第278話 木枯らし re
『レイ』カグヤの声が内耳に聞こえる。
『移動する前に、まずは怪我の治療をしたほうがいい』
視線を落とすと、皮膚が焼け
常時温度管理がされている角筒には、旧文明の貴重な医療品でもある〈オートドクター〉が収まっている。ちなみに〈オートドクター〉は医療用のナノマシンの名称で、注射器を使って体内に特殊なナノマシンと高濃縮した栄養剤を注入することで、身体の損傷や病気を治療することのできる医療品だった。
右手に注射を打つと、火傷のさいに生じた水疱を傷つけないように丁寧にガーゼを巻いていく。
『医療用のナノマシンを操作して、右手を集中的に治療するね』
カグヤがそう言うと、痛覚がないはずの右手がチクチクと痺れ、急に冷たくなったような感覚がした。
「ありがとう、カグヤ」
カグヤに感謝したあと、警備室の壁に投影されていたホロスクリーンに近づいていく。壁には施設全体を監視していたカメラからの映像が表示されている。
『警備システムの操作権限を手に入れたから、今はブレインたちの水槽がある部屋も確認できるようになったよ』
「でもブレインたちの姿が見えないな……」
ホロスクリーンには、ブレインたちが泳いでいた水槽がしっかりと表示されていたが、肝心のブレインの姿が何処にもなかった。薄暗い水槽を正面から捉えている監視カメラの映像を確認するが、青藍色に発光していた無数のブレインたちの姿すら映っていなかった。水槽の奥にいるのかもしれない。
『いない』と、監視映像を眺めていたハクが言う。
「退屈か、ハク?」
『ちょっと、たいくつかもしれない』
「もうすぐ地上に戻るから、少し待っていてくれるか」
『ん。まつ』
ハクはそう言うと、マシロを背に乗せながら廊下に出ていった。
部屋の中心に置かれているデスクに腰を下ろし、コンソールパネルを見つめる。施設のセキュリティに関する項目を開くと、動体センサーを選択し、施設全体の動きを走査する。しかしセンサーに反応するものは何もなかった。まったく反応を得られない階層もあったので、センサーが故障しているのかもしれない。
つぎに施設から分離されたシステムによって管理されているブレインたちの部屋を、先程と同様のセンサーを使用して走査をした。すると水槽の奥にぼんやりと赤色に染まる輪郭線で表示される膨大な数のブレインが確認できるようになった。
『思っていたよりも、ずいぶんと大きな水槽だね』
カグヤの言葉に素直に同意した。
「そうだな、おそろしく広大な空間になっている」
動体センサーによって確認できたブレインの数は二百体を超えていた。
『〈サーバルーム〉は、研究施設から独立した専用の核融合リアクターも備えている。だから私たちが想像していたよりもずっと広い空間を確保できるのかもしれない』
「ブレインたちのためだけの空間か……」
『警備システムから締め出されたことに気がついていると思うから、レイからの報復を恐れて隠れているのかもしれないね』
「あるいは……俺たちに対する興味をすでに失ったのかもしれない」
『ブレインたちが警備システムに接続できないように、完全に施設から隔離するよ』
「了解。けどブレインたちがすでにシステムに対して何かしらの工作をしている可能性があるから、自己診断プログラムを優先して実行したほうがいいと思う」
『うん、分かってる』
マシロから預かっていたハクの板を脇に抱えたあと、警備室を見渡す。部屋の床には爆散した端末の破片が散らばっていて、掃除ロボットが床を綺麗に掃除していた。端末は惜しかったが、ブレインたちの攻撃の身代わりになってくれたと思えば、端末を失くしたことにも納得できた。
『施設の機械人形も完全に私たちの管理下におかれたから、もう攻撃される心配はないよ』
「〈アサルトロイド〉に奇襲されることもないんだな?」
『ないよ。ブレインが〈バイオジェル〉を餌にするなんて考えもしなかったよ』
「でも〈バイオジェル〉の研究データ自体は、施設の何処かにあるんだろ?」
