第301話 大樹の森 re


 人間にとって長い間、死を連想させる恐怖の対象であり続けた〈大樹の森〉は、皮肉なことに生命に満ちあふれた森でもあった。平均的な樹高が百メートルを優に超える名も知らない大樹を観察することで、それが事実だと痛切に感じることができた。


 それは森の環境に適応している多種多様な生物を見ても分かることでもあった。三十センチを超える昆虫や、人間ほどの体長がある甲虫の変異体、そして昆虫を捕食する色とりどりの美しい巨鳥。それに留まらず、直径八メートルほどある苔生した大樹の根元には、奇妙な軟体生物がひしめいている。


 それらの生態系を構成している大樹は、森に数え切れないほど存在する一本の木に過ぎない。視線を動かして他の木に目を向けると、異なる生態系を構成する大樹が多く目に入る。〈森の民〉が森の存在そのものに対して畏怖の念を持ち、その中に信仰を見出した気持ちが理解できるような気がした。


 大樹の森は豊かで多様な生命に溢れている。


 しかしそれは同時に、熾烈な生存競争が日々行われていることの証明でもあった。廃墟の街でも言えることだが、森は弱者の存在を絶対に許さない。この大いなる〈大樹の森〉は生命に満ちた楽園であり、それと同時に数多の命を呑み込んできた地獄でもある。でもだからこそ、数限りない犠牲の上に成り立っている〈大樹の森〉は美しいのかもしれない。


『レイ』カグヤの声が内耳に聞こえる。

『大樹の幹に擬態してるムカデが、すぐ近くまで近づいてきてる』


 大樹のそばに打ち捨てられていた多脚戦車のコクピットから顔を上げて、八メートルほどの距離まで接近していた巨大な節足動物に視線を向ける。体長が四メートルほどあるムカデは、無数に生えた脚をゆっくり動かしながら、私の頭上から接近してきていた。


 そのムカデは、周囲の環境状態に合わせて色や質感を変化させる不思議な外皮を持っていた。その擬態は限りなく完全なもので、カグヤがムカデの輪郭を赤色の線で強調してくれなければ、その存在に気がつけなかったほどだった。


 森の民から得ていた情報をもとに、危険の度合いに応じて森に生息する昆虫や生物を識別していたが、個人用のデータファイルに登録していた生物の中に、そのムカデの情報は確認できなかった。


「初めて見るやつだ」

 小声でそう言うと、身体からだの前に吊り下げていたライフルを素早く構える。


 そのムカデに対して射撃を行おうとしたとき、背後から女性の声が聞こえた。

「レイラ。そいつの殻は銃弾を通さないほど硬いから、攻撃するだけ無駄だ」


 振り向くと灰色の毛皮に包まれ、顔しか表に出ていない暖かそうな恰好をしたテアが立っていた。彼女は地面から細長い枝を拾い上げると、接近してきていたムカデの上方に枝を投げつけた。枝は大樹の幹にぶつかって、それから巨大なムカデの外皮に当たる。するとムカデは凄まじい反応速度で身体をくねらせ、硬い殻に当たった枝を噛砕いてみせた。


「近づくものがなんであれ、そいつは容赦なく噛みついてくるんだ。命が惜しければ、関わらないほうがいい」


 ムカデが身体を反転させた隙に多脚戦車の残骸から飛び下りて、テアのそばに向かう。

「すぐにこの場所を離れよう」

 彼女はそう言うと、何が潜んでいるのか分からない茂みを避けて、地面から突き出した大樹の根を伝って岩の上に向かう。


 私もテアのあとを追って、機械人形や大型兵器の残骸が地面に半ば埋まるようにして放置されていた場所を離れた。


「助かったよ、テア。忠告がなければ、今頃あの巨大なムカデと戦闘になっていた」

 私がそう言うと、彼女は毛皮フードの奥で笑みを見せた。


「その割にレイラはずいぶん残念そうな顔をしている。もしかして、あのムカデの殻が目当てだったのか?」


「少し期待していた」と感心しながら言う。

「でも、よく分かったな」


「蟲使いになったばかりの子たちが同じ失敗をするからな」

「昆虫を専門にしている蟲使いたちでも、そんな失敗をするのか……」


 テアの言う〈蟲使い〉は、昆虫を戦闘に用いる森の民の通称で、彼らの頭部にはツノにも似た端末が埋め込まれていて、蟲使いたちはその端末を介して昆虫たちとの交信を可能にしていた。蟲使いと昆虫たちの関りは深く、彼らの鳥籠では昆虫たちと共存することが、ごく〝一般的なこと〟として受け入れられていた。


