第240話 変異体〈マシロ〉re


 人の姿をした美しい生物は、真っ白のフサフサとした体毛におおわれた腕を伸ばすと、そっと私の手を取る。彼女の手はほんのりと温かく、なめらかでやわらかかった。とても人間を軽々と殺せる生物の手だとは思えなかった。


『あなたは、特別』

 彼女は声に出さずに言葉を伝える。

『私が守るから』


「誰かに守ってもらうほど、俺は弱くないよ」

 そう言って頭を横に振るが、彼女は手をぎゅっと握る。

『それでも、私が守る』


「そうか……」

 彼女の複眼を見つめながらたずねた。

「名前はあるのか?」


 カイコの変異体でもある生物は、首をかしげて櫛状の触角を揺らすと、何かを考えるように黙り込む。背中に流している黒髪同様、彼女の黒い眉も困ったように八の字になっていた。

『姉妹たち、みんな同じ。だから名前、ない』


「それは困ったな」

 このままだと彼女を他の個体と区別できない。


『マーシーはこの子たちの母親なのに、名前を与えようとは考えなかったの?』

 カグヤの操作するドローンが飛んでくると、人の姿をした変異体は、瞼のない複眼をドローンに向けて興味深そうに眺めていた。


『彼女たちのもとになったカイコの変異体は、一頭だけだったんだ』と、マーシーの声が内耳に聞こえる。『だから姉妹たち全員を同一の個体として考えて接してきた。その子たちもそれを理解しているのか、個性を持つことに関心がないみたい』


「でも、名前があったら変わるかもしれない」

 私の考えを否定し突き放すような口調で言う。

『その考えは人間特有のエゴだと思うな。彼女たちには人間の遺伝情報が含まれている。でもだからといって人間と同じように思考するわけじゃない。それはキャプテンにも想像できると思う』


「それはマーシーを母親としたってくれている生物に対して、あまりにも冷たい考えかたじゃないのか?」


『そうかしら? 自分たちの枠に閉じ込めて、彼女たちを管理しようとするほうが、よっぽど冷たいと思うけど』


「たしかに一理あるな……」思わず溜息をついた。

「けど一緒に行動するなら、名前くらいはあったほうがいい」


『ならキャプテンがその子に名前をつけて』

 カイコの変異体でもある人の姿をした生物に視線を向けると、彼女の白い体毛で覆われた肢体を眺める。


「ねぇ、レイ。何をそんなに真剣に見つめているの?」

 ペパーミントの問いに肩をすくめる。

「〈御使みつかい〉が一緒に来てくれるんだ。だから彼女に相応しい名前を考えていたんだ」


「名前か……」

 ペパーミントも〈御使い〉に興味があるのか、彼女の手を取ると、フサフサした体毛に触れる。


「あの」ミスズが遠慮がちに言う。

「えっと……〈御使い〉も私たちと一緒に戦ってくれるのですか?」


「ああ、そうだ。彼女は〈母なる貝〉の使いで、俺たちに手を貸してくれる」

 その言葉にマツバラが反応して、目をうるませるようにして感動する。


「まさか〈御使い〉と一緒に行動する日が来るとは……」

 どこか俯瞰的な考えを持ち、それでいて冷静な態度で森の民の宗教観を語るマツバラは、あまり信心深い男には見えなかった。が、森の民なだけあって彼も〈母なる貝〉や〈御使い〉に対して、それなりの信仰心を持っているようだった。


『なぁ、レイ』イーサンの声が内耳に聞こえる。

『その〈御使い〉は、俺たちと敵対することはないんだよな?』


 振り返ると、警戒してライフルを構えているイーサンの姿が見えた。すぐに彼女が安全だと伝えると、彼は緊張を解いてライフルの銃口を下げる。するとヌゥモ・ヴェイもヤトの戦士たちに銃口を下げるように指示した。


 イーサンたちが〈御使い〉の出現に対して、過剰なまでの警戒をしていたことに気がついていなかったが、彼らが緊張する理由は分かる。イーサンたちは〈御使い〉の集団が、蟲使いの襲撃者たちを虐殺している現場を見ていたのだ。


 そして我々は〈御使い〉を遠ざける特別な香炉を焚いていなかった。そんな状態で〈御使い〉が急に目の前にあらわれたのだ。彼女たちの誕生の理由や事情を知らないのだから、彼らが警戒するのは当然のことなのだろう。むしろ仲間に〈御使い〉たちの事情を話していなかった私が反省すべき問題だった。


 指輪型の端末を使い、仲間たち全員に〈御使い〉の情報を教えることにした。しかしこの情報には、森の民に聖人として死後も崇められている呪術師に対して行われた遺伝情報の操作に関する情報も含まれているため、マツバラに情報を伝えることはできなかった。


 〈御使い〉はあくまでも〈母なる貝〉の使いとして、この場にいるということで納得して貰うしかなかった。声に出さずに説明したあと、〈御使い〉の名前について何かいい案がないか仲間たちに訊ねた。


