第283話 決闘〈忘れ谷のラガルゲ〉re
アレナ・ヴィスとインシの戦士の間を、奇妙な甲虫が粗い砂礫をゆっくり踏みしめながら進んでいく。ヤトの戦士であるアレナは、生きた骨だとされるナイフを逆手に持つと、リラックスした足取りでインシの民に近づいていく。互いまでの距離が十メートルもなくなると、インシの戦士は腕を広げて目の粗い麻布を脱ぎ捨てた。
その昆虫種族は緑青色の甲皮に
インシの戦士は、アリが持つ腹柄節にも似た器官に装着していたベルトから、アレナが握っているのと同様の骨のナイフだけを引き抜くと、それ以外の刀剣や、用途の分からない黒い枝のようなものをベルトごと地面に捨てた。
戦士は完全に何も身につけていない状態になると、四本の腕を大きく広げ、それから〈インシの刃〉と呼ばれる生きたナイフの切っ先をアレナに向けて構えた。日の光を浴びて緑青色の甲皮が微かに透けると、甲皮の内側で
上空を旋回していたカラス型偵察ドローンから受信している映像を確認すると、岩山の頭頂部に立っていた見届け役のインシの民が崖を飛び下りるのが見えた。
岩山から地面までは相当な高さがあったが、インシの民は平然と着地してみせた。そして何処からか姿をみせたトカゲに似た巨大な極彩色の生物に騎乗すると、こちらにゆっくり向かってきた。カラスから受信していた映像を消すと、アレナとインシの戦士に視線を向ける。
約束を違えるつもりはなかったが、ハンドガンに右手を添えていた。もしもアレナが決闘に負けるようなことになり、インシの民がアレナを殺そうと動いたら、その時は私がインシの民を殺すつもりだった。決闘は台無しになるだろうが、仲間が目の前でむざむざと殺されるのを放っておくわけにはいかなかった。
互いが五メートルほどの距離に近づいた途端、インシの戦士はアレナに向かって突進した。アレナは身を低くすると、凄まじい速度で駆けてきたインシの民の懐に入り、胸部から生えた腕の付け根にナイフを深く突き刺した。
しかしインシの戦士の勢いは止まらない、かれはアレナの首に向かってナイフを振り下ろした。アレナは首をひねって、刃が首を貫いてしまうのを何とか避けるが、刃はアレナの右頬と右肩の肉を深く
アレナはインシの戦士に突き刺していたナイフを捻りながら引き抜くと、後方に飛び退いて戦士が繰り出した蹴りを避けた。続けて繰り出されるナイフの猛攻をアレナは避けると、インシの民の腕を関節部から切断した。
ナイフを握ったままの腕は宙を舞い、切断された腕の断面からは体液と共にミミズのような生物が地面に零れ落ちる。アレナはそれらをブーツの底で踏み潰しながら戦士に接近する。そして上向きにナイフを突き出し、インシの民の胸部にナイフを深く突き立て、横に引き裂くように一気に引き抜いてみせた。
インシの戦士の裂かれた甲皮の間からは、内臓と共に気色悪いモノが撒き散らされたが、戦士はなおもアレナに
頭部と胸部の甲皮の隙間に刺さったナイフの衝撃で、インシの戦士は動きを止めてしまう。アレナはその隙を見逃さなかった。戦士に向かって駆けると、勢いをつけて飛び上がり、両手に握っていたナイフの刃を戦士の頭頂部に深く突き刺した。
インシの戦士はよろめきながら後退ると、三本の腕を持ち上げて自身の頭部に突き刺さったナイフを引き抜こうとした。しかし途中で身体のバランスを崩し、ドサリとその場に倒れた。
アレナが出血している肩を押さえて息を整える間、私は息絶えようとしているインシの戦士に視線を向けた。かれは必死に立ち上がろうとしていたが、腕が震え、大顎からは得体の知れない紐状の生物を吐き出し続けていた。その奇妙な生物は砂礫の上で
インシの戦士はとうとう起き上がるのを諦めて倒れ伏した。私は彼だか彼女だか分からない戦士から視線を外すと、騎乗生物に視線を向ける。トカゲに似た巨大生物はパートナーの死に対してひたすら無関心だった。それよりも、どのような方法で目の前を通り過ぎていく甲虫を捕まえるのかを考えることに必死になっているように見えた。
決闘を見届けるはずだったインシの民が拠点のそばに近づくころには、地面に倒れ伏していた戦士は息絶えていた。
