第359話 彼女の世界 re


 突然〝リング〟から発生した朧気な青い炎によって、戦闘服の袖が焼かれて消えるのが見えた。すると皮膚にピタリと張り付いていた遺物が、まるで血液に染まるように紅色に輝く。その間も想像を絶する痛みは続いていた。


 私は痛みに耐えるように歯を食いしばると、強く瞼を閉じた。巨木の幹が砕けて、ゆっくりと木が倒れていく音に顔をあげると、どこかの森にたったひとりでいることに気がついた。


「また白日夢か……?」

 右腕の遺物に手をあて、うんざりしながら立ち上がる。奇妙なことに、先ほどまで感じていた腕の痛みはもう感じられなかった。


 痛みに震えていた腕が感覚を取り戻していくのを感じながら、じっと立って周囲に視線を向けた。密林のなかにいるようだった。しかし〈大樹の森〉と異なり、そこに生えている木々は普通の高さだった。


 どこからか風が吹くと、草木のむせ返るような臭いが鼻についた。空を仰ぐと、木々の葉の間から澄んだ水色の空が見えた。


「カグヤ、聞こえるか?」

 返事は期待していなかったが、それでも彼女の名前を口にする。


 しばらく待っても返事はなかった。視線を下げると、細い小道が森の奥に続いているのが見えた。立ち止まっていても仕方がない。私は腕に嵌った遺物に視線を落として溜息をつくと、その小道に向かって歩き出した。


 落ち葉を踏みながら深い森を進む。周囲に人の気配や、生き物の存在を感じとることはできなかった。しかし用心するに越したことはない。装備の確認を行おうとして、そこで何も所持していないことに気がつく。ライフルやハンドガンはなく、頼りにしていた〈ハガネ〉も起動しなかった。


 風が吹くと草の臭いと共に泥の嫌な臭いが立ち込めた。しかし森の臭いを気にしている余裕はなかった。この場所がどのような空間なのかは分からない。いつものように白日夢を見ているだけなのかもしれなかったし、混沌に関係する遺物によって幻覚を見せられているだけなのかもしれない。


 あるいは、遺物が持つ〈空間転移〉の能力によって、どこかに飛ばされたのかもしれない。いずれにせよ、そんなわけの分からない空間で身を守る術を持たないのは、最悪な状況だと言えるだろう。


 そこでふと右手首の刺青に視線を向ける。〈ヤトの刀〉なら使用できるかもしれない。いつものように刺青から刀を出現させようとする。が、その途端に遺物が赤黒く輝き、同時に強い痛みを感じて集中することができなくなる。どうやら遺物が持つ何らかの力によって、〈ヤトの刀〉が封じられているようだった。


「最悪だな……」

 ぽつりとつぶやいたあと、木々の間に続いている小道を進むことにした。


 代り映えのしない景色を眺めながら歩いていると、小道を逸れた少し先に家屋があるのが見えた。それらは〈データベース〉のライブラリで閲覧できる時代劇に登場するような、茅葺き屋根のある民家だった。人がいないか確かめようと近づくと、民家は突然、何の前触れも無く不自然な炎に覆われてしまう。


 まるで私にだけその火災が見えていなかったかのように、炎は民家全体を包み込むようにして燃え広がっている。民家はずっと以前からそこで燃えていたのだろう、民家を包み込む炎の勢いは激しいものだった。しかし奇妙なところは他にもあった。


 民家の周囲に人間の死体が転がっている。ひとりやふたりだけでなく、無数の死体が放置されている。それらの死体は、前合わせになるように布を重ね、帯で結ぶような薄い着物を身につけていた。侍映画でしか見たことのないような貧相な服装の人々の周囲には、おびただしい血痕が残され、その周囲には羽虫がたかっている。


 何かの儀式のように、燃える民家に向かってひざまずいている幾つかの死体は、頭部が切り落とされていて、切断面が真っ黒になるほどの蠅がたかっている。唯一頭部が残されていた男性の顔にも、表情が見えなくなるほどの大量の蠅がたかっていた。


 その死体のそばに刀が転がっていることに気がついた。大量の蠅を刺激しないように、ゆっくり死体に近づいて刀を拾い上げる。すると男の顔面を覆っていた無数の蠅が、嫌な羽音を立てながら急に飛び上がるのが見えた。


 すぐに飛び退いて蠅の大群から距離を取った。親指ほどの大きさのある蠅が死体の頭部から離れたことで、死者のグロテスクな顔が見えた。眼球や鼻、それに唇はすでに喰われていて、皮膚は少しも残っていなかった。蠅の不吉な羽音を聞きながら、急いでその場を後にする。


