第307話 不老者〈研究員〉re


 廊下に立ち込めるジメッとした薄闇に銃口を向けながら進んでいく。隔壁を叩く鈍い音は今も続いていて、静かな廊下に反響していた。


 通行を制限するために設けられた隔壁が見えてくると、声を落としながら言う。

「カグヤ、あの隔壁を開くことができるか?」


『攻撃の準備をして』

 カグヤの言葉に反応してウミと視線を合わせたあと、すぐにその場で姿勢を低くして隔壁に銃口を向ける。


「カグヤ、いつでも大丈夫だ」

 隔壁の接合部分が外れる金属的な鈍い音が連続して聞こえると、空気の抜ける音と共に白い煙が噴き出し隔壁が開放されていく。


 ゆっくり開き始めた隔壁の隙間から突然、濡羽色ぬればいろの奇妙な腕が伸びて隔壁を掴むと、力任せに開いていくのが見えた。すると火花を散らしながら開いていく隔壁の向こうから、三メートルほどの巨体を持つ化け物が姿を見せる。


 その醜い化け物とは、これまでも何度か遭遇し戦闘を経験してきたが、逃げ場のない狭い空間で見る怪物は、今まで感じていたよりもずっと恐ろしい存在に思えた。


 蠅にも似たその生物は、見る角度によって色の変わる不思議な外骨格におおわれていて、背には半透明の翅が生え、大きな腹部には鋭い突起物のような毛がびっしりと生えていた。


 しかしそれは厳密に言えば蠅ではなかった。複数ある長い腕と脚の先には、人間の指にも似た黒い器官が十数本生えていて、短い毛に覆われた大顎からは鋭い牙が伸び、それが開いたり閉じたりするたびに嫌な音を立てていた。そしてその化け物には尾が生えていて、長く太い尾の先に棘のような長い突起物が見られた。


 隔壁の向こうからやってきた蠅の化け物は我々の存在に気がつくと、頭部のほとんどを占める真っ赤な複眼を妖しく発光させた。そして粘り気のある体液を引きながら脇腹を包む殻を開き、そこに折り畳まれていた腕のようなものをゆっくり伸ばしていく。


 その腕の先には甲殻類のハサミを思わせる器官がついていて、蠅の化け物はハサミを自慢するように何度か打ち合わせてみせた。


 化け物の姿に激しい吐き気と嫌悪感を抱いた瞬間、視界にフィルターが掛かり、化け物の輪郭線だけが強調されディテールがぼんやりとしたものに変更された。精神的な負荷を軽減するための処置だろう。ある種の化け物は見ているだけで気が狂いそうになる。


 気を取り直し、素早く照準を合わせて引き金に指をかけたときだった。私とウミの間を通すように、白い飛翔体が凄まじい速度で飛んでいくのが見えた。ハクが吐き出した糸の塊だ。蠅の化け物は攻撃を予期していなかったのか、糸の塊を避けることができず頭部にまともに受けてしまう。


 化け物の頭部に絡みついた糸は瞬時に性質を変化させ、付着した箇所をくようにかしていく。それは強酸性の非常に強力な糸だった。触れた場所が何処であれ、蒸気をあげながら灼き、一瞬にして溶かしてしまうものだった。そしてそれは化け物の醜い頭部も同様で、悲惨な運命から逃れることはできなかった。


 化け物は背筋の凍るような恐ろしい叫び声を上げ、苦しみ悶えながら何度も身体からだを壁に衝突させた。そのさい、溶けていく頭部から周囲に体液が撒き散らされていく。


 痛みから逃れようとして必死だった化け物は、勢いよく壁に体当たりを続け、肉が裂け、骨の砕ける音が聞こえてきた。その嫌な打撃音を聞きながら、すぐに射撃を開始し化け物の脚を潰した。それから弾薬を素早く切り替えると、のたうち回る蠅の化け物の頭部をショット弾で完全に潰す。化け物は身体を痙攣させ、やがて動きを止めた。


 化け物を完全に始末できたか検めていると、後方で待機していたペパーミントが恐る恐るとなりにやってきた。

「富士山の麓に広がる〈混沌の領域〉から這い出てきた化け物に似てると思わない?」


「おそらく同種の生物だろう」

 私はそう言うと、隔壁の向こうに視線を向けた。化け物の騒音がなくなると、廊下は静けさを取り戻した。どうやら動いていた化け物はこの一体だけのようだった。


『どうして〈混沌の化け物〉が施設にいるんだろう?』

 カグヤの声が内耳に聞こえる。

『こんなに大きくて、激しく動き回る化け物がいたら、施設の保安システムを起動したときに気づいたと思うんだ。それなのに動体検知機能でも捉えることができなかった』


「ふたつの空間が同時に存在していたからだと思う」と、ペパーミントは化け物の死骸を見ながら言う。「私たちの世界に存在する無人の施設と、廊下の〝あちら側〟に生じた異次元――あるいは並行世界に呑み込まれてしまった施設が」


