第360話 転移門 re


 空中にピタリと静止し、それから広がっていった〝リング〟の内側には、楕円形だえんけいの空間の歪がつくり出されていた。細い板硝子にも似たその不思議な空間を横から見ると、髪の毛一本ほどの隙間しかなかったが、たしかにソレは保育園の拠点につながっていた。


 私は目の前に広がる〈転移門〉に近づく。


 それまで感じていた不気味な気配は感じない。〈転移門〉の周囲には見知った女性の残り香が漂っている。その匂いの中に、寂しそうな眼差しで海を見つめる女性の姿が垣間見える。理由は分からない、でも知らず知らずに彼女のことを思うと、胸が締め付けるような悲しみが蘇る。


 その悲しみが――感情が私の物ではないことは分かっていた。しかしそれでも、私は喪失感を抱えることになった。その悲しみを振り払うように〈転移門〉の内側に向かって足を踏み出す。


 微かな抵抗も感じる事なく、気がつけば横浜の拠点に立っていた。くるりと周囲に視線を向けると、〈ヤトの戦士〉たちのために用意した飴色の簡易的な家屋が見える。廃墟の街の砂と旧文明の鋼材を含んだ四角い建物の奥には、拠点を囲む高い防壁、そして開放された門からは、ハクの糸が絡まる廃墟の街が見える。


 振り返って〈転移門〉の姿を確かめる。ソレは依然としてそこに存在し、湾曲した鏡のように歪んだ景色を映し出していた。その歪みの向こうに、驚いた顔でこちらを見つめるペパーミントの姿が見えた。〈転移門〉の出口として機能している装置は、煤色の合金で製造された無骨なアーチ形の骨格になっていた。典型的な門の形だ。


 ペパーミントはその装置が遺物と同様の物質でつくられていると言っていたので、装置の骨格を覆う鋼材にその物質が含まれているのかもしれない。


 急造されたと思われる装置の所々には、ケーブルの束がダクトテープで固定されていて、アーチ形の骨格には幾つかの大型バッテリーが太いケーブルでつなげられていた。おそらくそれは〈小型核融合電池〉なのだろう。たしかなことは分からなかったが、空間を維持するのにもそれなりのエネルギーを必要とするのかもしれない。


 アーチ形の装置につながる管から噴き出す蒸気を見つめながら〈転移門〉を通って研究施設に戻る。


「レイ」ペパーミントが不安げな表情を浮かべながら私を見つめる。

「なにか身体に異常は感じなかった?」


「ああ、何も問題はなかったよ」

 それから〈ブレイン〉たちに気づかれないように声に出さずに言った。

『カグヤ、そっちはどうだ?』


『レイの位置情報に関するエラーが出て、レイの現在位置を一瞬だけ見失った。けど転移する先が分かっているから、すぐに見つけ出すことができた。だからこっちにも影響はないよ』


