第八部 水底の色彩 re
第268話 人類 re
その巨大な構造物が旧文明の宇宙船だと知る人間はほとんどいなかった。
それはかつて山梨県と呼ばれていた地域を
広大な湖を囲むように、百メートルを優に超える木々がどこまでも立ち並んでいる。湖の縁に沿って突き立てられている死者の像を横目に見ながら進むと、その向こうに小高い丘があり、そこに象牙色の奇妙な物体があるのが見えてくる。
その構造物は、一見すると巨大なホタテ貝に似ていなくもなかったが、それは旧文明期の輸送船だった。
かつて廃墟の街で生きていた森の民は、水棲生物の変異体が徘徊する海岸を離れ、森で暮らすことを選択した。やがて不思議な構造物の周囲で暮らす〈最初の人々〉と出会い、そこで新たな共同体を築いた。かれらは未知の構造物に〈母なる貝〉という名を与え、神のように崇めた。
それを輸送船だと知る者がいたなら、森の民の異常な信仰心に違和感を持ったことだろう。しかし彼らは真剣だった。そしてそれを責めることは誰にもできない。
森の民は俗世から隔絶された深い〈大樹の森〉で生きていたのだから。なにより、構造物は彼らに〝お告げ〟を与えていた。それは森の民が〈大樹の森〉で生きるための助けになっていた。
森の民は〈母なる貝〉から多くの恩恵を受けた。危険な生物が徘徊する森で生き抜くための知識や、それまで脅威でしかなかった昆虫の変異体を操ることのできる術さえも手に入れることができた。
それらの出来事によって森の民が〈母なる貝〉に向ける信頼や信仰心は、それまでとは比べ物にならないほどになった。そして森の民は〈母なる貝〉と共存する道を選んだ。部族間の対立は起きても〈母なる貝〉だけは絶対的な存在として信仰の対象であり続けた。
私とカグヤは、その〈母なる貝〉の船内にいて、航路作成室と呼ばれる部屋に来ていた。部屋の壁や天井は無機質で滑らかな白い建材で覆われていて、三十人ほどの人間を同時に収容できるだけの広さがあった。
しかし航路作成室と呼ばれている割には、部屋の中にはイスや作業机がなく、ガランとした空間に調度品の類は一切置かれていなかった。
これと言って特徴のない部屋だったが、床には半透明の強化ガラスが敷かれていた。その強化ガラスは立体スクリーンになっていて、ホログラムを投影するために使われていた。床の四方には無重力時に使用される手すりや、消火装置が収納されていることを示すホログラムが浮かんでいた。
室内の様子を確かめたあと、部屋の中心まで歩いて行く。
『待ってて、すぐにイスを用意するよ』
カグヤの声が内耳に聞こえたあと、彼女の遠隔操作によって床の強化ガラスから粘度の高い液体が染み出してきて、それは瞬く間に凝固し、シンプルなイスを形作る。
「ありがとう」
アクリルを思わせる透明感のあるイスに触れて強度を確かめたあと、そっとイスに座る。それから天井に設置された半球状の水槽に目を向けた。水槽の中では、瑠璃色に発光する粘液状生物が不定形な姿を複雑に変化させながら泳いでいた。
突然、床が青白く発光すると、白い軍服に身を包んだ若い女性が目の前にあらわれる。赤髪に天色の瞳を持つ女性は、この輸送船の管理者である〈マーシー〉が、自身の姿をホログラムで再現した女性だった。彼女の本体は、水槽の中で泳いでいる粘液状生物だ。
『今日はどうしたの、キャプテン?』
目の前に立っていた女性が眼鏡の位置を直しながら言う。
「旧文明期について、マーシーが知っていることを教えてもらうために来たんだ。〈大樹の森〉で起きていた騒動も落ち着いてきたからな」
『以前にも同じことを話したと思うけど』と、彼女は目を細めながら言う。『記憶の整理を行ったさいに、森の管理に不要な記憶はほとんど消去された。だから私が知っていることはとても限られたことだけだよ』
「それでも構わないよ。マーシーが知っていることを教えてくれればいい」
『了解。それで、キャプテンは何が知りたいの?』
「そうだな……まずは〈不死の子供〉たちについて教えてくれ」
『つまり、旧文明の人類について知りたいんだね?』
「ああ、そうだ」
彼女はうなずくと、ヒールの踵をカツカツと鳴らしながら近づいてきた。
『至極簡単に説明すると、旧文明の人類は四つの種類に分かれていた』
「種類? それは人種のことか?」
『ううん、違うよ』
彼女は否定するように頭を横に振る。
『まずは昔ながらの普通の人間がいる』
