第322話 悪魔 re


 二足歩行する獣、あるいは西洋の恐ろしい悪魔にも見える生物は、私の横を通り過ぎて氷の柱のそばまで歩いて行く。私がその場にいることに対して、少しも関心を持っていないように見えた。


 その生物は眼を持たなかったが、崩れた石柱が残した瓦礫がれきの間を危なげなく歩いて、氷の柱に接近する。


 悪魔にも似た生物がはりつけにされていた九人の女性たちの姿が見渡せる場所に立つと、彼女たちは一斉に顔を上げて、声の限りに叫んだ。


 その叫び声に顔をしかめていると、女性たちの目や耳、鼻や口から赤黒い血液が溢れ出すのが見えた。それは重力に逆らいながら空中に浮かび上がり、真っ赤な糸のようになって瞳を持たない生物に向かって伸びていく。


 ありったけの血液が流れ出た下半身のない女性たちは、瞬く間に干からびていき、綺麗な肌も豊満な乳房もミイラのように変化し、そして塵となって崩れ去っていった。それは彼女たちを磔にしていた氷の柱も同様で、彼女たちがいなくなると、途端に鈍い音を立てて崩れていった。


 九人の女性から流れ出た血液はやがて、螺旋状の角を持つ生物の目の前に集まり、まるで糸を編み込んでいくように混ぜ合わさり、そして水晶のように透き通る美しいルビー色の物質に変化していった。


 悪魔の化身にも見える生物が空中に浮かぶ水晶のような美しい物体にそっと触れると、水晶に波紋が広がり振動しながら白熱し、そして熱を帯びたまま生物の手のひらに染み込んでいくのが見えた。


 血液で形作られたぞっとするほど美しい水晶が跡形もなく消えると、生物は瞳のない頭部を己の手のひらに向けて、じっと何かを考えこむように見つめた。手に入れたものについて考えているのか、あるいは失われてしまったものについて考えているのかは分からなかったが、少なくともそれは私には関係のないことだった。


 これら一連の出来事が行われている間、私はただ立って、事の成り行きを見守ることしかできなかった。そもそも何が起きているのかまったく理解していなかったし、〈重力子弾〉が通用しない生物の存在に思考停止していたからなのかもしれない。


 いずれにせよ磔の女性たちは消え、見知らぬ平原には、私とその悪魔に似た生物だけが残されることになった。


『レイ』カグヤが言う。

『今のうちに逃げよう』


 草原の向こう、拡張された空間に視線を向けると、凍り付いていたガイドレールから白い蒸気が噴き出し、巨大な隔壁がゆっくり動き始めているのが見えた。


「あの生物が俺たちを逃がしてくれると思うか?」と小声で質問する。

『それは分からないけど……今はじっとしていて動かないし、レイにも興味はもっていないように見える』


 理由は分からなかったが、カグヤの言うように、その生物は女性たちの血液を体内に吸収してから動きを見せることがなかった。


 足音を立てないように後退っていると突然、耳障りな甲高い叫びと共に微かな重低音が聞こえてくる。視線を上方に向けると、曖昧とした空間の中、先ほどまで澄み切っていた青空に黒々とした雲が出現していることに気がついた。


 その巨体な雲に視線を合わせて視界を拡大すると、黒い雲が蠅に似た化け物の大群で、重低音の正体が化け物の羽音だということが分かった。化け物の数は数百を超えているようだった。さらに悪いことに、その黒々とした塊の向こうから、もっと規模の大きな黒い塊が接近してくるのが確認できた。


『あの肉塊が〈ヤトの刀〉に突き刺されたときの叫び声は断末魔じゃなくて、仲間を呼ぶ声だったのかもしれないね……』

 カグヤの言葉にうなずいたあと、化け物の大群を茫然と見つめる。


 どこからか冷たい風が吹いてくると〈ハガネ〉の鎧を装着しているのにもかかわらず、血が凍るような寒気がした。無意識に崩れた氷の柱に視線を向けると、そのそばに立っていた生物から真っ白な氷霧が立ち昇っているのが見えた。


 悪魔に似た生物の周囲が徐々に凍り付いていくと、何かを察したおぞましい化け物の大群がこちらに向かって急降下を始める。すると奇妙な生物の周囲に立ち込めていた氷霧が、瞳を持たない悪魔の頭部の中心に収束していき、宝石のように青白く輝く小さな球体に変化していくのが確認できた。


