第375話 居住区画


 胸元に吊るされていたライフルの銃身が、少女の頭部にぶつからないように、ハーネスの金具で銃身を固定する。その間、私の左手を握っていた幼い少女は、紺碧色の瞳で私の仕草をじっと見つめていた。

『レイに随分と懐いているみたいだね』

 内耳に聞こえるカグヤの声に私は頷いた。

「それだけ腹が減っていたんだろうな」

『久しぶりに会った大人だから、安心しているのかもしれないね』

「それはそれで不安になる」

『そうだね。地上にいる時に、もしもこんな風に初対面の人に簡単に心を許していたら、大変な事になっていた』

「この居住区画が長い間、閉鎖されていたのは、不幸中の幸いだったのかもしれない……」


 少女と共に廊下の先に歩いていくと、寂れた居住区画の全容が見えてくる。

 居住区画は三十メートルほどの高さのあるドーム型の天井を持っていて、全長三百メートルほどの空間に四角い建物がビッシリと建てられていた。それらの建物は天井を支える柱のようにドーム型の天井と接合されていたので、上層区画と繋がるように建てられているのかもしれなかった。建物の間に見える天井の全体には、数え切れないほどのモニターが備え付けられていて、澄んだ青空を表示していた。幾つかのモニターが壊れ、暗転を繰り返していなければ、本物の空だと勘違いするほどに綺麗な映像だった。


 その居住区画の通りは生活ゴミで溢れていて、建物の低い場所には子供の落書きが大量に描かれ、ホログラム広告を投影する装置によって、劣化の無いアスファルトには生い茂る緑色の草が表示され、プラチナブロンドのたてがみを持つユニコーンが虹色の残像を引きながら、草原を駆けていく様子が絶えず表示されていた。

 ホログラムで表示される拡張現実空間が、ゴミ溜めのような区画の異質さを浮き彫りにしていた。恐らく子供たちが誕生するずっと以前から、居住区画は荒れ果て、人が暮らしていける状態じゃなかったのだろう。


『見て、レイ』とカグヤが言う。『あそこにあるのは、お菓子の家だよ』

 機械人形の残骸が山のように積まれた通りには、ひしゃげたコンテナが放置されていて、故障した投影機によって色彩豊かに発光する小屋が表示されていた。コンテナに覆いかぶさるように発光し、瞬いては消える小さな小屋のホログラムは、童話に登場する『お菓子の家』そのものだった。

「荒廃した居住区画で、小さな子供たちが退屈しないように、彼らを育てていた『シキガミ』が表示してくれていたものかもしれないな……」

 天井に視線を向けると、建物の間にホログラムの虹が見えた。


『レイ』

 カグヤの声で視線をお菓子の家に戻すと、樹脂の皮膚を持つ小さな人形が歩いてくるのが見えた。ホログラムで表示される人形は、大きなシルクハットをかぶり、黒いラテックスのシャツを着ていた。ビニール製の黒い半ズボンには、銀色の鎖がついていて、人形が歩く度にしゃらしゃらと音を鳴らしていた。

『やあ! 玩具の街にようこそ。僕は――』

 人形はそこまで言うと、まるで動画を巻き戻すようにお菓子の家まで戻って、そしてまた同じ動作で歩いてくる。

『やあ! 玩具の街にようこそ。僕は――』

 人形が顎だけを動かして言葉を口にすると、極彩色の小魚が人形の口から飛び出してきて宙を泳ぐ。そしてスピーカーにノイズが混じると、時間を戻すように人形はお菓子の家に戻る。そしてまた同じ動作を繰り返す。


『壊れているみたいだね』

 カグヤの言葉に頷くと、私は少女と共に通りの先にある広場に向かう。高い建物に囲まれた広場もホログラムで視界が騒がしく、相変わらず周囲にはゴミが散乱していて酷い状況だった。

 その広場には、居住区画で留守番をしていた子供たちが集まっていた。そのほとんどが十歳にも満たない幼い子供で、皆が一様に薄汚れた服を着ていた。身体もまともに洗えていないのか、臭いもひどかった。ジャンクタウンで暮らす孤児たちの方が、よっぽど良い格好をしていると感じたくらいだった。


 子供たちは広場に現れた白蜘蛛を遠目に眺めていた。ハクに対して恐怖を感じている子もいれば、興味津々といった様子でハクを見つめる子もいた。集団の最年長だと思われる『チハル』は、集まってきた子供たちに、居住区画の外で何が起きたのか丁寧に説明していた。しかし大半の子供の興味はハクと私に向けられていた。

