第406話 i'm so lonely


 暗く深い宇宙の底に、恒星の瞬きがぼんやりと見えた。人類が宇宙に向かって生息域を拡大し、数世紀たったあとの世界では、とくにめずらしくもない光景だった。けれど、その光が途方もない時間を掛けて届くことを知っているからなのだろう、どこまでも暗い宇宙を背景にして瞬く星の輝きを見るたびに心がざわついた。その光はまだ見ぬ世界の残響が、心の深い場所を震わせるのだ。


 私は外部センサーからの情報を切断すると、放射線シールドの状態を確かめる。機体のシールドを含め、戦闘機の装甲は優れた耐久性を有しているので、本来なら神経質になってシールドの状態を気にする必要は無かった。けれど着陸できる場所が見つかった途端、今まで抱えていた不安が一気に押し寄せてきた。ここで戦闘機が故障し減速できなかった場合、何処まで飛んでいくのか想像もできなかった……いや、正確に言えば想像をしたくなかっただけだ。コンピュータによって宇宙の何処まで飛んで行くのかはハッキリと分かっていた。でもそれは考えたくも無かった。この冷たい宇宙にはうんざりしていた。


〈こちら――軍所属の――です。あなたの所属と――を――お願いします〉

 数十分前に基地から届いたメッセージを確認する。これで九回目だった。もちろんテキストに変化はない。この速度で移動する戦闘機に送信できるデータの量は限られていて、どれだけデータを圧縮しても音声や動画は正確に送信できない。そうなるとデータを受信することも難しいので、データが破損しているなんてことも珍しくない。本来なら減速したあとに通信するべきだったが、今はそれができなかった。


 私は短く息を吐き出すと、システムを立ち上げて耐重力加速シートの状態を確認する。重力場生成装置がコクピットに標準搭載されていない旧型の機体では、このシートを使わなければ肉体が重力加速度に耐えられない。

 これから目標の数千キロ手前で減速のための噴射を行う必要がある。そして厄介なことに、経路の微調整を行うために、恐ろしい重力加速度に耐えながら戦闘機を数秒もの間、手動で操縦しなければいけない。強引なアプローチだったが、私なら問題なく戦闘機を操れるはずだ。


『減速を開始しますか?』と、システムが発する女性の声が内耳に聞こえる。

 ジェネレーターの出力が落ちていることが気がかりだったが、生命維持装置があとどれくらいもつのか分からない。だから無理を承知でもやらなければいけない。

「始めてくれ」

 ヘルメットのバイザーが閉じると、自分自身の息遣いに耳を澄ませる。


 しばらくするとコクピット内に騒がしい警告音が鳴り響いた。私は反射的にディスプレイを確認し、それからコンソールに組み込まれた調整用のキーボードを叩いて数値を変更していった。するとまた別の警告音が聞こえる。ディスプレイに機体の上面図が表示されていて、機体後部の主推進ノズルが真っ赤になっているのが見えた。逆噴射を行っている間に、ノズル板が破損したのかもしれない。制動装置を操作して板を切り離す。ついていても邪魔になるだけなら、なくても問題ないだろう。それから推進剤の残量を確認すると、私は操縦桿のグリップを握った。


 灰色の砂に覆われた基地が目視できるようになったのは、それから数分後のことだった。クレーターの縁に埋まるように、縦に細長い巨大な構造物が見える。その基地は環境追従型迷彩を起動していて、背景に溶け込んでいたが、コンピュータが構造物の姿を立体的に表示してくれていたので、基地の姿を確認することができていた。予定していた地点にピタリと戦闘機を止められたことが分かると、私はホッと息をついた。一時はどうなるのか焦ったが、手動での操縦に問題も無く、考えていたよりもずっとすんなりと減速ができた。


