第309話 卵 re
マシロと一緒に〝あちら側〟の廊下に足を踏み入れる。正体不明の壁によって隠されていた区画に出入りするさいには、薄膜を突き抜けるような奇妙な抵抗を感じていたが、今回はそれが感じられなかった。それが示していたのは、突如現出した空間がこの世界の一部になってしまったことなのだろう。
本来の世界に異変は見られなかったので、これ以上、別の世界点が――あるいは異界の領域とでも呼べる空間が広がる心配はしなくて済みそうだった。もっとも、我々が安全に研究施設を利用するためには階下にひしめく蠅の化け物を処理しなければいけないので、困難な探索になることに変わりないだろう。
混沌の化け物を野放しにしておくには、この研究施設は危険すぎる。マシロに協力してもらいながら周囲の安全確認を行い、追跡してくる化け物がいないことを念入りに確認しながら安全な場所まで移動する。そこでは、すでにペパーミントとウミが隔壁の補強を行うための作業を行っていて、地上からも数体の機械人形がやってきていた。
作業用ドロイドはカグヤの指示に従いながら〈ウェンディゴ〉のコンテナから必要な物資が入った木箱を運び込んでいて、廊下に積み上げてくれていた。それらの木箱にはライフルの予備弾薬や各種グレネード、そして戦闘糧食が入っていた。
新たな〈シールド生成装置〉の設置作業をしているペパーミントとウミの姿をぼんやりと眺めていると、カグヤの声が内耳に聞こえた。
『〈大樹の森〉の遺跡でシールドを発生させる鉄棒を見つけておいて良かったね』
テアたちと探索した〈最初の人々〉の遺跡のことを思い出しながらうなずく。
「そうだな。少しタイミングが良すぎると思うけど」
『たしかに都合よく遺物を見つけられたけど、何か気になることがあるの?』
「まるで初めから物事が決められているような、そんな感じがしないか?」
『決められている? レイは〝何か〟別の意思の介入があったと考えてるの?』
私は薄暗い通路に目を向けて、それかうなずいた。
「浄水施設の騒動もそうだったけど、何か奇妙だと思わないか?」
『そうかな……?』
「俺たちは今までも多くのトラブルに首を突っ込んできたけど、最近は混沌やら異界絡みの出来事が頻発している」
『もしかして、いつかレイが話してくれた〈キティ〉との会話の内容が気になっているの?』
カグヤの言葉にうなずく。
「じつは少し気になっていた」
『レイが混沌に魅了されやすいように、混沌の生物もレイの存在を身近に感じ取ることができる……』
カグヤは自分なりの解釈で〈キティ〉の言葉をつぶやいた。
『レイの周囲で、混沌や異界の領域に関する現象が頻発するのは、そこに潜む〝何か〟が、レイを魅了して引き寄せているから……レイはそう考えてるの?』
「ああ、そうだ」
不自然なほどに混沌の影が周囲にチラついている。まるで何かが――あるいは、誰かがその存在に気がついてもらいたいかのように。
『混沌の呼び声か……たしかに興味深い考察だね』
綺麗に折り畳まれたシーツを両手にのせた作業用ドロイドがやってきて、そのシーツを私に差し出した。
「ありがとう」
そう言うと、作業用ドロイドはビープ音を鳴らして答えてくれた。
黄色と黒に染められた旧式の作業用ドロイドは、頭部と一体化した筒状の胴体を持っていて、足は短くて太かった。対照的に蛇腹形状の保護カバーに包まれたマニピュレーターアームは、細長くて繊細な作業を可能にする機構を持っていた。
『その布は何に使うの?』カグヤが疑問を口にする。
「あれだよ」と、通路に置かれた彫像に視線を向けた。
『彫像がどうしたの?』
「ハクが怖がっていただろ?」
『布で
彼女の言葉にうなずくと、彫像に向かって歩き出す。
「ハクが毎回ヘンテコな恰好で彫像の間を通るのは可哀想だと思って」
『可愛いと思うけどな……』
「でもハクは本当に苦手にしていた」
『彫像に何か秘密があるのかな?』
「どうなんだろうな……」
「シールドを展開するね」
作業を終えたペパーミントは手にしていた端末を操作して、通路の両脇に設置したシールド生成装置を起動する。
すると存在の不確かな薄膜が展開されて、鉄棒が微かに振動音を立てる。鉄棒の設置作業を手伝っていたウミがシールドの薄膜に触れると、水色の波紋が広がっていくのが見えた。
「お疲れさま」と、彫像に薄布を被せながら言う。
「そっちは大丈夫?」ペパーミントが
「ああ、もう終わったよ」
メンフクロウの頭部を持つ男性の彫像が、大きな一枚布で完全に隠れたのかを確認する。
「これでハクも安心して通れるわね」
布が掛けられた彫像を見ながらペパーミントが言う。
「結局、これの正体は分からないままだけどな」
