第319話 白日夢〈ウミ〉re


 闇が粘度の高い液体に変化して、目や耳の中に忍び込んでくるようだった。


 足元に転がる醜い化け物の死骸はいつの間にか消えていたが、それでもまだ暗い横穴の中を歩いていた。不安になりながらも、出口を目指して薄暗い横穴の中を歩いていると、道に迷った子どものような気分になった。けれどその暗い横穴は、私をどこにも連れて行ってはくれない。


 隔壁が異常な厚さで造られていたのは知っていたが、化け物たちの体液で融解した横穴はこんなにも長いとは思えなかった。しかし横穴に入って歩き始めると、途端に視線の先に見えていた出口は消え、今では濃密な闇だけがそこに広がっていた。


 歩いていると身体の節々が痺れ、頭はズキズキと痛んだ。恐ろしく冷たい風が何処からか吹いて頬に突き刺さる。


 そうして果てのない暗闇を歩いていると、自分が何者で、何のために歩いているのかも分からなくなってくる。ふと〝誰か〟が私の目の前を歩いているような気がしてくる。暗闇はいつだって我々の恐怖を掻き立て、そして本来は見えないものを、あるいは見えてはいけないものを見せてくる。


 まるで自分自身の姿を俯瞰して見ているような、そんな不思議な感覚に囚われる。暗闇の中を歩く〝誰か〟の姿を追っていると、足を動かすことすら面倒になって、その場に立ち止まりたくなる。このまま座って、気分が晴れるのを待ってもいいのかもしれない。別に何かをする予定もないのだから。


 まるで悪夢を見ているようだ。誰かが必死に足掻いているのをずっと見ているような、そんな夢だ。目が覚めると汗でぐっしょりとシーツを濡らしている。


 その〝誰か〟は、散らばった自分自身の人生の欠片を必死にかき集めているようにも見えた。彼は自分自身の存在さえ不確かに思える闇の中で、腕を精一杯前に伸ばして、手探りで闇の中を歩いている。


 これまでも、そしてこれからもその〝誰か〟は欠片を集め続けるのだろう。それはたいした〝人生〟ではないのかもしれない。けれど、確かにそれは彼が失った〝人生〟の欠片だった。


 深い闇の中で足を止めようとしたときだった。聞き慣れた〝声〟に名を呼ばれたような気がして振り向くと、薄闇の中にぼんやりとした光があるのを見つけた。


 それがいつからそこに存在しているのかは分からなかったが、出口につながっているのかもしれない。得体の知れない倦怠感や疲労感を抱えながら、それでも足を引きるようにして前に進んだ。


 けれど自分が前に進んでいるのか、それともその場に立ち止まっているのかもハッキリと分からなかった。視界はぐるぐると回り、酷い吐き気がした。その場にうずくまって休みたかった。


「レイラさま」女性の声が聞こえる。

「目が覚めましたか?」


 顔を上げると、群青色の瞳を持った美しい女性が目の前に立っているのが見えた。女性は黒を基調とした半透明な素材で造られたスキンスーツを身につけていて、その上に全身を保護する白菫色の強化外骨格の装甲を装着していた。


 その装備には見覚えがあった。たしかあれは、砂漠地帯で戦闘になった旧文明の特殊部隊の成れの果てが装備していたモノだった。


 どうしてそんな装備をした女性が私の目の前に立っているのか、私には少しも分からなかったが、そんなことよりも理解できなかったことがある。どうしてその女性は〝ウミ〟と同じ声で話をしているのだろうか。


 頬に当たる冷たい風に顔をしかめると、暗い空に視線を向ける。すると淡藤色に輝くふたつの恒星が目に入る。


「ここはどこなんだ? いや、それよりどうしてあんたは〝ウミ〟のように振舞っているんだ?」


 彼女は眉を八の字にすると、少し悲しそうな笑みを見せる。

「それは何の冗談ですか?」


「冗談?」

「〝ウミ〟のようにと言いましたが、私がそのウミなのです。ですから私が私のように振舞うのは、至極自然なことかと」


「俺が知っている〝ウミ〟は、そんな姿をしていない」


「これが私の姿ですよ。それに、レイラさまはこの顔が好きだって言ってくれたじゃないですか。もしかして、まだ寝惚けているのですか?」


「寝惚ける? 冗談を言っているんだよな?」

 女性は荒涼とした大地に目を向けると、吹き荒ぶ風に顔をしかめた。彼女の視線の先には、氷河に半ば埋まる巨大な塔が建っている。


「連中の影響ですね……レイラさまの精神は汚染されたのでしょう」

 彼女の言葉に眉を寄せる。


「待ってくれ、わけが分からない。あんたは何者なんだ。どうしてウミのフリをするんだ?」そう言ったあと、足元に広がる氷河に視線を向ける。「そもそもここはどこなんだ? どうして俺はこんな場所にいる?」