『ドッキングの必要はないよ。機体は小型戦闘機用の格納庫に収容する。隔壁が開くから、そこから侵入して』

 聞こえてきたのは女性の声だった。

 やわらかくて、どこか懐かしいような声だった。

「了解」そう言って通信を切ろうとすると、女性の慌てる声が聞こえる。

『ごめん、ガイドビーコンが故障してるの、手動での着陸はできそう?』

「問題ない。俺の操縦技術を見ていただろ? マニュアルの着陸なんて楽勝だ」

 機体下部の垂直離着陸ノズルがすでに爆散していて、着陸脚が宇宙の彼方に吹き飛んでいたことに気がつくには、それから数秒も必要としなかった。


「それで」と女性は呆れながら言った。「着陸は楽勝だったんじゃないの?」

 巨大なアームに固定されていた戦闘機に、大量の消火剤が噴射されている様子を見ながら私は息をついた。

「機体が故障していなければ、もっと上手くやれた」私はそう言うと、女性に手を差しだした。「よろしく、俺の名前は……」

「どうしたの?」と女性は黒髪を揺らす。

「名前が思い出せないんだ」と、私は間抜けな苦笑いを浮かべる。

「何を馬鹿なことを言っているの?」

 女性は私を睨むと、作業用ドロイドに何か指示を出した。

「あなたは何処の部隊に所属しているの?」

「それなら分かる。俺は……」そこまで言うと、また頭の中に空白が生まれる。

「所属の部隊も言えないの?」

「思い出せないんだ」

 女性は大きな溜息をつくと、濃紅色の瞳を私に向ける。

「もう良いよ、名無しさん。あなたの本名は聞かない。きっと名前や所属を口にしてはいけない部隊の人間なんでしょ?」

「いや、俺は――」

「いいよ、私は気にしてないから。あなた『不死の子供』なんでしょ?」


 不死の子供という言葉の響きに私は困惑する。

「無理に話さなくても良いよ。私も不死の子供だから分かるの。秘密があるのはお互い様」

 女性はそう言うと、私に背中を向けて普通に歩き出した。基地内が無重力だと想定して色々と装備を準備もしてきたが、その必要はなさそうだった。

「ついてきて、あなたのために部屋を用意したの」と女性は言う。

「部屋?」

「あなたの戦闘機は、あの子たちに修理させるけど、それまでこの基地に滞在することになるでしょ?」


 女性の視線を追うと、戦闘機の周囲に、黄色と黒の縞模様で塗装された作業用ドロイドが集まっているのが見えた。

「修理には時間がかかるのか?」と私は訊ねた。

「君の機体は随分と古いものでしょ? だから基地に予備部品がないの。全て製造する必要がある」

「助けてくれるのか?」

「もちろん。人類がこの広い宇宙で生き残る為にも、助け合いは必要でしょ」

「ありがとう」

「どういたしまして。それで、私はあなたのことを何て呼べば良いの?」

 私は女性の身体にピッタリと張りつくタイトなスキンスーツに視線を向ける。それは白を基調としたスーツで、背が高く、スタイルの良い彼女の身体のラインがハッキリと分かるものだった。


「ねぇ、私の言ったこと聞いてた?」

 女性は立ち止まると、手でお尻を隠しながら私を睨んだ。

「悪い、聞いてなかった」

 彼女は溜息をついて、それから言った。

「あなたのことを何て呼べば良いのって、言ったの」

「ベンだ」と私は言う。「ベン・ハーパー」

「ベン……ハーパー?」と彼女は目を細めて、それからクスクスと笑う。「おかしな偽名。まるで大昔の映画のタイトルみたい」

「けっこう気に入ってるんだ」と私は苦笑する。「それで、君の名前は?」


 彼女は白色の鋼材に覆われた無機質で寂し気な廊下に目を向ける。

「あなたにあんなことを言ったあとで、こんなことを言うのはおかしいと思うけど、私も記憶が曖昧なの。憶えていることもあれば、完全に忘れたこともある。だから自分の名前は分からない」と彼女は言う。

「そう言えば、君は不死の子供だったね」

「部隊の規則とか、そう言うことじゃないの。本当に自分の名前が思い出せないだけ」彼女はそう言うと、困ったように下唇を噛んだ。

 

