第306話 廊下〈並行世界〉re


 とくに危なげなく我々は目的の場所に到着する。鳥類の頭部を持つ人型の彫像が向かい合うように廊下に端に置かれているのが見えた。それはメンフクロウの頭部を持つ不思議な男性の彫像で、筋骨逞しい身体からだには薄布をまとっているだけだった。その彫像は通路に向かって腕を差し出すように伸ばしていて、広げた手のひらには松毬まつかさがのせられている。


 事前に施設を調査したドローンから受信していた映像と状況に変化はなく、彫像はひっそりとした廊下に不自然に置かれていた。


 その彫像に挟まれるようにして廊下の中央に立つと、周りをぐるりと見回してみたが、自分の置かれている状況について示唆してくれる〝兆候〟を見つけることはできなかった。私に理解できたのは、その場所がドローンたちを使って調査していた廊下で、研究施設の建物内部と言うことだけだった。しかしソレは直接現場に来なくても分かることだった。


 あれこれと思案していると、ペパーミントがとなりに立つのが分かった。

「それで、ご感想は?」彼女はそう言うと、挑戦的な青い瞳で私を見つめる。


「分からないんだ」

「何が分からないの?」


「映像で見ていた壁がどこにもないんだ」

「うん?」ペパーミントは首をかしげる。そのさい、彼女がひとつにまとめていた綺麗な黒髪が頭の後ろで揺れる。


「壁だよ」彫像が手に持っていた松毬を見ながら言う。

「ドローンから受信する映像を見ていたとき、たしかに彫像の間に壁があった。そうだろ?」


「そうね。でも、壁ならあるじゃない?」

 何を言っているの、というような顔でペパーミントは私のことを見つめる。


「残念だけど、俺にはその壁が見えないんだ。照明は灯っていないけれど、彫像の先にも廊下はちゃんと続いている」


「うん?」

 眉を寄せるペパーミントを見て思わず苦笑してしまう。


「ハク」と白蜘蛛に訊ねた。

「この先に壁が見えるか?」


 ハクはトコトコと絨毯の上を移動してやってくると、急に止まって威嚇するように彫像に向かって脚を広げた。


「何をしているの、ハク?」

 ペパーミントの問いにハクは腹部を振って答える。


『それ、きらい』

「彫像が怖いの?」


『こわい、ない』

 ハクはそう言って地面をベシベシ叩く。

『すこし、にがて』


「ハクにも苦手なものがあるのね」

『ん、そうかもしれない』


 ハクはその場で身体の向きを変えると、トコトコと廊下を引き返していく。注意が逸れたからなのか、結局ハクは質問に答えてくれなかった。


 私は彫像が差し出していた松毬に触れてみる。もちろん仕掛けはなく、それは特殊な石材で出来た精巧な彫刻でしかなかった。


『ねぇ、レイ』カグヤの声が内耳に聞こえた。

『その壁の先に行って調べてみれば、何か分かるんじゃないのかな?』


「待って」ペパーミントが驚く。

「カグヤにも壁は見えていないの?」


『ううん。私はレイの視界を通して世界を見ているけど、それでも壁がハッキリ見えている。だからレイが話してる通路は見えない』


「それなら、おかしいのはレイだけね」

 ペパーミントはホッとしながら言うと、カグヤも同意する。

『そうだね。変なのはレイだけ』


「俺が変人みたいに言っているけど、確かに壁は存在しないんだ。そこに壁がないことを今から証明する。だから見ていてくれ」


 ライフルのシステムチェックを行い、ストックを引っ張り出していつでも射撃できるように準備する。それからライフルを構えながら、彫像の間を通って薄暗い通路に出る。壁が存在していたと思われる場所を通り抜けるさい、何か薄い膜を突き抜けるような、そんな違和感があったが、それだけだった。痛みもなければ、気分が悪くなることもなかった。


 振り返ると驚愕の表情を浮かべるペパーミントの姿が見えた。本当に私の姿が見えなくなったのか、こちらに向けられた目の焦点が合っていないように感じられた。


 ペパーミントは何かを話していたが、口をパクパクと動かしているだけで、その声が私のいる場所に届くことはなかった。


「ペパーミントもこっちに来てくれ」

 私はそう言葉を口にしたが、やはり聞こえていないのか彼女は反応を示さなかった。


 そのときだった。ふと視線を感じて素早く振り向いた。が、薄暗い廊下が延々と続いているだけで、何者かの存在を感じ取ることはできなかった。そこにはどんよりとした薄闇と、身体にまとわりつくような嫌な感じのする沈黙だけが存在していた。