「事態は思ったよりも深刻ですね……でも安心してください、私がそばについています。これ以上、レイラさまに手出しはさせません」


 彼女はそう言うと、私の頬にそっと触れる。彼女の手の温かさに反応して、理由は分からなかったがカグヤのことを思い出して、ぽつりとその名前を口にする。


「カグヤさまですか?」女性が首をかしげる。

「カグヤさまなら今は静養中で――」


 彼女はそこまで言うと笑みを見せて、そしてホッと息をつく。

「カグヤさまにずっと会えていないから、寂しかったんですね。でもだからと言って私を揶揄からかうような真似はしないでください。本気で心配しました」


「揶揄う? どうして俺がそんなことをするんだ」


「わかりました」女性は呆れるように頭を振った。「それならテストをしましょう。レイラさまの大切な子の名前を教えてください。それが答えられなければ、レイラさまは確かに精神汚染の影響で変になっている」


「大切な子?」

 今度は私が首をかしげる番だった。正直、わけが分からなすぎて混乱している。


「そうです。マシュマロのように柔らかくて、小さな――」女性はそこまで言うと、急に目の色を変える。文字通り、瞳を赤く染めた。「貴方は誰なの? どうしてレイラさまの姿をしているのですか?」


「姿?」

「レイラさまが〝あの子〟のことでふざけるわけがない。それに貴方は本当に彼女のことを知らないように見える」


「ふざけるも何も、俺はあんたが何を言っているのか分からない」

「いえ、もしかしたら……」と彼女はつぶやく。


「もしかしたらなんだ?」不安になりながらたずねた。

 女性は私にじっと瞳を向けて、それから言った。


「いえ、貴方は確かに私のレイラさまだ。それならこれは連中の仕業で間違いない……」女性が怒りに顔を歪めると、彼女の下半身が粘液状の物質に変化していく。


「待て、何もかも変だ」後退るようにして女性そばを離れる。

「どうなっているんだ。どうしてカグヤの声が聞こえないんだ」


「落ち着いてください、レイラさま」

「止せ。俺をそんな風に呼ぶな」


 彼女は私を睨んだあと、強引に私の腕を取った。

「いいですか、レイラさま。これが奴らのやり方なんです。でもそれは〈塵の子〉であるレイラさまを恐れている証拠でもあります。だから気をしっかりと持ってください」


「違う。俺は〈塵の子〉なんてものは知らない」

「いいえ、貴方は知っています」


 彼女はそう言うと、寂しそうな目で私を見た。

「止めろ、俺をそんな風に見るな」


 女性の手を振り払うと、飛び退くように後退る。

「レイラさま!」女性が慌てる。


 地面から突き出した氷の陰に隠れていた大地の割れ目に足を取られ、氷河の裂け目に落下していった。淡い青色に輝く氷に叩きつけられる瞬間、私は瞼を強く閉じた。



『レイ、危ない!』

 カグヤの声が内耳に聞こえると、ゆっくりと瞼を開いた。すると目の前に氷漬けになった蠅の化け物が立っているのが見えた。


 ぐるりと周囲を見回すと、化け物を閉じ込めた氷の柱が数え切れないほど立ち並び、多くの化け物が氷漬けにされているのが確認できた。


 どうやら無事に隔壁の向こう側に出られたようだった。

「カグヤ。俺はどのくらい、こうしてここに立っていたんだ?」


『どのくらい? 柱にぶつかりそうになったから立ち止まっただけでしょ?』

「そうか……」


『何かあったの?』

「また白日夢を見ていたようだ」


 氷の柱に注意しながら先に進んだ。今はまだハッキリと見えなかったが、どうやら〝死骸〟が保管されている空間は、氷の柱の向こうにあるようだった。


『ねぇ、レイ』とカグヤが言う。

『何を見たのか教えてくれる?』


「悪夢だよ」と私は言う。

「いつもの悪夢だ」


『宇宙船の?』

「いや」頭を横に振ると、氷漬けになっている化け物の複眼に目を合わせる。「今回は何処か見知らぬ氷の惑星にいて、自分のことをウミだと信じ込んでいる女性と一緒だった」


『ウミ?』

「わけのわからない悪夢だよ」


『きっと疲れているからだよ』とカグヤが言う。

『それとも、あれの影響かもしれない』


 視線を上げると、薄靄が立ちこめるぼんやりとした空間の奥に、蜃気楼のように不確かな存在として目に映る物体が見えた。真っ白な広大な空間に、石を複雑に組み合わせた柱が立っている。その石柱には脈動するぶよぶよとした肉塊が絡みついている。