マーシーの言葉のあと、平均的な体格を持つ成人した数人の人間がホログラムで表示される。それらの人々は衣類を身につけておらず、人種も性別も様々だった。
『かれらは――』と彼女は眼鏡の位置を直しながら言う。
『自分たちの持つ宗教観や道徳的概念に従って、昔ながらの生き方を続けている人間だね』
「一般人だな……彼らは何か特別な能力を持っていたのか?」
『持ってないよ。かれらは遺伝的多様性に富んだ普通の人間で、老いて死んでいく』
「廃墟の街を探索しているさいに介護用の機械人形を見ることがあったけど、それは彼らの為のものだったんだな……」
『うん、そうだね。実際のところ、経済的な理由で、そういう生き方しか選択できない人たちがほとんどだったんだけどね……』
「貧困問題に格差社会だな……それは旧文明の人類でも解決できなかった問題だったんだな」と、思わず溜息をつく。
『そうだね。むしろ大企業の台頭や、植民可能な惑星が増えるほど、その問題は大きくなっていった』
「残念だよ」
『でもね、その生き方を選んだからって差別の対象になることはなかった――というのが国や企業の言い分だった。けれど実際は他の種類の人々に見下される傾向にある人々だった。皮肉なことに、とある宗教団体では寿命のある人間は神聖視されていたみたいだけどね』
「どうしてそんなことになるんだ?」
『寿命があることが、神が創造した本来の人間の姿だから……かな?』
「信者を増やして金儲けするために、都合のいいように教義を
『彼らにとって大切なのは、神によって救われる〝弱者〟が存在することだからね。苦しみのない世界では、宗教は必要とされないんだ』
ホログラムで見慣れた廃墟の街が再現されると、それは徐々に文明崩壊以前の姿を取り戻していく。すると都市で生きている人々の生活の営みが表示されていく。マーシーはそのホログラムを見つめながら言う。
『それで次の種類は、不死の薬と呼ばれる〈仙丹〉を服用していた〈不老者〉と呼ばれたグループだね。彼らはキャプテンみたいに超人的な肉体を持っていなかったけれど、〈仙丹〉を服用している間は、健康的な肉体を保ったまま半永久的に生きられた。地球や他の惑星で生きていた植民者たちのほとんどが、このグループに含まれている』
ホログラムで投影された多様な人々を見ながら
「死なない人間か……人間が増えすぎることで、なにか問題が起きたりしなかったのか?」
『その心配はほとんどなかったみたい……地球の人口は〈統治局〉って組織に管理されていたし、人類は〈異星生物〉との戦争を続けていたからね』
「戦争?」
『うん。これは植民地での話だけど、〈異星生物〉のたった一度の攻撃で、人々が万単位の数で亡くなるようなことも珍しくなかった。それに宇宙軍に所属して戦地に派遣される人間も多かったからね。彼らは〈不死の子供〉と違って、予備の肉体が無制限に用意されていたわけじゃないからね。なんどか死んでしまえば、それで終わり』
「予備の肉体がなくなれば、意識の転送はできなくなるのか……たとえば、旧文明の技術で転送される精神のコピー保存することはできなかったのか?」
『実際のところは私にも分からないけれど、技術的な問題があったみたい。だから精神を転送できる肉体がなくなれば、そこでお終い』
「そうか……それで、その〈異星生物〉というのは?」
『異界につながる空間の
「そう言うことか……」
宇宙に進出した人類の不幸を思い、思わず顔をしかめる。
『〈仙丹〉を服用する不老者たちは最も一般的な人類だとされていて、インプラントによる身体改造も普通に行われていた。大量の〈サイバネティクス〉で義体化して、好き好んでサイボーグ化する狂人もいたけれど、生殖行動もできたし、〈統治局〉の許可があれば子どもを育てることもできた』
「三つ目のグループは?」
『軍に所属している兵士階級の人々だね』
「不老者たちと何か違うんだ?」
『さっきも少し話したけど、彼らは戦闘のために改良された肉体を軍から支給されていたんだ。基本的に与えられるのは人型の肉体だったけど、その
「ヒトゲノムの編集か……それは道徳的に許されることだったのか?」
『除隊したときに本来の肉体に意識や記憶の転送が行われるんだけど、そのさいに、それまで使用していた肉体は処分されることになっていた。それにね、本来の肉体の遺伝情報も保存されていたから、クローン培養された肉体を――つまり遺伝子改変されていない身体を受け取れることになっていた』
「つまり借り物の身体なら、何をしても自由ってことか?
