第325話 後始末 re


 まるで雪が降り積もった山の中にいるかのようだ。辺りは静寂に支配されていて、先ほどまで聞こえていた化け物たちのさえずりも、悪魔じみた生物が放つ怪光線が立てる甲高い音も今は聞こえない。


 私は完全に閉じられた鋼鉄の巨大な隔壁を長いあいだ、じっと眺めて、それから傷ついた白蜘蛛に目を向けた。ハクも警戒するように八つの眼を隔壁に向けていて、生物の出現に備えているようだった。


 我々が隔壁を眺めていた時間は、ほんの短いものだったのかもしれない。しかし生物に対する恐怖と緊張が、その僅かな時間を引き延ばしているようにさえ感じられた。


 静かすぎる空間のどこかで氷の砕ける音がすると、天井から大きな氷柱つららが落下する。轟音を立てながら砕けた細かな氷が周囲に飛び散り、照明を浴びてキラキラと光を反射するのが見えた。


『レイ、大丈夫?』

 カグヤの声が内耳に聞こえた。

「ああ。大丈夫だよ」

 気を取り直すと、ハクとマシロのそばに向かった。


 戦闘の影響で身体は傷んだが、歩けないほどではなかった。

「ハク、傷は痛むか?」

 そう訊ねると、ハクは長い脚を伸ばして、私の身体を引き寄せるようにして抱きしめた。


『ちょっと、いたい』と、可愛らしい声が聞こえる。

「すぐに痛いのを直してやるからな」


 ハクの傷を確かめたあと、救急ポーチから温度管理がされている角筒状の医療ケースを取り出す。そのケースには半透明の小窓がついていて、そこからケース内に収まっている注射器が見えた。


 その注射器は〈オートドクター〉と呼ばれるもので、旧文明の医療用ナノマシンを使用した医療器具だった。使い方はとても簡単だ。注射器を使い体内に特殊なナノマシンと濃縮した栄養剤を投入するだけで、身体の損傷や病気を治すことができた。


 ハクの傷はそれほど酷い状態ではなかったが、ハクが怪我をすること自体が稀なことだった。それに、今回はあの異常な生物の攻撃で怪我していたので楽観視はできなかった。


「カグヤ、ハクに〈オートドクター〉を使用しても問題ないか?」

 ケースから注射器を取り出しながらたずねた。


『大丈夫だと思うよ。マシロにも効果があったし』

「でもマシロには人間の遺伝子が含まれていて、身体の構造も人間と余り変わらない」


『そうだけど、ハクは〈深淵の娘〉でしょ?』

「うん?」ハクを見ながら首を傾げた。


『〈深淵の娘〉たちと人類は同盟を結んでいて、彼女たちは〈不死の子供〉たちと一緒に戦場に派遣されていた』


「そう言えば〈母なる貝〉を管理しているマーシーもそんなことを言っていたな……」

『だからね、〈オートドクター〉のナノマシンにも〈深淵の娘〉たちを治療するためのプログラムが組み込まれていると思うんだ。彼女たちの治療が必要な場面があったと思うし』


「そう言うことか……」

 ハクのお尻に――正確には腹部に注射したあと、妙に甘えるハクをなだめて、それからマシロの怪我の確認をする。


 彼女は悪魔じみた生物を蹴り飛ばしていて、その衝撃で足を負傷していた。マシロの足の甲に消毒液をかけて、それからガーゼを押しあてながら包帯を巻いていく。彼女は基本的に浮遊して移動するので、無茶をしなければ活動に影響が出ることはないと考えていた。が、念のため彼女にも〈オートドクター〉を使用したほうがいいだろう。


 作業用ドロイドたちが運んできた物資の中に〈オートドクター〉も含まれているので、それをマシロに使用しよう。ハクとマシロの治療をしている間も、ちらりと隔壁に視線を向けていたが、変化が起きることはなかった。


「なぁ、カグヤ。あの悪魔を完全に閉じ込められたと思うか?」

 カグヤは唸って、それから言った。


『ペパーミントの言うことが正しければ、封鎖された〈空間拡張〉の内側から壁を破壊して脱出することはできない。だから生物がこちら側に出てくることはできない。実際、拡張された空間でレイが〈重力子弾〉を使用しても、あの空間を包み込んでいた壁を破壊することはできなかったし、それほど心配しなくても大丈夫だと思う』


「そうだといいんだけどな……」

『でも――』とカグヤは続けた。『あの空間に残されていた石柱は、他の世界とつながっていた。それが異界なのか、それとも〈混沌の領域〉なのかは分からないけれど、あの怪物が脱出する気になれば、拡張された空間そのものからは抜け出すことができるのかもしれない』


