第321話 異形 re
〈貫通弾〉の直撃を受けて千切れた触手からは、粘度のある体液が勢いよく噴き出す。そして痛みを感じているかのように、のた打ちながら黄土色の体液を撒き散らしていく。足首に巻き付いていた触手を引き剥がしたあと、女性の腰ほどの太さのある触手に視線を向ける。
まるで苦痛に悶えるように、触手は何度も氷漬けになった床に叩きつけられていたが、やがて切断面から自己修復を始めていった。
「再生するのなら……」
ハンドガンをホルスターに戻したあと、刀を両手で軽く握る。太い触手が私を目掛けて振り下ろされるのが見えると、精神を研ぎ澄まして触手の動きを見極めようと努めた。
気がつくと視界の隅が徐々に薄暗くなり、視界が
粘液をまとった漆黒の触手はゆっくりと動き、こちらに向かって近づいてくる。実際には凄まじい速度で振り下ろされていたからなのか、触手を追うように、楕円形の水蒸気が広がるのがハッキリと確認できた。
それは部分的に圧縮された空気が凝縮、あるいは急減圧されることにより温度が急激に下がり、空気中の水蒸気が結露して出来るものだったが、そんなものを発生させる攻撃を受けるわけにはいかなかった。
時間が止まったかのような世界で触手の一撃を危なげなく
世界が本来の速度を取り戻していくのを感じながら、その蚯蚓腫れにも似た膨らみが通過していった箇所が腐っていくのを見届ける。
『レイ!』
カグヤの声にハッとして横に飛び退くと、肉塊から伸びてきたもう一本の触手が地面を激しく打つが見えた。
「まだあるのか!」
苛立ちながら声を上げると、先ほど〈ヤトの刀〉を使って切断した触手に目を向ける。ヤトの毒を受けた触手は切断面から急速に乾燥していき、塵になって崩れ落ちていく。このまま根元まで毒が回れば、忌々しい肉塊もまとめて処理できると考えた。
しかし予想は簡単に裏切られた。触手は正常だった箇所も含めて、自己崩壊を起こすことを選択し、それ以上の毒の侵入を断った。けれどそれでもヤトの毒が残した効果は絶大だった。崩壊した触手は二度と再生されることがなかった。
振り下ろされたもう一本の触手を斬り落とした時だった。死角から飛びかかってきた化け物に組みつかれてしまう。油断と思い上がりが招いた結果なのだろう。
化け物に圧し掛かられると、耳元で錆びたノコギリを
ぼんやりとした意識のなか、鋭い針毛を持つヤマアラシをイメージして、どうにかして〈ハガネ〉の操作を試みた。〈ハガネ〉はすぐに反応し、強化外骨格の装甲から鋭くて太い金属製の
私は力を振りしぼって腕を持ち上げると、刀で化け物の腹を斬り裂いた。パックリと裂かれた腹からは、体液と共にグロテスクな内臓がドボドボと溢れ出る。
気色悪い体液にまみれながら、息絶えた化け物の下からやっとのことで
顔を上げると、すぐそばに石柱があることに気がついた。巨石遺跡であるストーンヘンジを思わせる巨大な石柱は、一見して何の変哲もない灰色の石の組み合わせに見えたが、じっと目を凝らすと、石の表面が微かに脈動し、青紫色に発光しているのが分かった。
太腿のホルスターからハンドガンを抜くと、その石柱に絡みつく腐肉のような肉の塊に照準を合わせる。
光の輪を通って撃ち出された〈重力子弾〉は、しかし石柱を覆う奇妙な薄膜に
「これでもダメか……」
そうつぶやいたあと、石柱に向かって駆け出す。
「それなら、直接〈ヤトの刀〉で切り裂いてやる」
隔壁の向こうに足を踏み入れた瞬間、薄い膜を突き抜けるような感覚がして、気がつくと緑が生い茂る草原の真只中に立っていた。
状況の変化に気がつくと、全身から冷たい汗が噴き出すのを感じる。自然環境の急激な変化は〈神の門〉が発生させる空間の
焦りと不安で目が回り吐き気を催した。ひとりで異界に迷い込んだら、二度と返れなくなる。
『レイ?』
カグヤの声が聞こえた瞬間、溜め込んでいた息を一気に吐き出した。
「接続は切れていないみたいだな……」
『うん。安心して、この場所は異界でも〈混沌の領域〉でもない』
「ならここは――」
『周りを見て』
カグヤに言われて周囲に視線を向けると、草原の向こうに拡張された空間特有の何処までも続いていそうな真っ白な空間が見えた。凍り付いた床には化け物の死骸や切断された触手が転がっていた。
視線を上方に向けると、澄み切った青い空が見えた。そして柔らかな風が草原を揺らす音も聞こえた。
「拡張されていた空間内につくられた別の空間?」
『そうみたいだね。まるでこの空間だけが、何処からか転移してきたような、そんな不思議な感じがする。でも確かにこの場所は研究施設の地下だよ』
「空間ごと転移してきた……?」
『レイ』と、ペパーミントの声が聞こえる。
『一時的に、レイとの通信が切断されたみたいだけど、そっちに異常はない?』
「少し問題が起きた」
『少し?』
「ああ、いつものやつだ」
『それなら、とても大変な事態ってことね。すぐにハクをそっちに向かわせる。だからそれまで危険な真似はしないでね』
ペパーミントとの通信が切れると、カグヤの声が聞こえる。
『レイ、あれを見て』
視線の先には、オベリスクにも似た二十メートルを優に超える石柱が立っていて、その周囲に氷の柱が並んでいるのが見えた。
石柱が持つ特徴は、先ほどまで見ていたモノと同じだった。まとわりつく肉塊の形まで同じだった。しかし周囲にある氷の柱は、その何もかもが不自然で異常だった。