 それでもチハルは辛抱強く状況を説明し、それが終わるとハクの事を子供たちに紹介した。ハクが危険な生物では無いと分かると、子供たちは直ぐにハクの周りに集まって、がやがやと騒ぎ出した。ハクと普通に話が出来ると知ると、拙い言葉遣いでハクと一生懸命に話をするようになった。


「行きましょう、レイラさん」とチハルが言う。

「もう良いのか?」

「はい。この辺りに危険なものは無いので、子供たちはいつも自由に遊ばせています。それに、彼らの面倒を見てくれる子もいるので、取り敢えずは大丈夫です」

 視線を動かすと、確かにチハルと同年代の子供が何人かいて、小さな子供たちの世話をしているのが見えた。

 私はハクに声をかけると、チハルと共に広場を離れた。


 ちなみに私とハクを助けに来てくれていた武装した子供たちは、既に負傷者の女の子を連れて何処かに行ってしまっていたので、広場を離れた途端、我々の周囲を不気味な静けさが覆っていった。

 本来、人で賑わっているはずの場所が無人になると、ある種の静けさが生み出される。それは例えば、自分だけが厚いヴェールの向こうから世界を見ているような、まるで幽霊になったような不思議な気分にさせる静けさだった。自分は確かにそこに存在する。しかし他人の存在は感じられないし、彼らも私の存在には気がつかない。


 廃墟の街を歩いている時にも、そういった錯覚に囚われることがある。かつては多くの人間で溢れた通りや、買い物客で賑わう繁華街を歩いていると自然と感じる。公園で遊んでいる子供たちの笑い声が聞こえる事もあった。

 とうの昔に失われてしまった者たちの残響が届く。もちろんそれが錯覚だと頭では理解している。しかし本来、そこにあるはずのものが欠けてしまった世界にいると、どうしてもそういったものが見えてしまう。でもどうして自分が、文明崩壊以前の世界の事を知っているのかは分からない。


 通りの向こうから今にも人擬きが現れそうな、そんな薄気味悪い通りを歩いて、我々は瓦礫とゴミに埋もれた建物に近づいていった。その建物の周囲には、救急車に積載されているストレッチャーが何台も放置されていた。それから、理由は分からないが、建物のエントランスキャノピーが崩れていて、その瓦礫を越えなければ建物内には入れないようになっていた。

 足場の悪い瓦礫を上りきって建物に入ると、ハンドガンの銃身をスライドさせたような小気味よい金属音がして、天井に収納されていた自動攻撃タレットが展開される。けれどチハルが片手をあげると、タレットは短い電子音を鳴らし天井に収納される。


『居住区画の安全性は確保されているって、チハルは言っていたよね』

 カグヤの言葉に、私は声に出さずに返事をした。

『ああ。完全に侵入できないようになっていると話していた』

『でも攻撃タレットは起動している』

『社員の為に用意された居住区画は、俺たちが想像していたよりも、ずっと広大な空間だった。もしかしたら、人擬きを全て駆除できていないのかもしれない』

『柱のように並んだ建物の何処かに、まだ人擬きが潜んでいるって思ってるの?』

『奴らは何処にでもいるからな。冬眠するように、瓦礫やゴミの中に潜んでいる可能性はある』


 チハルに連れて行かれたのは警備室だった。部屋の壁には、居住区画の監視映像を表示する為のディスプレイが埋め込まれていたが、その多くは埃をかぶり、画面は真っ暗だった。室内は例に漏れず酷い有様で、操作盤のある机には『国民栄養食』の空のパッケージが飲料水のペットボトルと共に大量に放置されていた。青白い照明のついた天井には、紐で吊るされた動物の折り紙が数百枚ほどあって、無機質な部屋にカラフルな色を添えていた。


 チハルは部屋の隅に置かれていた青色の長椅子の側まで行くと、くすんだ毛布や汚れた布を地面に落とした。それから私の隣に立っていた少女を抱いて、その長椅子に座らせる。そして机に載っていたゴミの中から、未開封のペットボトルを探し当て、キャップを開くと少女に手渡した。

「レイラさん」と、チハルは言いづらそうに口を開いた。「楽な恰好に着替えてくるので、少しだけ『シズク』の面倒を見てもらっても良いですか?」

「もちろん構わないよ」

「良かった」チハルは中性的な顔に笑みを浮かべると、警備室の奥にあるロッカールームに向かった。


『その子、シズクちゃんって言うんだね』と、カグヤが珍しく他人に興味を持つ。

「そうみたいだな」

 シズクは水を上手に飲めなかったのか、両手に持っていたペットボトルの中身をシャツに零していた。私はバックパックから清潔なタオルを取り出すと、それで彼女の首元とシャツを拭いたが、真っ白だったタオルは直ぐに黒ずんでしまう。