見届け役のインシの民は、地面に横たわる仲間を無視して、まずは地面に置かれていた仲間の装備を拾い上げ、それを騎乗してきたトカゲの脇腹に吊り下げていた大きな麻袋の中に入れた。それから仲間の死骸のそばに戻ると、突き刺さっていた二本のインシの刃を死骸から引き抜き、それを持ってアレナのそばに向かった。
アレナはインシの民の行動を警戒していたが、インシの民はそんなことを少しも気にする様子を見せずに、アレナの前に立った。そして骨でつくられたナイフを差し出した。
『ナイフを受け取れ』と彼は大顎を鳴らした。
アレナは血に濡れた手でナイフを受け取る。すると不思議なことが起きる。アレナの手を濡らしていた血液が、ナイフの刃に吸い込まれるようにして綺麗に消える。インシの民は、ナイフの効果に驚いていたアレナをその場に残し、近くで決闘を見守っていた我々のそばに向かってくる。
『貴様の民は強者だと証明された。よって貴様たちには我々と共存する権利が与えられる』インシの民が大顎を鳴らすたびに、かれの首元に埋め込まれていた装置の一部が赤色に点滅する。
「これで終わりなのか?」
『終わりだ。この土地は戦士が流した血によって浄化され、祝福された。貴様たちがこの土地で生きることは神によって許可された』
「祝福か……つまり、俺たちと敵対することはないんだな?」
『神聖な決闘を穢すような行為を我々の神は許さない』
「そうか……」
血を流し過ぎたアレナが膝をついて、救急ポーチを手にしたエレノアが彼のもとに駆け寄って行くのを横目に見ながら、インシの民に質問した。
「次はどうなる?」
『土地の支配者である貴様にも贈り物がある』
そう言ってインシの民が大顎を鳴らすと、巨大なトカゲがのっそりと死骸に近づいていった。巨大トカゲは死骸となったかつてのパートナーを咥えると、そのまま首を上下に振って何度か噛みながら位置を調整し、戦士の死体を飲み込んでしまう。
「あんなことをさせていいのか?」
驚きながら質問した。
「あの戦士は仲間なんだろ?」
『仲間ではない。我々はひとつで全だ。我々は我々でしかない』
「それは何かの哲学か?」と、思わず間抜けなことを言う。
『違う』
『もしかして、
驚いているようなカグヤの声が内耳に聞こえた。
『インシの民はひとつの意識を複数の個体で共有している生物なのかな』
カグヤの言葉を聞きながら、インシの民の複眼に目を向ける。ハニカム構造の複眼の奥で、何か奇妙なモノが
見届け役のインシの民がもう一度大顎をカチカチと鳴らすと、巨大トカゲは肩を揺らしながら我々にゆっくり近づいてきた。
『〈ヴェネク・ラガルゲ〉だ』
「うん?」と突然の事態に困惑する。
『賢い生物だ。餌は自分で見つけてくる。しかし民を喰われたくなければ、ちゃんと自身の民だと伝えるんだ。ラガルゲは理解してくれる。そして新鮮な水を与えることを怠るな。ラガルゲは水がなければ死ぬ』
「待ってくれ」と私は言う。
「この巨大なトカゲを俺に譲るのか?」
『ラガルゲだ』
インシの民は身を包む麻布の奥から腕を伸ばした。その手には仰向けになった甲虫がのっていて、甲虫は薄卵色の気色悪い脚をわさわさと動かしていた。
『貴様の肉体の一部を、この醜い虫に与えろ』
「身体の一部?」
『何でもいい。体液でも肉でも構わない』
「何のためにそんなことをするんだ」
『ラガルゲを貴様のものにするために必要な措置だ』
『止めたほうがいいよ、レイ』心配するカグヤの声が聞こえた。
「何か企んでいるのか?」イーサンもインシの民に率直に訊ねた。
『我々の神は卑怯者を許さない』
私は戦闘服の袖を捲ると、胸元のナイフを引き抜いて前腕の肌を切った。血の匂いを嗅いだからなのか、インシの民の手にのっていた甲虫は口吻を鳴らし、わさわさと脚を動かした。鳥肌が立つほど気色悪かったが我慢する。
数滴の血液が甲虫の身体にかかると、甲虫の腹を突き破るように、寄生虫に似た紐状の気持ち悪い生物がうねうねと姿を見せて血を浴びる。インシの民はそれをラガルゲの身体に押し付けた。
すると寄生虫は甲虫の体内から抜け出て、ラガルゲの鱗にある小さな傷から、瞬く間に体内に侵入していく。しかし痛みは感じないのか、ラガルゲはじっと私につぶらな瞳を向けたまま動かなかった。
『終わった。これでラガルゲは貴様だけのものだ。大切にするんだ』
それだけ言うと、インシの民は己のラガルゲに騎乗した。