「それじゃ今まで君は何て呼ばれていたんだ?」と私は訊ねる。

「私の名前を呼んでくれる人なんていないよ」

「いや、名前を呼ばれないのはさすがに無理が――」

「この基地には、私以外の人間がいないの」

 廊下の先で働いていた自律型の掃除ロボットから視線を外すと、私は女性の綺麗な顔を見つめる。

「人間がいない? これだけ巨大な基地なのに?」

「うん。私が来たときには、すでに基地が放棄されたあとだった」

「放棄……? それなら、君はいつからここにいるんだ?」

「さぁ、いつからだろう? 何度か眠りについているから、もう思い出せないよ」

「眠りって」

「私は不死の子供だから、たとえ肉体を失っても死ぬことは無いけど、私の意識は違う。気が狂いそうになるほどの長い時間を、独りで存在し続けることはできない。だから眠るの。深い眠りについて、意識を休ませるの」

「そうか……」

「そう。だから名前は好きに決めて良いよ」


 壁一面に張り巡らされた強化ガラスの向こうをぼんやりと眺めていると、クレーターを覆っていく巨大な影が見えた。

 気密扉の開く音がして、女性と機械人形が出てくる。

「部屋の掃除も終わってるし、ベッドメイクも済んでる。滞在する間は、この部屋を自由に使っていいからね」と彼女は言う。

「ありがとう。でも驚いたよ。随分と準備がいいんだな」

「こうなるかもしれないって思ってたから、通信のあと、すぐにあの子たちに部屋の掃除を頼んでおいたの」


 彼女に感謝すると、私は切り出した。

「さっきの話だけど」

「うん?」と女性は頭を傾げる。

「ディアナっていうのはどうだ?」

「ディアナ?」

「ほら」と、私は強化ガラスの向こうに視線を向ける。「この場に相応しい名前だと思わないか?」

 彼女は長い睫毛の向こうから灰色の世界を見つめる。

「そうだね。ここで生きてきた私にピッタリの名前だ」

 そう言って彼女は笑みを見せた。まるで睡蓮が花開くような微笑みだった。


 彼女が機械人形を連れて何処かに行くと、私はふらふらと部屋に入っていった。余程疲れていたのか、部屋に入るなりベッドに倒れ、石のような眠りについた。

 次の日、シャワーを浴びていると、脇腹の辺りが妙な熱を持っていることに気がついた。それは微かな痛みも伴っていたが、生体情報をいくら確認しても異常を見つけることはできなかった。


 それに、心に大きな空白ができていることに気がついた。ずっと誰かのために取っておいた特別な空間が空っぽになっているような、そんな不思議な感じがしたが、深く考えないように努めた。失われてしまったことについて考えるには、私は余りにも多くのものを失っていた。今更ひとつふたつ失くしたからと言って、狼狽えるようなことをしたくなかった。


 それからの数日間、私はほとんどの時間を、ディアナの話し相手をすることに費やすことになった。それまでずっと孤独だったからなのか、ディアナはとにかく話をした。その日に何を食べたのか、といった些細な話から、秘密にしなければいけないような部隊の話もしてくれた。

 どうやら彼女は諜報に関係する特殊部隊に所属していたようだったが、部隊は敵の強襲を受け壊滅し、宇宙を彷徨っている間に『オールド・アース』と呼ばれる星の側まで、たったひとりでやってきたとのことだった。