「カグヤ、今の見えたか?」

 しばらく待ってみたが、カグヤからの返事はなかった。


 その空間に存在していた欠落の正体がつかめず私は困惑するが、首筋を撫でる嫌な視線から逃れるようにして、すぐに通路を引き返すことにした。


 廊下のあちら側、つまりペパーミントたちのいる場所に戻ると、空気が僅かに軽くなったように感じられた。それは照明の明るさや、ハクとマシロが生み出すふわふわとした雰囲気が、周囲を明るくしている所為せいなのかもしれないが、確かに安心できる空間に出られたように感じられた。


「本当に壁が無いのね」ペパーミントが上目遣いで言う。

 私は肩をすくめると、カグヤに質問をした。


「カグヤ。俺の声が聞こえるか?」

 するとカグヤの慌てた声が聞こえてくる。

『レイとの通信が一瞬だけど、完全に切断されていたんだ。何が起きたの?』


「俺にも分からないよ。向こう側に立っていたときにはカグヤの声は聞こえなかったし、インターフェースに表示される情報もエラーで埋め尽くされていた」


『ログを確認するね』

 カグヤが何やらと調べている間、私は廊下の向こう側に目を向ける。


 こちら側から見る〝向こう側〟の廊下は、薄暗かったが、こちら側のソレと大きな変化は感じられなかった。床に敷かれた絨毯も同じモノだったし、壁の模様も同じだった。


 しかし何かが狂っていた。〝向こう側〟に立ったときに感じていた嫌な視線も、場の空気を圧迫するような緊張感も感じられなかった。そこにあるのは、のっぺりとした平凡な廊下だけだった。


「不思議ね」とペパーミントが言う。

「カグヤとの通信が途絶する場所は、〈混沌の領域〉のような異界に関係する場所だけだった。もしかして、その先は……」


 そこまで言ったあと、ペパーミントは自身の思考に没入して黙り込んでしまう。

「あの場所がどうなっているのかを調べるためにも、一緒に向こう側に行こう」


「嫌!」ペパーミントそう言ったあと、慌てて頭を振る。

「……ごめんなさい。レイと一緒に行くよ。でも、そこには壁があるんだよ?」


「俺が向こう側に行ったのを見ていただろ?」

 ペパーミントは自分自身が感じている現象について、上手く伝えることができずに苦労しているようにも見えた。


「なぜだろう」とペパーミントは言う。

「理由は分からないけど、その先に行くことを頭が全力で拒否している」


「困ったな……ウミはどうだ。壁が見えているか?」

 白菫色の機械人形はうなずいて、それからテキストメッセージを送信する。

〈レイラさま、私にも壁はしっかりと見えています〉


「壁の先に行くことに対して、ウミにも抵抗はあるのか?」

 ウミがうなずいてビープ音を鳴らすと、頭部モニターに涙を浮かべる女性のアニメーションが表示される。


〈壁に対して、嫌悪感のようなものを感じます〉

「嫌悪感?」


〈説明は難しいですが、私はその壁に近づきたくありません。壁に触れることも遠慮したいです。機体に搭載されているセンサーでも、その先は行き止まりと確認しました〉


「そうか……」

 腕を組んだあと、ちらりと彫像に目を向ける。

 メンフクロウの頭部と人間の身体の組み合わせは奇妙で、そのメンフクロウの瞳を見つめていると、頭部が胴体から離れて空中に浮かび上がるようにも見えた。なにかゲシュタルト崩壊にも似た現象が起きている。


 その彫像から視線を外すと、めくれた絨毯に頭部を突っ込んでいたハクの姿を眺めた。ハクはモコモコとした毛で覆われた腹部を左右に振りながら絨毯の奥に入ろうとするが、すぐに絨毯の反対側に出てしまう。物凄い発見をしてしまったように感じているのか、ハクは絨毯を捲る遊びを本格的に開始する。


 廊下の中央に綺麗に敷かれていた絨毯が残念なことになっていくのを眺めていると、カグヤの声が聞こえた。


『ログを確認したけど何も分からなかったよ。エラーのほとんどはレイの健康状態をリアルタイムに監視しているプログラムが吐き出すデータの送受信に関するものだった』


「送受信……やっぱり〝向こう側〟に行くと、通信が切断されてしまうのか」

『そうみたいだね』


「なぁ、ペパーミント。施設入り口に設置した装置の予備はあるか?」


 彼女は肩に提げていたショルダーバッグの中身を確認する。

「それって電波塔との通信を中継してくれる装置のことだよね?」

「ああ、そうだ」


「〝向こう側〟に行っても、〈データベース〉との接続が遮断されないようにするのね」

「あちら側が異界のようなものだと仮定した場合、通信ができなくなることは避けたい」


「たしかにそれは致命的な危機を招きかねない」

「それに」と私は言う。「俺の視界から受信する映像を見れば、俺の言っていることが本当だって信じられるはずだ」


「そうね……」

 ペパーミントはそう言うと、細長い鉄の棒を彫像のすぐ側の床に近づける。すると先端が割れて、棒が倒れないための三脚に変形する。ペパーミントは鉄の棒が床に固定されたのを確認すると、手に持った端末に素早くケーブルを接続して、その端末を私に手渡した。