 燃える民家のそばを通ったとき、炎からの熱をまったく感じないことに気がついた。幻の炎を見せられているようにも思えたが、それが本当に存在していない炎なのか、手で触れて確かめる気にはなれなかった。音を立て屋根から崩れていく民家を横目に、木々の間を通って小道に戻る。


 しばらくして立ち止まると、死体のそばで拾った刀の状態を確かめる。刀に鞘はなく、何かの血痕が残る刀身には赤茶色の錆が浮いていた。刃物として使い物になるのかは分からなかったが、この奇妙な森で武器を持たずに歩くよりかは、幾分かマシなのだろう。


 刀に落としていた視線を上げると、小道の先に何かが立っているのが見えた。それは三メートルほどの体高を持つ人型の生物で、赤黒いヌメリのある布で身体を包んだ生物だった。そして最悪なことに、私はその生物に見覚えがあった。大樹の森で戦った混沌の化け物で、右腕に装着した〝リング〟の持ち主でもあった。


 その混沌の化け物は、人間の頭蓋骨に似た小豆色の甲殻に包まれた頭部を持っていた。頭部には暗く深い眼窩がんかが見え、その中にナメクジに似た乳白色の気色悪い器官が蠢いているのが確認できた。そしてそれは眼窩からゆっくり伸びて出てくると、周囲の様子を確認するようにゆらゆらと動く。


 その化け物の姿を見ると、金縛りにあったように動けなくなった。先ほどからインターフェースは動作していなかった。その所為せいなのか、混沌の化け物を直視しないように、視界にフィルターをかける機能が使えなかった。だからなのか、吐き気を催す化け物の姿を見ているだけで、立ちくらみに似た強い眩暈めまいを感じた。


 混沌の化け物がまとっている赤黒い皮膚の間を、小さな何かが移動しているのが見えた。注意深く観察すると、それが真っ黒なゴキブリだということが分かった。


 しかもそのゴキブリは、鳥籠の貧民地区で見かけるような通常のゴキブリではなく、森で見かける腹部がぷっくりと膨らんだ大きな個体だった。それらが触角を動かしながら混沌の化け物の身体のあちこちを移動するのが見える。


 化け物の粘液を滴らせるグロテスクな器官の先端がぱっくりと開くと、黒い眼球があらわれる。その三十センチほどに伸びた器官の上にも気味の悪いゴキブリがいるのが見えた。それらはカサカサと移動し、そして化け物の開いた口に入ったものは噛み潰されて、気色悪い体液を噴き出していた。


 不快な光景に吐き気を感じながら、それでも混沌の化け物に見つからないように、ゆっくり後退していく。


 しかし化け物の眼球はゆらりとこちらに向けられる。その瞬間、化け物はヌメリのある赤黒い皮膚を翼のように広げて、甲高い叫び声を上げた。空気を震わせるような、そんな騒がしい叫びに顔をしかめると、無数のゴキブリが翅を広げて化け物の身体から木々に向かって飛んでいくのが見えた。


 化け物の布にも似た赤黒い皮膚の内側に、外骨格に保護された胴体と左右対称の四本の腕と二本の脚がみえた。長い腕の先には鋭い刃がついていた。その腕のすぐ下、ちょうど脇腹の位置から短い腕が生えていて、その腕の先には粘度の高い体液を滴らせる肉の鞭が垂れ下がっている。


 化け物の黒い眼球が光を帯びていくのが見えた。その現象にも見覚えがあった。震える足を何とか動かして横に飛び退いた。すると私が立っていた場所に向かって光弾が放たれる。化け物の眼球が発光した瞬間には、光弾は森の木々に着弾していて、砕けて倒れていく木が青い炎に包まれていくのが見えた。


 光弾が放たれるたびに金属を打ち鳴らすような甲高い音がして、次々と木々が倒れていく。その樹木の間を縫うように走って光弾を避けていたが、正直、いつまで避けていられるのか分からなかった。


 脇目も振らずに駆けていると、急に視界が開けて砂浜と青い海が見えた。森と砂浜の境界にある段差につまづいて、砂の上を転がる。そこに容赦なく光弾が飛んでくる。私は無様に転がりながらも光弾を避けていく。とにかく立ち止まるわけにはいかなかった。動き続けていれば光弾は直撃しないはずだ。