 ディアナと話しをするのは嫌いじゃなかった。彼女とは話があったし、それに綺麗な人間の笑顔を側で見ているのは、いつまでも飽きることがなかった。

「俺と境遇は同じなんだな」と、私は食堂の席に着きながら言う。

「ベンも部隊を失ったの?」

 ガランとした食堂に彼女の声がよく響いた。

「いや、部隊については分からないけど、俺も宇宙を彷徨っていたから」

「そうだったね。忘れてたよ。でも、まるで運命みたいだね」

「確かに偶然にしては、出来過ぎているな」と私は適当に答えた。


「ベンは運命について信じていないの?」とディアナは拗ねてみせた。

 機械人形がグラスに綺麗な水を注ぐと、私は機械人形に感謝をして、それからディアナに言った。

「考えたことも無かったよ。ディアナはそういうことについて、よく考えるのか?」

「私には運命の人がいるからね」と、ディアナは瞳を発光させながら言う。「だから運命については、よく考える」

「運命の人ね……恋人でもいるのか?」

「恋人とは少し違うかな。私たちはもっと深い愛情で結ばれているの」

「歯の浮くような台詞を言って恥ずかしくないのか?」と私は苦笑する。

「まさか」とディアナは頭を振った。

 感情が高ぶっているのか、彼女の瞳は絶えず発光していた。

「それなら教えてくれるか、絶世の美女の心を射止めた人間について」

「絶世の美女か」と、ディアナは満更でもない笑みを見せる。「そうでもないと思うけどな」


 機械人形が食器を運んでいくのを見ていると、天井を見つめていたディアナが思い出すように言葉を口にする。

「私は多くのことを忘れてしまっている。だから断片的なことしか分からないけど、始めて彼に会った日のことは今でも鮮明に思い出せる。それは私がまだ幼い子供の頃だった」

「不死の子供になる以前のことか?」

「そうだよ。知ってると思うけど、特別な訓練を受けるために、遺伝子によって選抜された子供たちが集まる学校があるの。私はそこで彼に出会ったの」

「相手も不死の子供か」

「うん。当時の彼は、私よりも身長の低い子供だったのに、なんでも完璧にできる子だった。その所為なのか、先生たちから特別扱いをされるような子供だった。そのときには、他の理由があるって分からなかったんだけどね。だけど分かるでしょ? 優れた人間は嫉妬の対象にされる。彼は他の子供たちから疎まれていたの。当の本人は気にしていないのか、いつも集団から距離をとって行動していたけどね」


「そういうところを好きになったのか?」と私は言う。

「まさか。彼はね、人形のような容姿をしていたの。だから子供たちからは恐怖の対象としても見られていた」

「人形?」

「精巧に造られた人形よ。同じ人間とはとても思えないほど綺麗だったの。まるで彼に合うようにデザインされた服を着ているような、そんな不思議な錯覚がするほどに作り物めいた姿をしていたの」

「もしかして、不死の肉体を与えられていたのか?」

「そうだと思う。当時は子供に不死の肉体を与えるなんてことは行われていなかったから、想像もしていなかったんだけどね」

「本当に特別な人間だったんだな。ディアナは彼の容姿に惚れたのか?」

「魅力的な風貌だった。それは認める。でも違うの、私は彼の目に恋をしたの」

「なんだそれ」と私は鼻で笑う。

「上手く言えないけど、人を拒絶する鋭さを持った彼の瞳だけが、彼の本当の姿を映し出しているって思えたの」

「肉体は変えられても、身についた仕草や眼差しは変えられない……」

 私の言葉にディアナは頷く。


「運命の日は、なんてことの無い日でもあったの。いつものように教室に向かうために廊下を歩いていると、ぼんやりと空を眺めていた彼が、私に視線を向けて、そこでふと彼と目があったの。それは一瞬のことだった。彼はすぐに私から視線を外したけど、私にはできなかった。私は凍り付いたように、ただそこに立って彼を見つめていたの。そして分かったの」

「何が?」

「愛だよ」

「愛?」と私は顔をしかめた。

「私は彼を愛するために産まれてきたんだって分かったの。このときのために、私は息をしてきたんだって、そう思ったの」

 私はディアナを揶揄おうとして口を開こうとしたが、彼女の悲しそうな表情を見て止めた。

「それから何かと口実をつくって、彼に会いに行った。彼はいつも決まった場所にいたから、彼のことを見つけるのは難しくなかったの。でもそれでも毎日、会えるわけじゃなかった。彼がいないときには、彼の座っていた場所に座って、彼がするように空を眺めていた。馬鹿みたいでしょ? オールド・アースの空に似せてつくられた空は、確かに綺麗だったけど、それだけ。彼がいないと意味が無い」