『〈空間転移〉の瞬間だけ、この世界から消えて、カグヤとの接続が切断されるのか……』

『でも本当に一瞬だけだから、問題にならないよ』


 そのときだった。青年の声が薄暗い部屋の何処からか聞こえてくる。

『本当に〈空間転移〉ができたんだね』


『理論上は可能だと思っていたけど』と、今度は女性の声が聞こえる。

『本当に成功するなんて思ってなかった』


『たしかにおかしい。混沌に関する遺物は、その混沌に属するモノたちにしか操作ができないはずだ』

『遺物の外見が変化したことが関係しているのかしら?』


『本当だ。石にしか見えなかった遺物が変化している。〈不死の子供〉の血液を取り込んだことで、化学反応にも似た現象が起きて物質を変化させたのかもしれない』


『そんなことが本当に可能だと思うの?』

『いいや』鼻を鳴らす青年の声が聞こえる。


『でも遺物が暴走したときに何かが起きたのは確かだ。あの瞬間、濃密な混沌の気配が遺物から放出されるのを感じたんだ』

『それは私も感じた。それに遺物が赤く染まるのが見えた』


「ねえ、レイ」

 ペパーミントがブレインたちの会話を聞きながら小声で言う。

「あの時、何が起きたの?」


 私は声に出さずにペパーミントに直接言葉を伝える。

『上手く説明できないけれど、〈ヤト〉に会ったんだ』


『ヤト……? それって異界でレイが出会った神さまのこと?』

『そうだ。あの一瞬、どうやら俺は彼女の世界に迷い込んでいたみたいなんだ』


『迷い込む……それは精神世界のようなものかしら?』

『分からない』と頭を横に振る。


『そこで、あの遺物に関係のある混沌の化け物に遭遇して殺されそうになった』

 ペパーミントは困ったように眉を八の字にして私を見つめる。

『でも彼女に救われた』と私は続けた。


『ヤトに救ってもらったのね?』

『ああ。そこで彼女はこの遺物に何かしらの細工を施した』

 私はそう言うと、綺麗に磨かれた白銀の〝リング〟に視線を落とす。


『だからだよ』と青年の声が聞こえる。

『僕は装置が機能する絶対的な自信があった。僕の設計に誤りがあるわけがないからね。でも〈不死の子供〉が〈転移門〉の向こう側に渡れるとは思っていなかったんだ』


『レイラの血のおかげかな?』幼い男の子の声が聞こえると、クラゲのように漂う脳にしか見えない生物が近づいてくる。『レイラにはさ、〈不死の子供〉の血が流れているでしょ? だから〈転移門〉を通れたのかも?』


『それよ!』と今度は若い女性の声がした。

『やっぱり血が関係しているのよ』


『それなら、彼の人形が〈転移門〉の向こうに行けるか確認しよう』


『人形じゃないよ』と男の子が反論する。

『ペパーミントだよ』


『何だっていいさ』


『ねえ、ペパーミント』女性の声がすると、青藍色に発光していたブレインが水槽のガラスに触手をあてる。『〈転移門〉の向こう側に行ってみてくれないかしら』


 ペパーミントは〈ブレイン〉たちにじっと視線を向ける。

「何か隠していることがあるなら、今のうちに話してくれない?」


『隠し事なんてしていないさ』と青年が答える。

『それにさっきも言っただろ。うっかりしていたんだ。君だって物忘れしてしまうことがあるだろ?』


「白白しい。命にかかわるような、そんな大切な忠告を忘れたりはしない」

『君たちは忘れないのかもしれない。でも僕たちは忘れることがあるんだ』


「人間の言葉は上手く話せるみたいだけど、嘘は下手なのね」

『嘘なんてつかないさ。そんなことをする必要も感じない』


『嘘ってどんなときにつくのかしら』と女性の声が聞こえる。

『それはあれだろ』と青年の声が答えた。


『誰かを欺むいて、悪意を持って他者を利用したいときに使うんだ。それに不利な状況を変えるためにも使うのかもしれないね』


『それなら、誰にも悟られない嘘をつくのは不可能なのね』

『どうしてそういう話になるんだ』


『だって完璧な嘘をつくには、その嘘を現実にしなければいけないでしょ?』

『嘘の本質はそういうことじゃないけど……たしかにそれは嘘じゃないね』


『そうでしょ』

『でも、嘘は相手を見て言うものなんだ』


『相手?』

『頭が悪くて簡単に利用できる人間に嘘をつくんだよ。そのほうがずっと効果的に嘘は機能する』


 ペパーミントは〈ブレイン〉たちの会話に溜息をつくと、〈転移門〉に向かって歩き出す。が、私は手を伸ばして彼女を引き止める。

「まずは他の生物で試したほうがいい」


「後先考えずに〈転移門〉に飛び込んだレイが言うと、まったく説得力がない」と彼女は言う。「でも安心して、たぶん私が〈転移門〉を通ることはできないと思う」


『どうしてそう思うの?』カグヤが訊ねる。

「あれを見て」ペパーミントは〈転移門〉の低い位置を指差した。


 冬の冷たい風が吹くたびに、舗装されていない保育園の地面から砂塵が舞い上がるが、それらは〈転移門〉を越えてこちら側に侵入してくることはなかった。


「大気すら遮られているのか?」

「それを今から確かめる」


 彼女はそう言うと〈転移門〉に向かって手を伸ばすが、まるで透明な壁に触れているようにピタリと手は止まる。


『これは興味深い』

 青年の声がすると、周囲に集まっていた〈ブレイン〉たちが騒がしく議論を始める。


 ブレインたちの言葉を無視してペパーミントのとなりに立つ。

「どう思う?」


 質問に彼女は頭を横に振る。

「わからない。〈ブレイン〉たちが言うように、レイが持つ〈不死の子供〉たちの血が関係しているのかもしれないし、ヤトとのつながりが関係しているのかもしれない」


『ねえ、レイ』とカグヤが言う。

『ペパーミントと手をつないだ状態で〈転移門〉を通過できるか試してみて』


 カグヤの言葉にうなずくと、ペパーミントに手を差し出して手をつないだまま〈転移門〉の先に向かう。が、やはり彼女と一緒に移動することはできなかった。


「不思議ね」

 ペパーミントはそう言うと、〈転移門〉の内側に発生している奇妙な薄膜に触れる。


『どうしてレイにだけ反応するんだろう?』

 カグヤの質問に彼女は頭を横に振る。

「レイと手をつないでいるだけではダメってことね」


 それから彼女は、たまたま〈転移門〉の側を通った〈ヤトの戦士〉を近くに呼んだ。

「なんでしょうか?」女戦士は撫子色の眸をペパーミントに向ける。


 ペパーミントは彼女に状況を説明して協力を求めた。彼女は快諾し協力してくれたが、どうやっても彼女と一緒に〈転移門〉を通過することはできなかった。ペパーミントは彼女に感謝して、仕事の邪魔をしたことを詫びた。


