第407話 糧
『レイ!』
カグヤの声に反応して私は後方に飛び退くと、迫りくる肉塊に向かって貫通弾を撃ち込んだ。蠢く赤黒い肉塊は貫通弾を受けると、気色悪い体液を飛散させながら、凄まじい衝撃と共に後方に吹き飛び、洞窟を埋め尽くしていた骨の山に衝突した。その骨が一体どこから出現したのか一瞬わからなかったが、どうやら我々が金貨だと信じ込んでいたものは全て、得体の知れない生物の骨だったようだ。
そして私は周囲の雰囲気が変化していることにも気がつく。薄暗い洞窟の天井や壁からは、ネットリとした粘液が垂れていて、何かの生物の鼓動のような音が微かに聞こえていた。
『幻覚?』と、私の視界を通して洞窟内の様子を確認したカグヤが言う。『ドローンから受信していた映像も偽物だったの?』
カグヤに返事をしようとしたが、熱を持った脇腹の痛みの所為でまともな思考ができなかった。私は痛みに耐えられなくなると胸元のナイフを引き抜いて、バックパックを足元に落とし、防弾ベストのショルダーハーネスをナイフで裂くようにして脱ぎ捨てた。地面に投げ捨てられた防弾ベストは燃えるような燐光に包まれると、予備弾薬やグレネードと共に瞬く間に塵に変わっていった。骨が積もる地面に残されたのは、フクロウ男に手渡され、防弾ベストのサイドポケットに入れていた『お守り袋』だけだった。
『大丈夫、レイ?』と、不安そうにするカグヤの声が聞こえた。
「ああ、突き刺すような痛みだったけど、今はもう平気だ」
『そうじゃなくて、意識が無いみたいに急に動かなくなったから……』
「意識が? 俺はどれくらいそうしていたんだ?」
『あの女が腕を広げて、熔けるようにして肉塊に変化してから三十秒くらい』
「三十秒間? たったそれだけ?」
私はひどく困惑し激しい頭痛を感じた。基地で過ごした数週間ほどの記憶が、どっと頭の中に流れ込んでくるような、そんな感覚がしてマスクで覆われた側頭部を思わず手で抑えた。
『危うく肉塊に取り込まれるところだった』とカグヤは言う。
「そうか……」
『もしかして、レイも幻覚を見せられていたの?』
「ああ。随分と遠いところにいる幻覚を見せられた」
『遠いところ? 良く分からないけど、精神を操作されるような幻覚じゃなくて良かったよ』
カグヤがそう言ったときだった。肉塊の化け物が吹き飛んでいって、そのまま埋まっていた骨の山が爆ぜた。乾いた音を立てながら無数の骨が洞窟のあちこちに叩きつけられると、ぞっとするほど美しい女性が骨の中から立ち上がるのが見えた。
『あれは幻覚じゃないわ』と、女性はまるでカグヤの声が聞こえているように頭を振って否定した。『私は彼の欲望を形にしただけ』
「欲望……?」と私は顔をしかめた。
『そう、欲望。でもまさか、あの強力な呪縛から逃れる人間がいるとは思わなかった。それとも、あなたに見せた現実は、あなたが本当に望んでいた世界じゃなかった?』
女性はそう言うと乱れた髪を整える。
「あれは現実の出来事なのか?」
『ちゃんと憶えているみたいね。でも、それでもあなたは戻ってきた。あの世界はお気に召さなかったのかしら?』
「いや、できることなら、あのまま彼女の側にいたかったよ」
『それなのに、あなたの心を捕らえることはできなかった……不思議ね』
女性が動くと、私は弾薬を重力子弾に切り替えて銃口を彼女に向けた。
『それを私に向ける必要は、もう無いわよ』と彼女は言う。『だからその綺麗な光輪を消してくれる?』
何故だか分からないが、私は女性に言われるままに銃口の先に浮かんでいた輝く輪を消した。
『それで良いわ。争う必要は無いんだから』
「あんたと争うつもりは、初めから無かった」
『私も同じよ。でも狩場に侵入したでしょ? だからつい反射的に味見してみたくなっちゃったの。怒らないでね』
私は女性の動きに細心の注意を払いながら訊ねた。
「あれは現実に起きたことなのか?」
『もちろん、あなたが体験したのは、過去に起きた出来事だった。もちろん、色々と細工はしてあるけど』
「細工?」
『ええ』女性はそう言うと、背筋を伸ばして、綺麗な姿勢でこちらに向かって歩いてくる。『たとえば『ベン・ハーパー』なんて人間は何処にもいなかった。彼が宇宙を彷徨い、その果てに基地に辿り着いた真実も無い。あなたの『ディアナ』は、その最後のときまで、あの基地でたった独りだった』
「嘘だ」
『失礼なことは言わないで。私は嘘なんてくだらないことを吐くような存在じゃない。全ては実際に過去に起きたこと。だからこそあなたをあの世界に招待してあげたの。あなただってそれを望んだ』
女性はそう言うと、天井から胸に向かって垂れてきた粘液を丁寧に拭き取った。
「教えてくれ」と私は彼女に訊く。「なんのためにあれを見せた?」
『なんのために?』女性はそう言って眉を寄せ、それから意味を理解し、納得したような微笑みを見せた。『そうだったわね、あなたたち人間はものごとに意味を見出そうとする生き物だった。でも残念ね。深い意味なんて無いわ。私はあなたを食べたかっただけだから』
「食べる?」
彼女の言葉に含まれる殺意にも似た気配に、私は恐怖し思わず後退る。
『あなたは彼女を救うために、ありとあらゆる手を尽くしたはずよ。そうでしょ? あなたは彼女を放っておくことができなかった。そして二人だけの楽園を築くはずだった。そういう世界があっても良いでしょ? だから実現させようとした』
「随分と悪趣味なことをするんだな。殺すなら一思いに殺してくれ」
『イヤよ。あなたには幸せになってもらわないと困るの』
「幸せ?」
『あなたの魂が幸福に震えるたびに、私は生きる糧を得られる予定だったんだから』
「糧? あんたは幸福によって生み出される感情を食べるのか?」
彼女は何も言わず、ただ美しい顔で微笑んで見せた。
『レイ、何の話をしているの?』とカグヤが困惑しながら言う。
『あぁ、愛しのカグヤ』と、女性は大袈裟な仕草で手を広げた。『まさか『そこ』に本人が隠れていたなんて、想像もしなかったわ。この忌々しい洞窟で肥えて太っていく間に、私も随分と腕が落ちたみたい』
『そこにいた?』
『ええ。あなたの存在はとても曖昧だった。だから気づくのが遅れた……でもそれはみっともない言い訳ね。私の敗因は他にもあったのだから』女性はそう言うと足元の骨を砕きながら歩いて、お守り袋の側でしゃがみ込んだ。
『コワトリクェの爪ね……』と、女性はまるで汚いものを拾い上げるように、指先でお守り袋を視線の高さまで持ち上げた。『私のお呪いは、彼女に食べられてしまったみたいね……残念』
その行動が無駄だと本能的に分かっていたが、それでも私は女性に銃口を向けながら訊ねた。
「あんたは何者なんだ?」
『少なくとも、あなたが想像している存在じゃないわ』女性は私の思考を見透かすようにそう言うと、お守り袋を足元に落とす。『私は混沌の領域で願いを叶えている存在じゃない。私はただ、私個人のために『糧』になる生物を取り込んで、欲望を形にしてあげているだけ』
私はちらりと足元に視線を落とし、洞窟内に散らばる骨を視界に入れた。
「これはあんたの糧になったものたちの残骸か?」
『ええ、新鮮なものもいくつかあるわ。見せてあげる』
女性はそう言うと、無防備な背中を見せて歩き出した。