奇妙な彫像を見上げながら、そう口にした。
「研究施設を完全に制圧できたら、この奇妙な彫像のことも調べてみるよ」
「そうしてくれると助かる」
廊下の先に存在していた二つの世界点が〝こちら側〟の世界に影響を与えなかったことに、この彫像が何かしら関係していると考えていた。もちろん、それは単なる思いつきで確証なんてなかったが、彫像を調べても損はないだろう。
地上の警備をしてくれていたミスズとナミ、それから攻撃支援型ドローンと合流したあと、我々は彫像の先で固定された空間の探索に向かう準備をする。
「急に呼び出して悪かった」
ふたりに声をかけると、ミスズは笑みを浮かべる。
「いつでも動けるように準備をしていたので問題ありません」
張り切っているミスズの様子に、思わず苦笑してしまう。
「地上にいるテアたちは大丈夫そうか?」
「はい。小鬼たちの棲み処がなくなったからだと思いますが、地上は今とても静かです」
「混沌の化け物なら任せてくれ」
ミスズのとなりに立っていたナミが言う。
「連中とは戦い慣れている」
木箱の中から予備弾倉を手に取りながらナミに訊ねる。
「ナミたちが〈混沌の領域〉で生活していたころの話を詳しく聞く機会がなかったけど、混沌の生物同士でも殺し合いはしていたのか?」
不躾な質問に、ナミは嫌な顔をせずに答えてくれた。
「襲ってくれば、それが何であれ私たちは身を守るために戦った。でも……思い返してみると、積極的に戦ったことはなかったと思う。遭遇することも滅多になかったから」
「少し脱線しますが、質問してもいいですか?」ミスズが遠慮がちに言う。
「〝混沌〟と〝異界〟の領域を隔てるのは、混沌の生物の存在なのでしょうか?」
「ああ、そうだ。〈神の門〉は数え切れないほど存在する異界につながっているけれど、混沌の生物が徘徊する世界を、私たちは〈混沌の領域〉と呼称していた。それと他の世界を侵食するのも混沌の特徴かな。基本的に異界はそこに存在しているだけだけど、混沌はそこに存在しているだけで脅威になる」
「その混沌の勢力は、互いに争うのか?」
ナミに質問すると、彼女は撫子色の綺麗な瞳を私に向ける。
「混沌の勢力といっても、それは自分たちの意思で決められることじゃないからな」
『知らず知らずのうちに混沌の勢力に加担していたってこと?』
カグヤがナミに訊ねる。
『それは自分たちではどうしようもないことだったの?』
「よく分からないけど、私たちは〈神々の子供〉たちで、その神が所属する勢力によって、私たちの生き方も決まるみたいだからな……」
『神々の子供たち?』
カグヤが疑問を浮かべるのを見ながら、混沌の領域で出会った深紅の瞳を持つ青年のことを思い出しながら言う。
「そう言えば、そんな話を聞いたことがある。たしか、偉大な神々はすでに地上から去ってしまったけれど、彼らの血は子どもたちの間に流れ続けている、とかなんとか」
「そうだ」
装備を点検していたナミが言う。
「濃い血を持っている奴ほど強いんだ」
『それなら、ナミたちは神さまが実在する世界から来たってことだよね?』
「そういうことだ」
カグヤは唸って、それから言う。
『ナミたちの神さまは、悪い神さまだったの?』
「よく分からないんだ」
『わからない?』
「私たちがこの世界に渡ってくるときに、それまで信仰していた神さまから完全に切り離されて、新たな力と肉体を授かったから」
『うん?』
カグヤが困惑すると、装備を確認していたミスズが
「もしかして〝輪廻転生〟のようなモノでしょうか?」
「いや、私たちは死んでないからそれは違うと思う」
輪廻の概念を教えてもらったナミは自問自答するように言った。
「……でも新しい肉体に同じ魂が入ってるんだから、輪廻転生になるのか?」
「まぁ、とにかくあれだ」難しい話を嫌ったナミが話題を変える。
「混沌の化け物同士でも殺し合いはするぞ」
「あの蠅に似た化け物のことは、何か知っているか?」
ナミは腕を組むと、端末から投影される化け物の姿を見ながら考える。
「あれは空からやってきた化け物だとしか分からない」
「空?」
「星々が浮かぶ空だよ」
『宇宙から来た生命体ってこと?』
カグヤが驚きながら訊ねた。
「よく分からないけど、たぶんそういうことだ。族長ならもっと詳しいことが分かるかもしれないから、今度聞いておくよ」
「今に始まったことじゃないけど」と、私は溜息をつきながら言う。
「俺たちは地球外生命体と戦うことになるのか……」
戦闘の準備ができると、我々は化け物が蔓延る区画に向かう。私はハクとウミを連れて先頭を歩き、ミスズとナミは後方について背後からの襲撃に警戒をすることになった。