『そういうこと。限度はあったみたいだけどね』
彼女の言葉のあと、兵士たちに支給されていた肉体がホログラムで投影される。まるで人間の理想形を
「軍で支給されていた肉体を持つ兵士たちは、一般的な人間と何が違うんだ?」
『もう気づいていると思うけど、背丈は二メートルを超えていて、より筋肉質で大きな身体になっていた。皮膚も特別で旧式のモデルでも光合成が行えて、酸素や二酸化炭素の利用効率を高めるために皮膚に葉緑体が含まれていた』
赤髪の女性は眼鏡の位置を直したあと、兵士の肌に触れながら言う。
『だから若草色の肌色をしていたけれど、新しいモデルは皮膚の色がすべて白練色に統一されている。それは皮膚を覆うナノレイヤーと人工血液の影響で、どうすることもできなかったみたい』
「人種や肌の色を気にする人間は、もはや存在しないってわけか」
彼女は肩をすくめる。
『旧型から性能が向上していて、血液中に含まれるナノマシンによって汚染物質や毒、未知のウィルスから身体を守り、ある程度の怪我も自己修復によって癒すことが可能になっていた』
それから兵士のやわらかな乳房に触れるようにして説明を続ける。
『当然だけど心肺機能も高められていて、全身を覆う筋肉は驚くほど強くて敏捷だった。瞳は夜行性の肉食獣同様に、暗闇でも鮮明にモノが見えるように光量が自動的に増幅されるようになっていた』
すると兵士の
『それ以外にも意識の反応速度も高められていて、兵士たちは〈人工神経接続システム〉によって脳内に〈ブレイン・マシン・インターフェース〉をインストールされていて、軍の〈戦術データ・リンク〉に直接つながれ、網膜に常時投影される情報によって戦闘を有利に進めることができた。それは〈エージェント〉と呼ばれる対話型インターフェースを備えていたから、誰でも簡単に扱えるものだったんだ』
ホログラムで再現されていた兵士の乳房から視線を外すと、赤髪の女性に視線を向ける。
「ただの兵士で、〈不死の子供〉じゃないんだよな?」
『そう。かれらは人類が持つ最大規模の軍事組織に所属していたけれど、そのほとんどは植民者たちで構成された普通の人間だった。軍から支給されていた肉体のおかげで、不死の薬〈仙丹〉を使用しなくても半永久的な寿命を手に入れていたけれど、例えば戦闘で何度も殺されて、予備の肉体がなくなればそこで人生は終わり。ちなみに生殖行動そのものはできるけれど、遺伝子操作の影響で子どもはできないようになっていた』
「軍から支給されていた肉体が、〈サキモリ・シリーズ〉と呼ばれていたモノなのか?」
『そうだね。ここに表示されている男女の肉体は、旧式の〈タイタン・シリーズ〉じゃなくて、〈サキモリ・シリーズ〉の最新モデル十二式だね。私の知る限り、この身体が軍で使用されていた最新のモデルだった。それでね、サキモリって言うのは日本語の防人が由来で――』
「由来は何となく分かるよ」と、マーシーの言葉を遮る。
「それより、俺の身体も軍から支給されたものなのか?」
『違うよ。キャプテンの身体は、もっと複雑で特殊なものだと思う』
「思う……? その身体と何が違うんだ?」女性のホログラムを見ながら訊ねた。
『〈不死の子供〉たちは、第四のグループに含まれる特殊な人類だからだよ』
彼女の言葉のあと、それまで表示されていた兵士たちの身長が伸びて、三メートルを優に超える筋肉質な体形に変化していった。肌の色は白練色だったが、均等のとれた身体はさらに美しくなり、顔立ちも驚くほど美形になった。
「かれらが意識の転送を行いながら、永遠に生きることができた人類なのか?」
『以前にも話したように〈不死の子供〉たちは老いることもなければ、病で死ぬこともない。たとえ〈異星生物〉や異界の化け物に殺されたとしても、この宇宙の何処かにストックされている身体に精神と記憶が転送されて、ふたたび生き続けることができる。彼らは遺伝子操作によって再設計された特殊な肉体を持つ超人で、人類の最高戦力でもあった。もちろん肉体の予備は無制限に用意されていた』
「どういった人間が〈不死の子供〉になるんだ?」
『彼らは特別な任務に就く軍人の集団だった。軍に所属しない人間にも何人か〈不死の子供〉はいたみたいだけど、ほとんどが大企業の重役や国の重要人物で、その数は極めて少なかった』
「参考までに聞かせてくれ、どれくらいの金があればその肉体を手に入れられる権限を得られたんだ?」
『残念だけど』と彼女は頭を振った。
『お金では手に入れられなかった』
「……俺はその〈不死の子供〉に属しているのか?」
兵士のホログラムが消えると、白い軍服を着た女性が振り返るのが見えた。
『断言はできないけど、キャプテンの身体は〈サキモリ・シリーズ〉と異なる特徴を持っている。背は高いけど三メートルを超えるような巨漢じゃないし、肌の色も普通で赤い血が流れている』
「それなのに、どうして〈不死の子供〉だと思ったんだ?」
『普通の人間はそこまで身体能力が高くないし、秘匿兵器を使うこともできない』
「ハンドガンのことか?」
『うん。細工をすれば旧文明の兵器は使えるかもしれないけど、〈反重力弾〉や〈重力子弾〉といった特殊な弾薬の使用許可を与えられていたのは〈不死の子供〉たちだけだった。それにね……』
「他にも何かあるのか?」
『キャプテンは人間の遺伝子を持っているの』
「〈不死の子供〉たちは持っていなかったのか?」
『もちろん持っていた。でも彼らの遺伝子は改変されていて、人間に限りなく近い〝何か〟だった。彼らは決してそれを認めようとしなかったけれどね』
「なら、俺は何なんだ?」
『……キャプテンは、もしかしたら第五のグループに含まれる人類なのかも知れない』
「人間は四種類だけじゃないのか?」
私の言葉にマーシーは肩をすくめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます