第263話 混沌の化け物 re


 それは薄闇をまといながら我々の前に姿をあらわした。

「カグヤ、いつから〝あれ〟はあそこに立っていたんだ?」


『わからない。〈ワヒーラ〉から受信する地図を確認していたけど、何の前触れもなく突然あそこにあらわれた』


 ソレは我々がいた場所から十メートルも離れていない位置に、大樹を仰ぎ見るようにして静かにたたずんでいた。ヌメリのある赤い布で身体からだを包み込む得体の知れない生物は、三メートルほどの体高を持つ二足歩行する人型の化け物だった。


 静寂に包まれた森で、それは我々に向かってゆっくり頭部を向ける。その化け物は甲殻に包まれた人間の頭蓋骨に似た頭部を持っていて、驚くことに天使の輪に似た金色の光輪が頭上に浮かんでいた。小豆色の甲殻に覆われた頭部が動くと、浮かんでいた光輪も一緒に動いた。


 正面を向いた生物の頭部には、暗く深い眼窩がんかがポッカリと開いていて、その奥で何かが動いたかと思うと、ナメクジにも似た器官がヌルリと動いて、周囲の状況を確認するように眼窩からゆっくり伸びるのが見えた。


 それは粘液を滴らせるグロテスクな器官で、三十センチほど伸びると、先端がぱっくりと開いて黒い球体があらわれる。


『あれが目なのかな……』

 カグヤの疑問に反応できなかった。


 その眼球がゆらゆら動くと、生物は我々に向き直って、赤い布をずるずると引きるようにして歩き出した。しかし赤い布だと思っていたものは、おぞましい生物の背中から伸びた気味の悪い皮膚で、生物がヌメリのあるしわだらけの皮膚を引き摺って歩いたあとには、黒い粘液が残されることになった。


『レイ、あれを見て』

 カグヤが遠隔操作するドローンは、光学迷彩を起動した状態で生物の後方に待機していた。そのドローンから映像を受信する。送られてきた映像には、ヌメリのある赤い皮膚が通り過ぎたあとの地面が映し出されていて、地面に生えていた苔が化け物の粘液に濡れると、見る見るうちに枯れていくのが見えた。


『毒性の体液なのかも、混沌の化け物に近づかれる前に対処したほうがいいと思う』

「その考えに賛成だ」

 ライフルの照準を接近する化け物の頭部に合わせた。


 弾薬をライフル弾のフルオート射撃に切り替えると、化け物に対して容赦ない射撃を行い、次々と弾丸を叩きこんでいった。フルオートで撃ち出される銃弾を受けた生物は、衝撃でよろめいたが、効果がないのか生物は立ち止まることすらしなかった。


 耳元のすぐ近くで風切り音が聞こえたかと思うと、豹人たちが放った矢が生物に向かって次々と飛んでいくのが見えた。混沌の化け物は攻撃を避けようとしなかったが、引き摺っていた皮膚をマントのように身体からだの前面に広げると、伸びきった奇妙な皮膚ですべての矢を受け止めた。


『やはりダメか……』

 黒い豹人は唸ると、腰に差していた鉈を引き抜いた。


 そのときだった。化け物の下顎が外れるように大きく開くと、黒くにごった粘度の高い液体が滴り落ちるように吐き出される。その液体は地面につく前に濃い緑色のガスに変わり、周辺一帯に広がっていく。


『もしかして毒ガス!?』

 カグヤがつぶやくのとほぼ同じタイミングで、豹人たちは軽やかな身のこなしで後方に飛び退いた。異変を感じて私もすぐにマスクで頭部全体をおおうと、後退りながら混沌の化け物に目を向けた。


「カグヤ、あれが見えるか?」

 化け物の足元に転がる死骸を見ながら言った。

「まるで死者が生き返っているみたいだ……」


『完全に死んだはずの人擬きが目を覚ました?』

「人擬きだけじゃない……蟲使いたちも同じだ」


 身体が欠損した人擬きや、バグに殺された蟲使いたちがゆっくりとした動作で――さながらゾンビのように身体を起こすのが見えた。蟲使いは吐血しながら歩き出すと、裂けた腹から垂れ下がる腸をゆらゆらと揺らした。


『人擬きの誕生を見せられている気分だよ……』

 カグヤのげんなりした声を聞きながら、思わず溜息をついた。

「バグが復活しないのが唯一の救いだな」


 私がそう呟いたときだった。混沌の化け物はウネウネと動く器官をこちらに向けて、その黒い眸で私をじっと見つめた。その瞬間、吐き気と共に立っていられないほどの眩暈めまいを感じた。強い酒を胃袋に詰め込んだときのような気分の悪さと、絶えず揺れる視界に足元がふらついた。


『レイ、マスクの視覚にフィルターを入れるね』

「……頼む」唾を飲み込み、吐き気を堪えながら言った。


 混沌の化け物の姿はジャギーが目立ち、ハッキリと認識することはできなくなったが、代わりに輪郭だけを強調する赤い線によって縁取られる。これで戦闘に支障が出ることはないだろう。