「そうだな」と私は肩をすくめた。


「ある日、とうとう我慢ができなくなって、彼に話しかけることにしたの」とディアナは言う。

「それまで見つめていただけだったのか?」と私は呆れる。

 ディアナは頬を膨らませると、ジトっとした目で私を見る。

「言ったでしょ、彼は人を近寄らせないピリピリした鋭さをもってたの。気に障るようなことをして、嫌われたくないでしょ?」

「思春期の乙女みたいなことを言うんだな」

「思春期の乙女だったの」とディアナは可愛らしい顔で私を睨む。


「分かったよ。それで、どうなったんだ」と私は訊ねる。

「今日は授業に出席しますかって彼に訊いたの。おかしいでしょ? でも緊張しすぎていて、自分の声が震えているのが分かった」

「彼は何て答えたんだ?」

「ずっと遠くから聞こえてきた波の音を探すような、そんな顔つきで彼はゆっくり顔をあげて、それから私を見つめて言ったの。授業には参加しませんって、でも君の声が聞けて嬉しかったって」

「ディアナが毎日、彼に会いに来ていたのを知っていたんだね」

「うん。それから私は急に恥ずかしくなって、何を話せばいいのか分からなくなった。頬が熱くなるのを感じて、顔が真っ赤になっていることにも気がついた。でも逃げ出すこともできなかったの」

 顔を赤くして狼狽えるディアナの姿を想像して、思わず私は笑顔になる。

「それで、彼はどうしたんだ?」

「恐ろしく綺麗な顔で微笑んで、それから名前を教えてくれたの」

「自己紹介をしたんだね」

「うん。それから私は彼と仲良くなった。彼と話す時間を極力つくるようにして、彼について少しずつ知っていった。それに彼は優秀だったから、彼の側にいられるように勉強も運動も頑張った。私の人生は彼を中心にして動き始めたの」

「恋とはつくづく恐ろしいものだな」と私は苦笑する。

「恋なんて生易しいものじゃない、私たちは宿命によって結び付けられていたの」


 ディアナがそう言って力なく微笑み、顔を伏せると、私は数百の人間を一度に収容できるだけの広さを持った食堂に目を向けた。そして彼女のこれまでの生活について考えた。きっと生真面目な彼女は孤独に耐えながらも、この食堂に来ては、独りで食事をとっていたのだろう。