 テアのそばにも体長が五十センチほどの黒蟻たちがつねに数匹いて、彼女の指示にしっかりと従いながら荷物を運んだり、有毒な昆虫やヘビを遠ざけたりしてくれていた。


「あのムカデを殺すことができれば、たしかに頑丈な殻を手に入れられる」と彼女は言う。「でもムカデがやっているように、周囲の風景に擬態するようなことはできないんだ」


「もしかして、殻の状態だけだと擬態の効果が発揮されないのか?」

「そういうことだ。どうやらあのムカデは体内にある特殊な液体の流れを操作して、外皮の模様を変化させているみたいなんだ」


『体液を操作?』カグヤが疑問を口にする。

『そんなこと、よく分かったね』


 テアは驚いた顔で立ち止まると周囲に視線を向けて、それからハッとしてうなずいた。

「カグヤさまの声でしたか……取り乱すような真似をしてすまない。まだ頭の中で聞こえる声には慣れていないんだ」


『気にしなくていいよ、最初はみんな驚くからね。でも気がついたら慣れている。実際、端末を使って誰かと会話しているのと変わらないからね。それで、どうしてテアはムカデがやっていることを知っているの?』


「沼地の集落で暮らしていたころは、何度もあのムカデから襲撃を受けていたんだ」

『テアたちは死骸の解体もやっていた?』とカグヤはテアにたずねる。


「はい。毒を持っているから、死骸を処理しないと大変なことになるんだ」

『あのムカデは人が多く暮らす集落にも侵入していたの?』


「ああ」テアはうなずく。

「厄介な相手だった。襲撃のたびに多くの死傷者が出た」


『そっか……』

「でもレイラから貰ったライフルがあれば、あいつを簡単に殺せるかもしれないな」


 テアが肩に提げていたライフルは、横浜の拠点で製造されたモノで、私が使用していたライフルと同様のモノだった。それは市場に出回っていないタイプの小銃で、入手が極めて困難な銃器でもあった。


 ライフルは旧文明の鋼材が含まれた複合材で製造されていて、黒を基調としたフレームに、重要な機構を保護する白磁色の装甲でおおわれている。その所為せいなのか、ライフルはずっしりと重たいが、それがかえって照準の安定性を高めていたので重さは気にならなかった。


 短銃身でその銃身の長さに合わせた短いハンドガードがついていて、引っ張り式のコンパクトなストックは、銃身のバランスが考慮された設計になっていた。おまけに〈センリガン〉の光学照準器と消音器が標準装備されていたので、汎用性も高く、多くの場面で頼りになる武器だった。


 また弾薬は状況に応じて選択する仕様になっていて、弾倉は高密度に圧縮された旧文明の鋼材が用いられる。射撃のさいに選択された弾薬が瞬時に生成される仕組みになっていて、銃弾の選択はライフルにインストールされたソフトウェアによって行われ、各々が所有する端末でその操作が可能になっていた。


 テアたちの場合、頭部に埋め込まれた端末を介して操作が可能になっていた。森の民でそのライフルを使用している者たちは、かつてテアが族長をしていた沼地の集落の〈蟲使い〉たちだけだった。その数も少なく、十数人程度の〈蟲使い〉で編成された部隊だった。


 その女性だけで編成された部隊にだけ貴重なライフルを使用させていたのには、明確な理由があった。皆がテアの部族の出身だったので素性がハッキリしていて、それに加えて、大規模な組織や鳥籠との間にしがらみがないため、彼女たちの裏切りを心配する必要がなかったからだ。


 裏切りを警戒しているのには、もちろん理由がある。大樹の森の奥、富士山の麓に広がる〈混沌の領域〉のそばに我々は防衛拠点を建設していて、異界との境界線を監視するための部隊を防衛拠点に派遣していた。


 異界との境界線に監視隊を派遣するのには様々な理由があったが、監視隊に与えられた主な役割は、〈混沌の領域〉が広がることを阻止している円柱型のシールド生成装置に異常が発生していないか確認する巡回任務と、〈混沌の領域〉からこちら側に侵入してくる生物を殲滅することが監視隊に課せられた役割だった。


 とても危険な仕事のため、防衛拠点には武器を含め、多くの物資が運び込まれることになる。そしてその監視隊は長期間、鳥籠から遠く離れた隔絶された地域で仕事を行うことになる。