 化け物に何をされたのかは分からなかったが、その悍ましい生物に対して腹の底から激しい怒りと憎しみが込み上げてきた。ライフルから手を放すと、ホルスターからハンドガンを引き抜いて化け物に照準を合わせた。


 弾薬を〈反重力弾〉に切り替えると、ホログラムの照準器が浮かび上がり、ハンドガンの形状が変化していく。銃身が縦に開くと内部に紫色の光の筋が走るのが見えたが、今回はいつもと違う現象が起きる。その光は徐々に黒くよどんでいき、ハンドガンから薄い蒸気が立ち昇っていることに気がつく。


 そして同時に銃口の先の空間がゆがみ、周囲を薄暗くしていく。

『何だがいつもと様子が違うね』カグヤが戸惑いながら言う。


 歪んだ空間の中から赤黒く発光する輪が複数あらわれると、周囲に立ち込めていた真っ黒な蒸気を輪の中に閉じ込めるようにして収縮していった。そうして銃口のすぐ先に、脈動する小さな赤黒い球体が浮かぶのが見えた。


 ハンドガンが見せた現象は、異界での戦いで経験済みだった。この一連の動作が発生すると、射撃のさいの威力や弾速が上昇する。が、発動条件は分からなかった。しかしこの現象が発生したときに相手していたのが混沌の化け物だったので、そこに何か重要なヒントが隠されているのかもしれない。


 混沌の化け物は空気のなかに漂う微妙な変化を感じ取ったのか、ヌメリのある赤黒い皮膚の向こうから私を睨んだ。そのさい、ナメクジめいた器官がビクビクと痙攣するような奇妙な動きを見せた。


 グロテスクな器官をちらりと見ながら、化け物の胴体に向かって引き金を引いた。射撃のさいに発生した強い反動に両腕が持ち上がったが、銃声はほとんど聞こえなかった。撃ち出された光弾は、銃口の先で赤黒く脈動していた球体を貫通し、その球体に包まれるようにして凄まじい速度で混沌の化け物に向かって飛んでいった。


 化け物は一瞬、光弾を避ける動きを見せたが、何処からともなく飛んできたハクの糸に足元を雁字搦がんじがらめにされて動けなくなった。赤黒い光弾は瞬く間に混沌の化け物に直撃し、化け物が悪足掻きに広げた皮膚を突き破るようにして化け物の胸部に食い込んだ。そして次の瞬間、金属を打ち合わせたような甲高い音が大樹の森に響いた。


 すると混沌の化け物を中心にすべて物体が重力に反して宙に浮かび上がるのが見えた。混沌の化け物の皺のあるグロテスクな皮膚がふわりと持ち上がり、地面に転がっていた大量のバグの死骸や復活したばかりの人擬き、そして蟲使いたちの死体が宙に浮き上がる。


 その間、混沌の化け物はナメクジめいた器官をウネウネと動かし、周囲の状況を観察しているようだった。そして耳をつんざく甲高い大音響が大樹の森に響きわたった。


 混沌の化け物の胸部に埋まっていた赤黒い球体がハッキリと認識できるほどに発光すると、空中に浮かんでいたものすべてが球体に向かって引き込まれていく。混沌の化け物は私に奇妙な瞳を向けながら、己の胸部に向かって、身体中から大量の体液を噴き出しながら吸い込まれていった。


 あとに残ったのは糸で地面に張り付いたまま強引に引き千切れた足だけだったが、それも泥や砂と共に光弾に吸い込まれていった。


 赤黒く発光する光弾の引き込む勢いは衰えず、昆虫に似た大量のバグの死骸や人擬きのように動き出した蟲使いの遺体を引き寄せた。すべてが赤黒い光弾に吸い寄せられ、そして瞬時に圧縮されていった。


 吸い込むものがなくなると、高密度に圧縮された球体状の物体だけがそこに残された。それはしばらく宙に浮かんでいたが、やがて地面につくられたクレーター状の巨大な窪みに向かって落下し鈍い音を立てた。


 森は静けさを取り戻した。豹人たちも何も言わなかった。

『化け物を殺せたと思う?』

 しばらくしてカグヤがそう言った。


「いや……俺の少ない経験則に基づけば、こういう状況ではあまり戦果を期待しないほうがいい」


『今のうちに逃げる?』

「その提案、すごく気に入ったよ」


 いつでも射撃ができるように、ハンドガンを両手でしっかりと構えながらクレーターの縁に近づいていく。灰色の球体はクレーターの中心に落ちていたが、球体からは膿のような気味の悪い液体が漏れ出していて、ひび割れた箇所からは脈動する桃花色の肉が溢れ出ていた。


 まるで恐怖が実体化して、私をそっと抱きしめたかと思うと、ひどい寒気がして鳥肌が立つ。命の危険を感じていたが、恐怖で動けなかった。しかし救いは突然あらわれた。腰に腕を回されたかと思うと、私の身体は後方に引っ張られる。


