ましい化け物がこちらに身体を向け、じっと動かない様子が見えた。

「得体の知れないものを側に置いて、あんたは恐ろしくないのか?」

『好き嫌いの問題じゃないのよ。彼らがそこにいるなら、受け入れるしかない』

 美しい女性はそう言って微笑む。


 アジョエクと呼ばれる生物は、赤茶色の砂に粘液を垂れ流しながら我々のすぐ側までやってきた。そして瀬口早苗が入った球体を地面に置くと、ゴツゴツとした外骨格に覆われた眼の無い頭部を私に向ける。それから鋭い牙のついた大顎を打ち鳴らした。私が怖気づいて一歩後退ると、化け物は来た道を引き返していった。異様な生物からは臭いがしなかったが、瀬口早苗の入った球体からは吐き気のするような腐臭が漂ってきていた。


『瀬口早苗はレイラにあげるわ』と女性は言う。

「あげる? それはどういう意味だ?」と私は言った。意図していなかったが、ぞんざいな口調になってしまった。しかし女性は少しも気にしていなかった。

『彼女は珍しい個体だった。だからしばらく手元に置いておいたけど、もう必要なくなったの』

「すまない、俺にも分かるように説明してくれないか?」

 女性は膝を折ることなく宙に跳びあがると、私の側にピタリと着地した。そして驚いて後ろに下がる私の身体にしなやかな肢体を押し付けながら言った。

『彼女の望みは施設で暮らす子供たちを救うことだった』


「子供?」と私は頭を傾げる。

『そうよ』女性はそう言うと、私の首に唇をつけた。彼女の唇は柔らかく、そして刺すように冷たかった。『知っているでしょ? 瀬口早苗の施設ではパンデミックが起きていた。けれど彼女にはどうすることも出来なかった。だから彼女は望んだの』

「なにを?」

『せめて子供たちだけでも救いたいって。でもそれは叶わなかった』

「どうして?」

『彼女が私のもとに辿り着いたときには、ひとりも生き残っていなかったのよ。彼女が自らの命を犠牲にしてまで救いたかった子供たちは、不死の化け物に喰い殺されていた。施設に残っていたのは、暴動を生き延びた僅かな人間だけ。そして彼らにも希望は残されていなかった』


 私は女性から離れると、液体金属を操作し首元から頭部全体を覆うようにマスクを装着する。それからもう一体のアジョエクが運んできた球体に視線を向ける。

『泥の塊?』と、球体に入った蠢く物体を見ながらカグヤは驚きの声をあげた。

『あれが施設で暴れ回っていた肉塊の正体よ』と女性は言う。『元々は瀬口早苗と同じ生物だった。カグヤもあれが瀬口早苗に変化した瞬間を見たでしょ?』

『確かに保存されていた映像で確認したけど、どうしてそれを知っているの?』

『望みを形にする際に、記憶を含めて必要な情報を手に入れることができるの』

『そんなこと、出来る訳がない』

『出来るのよ。レイラが見てきた世界を知れば、カグヤにも私の能力の素晴らしさが理解できる』

『自分の能力を嬉々としてひけらかすんだね』

『知られても困ることじゃないもの。例外はあるけれど、基本的に抗うことはできないの。そうでしょ? どんな生物にも望みはある。それともカグヤには、この世界が本物だって証明することはできる? これが私の創りだした世界じゃないって確信をもって言える?』


 カグヤが黙り込み、アジョエクが離れていくのを確認すると私は言った。

「泥の塊にしか見えないけど、あんな生物にも望みはあるのか?」

『もちろん』と女性は頷いた。『あの生物は、この世界の底からやって来た。具体的な場所は訊かないでね、私だって暗闇が支配する地底の全てを把握している訳じゃないから。でも一方の生命体は瀬口早苗の生体情報や記憶を手に入れて、瀬口早苗になることができた。けれどもう一方の生物はそれができなかった』

「そいつも人間になりたかったのか?」

『ええ。最初は生き物ならなんだって良かったと思っていた。でも人間になった同族を見てしまった。それがいけなかったのね。生物の望みは歪んでしまった。何が何でも人間になろうとした。でもこの世界に人間はひとりもいなかった。だから人間が沢山いる世界に行けるように、望みを形にしてあげることにしたの』


