第308話 世界点〈混在〉re
甲高い金属音を鳴らしながら撃ち出された〈貫通弾〉は、しかし旧文明の特殊な強化ガラスを破壊することができなかった。立て続けに射撃を行うが、ガラスの表面が僅かに削れる程度だった。着弾の瞬間、水色の薄膜が波紋をつくりだしているのが見えたので、シールドと強化ガラスによる二重の防壁によって攻撃が防がれているのだろう。
『ダメだ……』
カグヤの声が内耳に聞こえた。
『間に合わない』
実験室に視線を向けると、蠅の化け物に完全に変異してしまった男性によって、室内にいた研究員が襲われていて、青い髪をした男性は長い尾で腹を刺し貫かれていた。女性も化け物の甲殻類のハサミを思わせる器官で腕を切断されていて、血溜まりの広がる床に倒れ伏していた。
〈全滅ですね〉
ウミからテキストメッセージを受信する。
〈彼らを救い出すのは不可能です〉
「女性はまだ助けられるかもしれない」
私がそう言うと、白菫色の機械人形は頭を横に振る。
〈あの出血量では助かりません。それに――〉
床に倒れていた女性に視線を向けると、女性は口から白い泡を吹き出しながら痙攣していて、長い髪が抜け落ち始めていた。蠅に変異してしまった男性と同様の過程をたどっているようだ。
〈蠅に変異してしまった原因は分かりませんが、負傷した時点で異界に由来する何らかの病気に感染してしまった可能性があります。無闇に近づくことは避けたほうがいいでしょう〉
「それなら、誰も助けられないのか……」
青い髪の男性に視線を向けると、化け物の尾が腹に突き刺さっているのにも
三人の不老者たちが閉じ込められていた実験室内には、今では三体の奇妙な蠅の化け物が徘徊しているだけだった。それらは変異が完全に終わると、何度も強化ガラスに体当たりを繰り返して廊下に出てこようとしていた。
ペパーミントは化け物に恐怖し、強化ガラスから
「この場所は変だわ」
『そうだね』とカグヤが同意する。
『それに、あの不老者たちの話していることが正しいのなら、世界に異変が起きてまだ数日しか経っていないことになる』
「それはあり得ないことだ」
それが本当だとすると、我々は過去にいることになる。けれど時間を遡るなんてことは不可能だ。
「たしかにあり得ない」とペパーミントは言う。
「でも、ある意味では私たちは過去にいるのかもしれない」
強化ガラスに衝突を繰り返す蠅の化け物の体液と肉片がガラスに付着していくのを見ながら
「どうして俺たちが過去にいると考えるんだ」
「あの男性は私が〈データベース〉に登録されていないと話していた。けれど私の生体情報は〈データベース〉にしっかり記録されている。でなければ、そもそもレイとは契約できなかった」
「この時代にペパーミントは誕生していない、だから〈データベース〉にも登録されていなかった。そういうことを言いたいのか?」
「ええ」
「同じ〈データベース〉につながっているけれど、現在の情報に更新されていなかった。そういうことか」
「ええ、かれらが情報の更新を求めれば、〈データベース〉は更新されていたはず。でも私たちが未来から……というより、別の世界からやってきたことを知らなかった。ましてやふたつの世界が混在してしまったことも知らないままだった」
「それが本当なら……」と思わず苦笑する。
「俺たちはいつの間にかタイムトラベラーになっていたってことか?」
「正確に説明するなら過去にやってきたわけじゃなくて、この世界が過去の時間軸で固定されていたってことになる。でもそれは私たちの共通意識内の現象でしかないから、本当に何が起きていたのかを説明するのは難しい。実際のところ、研究員から見れば私たちは未来からやって来たことに変わりないから」
逆さになって天井を移動していたハクが強化ガラスに近づくと、蠅の化け物は半透明の翅を広げ、大顎を開いて威嚇する。ハクはそのことを少しも気にすることなく、強化ガラスをトントンと叩く。
実験室内の装置を操作する者がいなくなったからなのか、スピーカーを通して聞こえていた室内の音も聞こえなくなっていた。だから蠅の精一杯の威嚇に迫力がなかった。けれどそれは視界にフィルターが掛けられているからなのだろう。実際には震えるほどの恐怖を掻き立てる威嚇行動だったのだろう。
「簡単に説明してくれるか?」
真面目な話、私はペパーミントの話していることを理解できなかった。
「蠅の化け物に襲撃された研究施設と、襲撃されなかった研究施設、そのふたつの可能性を持った世界点が同時に存在していた。そこまでは分かる?」