彼女の綺麗な背中を眺めていると、カグヤの操作するドローンが音も無く側に飛んでくる。
『どうするの、レイ?』
「行くよ。どの道、彼女がその気になれば、俺を殺すことくらい簡単にできるんだ」
『どうしたの』と女性は振り向く。『一緒に来ないの?』
私は息を吐き決心すると、地面に落ちていたお守り袋を拾ってから洞窟の奥に向かって歩き出した。
彼女が歩く先に転がっていた骨は、まるで彼女を避けるように道をつくっていた。我々はそれらの骨の間を通って、暗く先が見通せない広大な空洞に出る。
『気をつけてね。落ちたら何処まで流されていくのか、私にも分からないから』
女性がそう言うと周囲に篝火が灯され、視線の先に錆びついた鉄橋が見えた。ふと足元に視線を落とすと、床にも白色の錆びた金属板が敷かれていて、それは洞窟の奥に向かってずっと続いていることが分かった。
『レイ、彼女に置いて行かれちゃうよ』
カグヤの言葉で顔を上げると、鉄橋を渡っていた女性のあとに私も続いた。
転落防止用の柵や、手すりの無い鉄橋を渡りながら下の様子を確認すると、タールにもヘドロにも見える粘度の高い液体が流れる巨大な溝があるのが確認できた。時折、その流れの間に青白い眩しい光が見えることがあった。確かにこんな場所に落ちたら、何処まで流されるのかは分からないだろう。
恐る恐る鉄橋を渡ると、周囲に転がる骨の数は少なくなるが、周辺一帯に立ち込める闇がさらに深くなったように感じられた。そして奇妙な生物の姿を何度か見ることになる。
洞窟の広大な空間のほとんどを占める暗闇の向こうに、焚き火の明かりに照らされる曲がった鉄塔が見えたかと思うと、その鉄塔に逆さに吊るされている六メートルはありそうな巨大な大猿の姿が見えた。腹は大きく切り開かれていて、内臓が地面に零れ、その周囲には小型の人型生物が集まっていた。左右対称の身体に、皮膚はトカゲの鱗のようなもので覆われ、大きな頭部にはトンボの複眼に似た大きな器官がついていた。それらの生物は大猿の毛皮を剥いでいる途中だったのか、大猿の脚から腹部にかけて皮がスカートのように垂れ下がっていた。
『レイ、変なのがいる』
カグヤの声で視線を動かすと、枯れ枝の集合体にも見える生物が木製の荷車を引いているのが見えた。その荷車には零れ落ちるほどの骨が積まれていて、枯れ枝のような生物は、自分の意思に反して地中に侵入しようとする枝を折りながら、なんとか前に進んでいた。しかし枯れ枝の集合体が脚を折るたびに、荷車に載せられていた多くの骨が地面に転がり落ちていた。
それからも洞窟に広がる暗闇からは、奇妙でグロテスクな生物が姿を見せることになった。そしてそういった生物を見ていると、徐々に自分自身の存在が希薄になっていくような不思議な感覚に囚われることになった。理由は分からなかったが、闇の向こうから意思をもった何かが手招きをしているようにも感じられた。
『しっかりして、レイ』とカグヤが言う。『立ち止まったらダメだよ』
足元に視線を落とすと、枯れ枝がコンバットブーツに絡みついていた。私はそれらの枝を折りながら進んだ。
彼女が歩くたびに揺れる形の良いお尻を眺めていると、女性の周囲に緑色に発光する蝶のようなものが集まってくるのが見えた。しかし注意深く確認すると、それはクマナマコのような姿をした丸く半透明な生物で、胴体の側面に生えた無数の脚をワサワサと動かしていた。その生物は、蝶のように四枚の翅をもっていて、それを発光させながら宙に浮かんでいるようだった。
『ねぇ、レイ』とカグヤの声が聞こえる。『レイはどんな世界を見せられたの?』
