第379話 人形
かつては病院として利用されていた建物は、猥雑とした生活ゴミで散らかっていたが、患者用のベッドが幾つも並んでいた為に、子供たちは睡眠場所として病室を使用していた。子供たちが使っていたベッドのシーツは、黄ばんで酷い状態だったが、今は公衆浴場のある施設から頂いてきた清潔なタオルが敷かれていて、嫌な臭いに悩まされずに眠ることが出来るようになっていた。廃墟同然の病室は、快適とは言い難い環境だったが、食欲を満たし、身体を綺麗にしていた子供たちは笑顔で眠りについた。
チハルたちは普段、幼い子供たちを寝かしつけてから交代で建物の警備を行っているようだったが、警備用ドローンを使えるので、今日は子供たち全員に眠ってもらうことにした。
「本当に良いのですか?」と、チハルが心配そうに私の顔を見る。
「大丈夫だよ。建物周辺を警備させているドローンの数は多い、それにハクもいるから何も心配することは無いよ。瓦礫に潜んでいた人擬きが、もしも姿を見せるようなことがあっても、俺たちならすぐに対処できる」
チハルはベッドの側に立てかけていたレーザーライフルに視線を向けて何かを考えていたが、やがて納得して頷いてくれた。
「分かりました……えっと、レイラさんは眠らなくても良いんですか?」
「ありがたいことに、俺の身体は余り睡眠を必要としないんだ。だから俺の事は気にせずに眠ってくれ」
「不思議ですね。僕はすぐに眠くなります」
「チハルは育ち盛りだからな、仕方ないよ」
「育ち盛りですか……?」と、チハルは大きな欠伸をして、それから言った。「レイラさん、おやすみなさい」
「おやすみ」
幼い子供たちがぐっすり眠れているか見回ったあと、患者の家族が不安になりながら座っていたであろう青色の長椅子に腰掛けて、猿に似た化け物を追跡しているイーサンたちの状況を確認する事にした。
ガラスのない窓の向こうに視線を向けると、子供たちの為に投影されていたホログラムがいつの間にか消えていたことに気がついた。居住区画の消灯時間に合わせて、投影機が停止するように設定されていたのかもしれない。薄暗い闇に支配された居住区画には、崩落した建物が立てる金属音だけが時折響いていた。
暗い通りを覗かせる窓から視線を外すと、私はイーサンのタクティカルグラスの視界映像に接続した。通信回線は作戦行動中、部隊で共有されているので、視界を覗き見る許可を得る必要は無かった。
最初に目に映ったのは、壁を染める赤黒い飛沫だった。どうやらイーサンたちは地下通路を移動している最中で、大猿の襲撃を受けて、つい先程まで激しい戦闘をしていたようだった。
『イーサン、そっちの状況を教えてくれるか』
子供たちの睡眠の邪魔にならないように、声に出さずにそう言うと、イーサンの荒い息遣いが聞こえてきた。
『順調とは言えないな……この広大な地下区画は、完全に化け物どもの縄張りになっているみたいだ』
イーサンが視線を動かすと、灰色の毛皮を持った化け物の巨体が地面に横たわっているのが映し出される。
『警備室で入手した地図は役に立ちそうか?』と私はイーサンに訊ねた
『ああ。地図にある幾つかの通路は土砂や瓦礫で塞がっていて使えないが、それでも役に立ってるよ。けど、お前さんのいる核防護施設に行くには、それなりの時間が必要になる』
地図でイーサンたちの現在位置を確認して私は納得した。イーサンたちはそれなりの時間をかけて地下区画を移動していたが、施設までは相当な距離があった。
『そうか……猿の化け物の出所は分かったのか?』
そう訊くと、イーサンは溜息をついた。
『分かったと言えば分かったが……』
『なにか問題が?』