「ああ。理屈は分からないけど、現象としてそれが起きていたことは分かる。何らかの理由で蠅の化け物に襲撃されていた研究施設が、外部からの観測の
「あの廊下の先には、あらゆる可能性を持ったまま、まるで空間に漂う雲のようにふたつの世界が存在していた。そしてそれは無限に存在する時間すらも曖昧な世界だった」
「化け物に襲撃された世界点と、襲撃が行われなかった世界点、そのふたつが存在し続けていた。そして外部からの接触、あるいは観測者によって世界の形が確定し、混ざり合うように俺たちの世界に固定されてしまった?」
ペパーミントは不安そうにうなずく。
「信じられないと思うけど私の推測が正しければ、そう言うことになる」
「俺たちが過去にタイムトラベルしたんじゃなくて、そこに存在していた無数の可能性のひとつが現実世界に固定されただけ……たしかに信じられないような現象だな」
錆びた機械が軋みを上げるような、そんな嫌な音が通路の奥から聞こえてくると、我々は攻撃が行えるように素早く武器を構えた。薄闇の向こうから姿を見せたのは蠅の化け物だった。それは複眼を妖しく発光させると、気味の悪い叫び声を上げた。我々が聞いた不気味な音の正体は、この化け物の咆哮だった。
そしてその咆哮に呼応するように、廊下の奥から騒がしい咆哮が聞こえてくる。
「マズいわね」とペパーミントが言う。
「この施設は蠅の化け物で溢れている」
獣のように姿勢を低くし猛然と駆けてくる化け物に対して、私とウミはフルオートで銃弾を叩き込み、ハクも糸の塊を吐き出して化け物の動きを牽制する。
静寂に支配されていた廊下は、今では複数の蠅の化け物の叫び声と、恐ろしい断末魔、そして銃声によって戦場に変わっていた。我々は化け物に接近されないように数百発の銃弾をすでに消費していたが、進攻の勢いが衰えることはなかった。
「このままだと悪くなる一方だな」
ライフルから手を放すと、ホルスターからハンドガンを引き抜いて化け物に照準を合わせた。ハンドガンから撃ちだされた銃弾は、通路の奥から迫ってきていた蠅の化け物の眼前で破裂し、金属製の細い〈ワイヤネット〉を吐き出した。
それは化け物の上半身に覆いかぶさり、その勢いのまま化け物を後方に
化け物は網から逃れようと必死に暴れるが、もがけばもがくほど金属製のネットワイヤは化け物の身体をきつく締めあげ、そして未知の合金で作られたワイヤは化け物の外骨格を傷つけ、肉を裂いて身体に食い込んでいった。
ハクもそれを見たあと、通路に向かって次々と糸の塊を吐き出していった。それらの塊は蠅の化け物の直前で網のように広がり、化け物の手足に絡みつきながら通路の壁や天井に張り付けていった。
「ハク!」ペパーミントが声を上げる。
「そのまま糸で通路を塞いで!」
ハクは腹部を振って答えると、次々と糸を吐き出していった。しばらくすると廊下はハクの糸で完全に塞がれてしまう。蠅の化け物が鋭い尾でハクの糸を切り裂く可能性はあったが、現段階では安全だった。
「さすがだな、ハク」
私はそう言うと、ハクの背を撫でる。
『ん。ハク、がんばる』とハクは得意げに答える。
「頑張るじゃなくて、〝頑張った〟だよ」
ペパーミントが言葉を訂正すると、ハクは絨毯を叩いて、それからそっぽを向くように身体を回転させる。
『しってる』
「そうね、ハクは物知りだもの。でも、そうやって話をするのはとても失礼で悲しいことなんだよ」
『しつれい?』
ハクはトコトコと身体の向きを変えてペパーミントを見つめる。
「そういうことをされると、悲しくて泣いちゃうかもしれない」
ペパーミントが手で目を覆うと、ハクはペパーミントを抱きしめる。
『すこし、しつれいだったかもしれない』
「ハク」と私は言う。
「一旦、ミスズたちのもとに戻ろう」
『スズ?』
ハクはペパーミントを解放したあと、身体を斜めにかたむける。
「そうだ。ここはとても危険な場所だ。俺たちだけでは厳しいかもしれない」
『きびしい』
「そうね」と、さっきまで泣くフリをしていたペパーミントも同意する。「まさかこんなことになるとは思っていなかった」
「なぁ、ペパーミント」
私は隔壁によって封鎖されていたガラス窓を見ながら
「この場所に固定された世界点は、この施設の一部だけだよな?」
「そのはずだよ。さすがに世界全体を改変するような現象じゃなかったと思う……」
〈レイラ様〉ウミからメッセージが送られてくる。