『ヤトの眷属でもダメだったね』

 カグヤの言葉にうなずくと、自身の手に視線を落とす。何度挑戦しても、ペパーミントと一緒に〈転移門〉を通ることができなかった。


『あるいは――』と青年の声が聞こえた。

『一緒に〈転移門〉を通るためには、〈不死の子供〉と何かしらの深い関係が……つながりのようなモノが必要になる。しかしそれは人形と人間の間で結ばれる契約だけでは〝足りない〟ということだね』


『〈データベース〉に登録されるだけの関係性だけでは、ダメってことなのかしら?』

 女性の声が聞こえると、青年は珍しく同意する。

『人形と〈不死の子供〉との間で結ばれる契約以上の、何かが必要になるのかもしれない』


『たとえば?』

『例えば魂の強い結びつき、とか』


『友達になるとか?』

 女性はそう言うと、バカにしたように笑う。


『恋人になる、でもいいんじゃないのか? 君はバカにしているけど、〈大いなる種族〉のやることだ。僕らには想像もできない仕掛けがあるのさ。きっと』


『〈大いなる種族〉が創造した人形に、そんな仕掛けがあるなんて知らなかったわ』

『あくまでも仮定の話だよ。僕だってそれが真実だとは思わない。でも、この世界は何が起きても不思議じゃない。そうだろ?』


 私は〈ブレイン〉たちの会話を聞きながら、ペパーミントに目を向ける。

「彼らの言っていることは本当なのか?」


「わからない。それに関しては、私たちを結び付けた〈アメ〉って子に聞いたほうがいいと思う」


 黄色いレインコートを身につけた人造人間の女の子のことを不意に思い出した。

「そうだな。でも彼らは廃墟の街を徘徊していて所在が分からない。それより今は気になることがある」


「なに?」と彼女は私に青い瞳を向ける。

「俺は遺伝子を残すことができるのか?」


「急にどうしたの?」

「たとえば子どもがいたとして、その子は俺と一緒に〈門〉を通ることはできるのか?」


「あぁ、そういうことね」ペパーミント眉を寄せて考える。

「宇宙軍から肉体を提供されていた不死者たちは、遺伝子操作の影響で子どもが産めないようになっていた。でも〈不死の子供〉に関しては分からないわ」


『だけど』とカグヤが言う。

『〈不死の子供〉も遺伝情報を操作された肉体を使っているってマーシーが言ってたよ』


 私は〈母なる貝〉の管理者である〈マーシー〉の言葉を思い出す。たしかに彼女がそんなことを言っていたような気がした。


『でもレイの身体は〈データベース〉に登録されているような代物じゃない』とペパーミントは声に出さずに言う。『そのことも彼女は話していたでしょ?』


『つまりレイは特別だから、不死の性質を受け継ぐ子どもがつくれるって考えてるの?』

 カグヤの言葉に彼女は考え込むように唸る。


『そこまでは分からない。そもそも〈不死の子供〉には謎があり過ぎて、彼らの肉体がどういったモノなのかも分からない。それにね、あらゆる生物は存在し続けるために繁殖を必要とするけど、〈不死の子供〉のように、ある意味生命としての完全性を持った生物が繁殖を必要とするのか疑問が残る』


『でもレイには性欲があるよ』

『知ってる』とペパーミントは当然のように言う。


『だから答えが出せないの。肉体を支給された軍人たちのように、行為そのものはできるけれど、子孫が残せない可能性もある』


 ふたりが私の存在を忘れて、私に関する個人的な会話をしていると〈転移門〉の向こうに白蜘蛛が姿を見せる。


 ハクは我々の姿を見つけると、嬉しそうにトコトコと駆け寄ってきて、そして普通に〈転移門〉を通過した。そのさい、ハクが狭い〈転移門〉を通過できるように、こちら側に開いていた空間の歪みがハクの身体の大きさに合わせて広がっていくのが確認できた。


『これは予想通りだね』青年が言う。

『そうね』と女性の声がすぐに答える。


『〈深淵の娘〉と〈不死の子供〉は血の契りを交わしているものね』

 ハクはいつものように脚を伸ばして私を抱きしめて、それから水槽に身体を向けた。そしてワラワラと集まっていた〈ブレイン〉たちを見つけると、水槽に飛び付いた。しかし多くの〈ブレイン〉はハクに怯えて水槽の奥に逃げてしまった。

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