第370話 放水路


 そこが用水路だったのか、それともクレーターに出来た水溜まりだったのかは分からなかった。しかし水中には思っていたよりも激しい水流があって、そして恐ろしい程に深かった。私は白蜘蛛の脚に抱えられながら、流れに逆らうことも出来ない水流に押し流されていった。

 幸いな事に、建物から落下している際に『ハガネ』を起動していて、頭部を含めて全身を液体金属で覆っていた。だから水中で問題なく呼吸も出来ていたし、凍るような水の冷たさからも身体を保護できていた。けれど準備も無しにハクが水中で呼吸できるのか不安だった。それに水流によって我々が都市の何処まで運ばれるのかも心配だった。


 私は水に流されてハクと離れてしまわないように、ハクの脚にしっかりと掴まりながら言った。

「ハク、大丈夫か?」

『だいじょうぶ』と、ハクの可愛らしい声が内耳に聞こえる。

 そう言えば、ハクは特殊な体毛のおかげで、ミズグモのように身体の周りに空気の層が出来るので、水中でも問題なく活動できることを思いだす。

「このまま流されたら大変なことになる。何とか浮上する方法を探そう」

『うん』ハクが返事をした時だった。

 水中に沈んでいた瓦礫にハクの身体がぶつかって、我々は水中でくるくると回る。もはや方向感覚すらも失われてしまうと、急に水中から投げ出された。何処かに設置されていた巨大な排水管から飛び出したのだろう。排水管から放出される水の轟音を聞きながら、私は落下の際に生じる浮遊感に襲われる。


 ハクは空中で直ぐに体勢を立て直すと、貯水池のような巨大な水溜まりを避けてセメントが敷かれていた地面に着地する。私はハクの脚から解放されると、ハクの身体に手をあてながら、ハクが怪我をしていないか確かめた。

「ハク、怪我はしていないか?」

『もんだい、ない』

 ハクはそう言って地面をべしべしと叩くと、本当に怪我をしていないか私に見せる為に、ふわりと跳躍してみせた。

「良かった」私はホッと息をついて、それから周囲に目を向ける。


 赤色灯の薄明りの中に、広大な空間が広がっているのが見えた。どうやら我々は都市の地下に存在する放水路、あるいは下水処理場まで流されてしまっていたようだった。そこは旧文明期の鋼材を含んだコンクリートで天井まで補強された施設で、驚くほど高い壁に沿って複雑に入り組んだ足場が組まれているのが見えた。その足場は地上に向かって伸びているようだったが、確かな事は分からなかった。足場の直ぐ近くには、膨大な量の水を排出し続ける排水管が至る所に設置されているのが見えた。


『レイ、大丈夫?』と慌てたカグヤの声が内耳に聞こえる。

 カグヤとの通信にも問題は無いようだった。私は安堵しながら言った。

「ああ、俺もハクも無事だよ。それより、そっちの様子はどうなっている?」

『ミスズもナミも無事に隣の建物に向かう足場を渡れたよ。今は屋上まで追ってきた大猿たちが、建物に渡って来られないように足場を崩しているところ』

「大猿たちの追跡は躱せそうか?」

 私はそう言うと、濡れた装備が水に流されていないか確認する為に、バックパックを背中からおろした。ホルスターに収まっているハンドガンは無事だったし、ベルトポケット内のオートドクターも無事だった。


『大猿はもう追って来ていない』とカグヤが言う。『これからミスズたちは、建物の外階段を使って地上に向かうけど、そこでヤトの部隊が来るのを待つことになる』

「部隊を待つ? どういうことだ?」

『異界の生物だと思われる『大猿』たちの住処が拠点の近くにあるのに、それを放置する訳にはいかないでしょ?』

「だから大猿の掃討作戦を実施するのか……ヤトの部隊との合流には、どれくらいの時間が必要なんだ?」

『攻撃ドローンに増援を要請したときには、イーサンとエレノアの指示で討伐部隊が編成されて、既にこっちに派遣されている。だから天候が急変しなければ数時間で合流できると思う』

「そうか……分かった。それまではミスズたちに無理をさせないでくれよ」

『こっちには私が操作する偵察ドローンもあるし、敵の動きは直ぐに察知できるから大丈夫だよ。問題はレイとハクだよ。レイの位置情報を辿って鴉を上空に飛ばしたけど、何も見つけられなかった』


 鴉型偵察ドローンから受信する周辺映像が網膜に表示される。確かにカグヤの言うように、上空からの映像には雪に埋もれた高層建築群が映るだけで、地下に繋がるような何か目立つ建物は確認できなかった。けれどそれらの建物の何処かに、地下に繋がる入り口があるのは確かだった。