「名前ですか……」ミスズが眉を寄せる。

「ハクはどんな名前がいいと思いますか?」


 ハクは大きな眼で人の姿をした生物を見つめたあと、触肢しょくしを使いトントンと床を叩く。

『しろ、いいとおもう』


「白くて綺麗な体毛を持っているからですか?」

 ミスズは首をかしげる。

「でもそれだと、ハクと一緒の名前になっちゃいますよ」


『おなじ、ちがう』

「漢字で書くと一緒になっちゃうんですよ」


『かんじ、なに?』

「文字ですよ」

 ミスズは輸送コンテナに書かれた日本語を指差した。


 ハクは漢字とひらがなで書かれた注意書きの文章をじっと見つめていたが、やがて理解することを諦めた。ただ単純に飽きただけなのかもしれなかったが、ハクはミスズを抱えて何処かに遊びに行ってしまう。


「あまり遠くに行っちゃダメですよ」

 すぐにエレノアが注意するが、ハクはトンネル内に並んだコンテナの向こうに、あっと言う間に消えてしまう。


 カイコの変異体でもある女性は、カグヤのドローンを手に取ると、不思議そうな表情を浮かべながら胸に抱き寄せた。カグヤがドローンの光学迷彩を起動して姿を消すと、彼女も驚いて一瞬だけ姿を消してしまう。


 そのドローンが天井付近まで逃げていくのを見つけると、彼女は大きなはねを使ってふわりと飛び上がり、ドローンのあとを追いかけるようにして飛んで行ってしまう。


「幼い子どもみたい」ペパーミントが言う。

「やっぱり白でいいんじゃない? 単純な名前だけど、彼女は何にも染まらずに、ずっと森の奥で生きてきた。真っ白な子どもみたいなものなんだし」


「それなら!」と、ハクに抱えられながら戻ってきたミスズが言う。

「〈マシロ〉でどうでしょうか?」


「真っ白だから、真白ましろか……」

 彼女に相応しい名前に思えた。だからマーシーの意見を聞くことにした。

「彼女の名前は〈マシロ〉でいいか?」


『キャプテンがそれでいいなら、私は構わないよ』

 カグヤのドローンを胸に抱えるようにして戻ってくると、彼女に新しい名前を伝えることにした。


『マシロ』

 彼女は綺麗な桃花色の唇を動かしたが、直接声を発することはなかった。


『ハクだよ』

 白蜘蛛がさっそく自己紹介を始めた。マシロはうなずいて、それからハクに微笑む。さっきからずっと気になっていたことだが、どうやらハクもマシロの声を聞くことができるようだった。


『あげる』

 マシロはそう言うと、ハクにドローンを差し出す。


『それ、おもちゃ、ちがう』

 ハクは何処からか拾ってきたバスケットボールをマシロに手渡そうとする。

『これ、おもちゃ』

 マシロは空気の抜けたボールを見つめて、それから首をかしげた。


「ハク」ペパーミントが言う。

「それ、何処で拾ってきたの?」


『こっち』

 ハクはその場にボールを落とすと、ペパーミントを抱いて何処かに行ってしまう。そんなハクを眺めていると、マツバラが義眼を発光させながら言う。


「〈御使い〉に名前をつけたのか……?」

 ひどく困惑しているマツバラに訊ねる。


「〈御使い〉に名前をつけるのは不敬だと思うか?」

「当然だ」


「けど仕方ない。これから一緒に行動するんだ。名前がなければ、意思の疎通ができない」

「〈御使い〉ではダメなのか?」


『そんなの味気ないよ』カグヤが言う。

『チームには親しみが必要なの』


「〈御使い〉は神に仕えるものだ。親しみは必要ない」

『お堅い考えだね』


「機械に言われたくない」

『残念、私は機械じゃないんだよ』


「機械は皆、そう言うんだ」

『インプラントで身体からだを改造しているような人に言われてもね……』


「俺は人間だ」

『人間はみんな、そう言うんだよ』


 不毛な言い合いをしているカグヤとマツバラを無視して、イーサンがマシロの近くにやってくる。イーサンは平均身長よりもずっと背が高かったが、マシロもほぼ同じような背丈だった。〈御使い〉の中には、身長が二メートルを超える個体もいたので、マシロはそれでも身長が低いほうなのだろう。