『あると思うよ。ここで研究していたんだからね』
「データはブレインたちの部屋に?」
『それは分からない、その可能性はもっとも高いけど』
「あの部屋は封鎖したままにしておきたいから、研究データは次に施設を訪れるときまでお預けだな……」
警備室の耐爆扉がしっかりと閉じたのを確認すると、廊下の先にいるハクたちのあとについて歩き出した。
「なぁ、カグヤ。展示室に置いてきた残りの板を回収したいから、展示室まで誘導してくれるか?」
『了解。誘導灯を表示するね』
床の低い位置にホログラムが投影されるのが見えた。展示室で銅板に似た板を回収すると、我々はエレベーターに乗って最上階に向かった。
施設の外に出ると冷たい糠雨が頬を濡らした。その雨からは土と植物の匂いがしたが、時折、嗅ぎ慣れない不快な異臭もした。
施設の出入り口は隔壁を使用して封鎖したあと、ホログラムの投影機と非常灯も消した。施設の扉は私とカグヤがいなければ開かないようになっていたが、この研究施設には何を考えているのか分からないブレインたちがいるので、用心するに越したことはないだろう。
大樹の
「すまない」と私は言う。
「待たせたみたいだな」
「いや」と、浅黒い肌をした美女が黒髪を揺らす。
「私たちがせっかちなだけだ。〈イアエーの英雄〉は悪くない」
「レイラでいいよ」
「ん、分かった」美女はうなずくと、私に栗色の瞳を向ける。そのさい、彼女の編み込まれた髪に挿していた装飾品が揺れて小さな音を鳴らした。
「テア」と美女の名を呼びながら言う。
「約束の時間に遅れた俺がこんなことを言うのも変だけど、さっそく果実の採取できる場所まで案内してくれるか?」
「わかった。レイラは――」
テアはそこまで言うと、急いで地面に膝をつけた。
「〈
蟲使いたちは一斉に
「テア、大丈夫だ。マシロは君たちに危害を加えるようなことはしない」
「しかし……」テアは頭を下げたまま地面を見つめていた。
「君たちにとって〈御使い〉が神聖な存在であることは分かっている。でも、今だけは畏まらないで普通に接してくれるか? マシロもそれを望んでいるはずだ」
「マシロさまが……?」
テアはおもむろに立ち上がると、草の外套を脱ぎ捨て、半裸に近い姿でマシロに近づいて行った。それからマシロの手をそっと握りしめると、自分自身の
儀式めいた一連の動作が終わると、テアは再び草の外套を羽織った。そのさい、テアの臍の下にある刺青が見えた。その刺青は森の民の風習で彫られるもので、そこが魂の通り道であると信じられていた。
それから蟲使いたちはテアがしたように次々と外套を脱ぎ、まるで祈るようにマシロに挨拶を行う。正直、私にはそれがどのような意味を持つ挨拶なのかは分からなかった。彼女たちがマシロに向かって何を話しているのかは聞こえなかったし、聞き耳を立てるのも無粋だと思っていた。きっと森の民に伝わる大切な仕来りなのだろう。
蟲使いたちがマシロに挨拶をしている間、ウェンディゴのそばに立っていたウミのもとに向かい、施設を探索しているさいに、森に何か変化が起きなかったか
『
ウミの声が内耳に聞こえる。
『だから攻撃せず、群れが通り過ぎるのを眺めていました』
「大きな群れだったか?」と質問する。
『いえ、こちらに向かっているときに撃退していた群れの生き残りだと思います』
「そうか……」
ちなみにウミは一般家庭に普及していた機械人形の
『レイラさま』とウミの声が聞こえた。
『そちらの板をお預かりましょうか?』
「うん?」脇に抱えていた板のことを思い出す。
「ああ、お願いするよ」
ハクをそばに呼ぶと、ウミと一緒にコンテナに向かう。それからハクの背に載せていた残りの板もすべてコンテナに収納した。
「レイラ」テアが私たちのそばにやって来る。
「そろそろ出発しようと思っている」
「分かった。俺たちは後方からついて行くから、案内を頼むよ」
「任せてくれ、そのために来たんだ」