 私は液体の詰まった球体に視線を向け、それから言った。

「望みを叶える過程で、あんたは現実の世界に干渉することもできるのか?」

『良く分かったわね』と女性は微笑み、そして蠢く泥の塊を見つめた。『その生物はずっとこの場所に拘束されながら、自由に外の世界で動き回ることができた。名前の無い生物は望み通り、瀬口早苗の世界に行くことができた』

「でも施設に人間はいなかった」

『ええ。人擬きと呼ばれる不死の化け物が徘徊していただけ。でも名前の無い生物にはそれで充分だった。名前のない生物は、施設に溢れていた人擬きを体内に取り込み、そして肥大化していった。それこそ施設を呑み込む勢いで』


『あなたは望みを形にすることができる』とカグヤが言う。『それなのに、あの生物が求めた人間のいる世界を創り出すことはしなかった。それはどうして?』

『幾つかの望みが混在してしまったの』

『混在?』

『ひとつは瀬口早苗よ』と女性は言う。『名前の無い生物が、あの地下施設で不死の化け物を喰い散らかしている間、望みを形にする過程で産まれたもうひとりの彼女は、この世界に留まり続けた』

『もうひとり? 夢の中で動く思念体のような存在のこと?』

『ええ。彼女の本体とは別に、自らが望んだ世界で自由に生きられる瀬口早苗が存在していた。でも彼女は施設に帰ろうとしなかった。名前の無い生物と融合する際に、なにか手違いがあったのかもしれない。曖昧とした記憶で彼女はこの世界を彷徨い続けた。でもある日、何かを思いだしたように、急に施設に戻る決心をした』

『混在していたもうひとつの望みは?』

『施設の人間と融合したいと願い続ける哀れな生物の望み』


『……瀬口早苗には、具体的にどんな世界を見せてあげたの?』とカグヤが訊ねる。

 女性はカグヤの操作するドローンの側まで行くと、逃げようとする機体をひょいと捕まえる。

『子供たちが大人になるまで見守ることの出来る世界』

『過去に戻って最初からやり直すんじゃなくて、化け物が徘徊する壊れた世界で、子供たちの世話をさせたの?』

『理由は分からないけれど、彼女がそれを望んだのよ。そして幾つもの望みが混在した歪な世界が生まれた』

「理由が分からないか……あんたにも分からないことはあるのか?」と私が訊くと、女性はクスクスと笑った。

『当然でしょ? 私は人類が絵に描いたような神さまじゃない。現に私はレイラとカグヤの全てを知っている訳じゃない。望みを形にするのに必要な情報しか得られなかったのよ』