 元々監視隊に配属される人間は、〈大樹の森〉に点在する多くの部族の寄せ集めなので、彼らのなかに裏切り者が出ないか監視する人員を必要としていた。物資と人員が多く集まる場所に、指導者的立場に成り得る人間があらわれた場合、反乱やそれに伴う混乱は避けられない。


 だから一個の集合的意識のもとに集まり、裏切りの心配をする必要のない部隊が求められた。そこで抜擢されたのが、テアと一緒に戦ってきた〈蟲使い〉の戦士たちだった。


 彼女たちは如何なる組織にも所属することがなく、〈母なる貝〉だけを絶対的な存在として崇めていた。そのため、他の組織や鳥籠からの干渉を受けることなく、その任務を忠実に遂行してくれる。そして彼女たちの監視のもと、防衛拠点は存続し続ける。


 テアの部隊だけに貴重な装備を支給しているのは、そういった理由があった。彼女たちは森の民でありながら、森の民の組織に所属せず、〝こちら側〟の組織の人間として動くことになる。もちろん表向きには、彼女たちは森の民が信仰する〈母なる貝〉に仕える身であり続けるが、事実は違う。


 彼女たちは異界の監視者として生きていくことになる。

「急ごう」とテアが言う。

「ミスズたちが来るころだ」


 大樹の森で迷子になっていた子どもを捜索したあと、私とテアは森の奥にある旧文明の研究施設にやってきていた。ここまで我々を送り届けてくれたのは、ミスズが操縦する旧文明の輸送機だった。


 物資や人員輸送で何かと忙しい輸送機は、我々を送り届けたあと横浜の拠点に一旦戻ることになっていたが、軍用の大型多脚車両ヴィードルである〈ウェンディゴ〉を輸送するために、研究施設に再び戻って来る予定になっていた。


 我々はウェンディゴのコンテナに積載していた物資と作業用ドロイドを使用して、研究施設を周囲の環境から隔離するための作業を行う予定だった。研究施設には旧文明の遺物と共に、人類の脅威になるかもしれない多くの危険物が残されていて、それらの遺物を危険な組織に利用されないために隔離する必要があると考えていた。この研究施設は悪意のある人間の手に渡るには、あまりにも多くの危険を内包していた。


 ちなみにヴィードルとは多脚車両の名称だ。旧文明に建設現場や森林作業などの難所で、建設用の機械人形と共に運用されていた車両のことでもある。瓦礫がれきに埋め尽くされたこの世界では一般的な乗り物で、今も多くの車両が使用されていた。


 我々が周囲の探索を終えて研究施設に戻ったころには、すでにウェンディゴは研究施設に運び込まれていて、その近くには動物の毛皮に身を包んだ女性たちが集まっていた。


 彼女たちがテアの部隊に所属している〈蟲使い〉の戦士で、彼女たち全員にライフルと防刃、防弾性能に優れた戦闘服とボディアーマーを支給していたが、フサフサの毛皮をまとっていたので、ちゃんと身につけてくれているのかは分からなかった。


 その中にミスズとナミの姿を見つける。綺麗な顔立ちをした女性たちの中にあっても、ミスズは一目で分かる端麗な顔立ちをしていて、長い睫毛が琥珀色の瞳を縁取り、傷ひとつない白い肌は日の光を受けて輝いていた。


 彼女は複数のアシスト機能を備えたスキンスーツの上に、デジタル迷彩が施された戦闘服を重ね着していて、ハクの糸で編んだ暖かそうな首巻をしていた。


 ミスズに声を掛けたあとナミにも挨拶する。ナミはミスズの護衛を引き受けてくれている〈ヤトの一族〉の戦士で、つねにミスズと行動を共にしてくれている女性だ。鈍色の髪に撫子色の瞳を持つ美しい女性でもあった。そのヤトの一族は、〈混沌の領域〉を旅したときに出会った〈混沌の追跡者〉と呼ばれていた種族のことだ。


 ミスズとナミが作業用ドロイドたちに指示を与えるため、研究施設のある大樹のうろに向かうと、私も研究施設の探索を行うための準備を始めた。


 今回、〈大樹の森〉を訪れたのには二つの理由があった。ひとつは研究施設を外部から隔離し、その姿を隠蔽することだった。そしてもうひとつは、研究施設にいる特殊な生物に会うことが目的だった。


 その生物とは敵対関係になかったが、しかし信用できる相手でもなかった。そのため、不測の事態に対処できるように、できる限りの準備はしておこうと考えていた。

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