「ディアナは、この基地で何をしていたんだ?」

「私は……」そう言って彼女は下唇を噛むと、テーブルに視線を落とした。それからふと私を見つめる。「人を待っているの。とても大切な人を」

 さっきの話を聞いたあとでは、それが誰かなんて容易に想像できた。

「どのくらい待っているんだ」と、私は自分自身の感情を誤魔化すように、努めて明るい声で言った。

「分からない。もう思い出すこともできないほど長い時間だよ」

「そうか……」


「何処に行ったのか、分かるのか?」と私は訊ねた。

「彼は私たち二人にとって、とても大切なものを探しに行ったの」

「大切なもの?」

「もうそれも思い出せないんだ……」と彼女は寂し気に微笑む。

 ディアナの表情を見た瞬間、何故だか胸が締め付けられ、心のずっと深いところから感情が込み上げてきた。私はそれに耐えられず、彼女から視線をそらした。


 戦闘機の修理が終わったと知らされたのは、それから数日後のことだった。

「ディアナはこれからどうするんだ?」私がそう訊ねると、ディアナは灰色の砂の向こうに見えていた青い星に視線を向ける。

「長い長い眠りにつくの」

「ここに残るのか?」

「眠るのは肉体だけだよ。実は彼が迎えに来てくれるのを待っているのは、もうとっくに止めていたの」

「ならどうするんだ」

「肉体から離れて、彼を探しに行く」

「そんなことができるのか?」

「ううん」と彼女は綺麗な黒髪を揺らす。「本当はすごく危険なことなの。私が記憶の大部分を失っているのも、長い間、精神体だけで存在し続けていたからなの」

「つまり、彼を探しに行くのは初めてじゃないんだな」

「もちろん」と彼女は頷いた。


「こんなことは言いたくないけど、君はそんなことをするべきじゃない」

 私の言葉に彼女は不機嫌になる。

「どうして?」

「記憶を失くしたら意味がない」

「平気だよ」

「なにが」

「記憶を失くしたとしても、彼に逢うことができれば、彼の姿を一目でもまた見ることができれば、私はきっとまた彼に恋をする」

 彼女の瞳を見つめていた私は、彼女にかける言葉を失くす。

「宿命の相手か……」

「そう。だから何も怖くない」

 そう言って彼女は下唇を噛むと、拳をぎゅっと握りしめた。

 ディアナの心細い姿を見ていると、ひどく胸が苦しくなった。だけど私にできることは何も無かった。脇腹に感じていた熱からは、徐々に痛みが広がっていた。理由は分からなかったけど、私もここには長く留まっていられないのだろう。


 最終チェックを済ませた戦闘機に乗り込もうとして、私は立ち止まる。

 ふと無機質な廊下を独りで歩いているディアナの背中が見えた気がした。誰もいない基地を独りで散歩し、機械人形の整備を行う。そして誰もいない食堂で独り食事をとる。誰にも知られること無く、誰にも見えないところで、ひっそりと最愛の人を待ち続ける。それはどれほど悲しいことなのだろうか。寂しさに打ちのめされるのは、どんな思いがするのだろうか?


 もしも私が同じ目に遭ったとき、恐ろしい絶望と苦しみのなか、希望になるような光を見つけられたら、どれほど嬉しく思うだろうか。

 そしてたぶん、私は彼女が待っている人間について知っている。彼は彼女の心細い手を握って、彼女がひとりで暗い廊下を歩かないようにしてくれる人間だった。でも脇腹の痛みと共に、その人間の記憶は真っ白な空白で埋められていく。


 脇腹に感じている鋭い痛みに耐えながら私は振り向くと、見送りに来ていたディアナの側に戻る。

「どうしたの、ベン?」と彼女は目を大きくして驚く。

「ここに残ることにしたんだ」

「何を言ってるの?」と彼女は顔をしかめる。

「君が眠る必要なんて無いんだ。彼が君を迎えに来てくれるまで、俺がこの基地に一緒に残る」

「ダメだよ。そんなことは頼めない」

「俺がそうしたいんだ」


「ははん」とディアナは笑みを見せる。「さては私に惚れたな。でも諦めてくれ。私には心に決めた人がいるんだ」

「真面目に話しているんだ」と私は彼女の手を取る。「それに確証は無いけど、君が探している人間は、もう何処にもいないのかもしれない」

「本気で言ってるの?」と彼女は私を睨む。

「いくら待っても、彼が君を迎えに来ることは無い」

 ディアナは私の言葉を聞くと、怒りの余り唇を震わせる。

「頼む、信じてくれ。大切なことを思いだしたんだ。君が探している人間が、すでに死んでしまっていることを俺は知っているんだ。だからディアナが大切な記憶を犠牲にしてまで、彼を探しに行く必要なんてないんだ」

「彼は死なない、彼は不死の子供なの!」

「魂は死ななくても、君のように記憶を失くすことだってある。それは死んでいるのと何も変わらない」


 彼女は私の手を払うと両手で顔を覆って、それから涙を拭った。

「どうしてそんなことを言うの?」

「頼む、泣かないでくれ。俺はただ――」

「もう何も言わないで。私は彼と約束したの」

「でも君は彼の名前すら憶えていない」

「嫌」と彼女は頭を振る。「もう何も聞きたくない!」

 歩き出したディアナの手を取ると私は言った。

「思い出したんだ。俺は君の名前を知っている」


 そうだ。私は初めから彼女の名前を知っていたのだ。何故ならこの世界は、この出会いは、私がずっと待ち望んでいた瞬間でもあったのだから。

「俺はもう何処にも行かない。ディアナ、君の名前は――」

 その瞬間、何かが割れる音と共に胸の深くに鋭く冷たいものが突き刺さる。


「……カグヤ」そう言って顔を上げると、蠢く肉塊が私に覆いかぶさるように広がっていくのが見えた。

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