第262話 混沌の気配 re
急に席を立った私を見て、〈スィダチ〉の族長イロハは慌てながら言う。
「レイラ殿、何か問題ですか?」
「混沌の影響を受けた獣と、人擬きの大群の接近を確認しました」
「なんだと!」首に鷹の刺青をした族長が声を上げる。
「安心してくれ、聖域は〈
「ですが、私たちも戦えます。蟲使いたちに戦いの準備をさせます」
イロハの言葉に私は頭を横に振った。
「族長たちは危険を冒さず、このまま聖域に留まったほうが賢明でしょう。森で安全な場所があるとすれば、それは〈御使い〉たちによって守られている聖域だけなのですから」
「そうですか……レイラ殿はどちらに?」
「周辺一帯を警備しているイーサンたちと合流して、人擬きの大群に対処します」
「しかし」首に鷹の刺青をした族長が不安そうに言う。
「相手は死人なのだろ? あれを殺すことは不可能だ」
「大丈夫だ。連中を殺せる兵器なら持っている」
「異邦人がそんな強力な武器を所有しているなんて、今まで聞いたことがないぞ……」
「俺たちは特別なのさ」
聖域を離れようとしている〈コケアリ〉の隊列にちらりと視線を向けたあと、不安そうにしていた族長たちに声を掛けた。
「問題に対処するまで、取り乱さずに聖域で大人しくしていてくれ。森にはゲンイチロウが指揮する守備隊も展開しているから、余程のことがない限り、聖域にまで敵がやってくることはないだろう」
「わかった」族長は素直にうなずいた。
「だが何もしないのは我々の面子に関わる。レイラ殿に同行したいと願い出る戦士がいれば、共に連れて行ってはくれないか?」
数人の蟲使いがこちらに視線を向けているのが見えた。かれらも森で異変が起きていることに気がついているのかもしれない。
「戦力が増えるのは歓迎する。けど、全員の面倒は見られないぞ」
「かれらも戦士だ。面倒を見てもらう必要はない」
「了解した」
建物を出ようとしたときだった。それまで椅子に座って一言も話さず、眠るようにじっとしていた〈豹人〉が静かに立ち上がるのが見えた。すぐに〈データベース〉の翻訳表から豹人の言語を選択したあと、彼に声を掛けた。
『聖域に敵が向かって来ています。今この場を離れるのはとても危険です』
黒く
『混沌がそこまで来ている』
かれが唸るように声を発すると、頭のなかで声が聞こえた。豹人もハクのように〈念話〉を使って意思疎通ができるのだろう。
『混沌……?』カグヤの声が内耳に聞こえた。
『混沌の影響を受けた生物だけじゃなくて、混沌に属する化け物が近くに来ているってことなのかな?』
『我々もレイラと共に戦おう』
豹人はのしのしと建物を出ていった。かれのあとを追うように建物の外に出ると、ライフルを手にしたペパーミントが立っていた。彼女からライフルを受け取ると、感謝の言葉を口にする。
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼女はそう言うと、薄暗い木々の間から聞こえるようになっていた銃声に耳を澄ませた。
「……すでに戦闘が始まったみたいね」
「ああ、死者の像が並ぶ街道の近くまで敵が来ているようだ」
『そうだね』と、カグヤが言う。
『ゲンイチロウと守備隊が、変異体と交戦しているみたい』
「あの小鬼とかいうサルの変異体か?」
『それだけじゃないよ。イノシシやらシカの変異体も確認できた』
「ミスズたちの部隊も接敵するみたい」
ペパーミントは手元の端末を見ながら言う。
「私もレイに同行したほうがいい?」
「いや」彼女の青い瞳を見ながら言う。
「ペパーミントはイロハたちと一緒に聖域に残って、ここから支援してくれ」
「わかった。何かあれば、族長たちを地下トンネルに避難させるね」
「ああ、判断はペパーミントに任せる」
「それからこれも持っていって。私の予備弾倉だけど、戦闘には参加しないから」
歩兵用ライフルで使用される専用の弾倉を受け取ると、ずっしりとした重みのあるブロック状の弾倉を眺める。
白銀に輝く弾倉は高密度に圧縮された旧文明の鋼材で造られている。我々が現在使用している弾倉の多くは、廃墟の街に転がる廃車や鉄骨、それに建物の残骸を再利用して製造されたものだった。
「どうしたの?」
ペパーミントが眉を寄せる。
「いや……何でもない」
予備弾倉をベルトポーチに入れると、周囲を見回した。
「それよりハクは――」
『ここだよ』
ハクの幼い声が聞こえると、長い脚で抱き寄せられる。