ペパーミントとマシロは列の中央で敵の攻撃に備える。非戦闘員であるペパーミントを地上に残してきたかったが、旧文明の装置が多く設置されている施設では彼女の知識が必要になると考え、同行してもらうことにした。
「通路は塞いでおくね」
ペパーミントはそう言うと、手元の端末を操作して隔壁を封鎖した。これでこの区画からは何者も出ることはできなくなった。
ドローンがビープ音を鳴らして飛んでくると、ダクトテープで雑に貼り付けられた動体センサーを起動して周囲の動きを確認していく。その情報は瞬時に我々の端末に送信され、大きくて素早い動きをみせる反応は赤い点で表示され、動きが少なく小さな反応は青い点で
ナミはさっそく指輪型端末を使い拡張現実で表示される地図を確認する。
「この赤い点は、蠅の化け物でいいのか?」
「そうですね」ミスズは答えた。
「でも私たちがこの中で一番警戒しなくちゃいけないのは、たぶん小さな青色の点です」
「これは人間のものじゃないのか?」
質問にはペパーミントが答えた。
「研究員たちの可能性もあるけど断言できない」
「研究員を警戒するのは、あの化け物に変異するかもしれないから?」
ナミの質問に彼女はコクリとうなずいた。
「それに、それが本当に人間の反応なのか分からないの。生体情報も取得できるような高性能なセンサーなら判別できたかもしれないけど、私たちにはそれがない。だから直接確かめに行くしかない」
ハクの糸で塞がっていた通路はそのままだったが、その糸に捕らえられていた化け物の反応は消失していた。
『抜け出したみたいだね』カグヤが言う。
「動体センサーが正しければ、この階層には実験室に閉じ込められている三体の化け物しか残っていないみたいだな」
「ねえ、レイ」ペパーミントが言う。
「それなら待機室に寄ってくれない?」
「待機室?」
「ほら、待機室には警備用に配備された〈アサルトロイド〉があるでしょ?」
「起動できるのか?」
「施設の管理システムを更新したら、警備に関する項目が操作ができるようになった。だから機械人形の力を借りられるかもしれない」
簡易地図で待機室の場所を検索しながらペパーミントに訊ねる。
「ところで、〈ブレイン〉たちのことを警戒する必要は?」
「ない」ペパーミントは断言する。
「この区画は、ついさっきまで存在自体が曖昧な空間だった。〈ブレイン〉たちがどれほど優れていたとしても、さすがに誕生したばかりの空間を操作することはできないはず」
「それなら、各階に配備されているアサルトロイドを一斉に起動して、一気に施設を制圧することができるのか?」
「アサルトロイドたちが破壊されていなければ、それも可能だと思う」
「なにをすればいい?」
「遠隔操作での起動は失敗したけど、待機室にある端末に〈接触接続〉できれば、保安システムを経由してアサルトロイドたちを起動できるはず」
「それなら目的地は待機室だな」
薄暗い廊下を進んでいると、腐臭が鼻を突くようになった。
『くさい、いっぱいある』
逆さになって天井を移動していたハクが言う。
「化け物の巣が近いのかもしれないな……」嫌な臭いを嗅ぎながら言う。
緩やかに曲がる通路に入って行くと、腐臭はさらに酷くなり、我々はマスクを装備することになった。
「大丈夫か、ハク?」
『ん。ちょっと、くさいかもしれない』
「えっと……」
ミスズが困ったような表情で言う。
「あれは卵でしょうか?」
ラグビーボールにも似た楕円形の半透明な物体が、壁や床、天井のそこかしこに張り付いていて、その周囲に粘度の高い液体と共に人間の腐乱死体が大量に放置されていたのが見えた。その吐き気を催す光景は、通路の突き当りまで延々と続いていた。
『あれが本当に卵なら、この通路だけでも数千の卵が存在することになる』
カグヤの言葉に思わず顔をしかめる。
「蠅の化け物が残したものだと思うか?」
質問にカグヤは頭を悩ませる。
『それは分からないけど、あれが混沌由来のものだってことは分かる」
「それが何であれ、燃やしたほうがいいってことだな」
ナミはすぐにライフルを構えるが、焼却する前に確かめることがあった。
「カグヤ、施設の換気システムは正常に動作しているか?」
『問題なく動いてるよ』
すでに焼夷手榴弾を使用していたけれど、さすがにこれだけの卵を焼却するとなると相当な煙を覚悟しなければいけない。
近くにやってきたハクに声をかける。
「卵を燃やされて怒り狂った化け物が来るかもしれない。だからいつでも攻撃できるように、戦闘の準備をしていてくれ」
『ん、まかせて』
ハクはベシベシと天井を叩いた。
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