「長い間、宇宙を彷徨っていたように思う」
『宇宙? レイがたまに見る夢のような?』
「ああ。けど今回は妙にハッキリしていた。それに、ひとりじゃなかった」
『……彼女って、だれのこと?』
「問題が無事に片付いたら全部話すよ。長い話になりそうだからな」
『長い話か……分かった』
しばらく黙々と歩くと、赤茶色の砂が敷き詰められた窪みの底に向かうように、断崖に金属製の梯子かかけられているのが見えてきた。女性は梯子の下を覗き込むと、躊躇することなく飛び降りた。慌てて断崖の縁まで行くと、数百メートルほど下の地面に何事も無く着地する女性の姿が見えた。
『レイは飛び降りないでね』とカグヤが言う。
「分かってる」梯子に足をかけると、深い窪みの底にゆっくり下りていった。
窪みの中心には、洞窟の天井に向かって伸びる山のように巨大な石柱が立っていて、どうやらその石柱の内部は空洞になっているようだった。ぼんやりとした明かりが漏れていて、赤黒い肉塊が粘液の糸を引きながら蠢いている様子が見えた。
『あれが肉塊の化け物の本体かな?』とカグヤが言う。
「分からないけど……それよりも、あの女性の存在が気になる」私はそう言うと、錆びている梯子に注意しながら足を動かす。
『異界に存在する神のような生物かな?』
「俺もそう思っていたけど、彼女はそれを否定した」
『それは彼女の立ち位置から見た場合のことじゃない?』
「立ち位置……?」
『所謂、上位存在と呼ばれるようなものたちのなかにも、たとえば階級が存在していて、彼女よりも遥かに優れた存在がいるってことなんじゃないのかな?』
「それは恐ろしいな」
『そうだね』
「素朴な疑問があるんだ」
『なに?』
「彼女はどうして俺たちと普通に話しているんだ?」
『考えられるのは、瀬口早苗を取り込んだときに、記憶と一緒に言語に関しての知識を引き継いだからじゃないのかな』
「そうじゃなくて、どうして襲ってこないんだ?」
『それは分からない……何か企みがあるのかもしれないし、私たちで暇潰しがしたいだけかもしれない』
梯子を離れると、窪みの中央に向かって悠々と進む女性のあとを追って歩いた。すると急に足元が揺れて、赤茶色の砂が小刻みに振動し始め、まるで収穫前のキャベツのような物体が地中から現れた。それは辺り一面を緑の葉で埋め尽くしていったが、開いた下葉の中央にあるのは、見慣れたキャベツでは無く、粘液に覆われた桜色の脳にも似たグロテスクな物体だった。
『もしかして……』とカグヤが言う。『捕らえた生物の脳に直接、望みの世界を見せているのかな』
「なんのために?」と私は嫌悪感に顔をしかめる。
『幸福な夢を見せて、彼女の糧にするためだよ』
「それが本当だとしたら、彼女は俺たちが想像するよりも、ずっと恐ろしい生物なのかもしれないな」
『うん。悪魔じみた化け物だ』
『ここよ』と美しい女性は石柱の側で立ち止まる。
彼女が指差す先には、先程の巨大な石柱があって、その内部には蠢く肉塊と共に、薄い膜に覆われた楕円形の球体が幾つも転がっていた。それらの半透明の膜のなかには、飴色の液体と共に得体の知れない生物が入っていた。
『レイ』とカグヤが言う。『瀬口早苗だ』
視線の先を拡大すると、球体の中で眠るようにピクリとも動かない瀬口早苗の姿があった。彼女は衣類を身につけていない状態で液体に浮かんでいて、血管のように細い管が彼女の頭に向かって複数伸びているのが確認できた。
『レイラは彼女を探しに来たんでしょ?』と女性は言う。
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