『いっしょ、いく』
「ありがとう、ハク」
『ん、どいたまして』
ハクの助けに感謝すると、豹人たちに視線を向けた。黒い毛皮をもつ豹人は仲間から長弓と矢筒を受け取ると、ハクに群青色の眸を向ける。
そこでハクのことを見つめていたのは彼だけでなく、豹人たち全員だと気がついた。その視線のなかにはハクに対する敵対的な意思や、怯えのようなものは含まれていなかったが、それでも彼らはハクの動きひとつひとつに警戒しているように見えた。
「〝イアエーの英雄〟よ」
蟲使いの集団の中から、男がひとり歩み出る。
「俺たちも戦いに連れて行ってくれ」
豹人たちから視線を外すと、ハクの姿に緊張している蟲使いたちを見つめる。
「敵の中には人擬きもいる、連中を無力化する戦いかたは知っているか?」
「任せてくれ、異邦人たち護衛をする仕事では、敵のほとんどが死人たちだ。奴らとの戦いかたは心得ている」
蟲使いたちの背後では、八十センチほどの体長を持つカマキリの変異体や甲虫、それに体長が一メートルを超えるムカデが待機していた。そのすべての昆虫には、あのツノに似た端末が埋め込まれていた。蟲使いが使役する昆虫たちなのだろう。
『たしかに彼らは頼もしい戦力になりそうだね』
カグヤの言葉にうなずいたあと、蟲使いたちに言う。
「それなら急ごう。すでに戦闘は始まっているみたいだ」
イーサンたちから得た情報と、上空のカラスから受信している映像をもとに敵の位置を確認しているとマシロが飛んでくる。
「マシロも来るのか?」
そう訊ねると、マシロは黒い複眼を私に向けて、それからコクリとうなずいた。
『行く』
「レイと一緒に行動するなら、これを着て」
ペパーミントはそう言うと、マシロのために用意していた専用のボディアーマーをマシロに差し出した。
マシロは唇を尖らせると、櫛状の触角を揺らす。
「嫌なら、マシロもここに残りなさい」
『いや、一緒に行く』
ペパーミントには、マシロの言葉を直接聞くことはできなかったが、その仕草でマシロが駄々を捏ねていると気がついた。
「そんな格好で森に行ったら、ひどい怪我をするかもしれないでしょ?」
『しない』
頭を横に振るマシロを見て、思わず溜息をついた。
「今回は時間もないし、マシロは姿を隠してついてきてくれ」
マシロがうなずいて透明になると、ペパーミントは目を細めて私を睨んだ。私は肩をすくめると、蟲使いたちと共に森に向かう。
大樹の森はいつも以上に静かだった。もちろん守備隊の装備する旧式のアサルトライフルから発せられる銃声は、今も断続的に木々の間に響いていたが、鳥や昆虫たちの鳴き声は一切聞こえてこなかった。
いつもと異なる森の雰囲気に気圧されているのか、蟲使いたちは真剣な面持ちで百メートルを優に超える木々の間を慎重に歩いていた。そんな蟲使いたちと異なり、豹人たちは軽快な足取りで移動を続けていた。驚くことに彼らは裸足だったが、そのしなやかな足運びは足音を一切立てることがなかった。
ちなみに豹人は男女混合の戦闘部隊だったが、私には彼らの性別を区別することしかできなかった。せめて彼らの代表だった黒い毛皮をもつ大柄の豹人の名前だけでも、事前に聞いておけば良かったと後悔していた。
風に揺れる雑草の音に耳を澄ませていると、黒い毛皮を持つ豹人が私のとなりに立って、腰に下げていた矢筒から矢を引っ張り出した。
『混沌がそこまで来ている』
かれがそう言うと、すぐ背後にいた豹人たちも一斉に矢を構え、威嚇するように低い唸り声を上げた。すると緑に生い茂る背の高い草の間から、枯茶色の殻を持つ昆虫のような生物が飛び出してくる。
その生物は背中に異様に長い半透明な翅を四枚持っていて、粘液に覆われた短く太い胴体をもっていた。後脚はバッタのそれと同じように太く、それでいて突起物のある殻に覆われていた。生物の粘液に濡れた
『〈バグ〉だ!』
カグヤの声が聞こえるのと同時に、槍を手にしていた豹人たちが化け物に向かって次々と槍を放った。
我々に向かって飛跳ねてきていたバグは槍を受けると、その衝撃で後方に吹き飛び、大樹の幹に突き刺さった。はりつけ状態にされたバグは、しかし身動きが取れなくなっただけでまだ生きていた。化け物は金属的な不快な鳴き声を発しながら、ゾウの鼻に似たグロテスクな口吻を揺らし、脚をバタバタと動かし続けていた。