『ねえ、レイ。施設の警備システムに侵入できるか試してみようよ。もしかしたら、施設の全体図が手に入るかも』

 カグヤの言葉に頷くと、シズクにタオルを渡して机に向かった。それから机に載っていたゴミを退けて、操作盤の横に設置されていたディスプレイに素手で直接触れた。


 シズクは私がしていた事が気になるのか、中身の大半が零れてしまっていたペットボトルを長椅子に慎重に載せると、私の側にふらふらと歩いてきた。操作盤からホログラムの地図が投影されると、シズクは机の端に掴まって、背伸びをしながら地図を眺めた。私は地面に転がっていたパイプ椅子を拾うと、その椅子に座ってからシズクを自身の太腿に座らせた。

『地図は入手できたけど、ほとんどの区画が閉鎖されているみたいだね』とカグヤが言う。

「施設の他の場所に、やっぱり人間はいないのか?」

『うん。完全に無人って訳でも無いけど』

「人擬きがいるのか?」

『うん。施設の動体センサーに反応があるから、人擬きの可能性は充分にある。それと、気になった事がもうひとつある』

 カグヤはそう言うと、施設内の監視カメラの映像をホログラムディスプレイに表示した。

「……壁に穴が開いている?」

『うん。外部からの侵入には備えていたみたいだけど、地中に穴を掘って壁を破壊される事は想定していなかったみたいだね』


 濡れた雑巾のような臭いのするシズクの頭を撫でながら、私は思考する。

「実際に壁に穴が開いている。だから疑うつもりはないけど、それは実際に可能なのか?」

『可能って、何が?』とカグヤは言う。

「壁を破壊する事だよ。この施設は企業のシェルターでもあったんだろ? そんな施設の壁が簡単に破壊できるものなのか?」

『旧文明期の核防護施設を破壊できる兵器があるとすれば、それは秘匿兵器に属するものだと思うけど……』

「けど?」

『人造人間の『博士』や、『大樹の森』の管理者である『マーシー』の言う事が正しければ、データベースから許可を得て『秘匿兵器』を使用できる人間は、幾つかの例外を除いて、レイ以外に地上に存在しない。だからその可能性は限りなく低い』

「幾つかの例外……例えば『姉妹たちのゆりかご』にいる『シン』とか?」

『うん。でも彼もデータベースの何らかの意思によって産まれてきているから、特別にそれが出来るのであって、普通の人間にはまず無理なことだよ』

「それなら、何が壁を破壊したと思う?」

『分からない。可能性があるとすれば、異界の領域による侵食くらいからな……侵食された場所は、広範囲に渡って変質して姿を変えるから、壁そのものが無くなる可能性はある』


 赤色灯に照らされている薄暗い通路の壁には、楕円形に開いた大きな穴が残されている。その穴は不自然なほどに整えられ、周囲には壁を崩した際に残される瓦礫も存在しなかった。が、異界の侵食と言えば、グロテスクな肉の壁や、濃霧、そして異様な姿をした生物といった異常な空間がイメージとして浮かんでくる。けれど映像に表示されていた廊下には、特にそういった違和感は無かった。ただ不気味な横穴が壁にぽっかりと開いているだけだった。


 私の太腿に座っていたシズクが飽きて、太腿から降りようとしていると、普段着に着替えたチハルが警備室に戻ってくる。

 チハルはシズクを抱くと、興味深そうにホログラムディスプレイを眺めた。

「レイラさん、それは?」と丸刈り頭のチハルが言う。

「施設内に設置されている監視カメラの映像だよ。見るのは初めてか?」

「……はい。僕たちには、データベースを操作する権限はほとんど無いので」

『うん?』とカグヤが直ぐに反応する。

「待ってくれ」と私も驚いた。「チハルたちは、施設の管理権限を持っていないのか?」

「残念ですけど、子供たちの間で最も高い権限を持つ僕でも、幾つかの隔壁や扉を開閉する権限しか持っていません」

「でも、チハルたちを産みだしたのは、データベースなんだろ?」

「……はい」


『データベースは、彼らに何の権限も与えずに、シズクたちをこの世に産み出したってこと?』とカグヤは呆れてしまう。

「そんな無責任な……」と私は思わず呟く。

「けど……それが現実です」とチハルは言う。

「つまり施設の地図を見るのも始めてなのか?」

「はい」

「それなら、地上に向かうことも出来なかったのか?」

「と言うより、地上に繋がる隔壁を操作することも出来ません」

『まるで監獄だ』

 カグヤの言葉に私は頷いた。

 チハルたちがこの地下施設で産み出された事には、何かしらの重要な意味があるはずだった。しかし今の所、彼らの産まれてきた理由は全く分からなかった。

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