『やつらの群れは、幾つかのコロニーに分散しているようだ……つまり、大規模な繁殖地が何処かにあって、それを潰さない限り、規模の小さな巣を幾ら叩いても無駄だってことだ』
『繁殖地か……』と今度は私が溜息をつく。
『あるいは』とイーサンは暗い通路を歩きながら言う。『異界に続く『門』とやらが本当に何処かに開いていて、化け物どもはそこから湧いて出て来ているのかもしれない』
『その異界の『門』は見つけられそうか?』
『どうだろうな。逃げ出した化け物の多くは、それぞれの巣に逃げ帰っているだけだから、この広大な地下空間で、存在の不確かな『門』を見つけるのは大変な仕事になる』
『厄介な問題だな……』
その時だった。通路の物陰から大猿が飛び出し、長く太い腕を使って駆けてくるのが見えた。イーサンと共に行動していたヤトの戦士がすぐに反応し、大猿に銃弾を撃ち込むが、咆哮しながら向かってくる化け物の勢いは止まらない。
イーサンは歩兵用ライフルを構えると、咆哮する化け物の口腔に向かって小型擲弾を撃ち込んだ。その瞬間、化け物が顔をしかめたように見えた。一瞬の間のあと、擲弾が爆発し、化け物の頭部が破裂し周囲に飛び散った。頭部を失くした巨体はたたらを踏んで、それから壁に衝突し、寄りかかるようにして動きを止めた。
『切りが無いな……』とイーサンは呟いた。
銃声と爆発音を聞きつけた大猿たちの奇声が、狭い通路の先から絶えず響いてきていて、次の襲撃がいつ起きても不思議じゃない状況だった。
薄暗い照明によって赤く濡れ光る化け物の血液を眺めていると、イーサンの視点が動いて通路の先に向けられる。するとカグヤの操作する『ステルス型偵察ドローン』が暗がりの中から飛んでくるのが見えた。
『一度、地上に戻った方が良いんじゃないかな?』と、イーサンたちを心配するカグヤの声が聞こえる。
『そうだな』とイーサンは素早く決断する。『探索の続きは、朝になってミスズたちと合流したあとに続けよう』
イーサンが部隊に指示を出すと、バトルスーツにタクティカルベストを装備した戦士たちが、足音を立てること無く薄闇から姿を見せた。彼らは先行して探索を行っていた部隊で、イーサンの傭兵部隊に所属していた人間だった。彼らは戦闘に慣れていて、頼りになる仲間だった。
イーサンは狭い通路を引き返しながら言う。
『拠点の警備をしているドローンに、探索の続きを手伝ってもらうか』
『そうだね』とカグヤが言う。『あの子たちはペパーミントの手で改良されていて、センサーも搭載されているから、きっと探索の役に立つ』
『地上で待機してくれている旧式のドローンは拠点警備に回そう。悪天候になれば役に立たないが、拠点の警備が手薄になるのは避けたい』
旧式のドローンはローターによって飛行していて、天候の影響を受けやすい。イーサンの言うように、吹雪になったら何の役にも立たないだろう。その点、六機の攻撃支援型ドローンは、重力場を生成して飛行しているので、周囲の環境に影響されることなく飛行が可能になっていた。
『私もドローンを使って地下の探索を続けるよ』とカグヤが言う。
『任せる。俺たちはもうヘトヘトだからな』とイーサンが答える。
『もう夜だけど、イーサンたちは地上に向かっても安全なの?』
『拠点を監視していた奴らが潜んでいた建物があっただろ? 既に制圧してあるから、化け物で溢れた地下に留まるよりかは安心できる』
移動するイーサンの視界には、地面に横たわる大猿の遺体が多く映っていた。地下に潜んでいた大猿の数は、我々が想定していたよりもずっと多いようだ。不思議だったのは、その中に人擬きの姿を見ない事だった。