『この場所では、ふたつの世界が同時に存在していたってこと?』

 混乱するカグヤの言葉をペパーミントは訂正した。

「少し前までふたつの世界が存在していたんだと思う。でも今は混在してしまっている」


 ハクがマシロと一緒にやってきて、化け物の死骸を脚の先で突っ突き始めた。私はハクのフサフサの体毛を撫でながらペパーミントにたずねた。

「ふたつの世界が混在するっていうのは?」


 ペパーミントは青い瞳を私に向けると、何かを考えて、それから口を開いた。

「確証はないけど、ふたつの世界が同時に存在していた可能性はある。客観的に観測できる状態じゃなかったから、その中にいる者は変化に気づけなかった。でも私たちが外部の空間と――つまり電波塔との通信を中継してくれる装置をこの領域に持ち込んで接続した時点で、レイが観測していた空間と、私たちの世界が混ざり合ってしまった」


「不確定だった世界か……まるでシュレディンガーの猫だな……」

「〈神の門〉によって観測可能になる領域に関しては謎が多すぎて、未だ解明されていない不思議な現象が数多く存在する」


「これもその現象のひとつか」

「おそらく」


『そこに誰かいるのか!』

 突然、廊下の何処かに設置されたスピーカーから男性の声が聞こえる。


『もし俺が話していることを理解できる人間なら、隔壁の先に来てくれ、緊急事態なんだ!』

 ガサガサとした雑音がそれに続くと、男性の声が聞こえなくなった。


「レイ……」

 ペパーミントが不安そうに私を見つめる。

「施設に俺たち以外の〝誰か〟がいるみたいだな。カグヤ、どう思う?」


『すごく奇妙だと思う。正確な年数はシステムの都合で分からないけど、少なくとも数十年、施設に侵入した人間の記録は残されていなかった』


「並行世界だか何だかに研究員が取り残されていたって可能性は?」

『レイは旧文明の人間が――例えば〈不老者〉と呼ばれていた人たちが施設にいるって考えてるの?』


「外部からの侵入がないのなら、他に考えられる可能性はそれだけだ」

『不老者か……』


「取りあえず、確認しに行こう」

 すぐにペパーミントが反応する。

「罠だったらどうするの?」


「どの道、施設の調査はしないといけないんだ。罠でも確認しに行くしかない」

 マシロにペパーミントの護衛をお願いすると、ウミとハクを連れて隔壁の先に向かう。ハクは天井に逆さになって移動し、ペパーミントとマシロはその後方からゆっくりついてきた。


 隔壁の先も薄暗い廊下につながっていたが、通路の左手にある壁は素通しの強化ガラスが張り巡らされていて、実験室内部の様子が確認できるようになっていた。


 その実験室の壁際、ちょうど我々が歩いていた通路と向かい合うような形で見たことのない装置がいくつも並んでいて、その装置の前に白衣を着た背の高い男性が立っているのが見えた。男性は傷つき、腕から血を流していた。


『おい、あれを見ろ!』

 ガラスの向こう側にいた男性の声がスピーカーを通して聞こえた。

『救援隊が来てくれたぞ!』


 男性が振り向いた先には、腹を負傷し白衣を血で真っ赤に染める男性と、その男性の応急処置をする女性がいた。実験室にいる三人は驚くほど整った顔立ちをしていて、身長も高く、髪の色もそれぞれ違っていた。


『俺の声が聞こえるか?』青い髪の長身の男が言う。

『すまないが、こっちに近づいてくれないか』


 廊下の先に視線を向けて、近くに蠅の化け物がいないことを確認する。付近に脅威になる存在がいないことが分かると、ゆっくりガラスに近づいていく。


『あれは〈深淵の娘〉か?』男性は驚きながら言うと、色鮮やかに点滅する瞳を私に向ける。『待ってくれ、ならあんたは……貴方は噂に聞く〈不死の子供〉なのか……』


 男性は急に笑顔になると、負傷していた同僚に声をかけた。

『だから言ったんだ。軍は俺たちのことを見捨てたりしない!』男性は興奮しているのが、早口に言葉を並べ立てた。『使い捨ての兵士じゃなくて、〈深淵の娘〉を連れた〈不死の子供〉を派遣してくれたのがその証拠だ! ああ、助かるんだ。俺たちは助かるんだ!』