騒がしい銃声が聞こえて振り返ると、茂みから飛び出したバグが蟲使いのひとりに組み付き、長い口吻を男の首に突き入れているのが見えた。蟲使いの男はその場に倒れ、悲鳴を上げる間もなく絶命した。すると何処からともなく複数のバグがあらわれて、哀れな蟲使いの死体に群がる。
蟲使いの死体に向かって〈焼夷手榴弾〉を放ると、死体に群がるバグと共に死体を焼却する。
『気をつけて、レイ』カグヤが言う。
『バグの群れに囲まれているみたい』
周囲に視線を向けると、土や泥、それに縦横無尽に
ハクは大樹の幹に張り付くと、バグに向かって立て続けに糸の塊を吐き出していた。強酸性の糸が直撃すると、たちまちバグの体表は蒸気を立てながら
突発的に始まったバグとの戦闘は、周辺に大量の死骸を積み上げるようにして続いていた。豹人たちは統率の取れた見事な陣形で次々と矢を放ち、バグを寄せ付けることがなかった。しかし蟲使いたちの出鱈目な攻撃はバグに通用せず、集団から少しでも離れた蟲使いはバグの大群に呑み込まれ消えていった。
族長会議が始まる前に私に絡んできた背の高い蟲使いが、金棒を使って数体のバグをまとめて叩き潰している様子を見ていると、彼の背後に忍び寄るバグがいることに気がついた。すぐにそのバグを射殺すると、大男のそばに向かう。
「蟲使いたちを連れて先に行け」
接近するバグの群れに射撃を行いながら言う。
「〈スィダチ〉の守備隊がこの先で戦っている。彼らと合流して態勢を立て直すんだ」
大男はうなずくと、周囲に残っていた蟲使いたちを率いて茂みの中に消えていく。かれらの姿が見えなくなると、接近するバグの群れを睨み、標的用のタグを貼り付けていく。
「今だウミ!」
声を上げると、聖域の方角から多数の超小型ミサイルが白い煙の尾を引いて凄まじい速度で飛んでくるのが見えた。
それらの小型ミサイルは次々とバグの群れに直撃し爆散していった。輸送機を使い聖域に運び込んでいた〈ウェンディゴ〉からの援護射撃だ。しかし立ち昇る砂煙と黒煙の向こうからバグが飛び出してきて、我々に襲いかかってくる。
バグの群れに向かって所持している手榴弾の残りをすべて放り投げると、後退しながら標的用のタグを貼り付けていく。
『レイ、衝撃に備えて!』
カグヤの声が聞こえる。
飛来してくる小型ミサイルが次々とバグに着弾し、轟音を立て爆発し、そして衝撃と共にバグの引き千切れた脚や内臓、
『レイラさま』ウミの声が内耳に聞こえた。
『残念ですが、ミサイルの残弾が底を突きました』
「ありがとう、ウミ」射撃を続けながら言う。「今の攻撃だけでも数百匹のバグを処理できた。おかげで、もうすぐ群れを殲滅できそうだ」
ウェンディゴの武装をしっかりと補給していなかったことが悔やまれるが、それでも充分すぎる支援だった。
「ウミは引き続き状況を注視していてくれ」
『承知しました』
最後に残っていたバグが豹人の矢に頭部を貫かれて息絶えると、積み上がったバグの死体を踏み越えながら接近する人擬きの集団が見えた。
『こっちにも人擬きが来たみたいだね』
カグヤの言葉にうなずいたあと、ウンザリしながら言う。
「息つく暇もないな」
人擬きの頭部に通常弾を撃ち込みながら、〈ワヒーラ〉から得られる情報をもとに作成された
「ミスズたちは……どうやら無事みたいだな」
『そうだね。人擬きの群れを相手にしてるけど、ヌゥモとナミが一緒だから問題ないと思う。アルファ小隊も近くで戦っているみたいだし』
「イーサンとエレノアは、すでにゲンイチロウの部隊と合流したみたいだな」
『うん、今は異界の生物に寄生された大型動物に対処してる』
「カグヤ、攻撃型ドローンは?」
『イーサンたちの支援に向かわせてる』
「それなら大丈夫そうだな……そういえば、コケアリたちは?」
『この先でバグの群れを相手にしてる』
カグヤが表示してくれた地図でコケアリたちの状況を確認すると、たしかにバグの大群を相手に戦っているようだった。
「それなら俺たちは――」
急に大樹の森に影が差し、周囲が薄暗くなる。
「嫌な感じがする……」
寒気を感じながらライフルを構え直した。
『どうしたの?』
「沼地の集落に行ったときのことを覚えているか?」
『シオンとシュナの集落のこと?』
「ああ、あの時に感じたのと同じ気配がする」
『姿の見えない敵?』
静まり返った森に枝が割れる乾いた音が響くと、黒い毛皮を持つ豹人が唸りながら言う。
『気をつけろ、混沌が来た』と。
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