『氷の瞳?』カグヤがポツリと言う。


「いや」と私は頭を振る。

「ただの瞳じゃない……」


 悪魔に似た生物が頭部を動かすと、その球体も頭部に追従し、そして急降下してくる醜い化け物の大群に向けられる。


 すると輝く球体から甲高い音が聞こえ、化け物たちに向かって細長い光線が撃ち出されるのが見えた。耳が痛くなるようなキーンとした音は周囲に響き渡り、そして光線に触れた化け物や、その周囲にいた化け物は瞬く間に凍り付き、そして大きな氷の塊となって地面に落下してくるのが見えた。


 まるでひょうのように次々と落下してくる化け物たちに押し潰されないように、私は周囲に注意しながら後退する。しかし数百を超える化け物の群れから飛び出した数十体の化け物が、黒い波になって急降下してくる。


 右手に握っていた刀を刺青に戻すと、それらの化け物に向かってハンドガンの銃口を向ける。そして急降下してくる群れに対して、威力を調整した〈反重力弾〉を撃ち込み、広範囲に広がる重力場の歪みで化け物たちを圧殺していった。正直、ハンドガンの残弾を気にしている余裕なんてなかった。


 化け物たちに向かって〈反重力弾〉を次々と撃ち込みながら、草原の端までなんとか後退することができた。相変わらず悪魔に似た生物は空に向かって細長い光線を放っていて、恐ろしい数の化け物たちを凍り付かせて瞬く間に殺していた。数百の化け物から標的にされていたが、悪魔じみた生物の動きからは余裕すら感じられた。


 空に向かって光線を放ち続けている生物に向かって、蠅の化け物が低空を凄まじい速度で飛行しながら近づいていき、そして生物の周囲に展開されていた膜に衝突してぐちゃぐちゃに破裂していくのが見えた。


 どうやら悪魔に似た生物は、己の周囲にシールドに似た何かを展開していて、化け物を一切近づけないようにしていた。それは石柱を覆っていた膜と同様のモノにも見えた。とすれば、あの生物には〈重力子弾〉が通用しないのかもしれない。


『化け物たちが殺し合っている間に、さっさとこの場所を離れよう』

 カグヤの言葉にうなずいて歩き出そうとしたときだった。

「カグヤ、あれは何だ?」困惑しながら空を見上げる。


 数十匹の化け物が、脈動する巨大な肉塊を我々の上空に運んでくるのが見えた。化け物たちは黒光りする半透明な翅を小刻みに振動させながら、肉塊を器用に運んでくると、ぶよぶよした巨大な肉塊を悪魔めいた生物のすぐそばに落とした。


 それは草原に衝突すると水風船が割れるように破裂し、周囲に数え切れないほどの腐肉の塊と、青紫色の体液を周囲に撒き散らした。周辺一帯に溢れた腐肉と体液の影響はすぐにあらわれる。


 つい先ほどまで青々としていた草原は、腐肉に絡みつく脈動する気色悪い管と、どろりとした粘液をまとう触手に覆われ、それらの肉塊からは次々と蠅に似た化け物が吐き出されていく。粘度の高い体液に濡れた地面は腐り、植物は瞬く間に枯れていった。


『あっという間に地獄をつくり出した……』

 カグヤは茫然とした声にうなずく。

「マズいことになったな」


 そうつぶやいたあと、無数の触手を生やしていた肉塊に向って〈重力子弾〉を撃ち込んだ。ソレは空間に光跡こうせきを残しながら、周囲にある腐肉を消滅させ、大きな肉塊を貫通して地平線に消えていった。


 猛烈な勢いで蒸気を吹き出し、崩壊していく肉塊を眺めていると、カグヤの声が聞こえる。


『レイ、急がないと隔壁が閉じちゃうよ』

 背後に視線を向けると、両側からゆっくり閉まっていく厚い隔壁が見えた。


 地面スレスレを飛行しながら凄まじい速度で飛んでくる化け物の群れに向かって〈重力子弾〉を撃ち込んだあと、隔壁に向かって走り出した。


 と、そこへ忌々しい触手が伸びてくる。しかし触手が私を捕えることはなかった。ソレが私に触れる寸前、触手はハクの吐き出した糸によって地面に縫い付けられる。


「ハク!」

 安堵して声を上げると、ハクの幼い声が聞こえる。


『レイ、つかまえた』

 ハクは驚異的な俊敏さで跳んでくると、その勢いのままに私を脚の間に抱え、隔壁の向こうに向かって糸を吐き出し、その糸につかまり、振り子の要領で勢いをつけて一気に飛んだ。