「落ち着いて」強化ガラスの前に立ったペパーミントが言う。

「まず貴方が何者なのか教えてくれる? それからこの施設がどうなっているのかも」


 男性はペパーミントに目を向けると瞳を点滅させる。網膜に表示されているインターフェースを介して、彼女の生体情報を確認しているのだろう。


『第三世代の人造人間がどうしてこんな所にいるんだ?』

「こんな所?」ペパーミントは顔をしかめながら言う。


『お前たちは〈大いなる種族〉の〝墓所〟で働いているはずだ。いや、そんなことより、そもそもどうして〈データベース〉に登録されていないんだ?』


「何を言っているのか分からない」

 彼女は困惑して眉を寄せる。男性の言うことを本当に理解していないようだった。


『いや、まて』

 男性はマシロに目を向けると、赤や青の鮮やかな色で瞳を点滅させた。

『〈データベース〉に登録されていない未発見の生物だ……なんてことだ』


「そんなに驚くことなの?」

 ペパーミントの言葉に男性は頭を振る。


『たしかに異界の生物に関して言えば、〈神の門〉を調査するたびに新種が発見されているが、人間と敵対せずに共存できる種は少ない。そして真に驚くべきは〈不死の子供〉が異界の生物と一緒にいることだ。人間至上主義である〈不死の子供〉が、〈深淵の娘〉以外の生物と行動を共にすることはないと噂されていた。……が、やはりあれは悪質なデマだったんだろうな』


 男性は満足そうに早口でそう言うと、腕の痛みに顔をしかめた。彼が黙り込んだのをチャンスと見て、すぐに質問することにした。


「教えてくれ、あんたは何者なんだ?」

『この施設で働いている研究員だが……貴方は、貴方たちは我々を助けるために派遣された救援隊だよな?』


「俺たちはその救援隊じゃない」

 すると男性の顔から見る見るうちに生気が失われていくのが見えた。


『だが貴方は軍のなかでも存在が秘匿されている〈不死の子供〉なんだろ? そんな貴重な人材がこの場にいる理由があるとすれば、それはこの研究施設の人間を救う以外にない!』


「残念だけど――」

『嘘だ!』男性は目の前の装置を叩いた。『政府は……軍は! 俺たちのことを見捨てるようなことはしないはずだ!』


 情緒不安定な男性の態度に困惑していると、負傷していた男性が介護してくれていた女性を押しのけるようにして、おもむろに立ち上がるのが見えた。そして負傷した腹を押さえながら、のろのろとこちらに向かってくる。


『このさい、お前たちが何だろうと構わない……俺たちを助けてくれ』

 桃色の髪をした長髪の男性に答えるように、私はうなずいた。

「安心しろ、あんたたちのことは今から助けに行く」


『よかった』

 女性が涙ぐむのが見えた。相当不安だったのだろう。


「ここで何が起きたのか教えてくれないか」

『施設の外がどうなっているのかは、おそらく貴方のほうが詳しいでしょう』と青い髪の男性が言う。『我々が知っていることは、世界中で同時多発的に〈神の門〉が開いたことと、それをキッカケにして〈データベース〉に接続できなくなったことだけだ』


「〈神の門〉が?」

 ペパーミントが顔をしかめると、腹を負傷している男性が言う。

『問題は……〈データベース〉との接続が一時的に断たれたことだ……その所為せいで、二日前に地下に運び込まれていた氷漬けの化け物の死骸が解けて、あの蠅の化け物が――』


 男性はそこまで言うと、急に身体を痙攣させ始めた。

『傷が悪化しているのかも、すぐに〈オートドクター〉を!』


 女性が負傷者を支えながら叫ぶと、青い髪の男性が部屋の奥に走っていき、そこに設置されていた救急ポーチを漁り、その中からケースを取り出した。


 だが痙攣していた男性は凄まじい力で女性を吹き飛ばした。

「どうなってるの?」ペパーミントは驚いて後退る。


 痙攣していた男の髪が瞬く間に抜け落ちると、骨の砕ける嫌な音が聞こえてきて、背中が異様な角度で曲がっていくのが見えた。すると針のような突起物が背中から飛び出して白衣を引き裂いていく。男性が苦痛の声を上げながら顔を上げると、男の眼球が跳び出し、代わりに真っ赤な複眼がその奥にあるのが見えた。


『蠅の化け物に変異しているんだ……』

「そんなこと、ありえない……」

 ペパーミントはカグヤの言葉を否定しようとしたが、目の前で起きている現象に唖然として言葉を失う。


 男性が四つん這いになると、男性の脊髄から粘液を滴らせる長い尾が衣類を突き破って伸びる。


「マズいな」素早く施設内の地図を確認して、実験室につづく経路を検索する。

「速くそこから逃げて!」ペパーミントが声を上げる。


『ダメなんです!』と女性が言う。

『隔壁が閉鎖されていて、私たちの権限では開くことができません!』


 遺伝子的にどのような改変が行われたかは分からなかったが、質量保存の法則を無視しながら桃色の髪を持つ男性はあっと言う間に蠅の化け物に姿を変える。


「間に合わない」

 太腿のホルスターからハンドガンを引き抜くと、強化ガラスに銃口を向けた。

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