警戒しながら氷の柱のひとつに近づいていく。氷河を削って形作ったようにも見える柱は、高さが六メートルほどあり、その中央には美しい女性が氷漬けにされていた。女性が生きているとは思えなかったが、死んでいる確証もなかった。
女性は一見して人間にも見えたが、身長が三メートルほどありそうだった。正確な身長が分からないのは、裸の状態で氷漬けにされていた女性の下半身が、まるで何かに乱暴に引き千切られたように存在していなかったからだ。
そして大きく広げた女性の腕の先に鉄の杭と、粘液に濡れた触手が巻き付いていて、それらの触手は石柱に絡みつく肉塊とつながっていた。眠るように
氷の柱は石柱を囲むように全部で九つあって、そのすべてに下半身のない女性が磔にされているのが確認できた。
その美しい女性を見上げながら言った。
「磔にされた九人の女性か……カグヤ、これには何か意味があると思うか?」
『わからない……何かの
「そうだな……」
これほど異常な状態であるのにも
「とにかく、あの気色悪い肉塊に対処しよう。あれにはうんざりしている」
気を取り直すと、石柱に向かって歩き出した。
『ねえ、レイ。気がついた?』
カグヤが小声で言う。まるで眠っている誰かを起こしたくないような、そんな声だった。
「いや、何かあるのか?」
『あれだけ鬱陶しかった蠅の化け物が何処にもいない』
「そう言えば……そうだな」
周囲を見回すと、青々と生い茂る草原に横たわる化け物の死骸が確認できたが、それらには苔やキノコが生えていて、死骸が自然の一部になって相当な時間が経過したことが推測できた。
石柱の前に立つと、警戒して周囲に視線を走らせる。
「こういうときは、決まって別の問題が起きるんだけど……」
『妙に静かだね』
カグヤがそう言った時だった。肉塊から太鼓を叩くような奇妙な音が聞こえ始める。
「問題が起きる前に、さっさと終わらせよう」
脈動する肉塊のそばまで行くと、刀を肉塊に近づける。すると甲高い叫び声のような音が肉塊から発せられる。
『ヤトに怯えているみたいだね』
「こんな醜い姿をしていても、恐れるものが存在するのか……」
肉塊に刀を突き入れると、耳が痛くなるような空気を
石柱から肉塊がなくなったことを確認すると、氷漬けにされた状態で磔にされていた女性のそばに向かった。彼女たちにも毒の影響があったのか確認するためだった。幸いなことに毒は肉塊にのみ影響し、彼女たちの体内には流れていないようだった。もっとも、私には彼女たちが生きているのかさえ分からなかった。
もう一度周囲の安全を確認しながら質問する。
「カグヤ、終わったと思うか?」
『ずいぶんとあっさりした終わりかただったけど、終わったみたいだね』
『いいえ。まだ終わっていません』
どこからか女性の声が聞こえると、磔にされていた女性たちが一斉に顔を上げるのが見えた。彼女たちの眼球には白い部分がなく、目は真っ黒だった。
『――が解放されます』
女性は唇を動かして言葉を発していたが、私にはまったく理解できない言語だった。それにも拘わらず、頭の中では女性の言葉がハッキリとした意味を持って理解できた。
「何が解放されるんだ?」と女性に訊ねる。
「そもそもここは何処なんだ? どうして貴方たちは磔にされている?」
「カグヤ、今の聞こえたか?」
困惑しながら訊ねた。
『うん。私にも聞こえたし理解できた』
「何が解放されたんだと思う?」
『分からないけど……この異様な儀式は、その何かを封じ込めるためのものだったのかも……』
背後で小さな音がして振り向くと、石柱に亀裂が走り、柱の先端から崩れていくのが見えた。その崩壊に巻き込まれないように後退り、そして言い知れぬ恐怖に足を止める。
『どうしたの、レイ?』
カグヤに返事をしようとするが、言葉が上手く発せない。
恐怖に混乱、それに悲しみが込み上げてくる。理由は分からなかった。けれどそれらが私の感情を揺さぶっていたことは理解できた。石柱が崩壊したことで立ち昇っていた砂塵が風に運ばれ視界がハッキリすると、
その生物は二メートルほどの身長を持っていて、全身は黒くて短い体毛に覆われていたが、身体の基本構造は人間のソレとほとんど同じだった。二足歩行が可能な脚を持ち、左右対称の身体で腕も二本だった。
しかし
それが実在するかは置いておいて、翼があれば、あるいはそれが〈バフォメット〉と呼ばれる悪魔なのだと考えていたのかもしれない、しかしそれには翼がなく、鞭のような長い尾があるだけだった。
『レイ』カグヤが不安そうに言う。
「分かってる」
どうにか返事をすると、化け物に向かってハンドガンを構えた。見ているだけでも気が狂いそうになる生物が、敵対的な存在なのかはまだ分からなかったが、覚悟を決めるのは早いほうがいい。
その〝何か〟に向かって〈重力子弾〉を撃ち込んだ。光弾は閃光を残して真直ぐ飛んでいって、そしてその〝何か〟が顔を向けた瞬間、まるで手品のように光弾は空中に静止した。ソレは綺麗な球体になって空中に浮かんでいて、細かく振動しているように見えた。
その〝何か〟は、小さな光弾のそばまで歩いて行くと、ふっと息を吹きかけた。すると光弾は霧散するように消えていった。
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