「つまり」と私は言う。

「奴がその気になれば、俺たちの世界に戻ってくることもできるのか?」


『数限りなく存在する異世界の中から、私たちの世界につながる〈神の門〉をピンポイントに見つけだす能力を持っているのなら、あるいは私たちの世界にやって来ることができるのかもしれない。でも、それはあまり現実的じゃない』


「そうだな……」

 何もする気力が湧かず、しばらく隔壁の前にじっと立っていると、反対の隔壁からミスズたちがやってくるのが見えた。彼女たちの歩き姿からは、一見して酷い怪我を負っているように見えなかったので、安心してホッと息をついた。


 戦闘に特化した〈アサルトロイド〉たちが一緒にいたとはいえ、ミスズたちも化け物の大群と戦闘していたので、正直、何か起こるんじゃないのかと気が気じゃなかった。


「お疲れさまです、レイラ」ミスズが琥珀色の瞳を私に向けながら言う。

「ああ、ミスズたちもお疲れ」私はそう言うと、思わず笑みを浮かべる。


 ミスズとナミは化け物の返り血でひどい姿だったが、怪我はしていなかった。それはペパーミントも同様で、三人ともしっかり立っていた。


「ハクたちもお疲れさまです」

 ミスズはそう言うと、すぐにハクに捕まってしまう。ハクにさっそく武勇伝を聞かされているミスズを見ていると、ペパーミントとナミがとなりにやってくる。


「それで」と、ペパーミントは隔壁を睨みながら言う。

「あの邪神を封じ込めることはできたの?」


「カグヤのネットワークを介して視覚を共有していたから、すでに知っていると思うけど、マシロのおかげで何とかなったよ」

 私はそう言うと、ハクの背にちょこんと座っていたマシロに目を向ける。


「異界の邪神が空間を越える手段を持っていなければいいのだけれど……」

「空間を越える? 〈空間転移〉みたいなことか?」


「ええ」ペパーミントは真顔で言う。

「苦労しながら撃退できたみたいだけど、最後まで邪神は無傷だった。あの生物はきっと、私たちが想像もできないような能力を持っていた」


『たしかにそうだね……』とカグヤがつぶやく。

『瞬時に身体の損傷を治していたみたいだし』


「それにしても」と、ナミが周囲を見渡しながら言う。

「壮絶な戦いだったみたいだな」


 凍って砕けた無数の死骸が至るところに転がっていて、地面は〈重力子弾〉よって深くえぐれていて、戦闘の激しさを物語っていた。


「俺たちはほとんど何もしていないけどな」

「蠅の化け物がうじゃうじゃいたと思うんだけど、あの邪神にやられたのか?」


「ああ、全部あの生物が放つ怪光線にやられたよ」

「私たちが苦労して倒していた化け物を、あっという間に殲滅したのか……」


「一応、化け物の生き残りがいないか〈アサルトロイド〉たちに確認してもらおう」


「そうだな」と、ナミはウンザリしながら鈍色の髪を振った。

「ほっとくと連中は手の付けられないくらいに増殖していくからな。すぐに見てくるよ」


「そう言えば……」と思い出しながらペパーミントにく。

「隔壁の封鎖が完全にできているかシステム確認をしてくれるか?」


「ええ、いいわよ」

 彼女はうなずくと、壁に設置されていたコンソールパネルを確認する。タッチパネルに指を這わせて何かを確かめたあと、彼女は口を開く。

「大丈夫みたい。システムは全項目異常なしで、〈空間拡張〉の封鎖は完全に機能している」


「そうか……」安心して息をついた。

「それなら、ついでに隔壁のシステムを、施設の管理システムから完全に切り離せないか試してくれるか?」


「〈ブレイン〉の対策ね」

「そうだ。奴らにこの場所の存在を知られたくない」


「分かった。少し待ってて」

 研究施設の管理システムから切り離すと、私とカグヤ、それにペパーミント以外の操作を受け付けないようにシステムに鍵をかけた。しかしそれでも安心できなかったので、状況が落ち着いたら、地下施設を警備するために〈アサルトロイド〉を配置することになる。


 隔壁に〈重力子弾〉を撃ち込んで、外側から拡張された空間を破壊したかったが、あれだけの広大な空間を維持するエネルギーの余波がもたらす破壊を思えば、安易に手を出すことはできなかった。


 結果的に、世界に対する脅威をまたひとつ抱えることになってしまったが仕方がない。行動には結果がつきまとうものだし、私の周囲では問題は絶えなかった。


 トラブルに首を突っ込んでいるほうが悪いとカグヤは言うだろうが、これも性分だ。今更、変えられないことを考えても仕方がない。とは言っても、さすがに今回の件で懲りた。これからは問題に巻き込まれないように努力しなければいけないだろう。