「しかし」と、イーサンが困ったように言う。

「これから危険な場所に行くんだ。せめてボディアーマーくらいは着させたほうがいいんじゃないのか」


「そうですね」とエレノアも同意する。

「あまりにも無防備ですし、綺麗な女性が裸なのも色々とマズいです」


「けど彼女専用のものを用意しないとダメだな」

 イーサンはマシロの白い翅を見ながら言う。彼女はイーサンとエレノアに黒い複眼を向けるだけで、何も言わなかった。


「少し待ってもらえる?」ハクと一緒に戻ってきたペパーミントが言う。

「あっちに加工台があるのを見つけた。それを使って彼女のためのボディアーマーと簡単な服を用意できるかもしれない」


「加工台ですか?」ミスズが興味を持つ。


「そう。拠点にあるものと同じタイプで、資材を加工するための機械だけど、こっちにある加工台は布製品にも対応した多目的の工作機械だった」


「それなら」イーサンが言う。

「時間を無駄にできないから、俺たちは先に地上の偵察に向かうよ」


「そうだな」彼の言葉に同意する。

「ペパーミントたちを地上に連れて行くのは、あっちの状況を確認したあとのほうがいいのかもしれない」


「では、私も同行しましょう」

 ハカセはそう言うと、腰掛けていた鉄骨からゆっくり立ちあがる。


「俺も行こう」と、マツバラもハカセの言葉に反応する。

「数年前の情報だから役に立つか分からないが、この辺りの地形を把握している。きっと役に立つはずだ」


 森の民と〈守護者〉の関りについては、彼らの歴史で知ることができるようだったが、私は詳しいことを知らない。森にやってきた〈守護者〉が危険な昆虫や、大型動物から森の民を保護したという程度のことは知っていた。しかし森の成り立ちを知るうえで、重要な情報になるかもしれなかったので、いつか森の民の歴史も学んだほうがいいのかもしれない。


「私も行くよ」

 ナミが意気揚々と言うが、私は頭を横に振る。

「ナミはミスズとペパーミントのそばについていてくれ」


 ナミは撫子色の眸で私を見つめる。

「でもここにはハクとマシロも残るんだから、私がいなくてもミスズたちは安全だろ?」


 ハクに視線を向けると、空気の抜けたバスケットボールに糸を吐き出して何かを作っているのが見えた。するとマシロが視線の先に立つ。

「わかった。ナミも一緒に来てくれ」


『マシロも行く』

「ペパーミントがマシロの服を用意してくれるんだ。だからそのあと、一緒に地上に行こう」


 マシロは触角を揺らしたあと、得意げに胸を張る。

『服はいらない』


 彼女の綺麗な乳房から目を離しながら言う。

「マシロの身体からだが頑丈なのは知っているけど、地上では異界からやってきた危険な生物を相手することになる。俺たちはマシロが傷つくのを見たくないんだ」


『見たくない?』

 マシロはイーサンたちに複眼を向けたあと、なんだか困ったような表情を浮かべる。

『わかった。少しだけ、ここで待つ』


 ペパーミントがミスズたちを連れて加工台のある場所に向かうと、私はイーサンたちと地上に上がるための昇降機に向かう。


 テーブル型の巨大な昇降機には、シールド生成装置として使用されている太い円柱の一部や、建材として利用される鉄骨が積まれたまま放置されていた。作業員たちは防壁として機能する円柱が完成すると、後片付けもせず中途半端に作業を終えたようだった。


 せめて使われなかった建材くらい、まとめて片付けておいて貰いたかったが、円柱を造った者たちにも何かしらの事情があったのだろう。


 昇降機は傾斜のあるトンネルを通って地上に向かう。そのトンネルは旧文明の鋼材を含むしっかりしたコンクリートでおおわれていたが、地上に近づくにつれて赤紅色の根が地上から伸びてきていて、壁を覆い隠すほど根を張っているのが見えた。


 それらの根は徐々に太くなっていき、最終的に灰色のコンクリート壁は根に埋もれて見えなくなった。


「戦闘準備をしたほうが良さそうだな」

 イーサンがそう言ってライフルのストックを引っ張り出すと、ヤトの戦士たちも緊張した表情を浮かべながらライフルを構える。


 昇降機が止まったのは、がらんとした洞窟の中だった。天井が高く、建材を運び出すための空間が充分に確保された場所だったが、赤紅色の根は洞窟の床一面にも広がっていた。それはひどく奇妙な光景だったが、カグヤはそこにある施設に感心する。


『樹海に点在する自然の洞窟を利用したんだね』

 彼女の言葉にうなずくと、昇降機の近くに建てられた建物を見ながら言う。

「色々と手を加えたみたいだけどな」


 その建物は植物の太い根に覆われていて、建物内部に入るための扉が何処にあるのかも分からない状態だった。天井に設置された照明の一部は植物に覆われていなかったが、その薄明りは広大な洞窟ではあまりにも頼りないものだった。


「行こう」イーサンが白い息を吐きながら言う。

 真夏だとは思えないほど、洞窟の空気は冷たくなっていた。


 彼の言葉にうなずいて歩き出す。するとヌゥモ・ヴェイがとなりに来る。

「レイラ殿。嫌な視線を感じます。おそらく敵です」


「視線?」周囲を見渡す。

「たしかに何かいるな……」

 敵意を感じることのできる瞳に、赤紫色のもやがぼんやりとあらわれる。

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