テアが率いるのは、女性だけで編成された蟲使いの集団だ。蟲使いは昆虫を操る傭兵たちの通称で、彼らの頭部にはツノのようにも見える〈感覚共有装置〉が埋め込まれていて、蟲使いたちはその端末を使用することで昆虫との交信を可能にしていた。
テアたちのそばには、彼女たちの倍の数の黒蟻がいた。黒蟻は蟲使いたちが使役する一般的な昆虫で、その体長は大小様々だった。彼女たちが連れていた黒蟻の群れは、体長が六十センチほどある黒蟻で構成されていた。
蟲使いたちを囲むように行進する黒蟻の行列を眺めながら、我々も森のなかを移動した。しばらくすると百メートルを優に超える樹木の中に、巨大な赤い葉をつける大樹が見えてきた。
そこが今回の目的の場所だった。ぶどうの房のように大量に実る青紫色の果実を採取するのは、黒蟻たちの仕事だった。黒蟻たちは綺麗な列をつくって大樹の幹を登っていくと、大顎を器用に使ってメロンほどの大きさのある果実を採取し運んでくる。暇を持てあましていたハクも喜んで黒蟻たちを手伝った。
そこで採取された果実はウェンディゴのコンテナに運ばれていく。本来は輸送などの仕事も含まれるため、果実の採取はとても大変で危険な作業なのだが、今回はウェンディゴが一緒だったので、苦労することなく大量の果実を運搬することができる。テアはそのことをとても喜んでいた。
黒蟻たちが果実の採取を行っている間、私は蟲使いたちと一緒に周囲の警戒にあたった。しばらくすると風の向きが変わり、また嗅ぎ慣れない不快な異臭がするようになった。
「沼地からやってくる臭いだ」
旧式のアサルトライフルを肩に提げたテアが言う。
「テアたちの集落があった辺りのことか?」
「そうだ。あの辺りは土が腐っていて、風の向きや天気に左右されるが、耐え難い腐臭が立ち込めるときがあるんだ」
「テアたちはそんな土地でずっと暮らしていたのか……?」
言葉を口にしてから後悔した。
「すまない、テア。君たちの集落を悪く言うつもりはなかった」
「わかっている」テアは私に栗色の瞳を向ける。
「わかっているから謝らないでくれ」
彼女の言葉にうなずいたあと、林立する大樹に視線を向ける。
「集落での暮らしはどうだった?」
「苦しい生活だ。沼地は危険な生物も多く徘徊しているし、生きるための糧を得るのも常に命がけだった」
「集落を離れようとは思わなかったのか?」
「どこに行っても同じさ。人間同士で殺し合いをするか、それとも昆虫たちと殺し合いをするか、その二択しかない」
「そうか……」
「でも、地獄を生きているみたいだったよ」
テアは素っ気無く言う。まるで何も感じていないように。
「実際にそう思ったんだ。私は死ぬまで、泥にまみれた地獄を生きていくんだって」
「それは残念だな……」
「残念?」テアは首をかしげた。
「残念って言うのは、つまり……」と慎重に言葉を選びながら言う。
「楽観的に過ぎるけど、この世界に産まれたからには、誰もが幸せになる権利があると思うんだ。だってそうだろ? 苦しむために産まれてくる必要なんてないんだから……それなのに、産まれの
「幸せになる権利か……」とテアは眉を寄せる。
「面白いな。そんなこと、今まで考えたこともなかったよ」
「そうか」と苦笑する。
「なぁ、レイラ」と、しばらくしてテアが言う。
「まだ季節の変わり目なのに、ずいぶんと寒く感じないか?」
「どうかな」と私は言う。
「寒いのは嫌いじゃないんだ」
「私は寒いのが嫌いだ。冬になると、この森には地獄からの風が吹いてくるんだ。凍えるほど冷たい、地獄の風が……」
ハクが大量に実る房ごと果実を採取したおかげで、作業は捗り、予定を越える大量の果実が採取できた。けれど輸送機が迎えに来てくれるのを待つ間も、私の頭にあったのはテアの言葉だった。
冬に吹く風のことを、彼女は地獄の風と呼んでいた。ひもじい思いをしながら、腐臭漂う沼地で寒さにうずくまっていた人々のことを思うと、たまらなく悲しくなった。
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