『だからレイたちを救出する為の部隊を、そこに今すぐに派遣するのは難しい』とカグヤは言う。

「自力で脱出経路を探さないといけないみたいだな……でも、それに関しては心配しないでくれ。いざとなれば『門』を開いて、ハクと一緒に拠点に帰る」

『そうだね。レイは空間転移が出来るんだったね』

「それより、ここはどういった場所なんだ?」

 私はそう言うと、確認を終えたバックパックを背負い直した。水にぐっしょりと濡れたバックパックは、いつもより重く感じられた。


『データベースにアクセスして、地下区画の地図を探してみたけど、何も見つからなかったよ、というより、閲覧許可が得られなかった』

「また権限の問題か……」

『うん。軍に関する何か重要な施設があるのかもしれないね』

 私が溜息をついて、何とはなしにハクの後方に視線を向けた時だった。赤色灯の明かりに浮かび上がる小さな影を目にする。

「……何かいる」

『何か? もしかして人擬き?』

「いや、あれは人擬きじゃない……」


 薄闇の奥から姿を見せたのは、白い肌を持った人型生物だった。人間の子供のように小柄で、ぼろきれを身につけた生物の手には、施設の足場から外した尖った鉄パイプが握られていた。内臓がうっすらと透けて見えるその奇妙な生物には見覚えがあった。

『混沌の子供たちだ!』とカグヤは驚きに声を上げた。

 生物は瞳のない頭部を私に向けると、耳元まで裂けた大きな口を開いて声の限り叫んだ。すると施設の貯水池や、何処に続いているのかも分からないトンネルから次々と混沌の子供たちが姿を見せる。悪意を感じ取ることの出来る私の視界は、今では混沌の子供たちが発する赤紫色の靄で埋め尽くされていた。


『どうして混沌の子供たちがこんな所にいるの?』

 カグヤの言葉に私は頭を振る。

「分からないけど、数百体はいる」

『レイ、直ぐにそこから脱出して』

「拠点に戻る為の『門』を開く」

 私はそう言うと、素早く周囲に視線を走らせて混沌の子供たちの発する悪意が感じられないトンネルを探した。

「ハク、あのトンネルまで退避する」

 何故か混沌の子供たちの気配が存在しないトンネルがひとつだけあった。

 眼を真っ赤に発光させていたハクは、眼前に迫っていた混沌の子供たちに強酸性の糸を吐き出すと、長い脚で私を抱えると一気に跳躍した。


 コンクリートで綺麗に舗装されたトンネルの入り口でハクの脚から解放されると、私は猛進してくる混沌の子供たちに対してライフルで射撃を行いながら、トンネルに向かって後退する。ハクも群れの中心に跳び込むことなく、私の側から離れる事無く、小さな化け物たちに向かって糸を吐き出し続けていた。

『レイ、急いで『門』を開いて。直ぐにそこから逃げないと大変な事になる』

 薄闇からぞろぞろと姿を見せる混沌の子供たちを見ながら、私は声をあげる。

「そんなこと言われなくても分かってる!」

 すぐにでも空間転移の為の『門』を開きたかったが、混沌の子供たちは既に数百匹ほどの大群になっていて、広大な施設を埋め尽くしていた。

 と、突然視界に通知音と共に無数の警告が表示される。

「カグヤ、今度は何だ?」

『待って――』カグヤはそう言うと、私の視界に表示されている警告を急いで消していった。『……えっと、レイとハクが侵入したトンネルは、企業の管轄下にあるもので、これ以上の敷地内への侵入には武力の行使が許されている。みたいなことが書かれている』

「どうにかならないのか?」

 こんな所で立ち止まっていたら、混沌の子供たちの大群に呑まれてしまう。


『レイの権限で通行許可が得られるか確認する。だからそれまで何とか混沌の子供たちの猛攻に耐えて』

 特殊なコンクリートで舗装されたトンネルの壁に貼り付いて、昆虫のようにカサカサと向かってくる混沌の子供たちを射殺しながら、目の前に迫ってきた混沌の子供たちに山刀を叩きつけていく。

 その奇妙な生物は柔らかな身体をしていて、歩兵用ライフルの銃弾で簡単に殺すことが出来た。が、山刀を使って戦うと、彼らが恐ろしい強度の骨格を持っていることに気がついた。半透明な皮膚を透かして見えている眼窩の無い頭蓋骨に、山刀を叩きつけると、刀身は頭蓋骨の表面を滑るようにして、化け物の顔面の皮膚を剥いでいった。私は苦痛の声をあげる化け物の胸に山刀を突き刺すと、化け物を蹴って山刀を抜いて、すぐに太腿のホルスターからハンドガン引き抜いて、近寄ってきた混沌の子供を射殺していった。


 私との間に存在する精神の繋がりを通して、ハクもこれ以上後退できないと分かると、トンネルの入り口に向かって糸の塊を次々と吐き出していった。それらの塊は混沌の子供たちの眼前で網のように広がって、化け物どもを雁字搦めにしていった。それらの化け物が動けなくなって、トンネルの入り口に固まっていると、あとからやってきた混沌の子供たちに容赦なくぐちゃぐちゃに踏み潰されていった。仲間を踏み潰す化け物の中には、足が糸に張り付いて、一緒に潰されていく者たちもいた。