「どうした、ウミ?」
〈機体に搭載されている動体センサーで、施設内に残る人間のものだと思われる反応をいくつか捉えることができました〉
視線の先に拡張現実で表示されていた研究施設の地図が更新され、それぞれの階層に青い点が表示される。
「不老者たちだな……」
ペパーミントは青い瞳を発光させながらうなずく。
「ええ、きっと襲撃を生き伸びた研究員たちだと思う」
『どうするの、レイ?』
カグヤの言葉に即答する。
「もちろん研究員を助けるために全力を尽くす。でもそれには準備が必要だ」
『ミスズたちを連れてくるんだね』
「ああ、それに予備の弾倉にドローンたちの力も借りたい」
「それなら一度地上に戻りましょう」とペパーミントが言う。
「シールド発生装置を使って、この空間につづく隔壁を封鎖したい」
我々がやってきた方向に視線を向けると、開放されたままの隔壁が目に付いた。たしかにあれだけの数の化け物がいるのだから、隔壁を破壊され、突破されるのも時間の問題だ。
「それなら急ごう」
ちらりと実験室内に目を向けると、三体の化け物が我々に真っ赤な複眼をじっと向けているのが見えた。
『待って』
マシロの言葉に立ち止まると、ペパーミントとウミも動きを止めた。
「どうしたの、レイ?」とペパーミントが言う。
「マシロが何かを見つけたみたいだ」
「マシロが?」
「ああ。ペパーミントたちは先に地上に向かってくれ」
「分かった」
ペパーミントはうなずくと、ハクに抱えられながら隔壁の向こうに消えていった。
「それで」とマシロに訊ねた。
「何を見つけたんだ?」
『臭いがする』
マシロは口を開くことなくそう言うと、小さな鼻をひくひくと動かした。
「臭い……? それは危険なものか?」
『違う』
「それなら、案内してくれるか?」
マシロは櫛状の触角を揺らすと、ふわりと浮き上がって通路の先に向かう。
ハクの糸で塞がれた通路を横目に見ながら反対の通路に入る。しばらく薄暗い通路を進むと、悲惨な光景が目に飛び込んでくる。そこには廊下を塞ぐ形で人間の死体が積み上げられていて、それらの死体に群がるように拳大の蛆が這い回っていた。
「これがマシロの見つけたものか?」
マシロはうなずいて死体の山のそばに飛んでいって、血溜まりに足をつけることなく、死体を漁り始めた。マシロは蛆に似た気色悪い生物を手掴みすると、壁に向かって適当に放り投げていた。
「マシロ、怪我をしないように気をつけてくれ」
感染症に対して抵抗があるのかは分からなかったが、とにかく注意してほしかった。
『レイ、見て』
彼女の声が頭に響くと、旧文明の遺物でもある特殊なマスクを起動して、鼻と口元を完全に覆ってから腐臭漂う死体の山に近づく。
「何を見つけたんだ?」
『見て』
内側から外に向かって腹が破裂していた女性の死体を
「生きているのか?」
質問にはカグヤが答えた。
『呼吸をしているのが確認できた。でも怪我をしているみたい』
輪郭線を赤く縁取られた男性の白衣は血に濡れていたが、その血液が彼のものなのかは分からなかった。周囲にある死体の血液が付着した可能性もあったが、断定はできなかった。
「蠅の化け物に変異する可能性があるのか?」
『この死体の山は、おそらく蠅の化け物の巣だよ』
「それなら感染している可能性は高いな……」
『助けない?』マシロが私に複眼を向けた。
「さっきの奴らみたいに化け物に変わるかもしれないんだ」
マシロは男性を見つめて、それからこくりとうなずいた。
「行こう、マシロ」
マシロの手を取って距離を取ると、化け物の巣だと思われる死体の山に焼夷手榴弾を放り込む。まだ息のある生存者を殺すことになるが、化け物に変異するかもしれない断線と行動を共にするリスクを背負うことはできなかった。
早足で隔壁に向かいながらマシロに感謝した。
『どうして』マシロは首をかしげる。
「俺が人間を助けたいって言ったから、ここまで連れてきてくれたんだろ?」
『うん』
「結局、あの男のことを助けることはできなかったけど、それでもマシロには感謝している。ありがとう、マシロ」
『うん』
マシロが普段どんなことを考えているのか分からなかったけれど、今回のことでマシロが注意深く我々の話を聞いていることが分かった。人間を救うことはできなかったが、マシロのことを少し理解できたので、その成果に満足していた。
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