大猿が逃げ込んだのは、企業の事務所があると思われる高層建築物の地下だった。そこには軌道車両のレールが敷設されているトンネルがあって、イーサンたちは地下に張り巡らされた複雑なトンネルを移動して、地下施設に繋がる通路に出ていた。彼らのいる地点までは、インターフェースの地図にしっかりと記録されていたので、地上に戻るのは安易だった。しかし化け物の襲撃に警戒しないといけない事に変わりはなかった。
地下に迷い込んだ動物の骨を避けながら歩いていたイーサンが私に言う。
『ところで、お前さんはどうするつもりなんだ』
『朝になったら、子供たちを地上に連れていく為の準備をするつもりだよ』
『ハクと一緒なら何とかなると思うが、無茶だけはするなよ。いざとなれば、俺たちと合流するまで何処かに隠れていても良いんだからな』
『どうにもならなかったら、そうさせてもらうよ』
私の言葉をイーサンは鼻で笑う。
『俺は本気で言ってるんだ。子供たちの安全を考えるなら、そこで大人しくすることが、お前さんに出来る唯一の正しい選択だ』
『俺もそう思っていたんだけど……』
『けど?』と、イーサンは錆びの浮いた梯子に手をかけながら言う。
『居住区画も安全だとは思えないんだ』
『子供たちは今までそこで安全に暮らしていたんだろ?』
『何か引っかかるんだ』
『引っかかる? ハクは何か言っていたのか?』
『いや……でも――』
ハクを探そうと視線を窓に向けた時だった。それまで真っ暗だった通りに仄暗い光が灯っていることに気がついた。
「すまない、イーサン。また連絡する」と私は言った。
『敵か?』
「それを確かめてくる」
長椅子から立ち上がろうとした時だった。病室の入り口に不気味な『人形』が姿を見せた。樹脂製の皮膚を持つ人形は、身体にピタリと貼りつくビニールレザーの赤いシャツと、ラテックスの黄色いパンツを身につけていて、爪先の尖った大きな靴を履いていた。
微笑む道化師の化粧をした人形は、緑色の淡い光に包まれながら歩いてくる。背丈は平均的な子供よりも低く、手足も短かくデザインされていた。
「ホログラムなのか?」と私は困惑しながら言う。
『そうだと思うよ』とカグヤが言う。『警備用ドローンも反応しなかったから、投影されたホログラムで間違いないと思う』
人形は向かい合うように並べられたベッドに顔だけを向けながら、真直ぐ私に向かってくる。そして私のすぐ側で立ち止まると、黄色く発光する瞳だけを動かして、ぎょろりと私を見つめる。それからカクカクとぎこちなく首を動かすと、私に顔を向けた。
『やあ! 玩具の街にようこそ。初めて見る顔だね。君も玩具の街で僕たちと一緒に暮らす仲間になるのかい?』と高い声で人形が言う。
「いや、俺は――」
『僕はファンタズマ! 玩具の街の住人さ。今日から君も僕たちと夢を見よう!』
私の言葉を遮って話す人形の身体が一瞬ボヤけると、赤黒い何かが互いに絡み合って蠢いているのが見えた。が、それもすぐにビニールレザーのシャツに覆われて、完全に見えなくなった。
『やあ! 玩具の街にようこそ。僕はファンタズマ! 君にとっておきのプレゼントがあるんだ!』と、人形は下顎だけを動かしてカタカタと喋り続ける。
そこでふと私は人形に抱いていた違和感の正体に気がついて戦慄する。
「カグヤ、何か変じゃないか」と私は急いで立ち上がる。
『変って、何が?』
「投影機がないんだ」
室内に視線を走らせるが、病室の何処にもホログラムの投影機が設置されていなかった。
『投影機……えっ?』
カグヤが驚きの声をあげた時だった。人形は手元に出現したナイフを私の腹に突き刺した。玩具のようなナイフは、私が戦闘服の下に纏っていた『ハガネ』の液体金属をいとも容易く貫通して、腹に深く突き刺さった。
『プレゼントは気に入ってくれた?』
人形はそう言うとナイフを抜いて、また突き刺そうとする。私は咄嗟に人形を突きとばそうとしたが、ぬめりをもったブヨブヨとした何かに手が滑ってしまう。