「どうすればいい?」

「端末の設定は済んでいるから〝向こう側〟の壁に接着するだけで設置は完了する」


「了解」

 ライフルを片手で構えると、また薄い膜を通り抜けて暗い廊下に出る。明らかに雰囲気が変化した廊下に視線を向けながら、カグヤやペパーミントとの通信を試みる。しかし通信はできない。


 端末に接続されたケーブルに損傷がないか確認していると、ハクと一緒に遊んでいたマシロがふわりと飛んできて、私のとなりに立つのが見えた。


「マシロには壁が見えていないのか?」

 驚いて訊ねると、マシロは触角を揺らす。


『見えない』

「マシロにも見えないのか……不思議だな」

 彼女はコクリとうなずくと、真っ黒い複眼を廊下の先に向ける。

『何かいる』


「何だと思う?」と小声で訊ねた。

「機械人形か? それとも怪物?」


 マシロは廊下の奥を見つめたまま頭を振った。

『もっと恐ろしいもの』


 意識を集中して、廊下の先から〝何か〟の悪意が感じ取れないか試してみる。けれど意識を集中した瞬間、瞳の奥に無数の針を突き刺されるような、そんな激しい痛みに襲われて能力の使用を断念する。


 思わず声が出るほどの痛みに両手で目を押さえると、マシロが綺麗な顔を近づける。

『大丈夫?』


 彼女の言葉にうなずいたあと、痛みの所為せいで噴き出した嫌な汗を戦闘服の袖で拭った。

「さっさと装置を繋げよう」


 ガラスのように磨き上げられた白い壁のそばまで行くと、通信端末を近づける。すると熱したフライパンでバターを溶かすように、装置の側面が壁と接着していくのが見えた。


「あれ?」

 ペパーミントが間の抜けた表情で私を見る。

「どうなっているの?」


「見えているのか?」

 質問に彼女はうなずく。どうやら通信が再開された瞬間、目の前にあった壁が消えてしまったらしい。


『通信状態も良好だよ』とカグヤが言う。

『施設の管理システムともつながった』


「一体何だったんだ?」

「わからない」ペパーミントは頭を振る。

「通信妨害のようなものを受けていたと仮定していたけど、レイに影響はなかったし……」


 ペパーミントとウミも歩いてこちら側に来たが、私が感じていたのと同様の違和感を覚えたのか、しきりに廊下に視線を向けていた。


『ねぇ、レイ』とカグヤが言う。

『管理システムに接続できたけど、警備システムの一部と、施設の監視カメラとの通信に障害が発生している』


「どうしてだ?」すぐに質問する。

「研究施設の管理権限を持っていてもダメなのか?」


『ここでは通用しないみたい』

「ここでは?」


『この場所は、さっきまで私たちがいた施設にそっくりだけど、同じ空間に存在している場所じゃないみたい』


「待ってくれ。俺にも分かるように説明してくれるか?」

 質問に答えたのはペパーミントだった。

「〈混沌の領域〉にも似た、別の世界と混在してしまっているのかもしれない」


「つまり?」

「並行世界と呼ばれるような領域が、私たちの世界と重なってしまっている」


「ある世界――あるいは時空から分岐して、それに並行して存在する別の世界のことか?」

「おそらく……」


 ペパーミントの言葉に驚いていると、空間を越えることが何でもないかのように、マシロはふわりとあちら側に飛んでハクを迎えに行く。ハクはマシロのあとにぴったりくっついてこちら側に向かって来ていたが、彫像に近づくと、バンザイするように脚を広げて彫像を威嚇する。


 しかし彫像は廊下に二体存在していた。だからハクは、どちらに向かって威嚇をするのかを考える必要があった。それからしばらくすると、ハクは正面に向かって威嚇をした。そうすれば両方の彫像に威嚇できると考えたのだろう。


 まるでゴールテープを切るマラソンランナーのように、少し滑稽な姿でこちら側にやって来たハクは真剣な声で言った。


『ちょっと、たいへんだった』

「大丈夫か?」


『ん、へいき』

「そうか、それなら――」


 薄暗い廊下の先から鈍い音が聞こえてくると、ペパーミントを背中に隠すようにして素早くライフルを構える。


〈廊下の先、隔壁を叩く音です〉

 ウミから受信したメッセージを確認したあと、ウミと一緒に廊下の先に歩いていく。〈マンドロイド〉もレーザーライフルを構えていて、いつでも射撃できるように準備していた。

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