 なにはともあれ、これで旧文明の遺物が多く残る研究施設を完全に制圧することができた。もちろん〈ブレイン〉たちの問題も残されていたが、ひとまず施設を安全に利用できるようになった。地上で行われていた施設の隠蔽、及び隔離のための工事が終われば、施設は完全に我々のものになる。


 破壊されずに化け物との戦闘を生き延びた十数体の〈アサルトロイド〉たちに、化け物の生き残りがいないか確認する作業を任せると、我々は隔壁に開いていた横穴を通って陣地に移動する。


 隔壁の向こう側も化け物たちの死骸で溢れていて足場がないほどだった。身体の節々が痛む中で、化け物の砕けた甲羅や鉤爪で怪我をしないように歩くのは中々に大変な作業だった。


「数千の死骸はありそうだな」

 ウンザリしながら言う。


「そうですね」と、ハクの脚に抱えられていたミスズが言う。

「このあとの処理が凄く大変になると思います」


「それでも死骸は放置できないから、すぐに燃やしたほうがいいのかもしれない」

「作業用ドロイドたちにお願いして、死骸を集めてもらいましょう」


「そうだな、ところで……」

 周囲をぐるりと見まわしながら私は言う。

「ウミは無事なのか?」


「もちろん無事です。今は〈機動兵器〉の調整を行っています」

「あの巨大な兵器は壊れなかったのか?」


「はい、健在ですよ」ミスズは嬉しそうに言う。

「動かなくなった〈機動兵器〉に対して、化け物たちは関心をもっていませんでした」


「だから無事だったのか」

「はい」


 機械人形の指揮をするために、ミスズとナミがハクたちを連れて隔壁の向こうに戻っていくと、私はペパーミントと一緒にウミが待機していた場所まで歩いて行った。


「肩を貸してあげる」

 ペパーミントはそう言うと、私の腰に腕をまわした。


「助かるよ」と素直に感謝した。

「ずいぶんと派手にやられたみたいね」


「そうでもないんだ」と頭を横に振る。

「能力を上手く制御することができなかった。それだけのことだよ」


「レイの肉体に宿る力か……それは不思議ね」

「そうだな」


 ウミの〈機動兵器〉は、武装こそしていなかったが、ほぼ完全な状態で残っていた。

「ウミが無事だったことが一番だけど」ペパーミントが言う。

「生体脚に使用されている人工筋肉が無傷で本当によかった」


「生体パーツはそんなに貴重なモノなのか?」

「それ自体は、人体改造で使用されるインプラント技術でも見ることができるけど、あの人工筋肉は特別なの」


「人工筋肉なら〈ウェンディゴ〉でも使用されているけど、何がそんなに特別なんだ?」

「性能もそうだけど、特別な工場がなければ絶対に製造できないものなの。だからとても貴重」


 人工筋肉に使用される素材を思い浮かべて納得した。

〈ご無事で何よりです。レイラさま〉

 ウミからテキストメッセージが届くと、私は顔を上げる。


 白菫色の機体を操るウミが〈機動兵器〉のコクピットから降りてくる。

「ウミも無事で良かったよ」


 それから、ずっと気になっていたことをウミに訊ねることにした。

「なぁ、ウミ?」


〈なんでしょうか?〉

 機械人形の頭部ディスプレイに微笑む女性が表示される。


「俺とウミは、ずっと昔から一緒に行動していたのか?」

〈はい。私がレイラさまの拠点をずっと管理してきました〉


「いや、そうじゃないんだ。ずっと昔だよ。俺が記憶を失う前のことだ」

〈いえ。残念ながら、私にも拠点での活動以前の記憶はありません〉

「そうか……」


「何かあったの?」

 ペパーミントにも隔壁の向こうで見た白日夢について話をすることにした。


「ねえ、レイ」と彼女は言う。

「マーシーが〈母なる貝〉で話していたことを覚えてる?」


「いや」と私は頭を振る。

「何のことだ?」


「ウミの種族について話をしたじゃない。えっと……確かこう言っていたわ。永遠に生きられるけど、記憶の整理を行う必要があるって」


「ウミが過去の記憶を消していると、そう考えているのか?」

「ええ」ペパーミントはうなずく。「レイの過去を知る手掛かりになりそうだから、一度、ウミが見つかった軍艦を本格的に調査したほうがいいのかもしれない」


「海岸か……また半魚人たちと揉めそうだな」

「仕方ないわ」彼女はそう言うと肩をすくめた。

 早速、問題に首を突っ込まないという私の決意が揺らごうとしていた。

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