『あれれ、プレゼントは気に入らなかった?』
後方に飛び退こうとすると、あり得ない角度で人形が伸ばした腕に手首を掴まれ、そのまま窓の外に放り投げられる。アスファルトの上を転がり、崩落した建物の瓦礫に背中をぶつけると、ようやく勢いが止まる。
『あの人形は、実体をもっているの?』
混乱するカグヤの言葉に答える事無く立ち上がると、すぐにライフルを構える。
『やあ! 僕はファンタズマ! 玩具の街の住人さ!』
人形はそう言うと、跳び越えようとした窓枠から転げ落ちて地面に頭を打つ。
『やあ! 僕は! やあ! 僕は!』
人形は倒れた際に折れ曲がってしまった手足の位置をもとに戻すと、笑いながら立ち上がる。
『教えて! 君は僕らと同じ? それとも赤い血を流すのかな?』
人形が顎を大きく開くと、発光する無数の蝶が口から飛び出してくる。色とりどりの蝶は私の周囲を舞うと、まるで翅を休ませるように私の身体に止まり、そして発火していった。
火達磨にならないように、次々と身体に止まる不思議な蝶を払っていると、人形は爪先の尖った大きな靴をコツコツと鳴らしながら近づいてくる。
『綺麗なイルミネーションだね。でもパレードの時刻はとっくに過ぎてるよ!』
私は胸元のナイフを抜くと、接近してきた人形の頭に突き刺した。
『苦痛だ! 苦痛が頭の中でハジケる!』
ナイフが頭に突き刺さったまま、人形はゲラゲラと笑う。
『もうすぐ血が流れる!』
ライフルを構えると、弾薬を炸裂弾頭のショット弾に切り替え、至近距離で人形の頭部に撃ち込んだ。騒がしい銃声と共に人形の頭部が破裂し、ナイフと共に飛び散る。が、頭部の無い人形は、まるでタップダンスをするように、靴底を鳴らしながら軽快に踊った。
『痛みだ! 痛みがやってくる!』
何処からか人形の声が聞こえると、発光していた人形の身体が急に膨れ上がった。服は勢いよく裂け、露出した樹脂製の皮膚が鈍く発光し、そして首の損傷部から、絞り出されるようにグロテスクな肉が噴き出す。そしてぽんと弾けるような音がすると、人形の身体は破裂した。
「あれはなんなんだ」私は困惑しながら人形の残骸を見つめる。
樹脂製の皮膚から飛び出したグロテスクな肉は寄り集まり、緑色の羽毛が生えた肉団子になったかと思うと、半ば人間の骨格を持った巨大なネズミを形作っていった。羽毛の生えない皮膚は垂れ下がり、皺をつくりながら青黒く変色していった。
『ネズミのお化け……?』とカグヤが言う。
「あれはそんなに可愛らしいものじゃない」私は後退りながらそう言った。
化け物の鋭い鉤爪は悪夢でしかなかった。
『やあ! 僕は――』と化けネズミが口を開いた時だった。
白蜘蛛が化け物の背中に跳びつき、その勢いのままに地面に押し倒した。そして無数の脚を振り上げ、脚の先についた鉤爪を化け物の背中に何度も突き刺した。が、化け物は風船が破裂するように四散すると、内臓だけのグロテスクな姿に一瞬で変わり、内臓をずるずると引き摺りながら蛇のように私に接近してきた。
「レイラさん!」
チハルの声がすると、内臓だけの巨大な化け物に向かってレーザーが放たれる。
しかしレーザーが化け物に直撃することは無かった。まるで幻覚を見ていたように、化け物のグロテスクな身体は地面に沁み込み、一瞬で消えてしまう。
私はライフルを構えたまま、ひび割れたアスファルトを見つめていたが、化け物が姿を見せることはなかった。けれど廃墟となった居住区画には、色彩豊かなホログラムが投影され、昼間のように煌々と輝いていた。
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