 しかし広いトンネルを完全に塞ぐことは出来ない。混沌の子供たちは次から次に現れた。その光景は、シロアリの変異体との戦闘を思い出させた。どれほど殺しても息つく暇もなく巣穴から現れる。そして最悪な事に、人造人間の『博士』が言うには、混沌の子供たちのいる場所は『禍の国』の領域に繋がるとされている。それはつまり我々の知らぬ間に、異界に繋がる『門』が、この都市の地下の何処かで開いたということでもあった。


 ハクは混沌の子供たちの集団の中に飛び込むと、身体を回転させるように鋭い鉤爪のある脚を振り抜いた。ハクの全身を使った強力な一撃は、混沌の子供たちの強固な骨も切断してみせた。しかしハクに群がる恐怖を知らない化け物は、恐ろしく数が多く、化け物は手に持った鉄パイプの尖端で何度もハクを突いていた。ハクがどれほど頑丈な体表を持っていても、それが厄介な攻撃であることに変わりはなかった。


「ハク!」

 私が声を上げると、白蜘蛛は無数の混沌の子供たちに組みつかれながらも後方に跳躍して、集団の外に出た。私はベルトポケットから焼夷グレネードを取り出すと、集団の中心に放り投げた、狭い範囲に限定されるが、非常に高い温度を瞬間的に生み出せるグレネードは、発光し爆発すると、数多くの化け物を瞬く間に炎で包み込んでいった。

 身体が燃えた状態で走り回っていた混沌の子供が、我々の後方に向かって駆けていくと、トンネルの先で幾つかの光が瞬いた。そして次の瞬間には、豆粒ほどの光弾が化け物に向かって撃ち出されていた。その光弾に身体を貫かれた混沌の子供は、攻撃を受けた箇所から赤熱していって、まるでアイスクリームのように溶けてトンネルの床に広がっていった。


「警告を無視して、トンネルの先に進まなくて良かったみたいだな……」

『そうだね』とカグヤが私の呟きに答えた。

 私は向かってくる混沌の子供たちに射撃を続けながらカグヤに訊ねる。

「トンネルについて何か分かったのか?」

『この先には『エボシ』の兵器研究開発施設があるみたい』

「エボシ……確か、ハガネを開発した企業の名前だよな?」

『うん。よく覚えていたね』

「どうして企業の研究施設が都市の地下に?」

『社員のシェルターとしても機能していたんだよ』

「核防護施設か……それなら、このトンネルの先に施設への入り口があるのか?」

『兵器工場にあった路線図を覚えてる?』

「ペパーミントが働いていた無人の鳥籠で見たやつだろ?」

『うん。その路線図にも、この施設の情報が記載されていたから間違いないと思う。レイとハクの生体情報を登録しているから、通行許可が得られたら知らせる。そしたら直ぐにトンネルの奥に後退して』


 弾薬を貫通弾に切り替えると、向かってくる数十体の混沌の子供たちに照準を合わせる。ホログラムサイトに表示される化け物の乳白色の口腔からはギザギザの鋭い牙が覗いていた。引き金を引くと甲高い金属音が鳴って、質量のある銃弾が集団の身体をズタズタに引き裂いて行った。手足と共に内臓が周囲に飛び散って、仲間の体液を被った化け物が怒り狂って突進してくる。

 彼らの怒りや憎しみは理解できるが、我々も死ぬ訳にはいかなかった。だから容赦なく射撃を続けた。甲高い金属音がトンネルに響く度に、潰れた果実のように化け物の体液が飛び散り、赤色灯に照らされたトンネルの壁が、粘液に濡れた肉を思わせるグロテスクな光景に変わっていった。


「カグヤ、通行許可は得られそうにないのか?」

『もう少しだけ待って!』

 トンネルの入り口を埋め尽くしていた混沌の化け物の集団が突然、左右に割れるように広がる。すると体毛の無い猿のような生物に跨った混沌の子供たちが現れる。体毛の無い奇妙な生物は、筋肉質で大きな身体を持っていたが、その身体は傷だらけで、両眼は潰されていて首には太い鎖が巻き付けられていた。

 その奇妙な生物に跨った混沌の子供が、鉄パイプの尖端を何度も生物の背中に突き刺した。すると生物は呻き声を上げながら、我々に向かって突進してきた。


 ハクは直ぐに生物に跳びかかると、生物の太い四肢を切断してみせた。バランスを失った生物は、混沌の子供たちの大群に衝突して、数体の化け物を押し潰しながら絶命した。しかし奇妙な生物に跨る混沌の子供たちは他にも無数に存在していた。それらが真直ぐ、我々に向かって突進してくるのを見ながら、私はハンドガンを構える。

『レイ!』とカグヤの声が聞こえる。『通行許可が得られた。ハクと一緒に下がって!』

 向かってくる生物に貫通弾を撃ち込むと、私は声をあげた。

「ハク!」

 白蜘蛛は自身の身体に群がっていた混沌の子供たちを振り払うと、私の側に跳んできて私を抱えると、トンネルの奥に向かって一気に跳躍した。

 すると私とハクの側を無数の光弾が掠めるようにして飛んでいって、トンネル内に敷かれていた境界線を越えた混沌の子供たちを溶かしていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る