 そのすぐあとだった。物体からグロテスクな肉の集まりが伸びて、まるで鞭のようにしなやかに伸びて私が立っていた地面を激しく打ち付けた。私を救ってくれたのはマシロだった。彼女は安全な場所まで私を連れて行ってくれたあと、クレーターの中に戻っていく肉塊を睨んだ。


「ありがとう、マシロ」

 私がそう言うと、複眼を真っ赤にさせたマシロがうなずく。


『マシロも怖いのかな?』カグヤが言う。

「そうなのかもしれないな」


 ハンドガンをホルスターに戻してライフルを構えた。そして弾薬を〈火炎放射〉に切り替えると、クレーターの底に向かって炎を浴びせ続けた。


 熱に耐性のある特殊な繊維で編まれた戦闘服を身につけていたが、それでも肌を刺すような炎の熱を感じた。短い警告音が頭の中で鳴ると、ライフルの銃身が自動修復されることを告げる警告が表示される。


 どうやら火炎放射を連続使用したことで発生した高熱に、ライフルの銃身が耐えられなかったようだ。ライフルの修復に弾倉を使い切ると、ペパーミントから受けとっていた予備弾倉をライフルに装填した。


『これでもダメみたいだね』

 カグヤの言葉に返事をすることなく後退り、クレーターのそばを離れると、炎の中から姿を見せた混沌の化け物に視線を向ける。身体を修復した化け物は、マントのような気色悪い皮膚を失っていたが、甲殻によって守られた身体には傷ひとつなかった。そして皮膚を失くしたことで生物の悍ましい姿がハッキリと確認できるようになった。


 小豆色の甲殻を持つ生物は、左右対称の四本の腕と二本の足を持ち、長い腕の先には鋭い刃がついていた。その腕のすぐ下、ちょうど脇腹の位置から短い腕が生えていて、その腕の先には赤黒い体液を滴らせる肉の鞭が垂れ下がっていた。そして相変わらず、化け物の頭頂部の先には金色に輝く輪が浮かんでいた。


 すぐにフィルターがかかり詳細が分からなくなったが、より悍ましい姿になったことだけはハッキリと分かった。


 その混沌の化け物が我々に向かって一歩踏み出したときだった。背の高い茂みの中から金属製の長い棒を持ったコケアリが三体あらわれて、化け物に向かって一直線に駆けた。コケアリの進路上には不運な人擬きがいたが、コケアリは棒を使わず人擬きを素手で殴り飛ばした。その威力は凄まじく、人擬きの頭部は水風船のように割れた。


 コケアリは恐ろしい腕力を持っていたが、それは当然のことのように思えた。コケアリは蟻の一種で、蟻は自分の体重の何倍もある重たいモノを持ち上げられるのだ。その蟻が人と同じ身長を持っているのだから、強力な腕力を持っていても何も不思議なことはなかった。疑問を持つのなら、コケアリの存在自体に疑問を持つべきだった。


 しかしコケアリたちは混沌の化け物に接近することはできなかった。ナメクジに似た器官がウネウネ動くと、その先端にある黒い瞳が光を帯びてまたたいた。すると小さな光弾が放たれ、一瞬のあとにそれはコケアリたちに直撃した。


 そして光弾の当たった箇所を起点に、青い炎が一気に広がってコケアリたちの身体を包み込んでいった。コケアリは地面に倒れると、もだえ苦しみながら死んでいった。そして光弾を避けて化け物に接近できたコケアリも肉の鞭に打たれ、身体を破裂させて死んだ。


 あっという間の出来事だった。一瞬にして三体のコケアリが殺されたのだ。その光景に困惑していると、茶色い毛皮を持つ豹人が私の横を通って、凄まじい速度で駆けて混沌の化け物に接近していった。


 化け物の頭部にある器官はすぐに反応して豹人に向けて光弾を放つが、豹人は見事な身のこなしですべての光弾を避けて、化け物の懐に入りこんだ。そして化け物の首に鉈を叩き込んで、その首を一気にね飛ばした。


 けれど首を失ってもなお、混沌の化け物は死ななかった。


 剣腕を豹人の頭部に突き刺すと、もう片方の剣腕で豹人の胴体を綺麗に両断した。豹人の下半身と血液、それに臓物が地面にドサリと落ちると、混沌の化け物は腕に突き刺さった豹人の上半身を見つめ、それから腕を振って我々に向かって上半身を投げつけた。


 それは血液を撒き散らしながら私の上空を越えると、地面に落下して豹人たちのそばまで転がっていった。


 豹人たちは仲間の死に対して怒り、唸り声を上げる。その声を聞きながら、私の視線は切り落とされた混沌の化け物の頭部に向けられていた。頭部は痙攣するように震えると、ムカデの脚のようなものが切断面から幾つも生えてきた。その脚を使って頭部は混沌の化け物のもとに向かい、身体に飛びつくとカサカサと動いて元の位置に収まった。

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