「カグヤ、あれは何だ?」ハンドガンの銃口を肉塊に向けながら言う。

『……あれが例の〝死骸〟なんだと思う』


「あの気色悪い肉塊が?」

『ううん、あれは研究施設で見たのと同じで、寄生しているだけにも見える。邪神はたぶん、あの石柱』


「でもあれは……」

『たしかにあれは生物には見えない。でもだからと言って異界の神に私たちの概念が通用するとも思えない』


「それなら、あれが俺たちの探していた〝死骸〟で間違いないのか?」

『うん、そうだと思う』


 カグヤの言うように、冷たい薄靄が立ちこめる空間の向こうには不気味な石柱があるだけで、他に怪しいものは存在しなかった。


「カグヤ、ペパーミントと連絡を取ってくれ」

 どこからかくぐもった奇妙な音が聞こえて、思わず耳を澄ませたが、すぐに音は聞こえなくなった。


『どうしたの、レイ?』ペパーミントの声が聞こえた。

「死骸を見つけた。確認してくれるか?」

 マスクの視覚設定を変更して、ペパーミントと映像を共有する。


「見えたか?」

『ええ、でも想像と違った』


「同感だ。それより――」と薄靄が立ち込める空間の境界線まで向かう。

「これから隔壁を封鎖する。システムの操作を任せてもいいか?」


『もちろん』

 隔壁の扉を境にして、薄い靄の向こうに展開されていた空間を見ながら歩く。向こう側は、〈空間拡張〉によって形成される異空間なのかもしれない。しばらく歩くと、隔壁を操作するコンソールを見つけた。


『それよ、レイ』

 ペパーミントの言葉にうなずくと、手のひらを覆っていたハガネを移動させて、素手で直接コンソールに触れる。


『接続できた。隔壁を操作するから、少しだけ時間を頂戴』

「了解」


 色々なことがあり過ぎた所為せいなのか、注意散漫になっていたのだろう。そこでようやく自分が立っている場所が氷点下になっていることに気がついた。そして数百体を越える化け物が氷漬けになっているわけが分かったような気がした。


 石柱が観察できる位置まで移動しながらカグヤに訊ねる。

「この冷気は、石柱から放出されているのか?」


『う、放出される冷気も増しているみたい』

「化け物たちは――」


 石柱が青白い光に包まれたかと思うと、真っ白い冷気が石柱を中心にして放射状に広がるのが見えた。それは拡張された空間を越えて、突風となって氷の柱を次々と破壊しながら迫ってきた。


 全身をしっかりと〈ハガネ〉で包み込むようにイメージしながら装甲を形成すると、衝撃に備えて身構えた。それでも突風の衝撃は凄まじく、後方に吹き飛ばされ、氷の柱に何度も背中を打つことになった。


『大丈夫、レイ?』

 無様に転がったあとカグヤの声が聞こえる。


「ああ、怪我はしてないよ」

 立ち上がりながら薄靄の向こうにある石柱に視線を向けた。


 すると石柱にまとわりついていた肉塊から何かが零れ落ちるのが見えた。それは見る見る内に大きくなり、そして蠅に似た化け物を形作っていく。


『やっぱり石柱が化け物の発生源だったんだ』

「そうみたいだな」うんざりしながら言う。「でも様子がおかしい」


 石柱に絡みつく肉塊から吐き出される化け物が二十体を超えて、こちらに向かって駆けてくるようになったときだった。先ほどのように石柱から猛烈な勢いで冷気が広がると、駆けていた化け物たちを一瞬で氷の柱に変化させてしまう。


「ハガネを装備していなければ、俺もあんな風になっていたのか……」

『レイ』ペパーミントの声が聞こえる。『隔壁を封鎖するための準備が完了した』


「問題はなかったのか?」

『問題がないことに越したことはないけど、残念ね。問題があったわ』


「何が起きたんだ?」

『隔壁のガイドレールが凍り付いていて、扉が動かないの』


「どうすればいい」

『安心して、ガイドレールの異常に備えて専用の装置が設置されていて、それで氷を解かすことができる』


「なら、何も問題がないように思えるけど?」

『時間が必要なの』


「それなら問題ない。待つのには慣れている」

『それはどうだろう』

 カグヤの言葉に反応して石柱に目を向けると、異質な化け物が一体だけ肉塊から吐き出されるのが見えた。


「奴もすぐに氷漬けにされるさ」と呑気に言う。

『そうだといいけど……』

 期待とは裏腹に、石柱が突風を発生させることはなかった。

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