『施設のデータベースに干渉して、第三世代の人造人間を誕生させたのは、彼女の望みを形にするためだったの?』

 カグヤがそう訊ねると、ドローンの装甲を弄っていた女性は素っ気無く答えた。

『それは私じゃない』

『嘘は言わないんじゃなかったの?』

『ええ。子供たちを誕生させたのは、あなたたちが混沌の意思と呼ぶものよ』

「混沌の意思……?」と私は困惑する。「瀬口早苗の願いを叶えたのは、混沌の意思だったのか?」

『ややこしい話でしょ?』女性がそう言ってドローンから手を離すと、機体は光学迷彩を起動して姿を隠した。

『子供たちが施設で誕生したことを知った彼女は、施設に戻って子供たちの世話を始めた。でも彼女から得られるはずだったものを、私は得ることができなかった』

『あなたが糧と呼んでいるもの?』

『ええ。彼女の望みを叶える世界だった。それなのに彼女は幸福になれなかった』

『あんな施設にいたら、子供が心配で幸せになんかなれないよ』

『そうね。でも彼女はその世界を望んだ』


「皮肉だな」と私は言う。「幾つもの意思が混じり合っていた所為で、あんたすらも制御できない世界が誕生したのか」

『他人事みたいに話をしているけど、レイラとカグヤも深く関わっているのよ』と女性は言う。

「そうだな。まさか異界に足を踏み入れることになるなんて想像もしなかった」

『全てが偶然に起きたことだと思っているの?』

 女性はそう言うと、蠢く泥が入っていた球体に触れた。すると球体を満たしていた飴色の液体が黒く濁っていった。

『何をしたの?』

 カグヤが戸惑いながら訊ねると、女性は口の端に笑みを浮かべる。

『殺したのよ。もう必要のないものだから』

『必要が無い……?』

『何を驚いているの? カグヤたちだって名前の無い生物を殺すために、わざわざこの地までやってきたのでしょ?』

『そうだけど……』

 ブヨブヨとした球体は見る見るうちに固まり、赤茶色の細かい砂に変化すると、サラサラと崩れていった。


「教えてくれないか――」

『全ては偶然なんかじゃないわ』と、女性は私の言葉を遮りながら言った。『レイラが異界の生物に襲われて放水路に落ちてしまったことも、そこで地下施設をみつけたことも、そして子供たちに出会ったことも、何もかも偶然じゃなかった。それは起きるべくして起きたことなの』

「まさか――」

『ええ、そうよ』

 女性は近づいてくると、私の頬にそっと手を添える。フルフェイスマスクを装着していたはずだったが、彼女の冷たい手の感触がハッキリと感じられた。

『あなたたちの行動も全て、混沌の意思でコントロールされていた。全ては瀬口早苗の願いを叶えるためだけに』

「全てが子供たちを救いだすために起きたことだったのか?」

『ええ。これで彼女の願いは叶えられた。結局のところ、彼女を特別な個体として扱ってきた私も、混沌の意思の求めるままに行動していたに過ぎなかった。これで分かったでしょ? 私は神さまなんかじゃない』


「それなら」と私は彼女の濃紅色の瞳を見ながら訊ねる。「これから何が起きるんだ?」

『物事は成るようにしかならない。レイラは、あなたがすべきだと思うことをすればいい』

「俺たちは無事に帰ることができるのか?」

『もちろん。それがレイラの運命なら、あなたは無事に、あなたの望んだ世界に帰ることができる』

「あんたはどうするんだ?」

『私もいい加減、この暗い世界を離れるわ。神のように私を崇めていた古代種もずっと昔に絶滅して、この世界は砂に埋もれてしまった。砂の世界に残されたのは、名前の無い生物のような、混沌の神々よりも古い時代から生き続ける異形の生物だけ』

「この地には、そんな恐ろしい存在もいるのか」

『底知れない地底世界は、禍の王国に繋がっている。あなたも知っているでしょ?』

 女性はそう言うと私の側を離れ、瀬口早苗の入った球体に触れた。すると半透明の膜が破れ、飴色の液体と共に瀬口早苗が吐き出される。


『サナエを連れて行きなさい。それがたとえ一時のことだとしても、私たちが混沌の手から離れるには、彼女の願いを成就させる必要があるんだから』

 彼女の言葉のあと、瀬口早苗は飴色の液体を吐き出し、苦しそうに咳き込む。

 防弾ベストを脱ぎ捨てた際に、骨の上に落としてきたはずのバックパックを背負っていることに気がつくと、私は清潔なハンドタオルを取り出して、瀬口早苗の顔についた粘度の高い液体を拭う。瞼を開くことができるようになった瀬口早苗は私の姿に驚いたが、意識が朦朧としているのが、それ以上の反応を示すことは無かった。


 瀬口早苗の身体を手早く綺麗にして、チハルから預かっていたドクターコートを着せる。何もかもが初めから決まっていたことのように、何処か不気味だったが、それを気にしている余裕は無かった。

 瀬口早苗を抱き上げると、私は美しい女性に訊ねた。

「こうなることが分かっていたのに、どうして俺にあんなものを見せたんだ?」

『誰かの手のひらで踊らされるのは好きじゃないの。だから味見をしてみたくなった。それも混沌の意思のシナリオだったとしたら、さすがに私もお手上げだけどね』

 女性はそう言うと、周囲に集まってきた数十体のアジョエクに向かって昆虫の鳴き声にも似た奇妙な声を出した。それを聞いた悍ましい生物は、キャベツ畑のようにも見えるグロテスクな物体を踏まないようにしながら洞窟の奥に向かっていった。

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