 我々は石柱が発生させていた不可思議な空間を出て、もう少しで隔壁の向こうにたどり着くところまで来ていた。しかしそこで問題が起きる。


 それまで化け物の相手をしていた悪魔に似た生物は、急に我々に矛先を向け、すべてを凍りつかせる怪光線を放ってきた。推測することしかできないが、あの生物の癇に障ったのは〈深淵の娘〉であるハクだったのかもしれない。


 ハクは光線の接近に気がつくと、咄嗟に近くを飛んでいた蠅に似た化け物に向かって糸を吐き出し、化け物を捕まえた。そしてその糸を引き寄せて、飛んでくる光線に向かって化け物を投げ飛ばした。


 ハクの糸が絡まった化け物は光線に触れると、瞬く間に氷漬けにされてしまう。その間にハクは音もなく地面に着地すると、我々に攻撃を仕掛けてきた生物を睨んだ。ハクの八つの大きな眼は真っ赤に発光していて、あの生物に対して強い怒りを感じていることが分かった。


 ハクに抱えられていた私は、ハクのフサフサの毛に覆われた脚を軽く叩く。

「ハク、あいつには関わっちゃダメだ。すぐに脱出しよう」


 ハクはじっと何かを考えて悪魔に似た生物を睨んだあと、返事をしてくれた。

『ん。あいて、しない』


 ハクがそう言って飛ぼうとしたときだった。悪魔に似た生物から凄まじい冷気が放出されて、広範囲にわたって周囲のものすべてが一瞬にして凍りついてしまう。そして続けざまに衝撃波が放たれて、氷漬けになった化け物や太い触手を振り上げたまま凍り付いていた肉塊が次々と砕け散っていった。


 周囲に鬱陶しい化け物たちがいなくなると、悪魔に似た生物は眼もないのに、真直ぐ我々に向かって歩いてきた。けれど驚くようなことでもない、あの生物は眼がないにも関わらず、先ほどから大量の化け物を殺していたのだから。


 余裕を見せる悪魔に似た生物とは対照的に、蠅に似た化け物は怒っているように互いにさえずり、そして生物を襲うことを止めようとしなかった。悪魔に似た生物が、石柱が発生させていた膜を越えてこちら側にやってくると、化け物の大群も一斉に急降下してこちらに向かってきた。


 けれど生物の関心はすでに蠅の化け物なく、それらを無視して歩いていた。哀れな化け物たちはそれでも執拗に生物を攻撃し、そして生物が己の周囲に展開した膜に衝突して次々と死んでいった。


『化け物たちの様子がおかしい』カグヤは疑問を口にする。

「そうか? それまで養分にしていた生物に逃げられて、癇癪を起しているようにしか見えないけど……」


『養分?』

「連中が肉の塊を使って寄生していた石柱から、あの悪魔じみた生物が出てきた」


『悪魔に逃げられたから化け物たちが怒っている、そう思ってるの?』

「違うのか?」


『そう言われれば、たしかにそう見えてくるけど……本当にそんな単純な理由なのかな?』

「わからない。けどこれ以上関わるのは止そう。それが本当の理由なら、生物を解放した俺たちにも怒っているはずだからな」


 接近してくる蠅に似た化け物に〈反重力弾〉を撃ち込み、効果の発動を知らせる甲高い音を聞きながらハクと共に隔壁の向こうに行く。


「ペパーミント」振り返りながら言う。

「隔壁を閉じる速度を上げることはできないのか?」


『できるけど、レイたちは今どこにいるの?』

「拡張された空間の外に出た」


『分かった。それなら危ないから絶対に隔壁に近づかないでね』

 ペパーミントの言葉のあと、それまでゆっくりと動いていた巨大な壁が音を立てて動き、そして化け物の大群と共に異常な生物を向こう側に残しながら閉じていくのが見えた。


 しかし隔壁が閉じる寸前に、まばゆい光が隔壁の隙間から漏れ、隔壁は完全に閉じることなく、五十センチほどの隙間を残して凍りついてしまう。


『レイ?』とペパーミントが言う。

『エラーが出ていけど、何か問題が起きたの?』


「隔壁が凍りついた」

『そんなことが――』


「すまない、ペパーミント。あとでまた連絡する」

 ペパーミントの声が聞こえなくなると、厚い氷を挟んで向こう側に立っている生物に視線を向けた。悪魔に似たその生物は、凍った隔壁を確かめるように頭部を動かした。そのさい、重たそうな角がゆらゆらと動くのが見えた。そしてまばたきの次の瞬間、生物はこちら側に立っていた。

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