 と、そこへ脇腹に強烈な痛みが走り、波打ち際まで転がっていく。波に打たれながら上体を起こしたあと、肺に詰まった空気を吐き出すように、咳をして胃液と共に血を吐いた。


 ふと影が差すと、化け物の甲殻に包まれた脚が見えた。そして肉の鞭が空気を切り裂く鋭い音が聞こえる。咄嗟に両腕で頭部を守るが、凄まじい衝撃を受けて空中に吹き飛ばされる。背中を強く打ち付けると、空気を求めるように喘ぎ、そしてそこで刀を手放していたことに気がつく。使い物になるとは思えないが、この状況では唯一の命綱だった。


 化け物に目を向けて位置を確認したあと、周囲に視線を走らせて急いで刀を探す。すると砂浜に突き刺さっていた刀のそばに黒髪の女性が立っているのが見えた。


 その女性が身につけていたのは、十二単じゅうにひとえと呼ばれる装束だった。それはこの場にそぐわないほど色彩豊かで、豪華な着物だった。黒髪の女性は振り向き、波に打たれる私の姿を見て微笑んだ。どこか幼さが残るが、整った顔立ちをした女性だった。


「久しぶりに会ったと思ったら、貴様は面白いものを連れているな」と、彼女はあどけない表情で言う。


 混沌の化け物も突然姿を見せた女性に驚いたのか、耳をつんざく叫び声を上げて、彼女に向かって光弾を次々と放った。しかし無数の光弾は女性に触れることなく、彼女の背後に見えていた森の木々を砕いて森を燃やしていく。


「ずいぶんと無礼な奴だな。私のことを、よもや忘れてはいないだろうな」


 彼女はそうつぶやいたあと、錆びた刀を拾い上げる。そこで奇妙なことが起きる。気が付くと彼女は化け物のそばに立っていた。そして化け物の甲殻に刀をゆっくり突き刺していった。その間、化け物は肉の鞭を出鱈目に振り、そして刀の突き刺さった箇所を中心にして干からびていった。最後には塵になって霧散した。


 私は口に入った塩水を吐き出すと、よろよろと立ち上がる。彼女は初めて会ったときのように、寂し気な表情で海を見つめていた。


「ありがとう。また助けてもらった」


「気にするな」と彼女は海を見つめながら言う。

「ちょうど暇をしていたんだ」


 ゆっくり彼女のそばに向かい、そしてとなりに立った。思っていたよりも身長が低かった。


「訊ねたいことがある」

「なんだ」


「ここは何処なんだ?」

「大昔の日本だ」


「日本……どうして俺はここに?」

 彼女は上目遣いで私に視線を向ける。

「貴様は私の世界に迷い込んだみたいだ」


「ヤトの世界……?」と、周囲の景色を見渡しながら言う。

 何処までも広がる空と海、それに深い森しか見えなかった。


「私の大切な記憶でもある」彼女はそう微笑むと、私が腕に嵌めていた遺物に触れる。「こいつが悪さをしていたみたいだな。でも大丈夫。この先、そいつに気を紛らわされることはもうないだろう」


 彼女の手が離れると、遺物は白銀に輝き、日の光を受けて見る角度によって青緑色と赤の毒々しい斑模様を浮かび上がらせた。


「貴様との話はこれで終いだ」

 彼女がそう言うと、足元に広がる砂浜に暗い穴がぽっかりと出現する。


「もう面倒は持ち込むなよ」

 彼女の素っ気無い声を聞きながら、私は暗闇の中に落下していった。


 恐怖に瞼を閉じて、次に開いた時には険しい表情を浮かべるペパーミントの顔がすぐ近くに見えた。


「レイ?」

 私はゆっくり息をついて、それから周囲の状況を確認する。戦闘服は濡れていなかったし、砂に汚れていなかった。


『大丈夫、レイ?』今度はカグヤの声が聞こえる。

「大丈夫だ。もう何も問題はない」


 どこからか舌打ちが聞こえると、私は水槽に視線を向けた。

『一瞬、苦しそうにしていたけど何かあったのかい?』青年の惚けた声が聞こえる。


 私は〈ブレイン〉の言葉を無視して立ち上がると、インターフェースに表示されていた〈空間転移〉の項目を確認し、それから何もない空間に腕を向けた。すると〝リング〟が広がるようにして腕から離れ、すぐ目の前の空間で浮かんだまま静止する。そして楕円形に広がり、空間の歪みを発生させていく。


 理由は分からなかったが、あの女性が言ったように、私は遺物に宿る混沌の意思に邪魔されることなく、それを自由に操作することができるようになっていた。

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