「他にも聞きたいことがあるんだ」
『いずれ会いに来る。貴様は我々と共存するのだから』
まったくわけが分からなかったが、異種族と分かり合えると思うこと自体おこがましいのかもしれない。
『行っちゃったね』カグヤが言う。
「そうだな」と、遠ざかるインシの民の背中を見ながら言う。
『このトカゲ、どうするの?』
ラガルゲと呼ばれるトカゲに目を向けると、ラガルゲは蛇のように大きな口から長い舌を出し入れしてみせた。
「明らかに異界の生物だから、ヌゥモたちに訊ねたほうがいいのかもしれない」
『そうだね。でもその前に、アレナの傷を確認しよう』
「分かってる」
決闘してくれたアレナに感謝してから、彼の傷の状態を確認する。おそろしく切れ味のいいナイフだった
「手強い相手だったか?」
質問にアレナはすぐにうなずいた。
「強敵でした。手を抜けば私が殺されていたでしょう」
「インシの民の戦士階級だと言っていたが、あんなのが沢山いるのか?」
「おそらく、あの戦士よりも優れた者たちがいると思われます」
「使い慣れた得物じゃなくても、インシの民はあれだけ戦えるのか」
イーサンは溜息をついた。
それからアレナは私にナイフを差し出した。
「どうぞ受け取ってください」
「いや」と横に頭を振る。
「それは勇敢な戦いをしたアレナに贈られたものだ。それはアレナが使うべきだ」
「しかしこれは貴重な遺物です」
「これが何かを知っているのか?」
「神々の時代を終わらせる原因とされる大戦を生き抜いた〈竜の骨〉だと言われています」
「それは異界で語られる神話の類か?」
「そうです」アレナは綺麗に編み込まれた鈍色の髪を揺らす。
「古の神々が去り、第二紀が始まると神々の血を受け継ぐ〈神々の子供〉たちは、神々の痕跡を探し、世界中に散らばっていきました。その過程で〈竜の骨〉は発見されました。けれど竜を信仰するインシの民によって骨は持ち去られました」
「待ってくれ」とイーサンが困惑する。
「それは異界で本当に起きたことなのか?」
アレナはうなずくと、手元のナイフを見つめながら話を続けた。
「時折、竜の骨でつくられた武器が異界の市場に流れました。骨の価値を知る者は秘宝として宝物庫に保管し、価値を知らぬ者は刃を持って戦場に向かい、そこで死ぬまで刃を振るい続けました。しかしいずれの場合も、時と共に刃は持ち主の前から消えてなくなりました」
「神のもとに還る。というやつだな」
「そうです」アレナはうなずいた。
「それが貴重な遺物だっていうことは理解した。けど、それでもナイフはアレナが使ってくれ」
私はそう言うと、ヌゥモに視線を向けた。かれは視線に答えるようにうなずいたあと、アレナに言った。
「受け取れ、アレナ。それだけの働きをしたんだ」
「分かりました」
「ヌゥモ」ラガルゲのそばに立っていたイーサンが言う。
「このトカゲについて何か知っているか?」
「〈忘れ谷〉に巣くう恐ろしいドクトカゲだ」
「忘れ谷……異界の地名か?」
「そうです」とアレナが答えた。
「〈白金山脈〉から流れてきた氷河が、途方もない年月をかけて削り出した谷のことです」
「谷底に生息するトカゲか」
イーサンはそう言うと、トカゲをしげしげと眺める。
「こいつは危険な生物なのか?」
「ラガルゲを飼いならすのは不可能だと言われています。例えば、谷底にある古の王国の旧市街に向かい、ラガルゲを捕獲しようと試みた岩トロールの集団は、ラガルゲを何体か捕獲することに成功しましたが、調教師として名高い仲間が毒を吐きかけられ喰い殺されるのを見ると、手懐けるのを諦めました」
「気になる単語がいくつかあったが、とりあえずそれは横に置いておくよ……それで、騎乗するには向かない生物なんだな?」
「気性の荒い生物なので、難しいと思います」
「けどこいつは大人しい」
「インシの民がラガルゲを戦闘に利用している噂は以前からありました」
イーサンはアレナの言葉にうなずきながらラガルゲに近づく。
「なら、秘密はあの寄生虫だな」
巨大なドクトカゲから攻撃されることはなかった。その生物は長い舌をするすると口から出し入れしながら、私をじっと見つめるだけだった。
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