第215話 森の悪魔 re
翌日、すっかり体調が良くなった子どもたちを連れてウェンディゴを離れると、大樹が立ち並ぶ森を進む。やがてある地点を境にして、空気が変化したように感じられた。それは僅かな変化だったが、森の奥から吹いてくる風に腐臭が混ざっていることに気がついた。
ハクは地上に鬱蒼と生い茂る植物を避け、木々の枝を伝って移動する。しだいに森の様子が少しずつ変化していき、樹木の間隔が広がり、倒木を多く見かけるようになる。
「この先は地上近くを移動することになりそうだな」
そう口にすると、眼下に見えていた背の高い雑草に目を向ける。すると草陰で何かが動いて、それに合わせて草が揺れ動くのが見えた。昆虫の変異体が潜んでいたのかもしれない。
『ふたりは大丈夫?』カグヤの声が内耳に聞こえた。
「ああ、大丈夫だ。ふたりとも眠っているみたいだ」
目の前に座っていたシオンの様子を確かめて、それから背負っていたシュナの様子を見る。シュナは私の肩に顔を埋めて眠っていた。シオンとシュナが快適な旅ができるように、ウミが特別に改良したクッションとハーネスを使って、ハクの背に快適に座れるようになっていた。
厳密に言えば、頭胸部と腹部の間に跨るようにして座っていたが、ハクの動きの妨げになることはなかった。それにハクが気を使って揺れないように移動していたこともあって、ふたりはぐっすりと眠ってしまっているようだった。
『それは良かった。ところで、ハクは疲れてない?』
「ハク」
白蜘蛛の柔らかな体毛を撫でながら訊ねた。
「この辺りで少し休もうか?」
『やすむ、へいき』
ハクはそう言うと、腐りかけた倒木をベシベシ叩いた。
『ここ、へん』
「変? 何か感じるのか?」
『かんじ、わるい』
周囲を見回して危険な生物がいないか確認するが、危険な生物が潜んでいるようには見えなかった。
「カグヤ、なにか分かるか?」
『少し辺りを調べてくるよ。それまでこの場所で待ってて』
ベルトポーチから偵察ドローンが出てくる。ドローンは特殊な重力場を生成しながらフワリと浮き上がると、光学迷彩を起動して姿を隠した。
青色で網膜に投射されていたドローンの輪郭線が遠ざかっていく。
「ハク、カグヤが周囲の偵察をしてきてくれるから、俺たちはここで少し休もう」
ハーネスの留め具を外すと、シオンを起こさないようにゆっくりハクの背から降りた。それから背負っていたシュナを枝の根元に寝かせ、シオンを抱っこして連れてくると、シュナのとなりにゆっくり寝かせる。
ハクの側まで戻ると、ハーネスで吊るしていたバックパックから綺麗に畳まれた外套を取り出した。外套は環境追従型迷彩の効果があるものだ。それをふたりに覆いかぶせると、まるで植物に擬態する昆虫のように、外套は粗い樹皮と同じ模様に変化していく。
ふと大樹の幹に視線を向けると、奇妙な模様が目に入る。
「これはなんだ……?」
樹皮に触れると、鳥居を逆さにしたような不思議な模様が深く削るようにして彫られているのが分かった。模様の表面は粗く、道具を使って削られたようには見えなかった。
『いっぱい、ある』
ハクはそう言うと、大きな眼を大樹に向けた。
数歩後方に下がって大樹を仰ぎ見ると、たしかにその記号に見える何かが大樹の至るところに彫られているのが見えた。大きさもさまざまで、ルーン文字に見える記号もあれば、意味を成さない横線が並んでいるだけのものもあった。そのなかでも、鳥居を逆さにしたような記号が多く彫られていた。
「カグヤ、サクラと連絡を取れるか?」
一瞬の間のあと、すぐにサクラの声が聞こえる。
『どうしたの、レイ?』
「少し気になるものを見つけた。それが何なのか確認してくれないか?」
マスクの機能を使って記録した画像をサクラに送信する。
『これは……』
彼女の声の調子が変わったように感じられた。
しばらく続いた沈黙が不安にさせる。
「サクラ、これが何か分かるのか?」
『すぐにそこを離れたほうがいい』
「どういうことだ?」
『私にもその模様の本当の意味は分からないけど、それが警告みたいなモノだってことは、森の民ならみんな知ってる』
「警告? 何の警告なんだ」
『豹人たちは、その記号がある場所には〝森の悪魔〟がいるから、絶対に近づかないようにしてる』
「悪魔……? ずいぶんと抽象的な言い方をするんだな」
『豹人たちがこの森の最上位の存在だって話したのを覚えてる?』
「ああ」
『その豹人が〝悪魔〟と呼んで恐れてる化け物が近くにいるかもしれない。だから急いでそこを離れて』
「小鬼の次は悪魔か……」
森の悪魔と呼ばれる生物も、あるいは異界に由来する化け物なのかもしれない。
『レイ?』
「分かった。すぐにこの場所を離れる」
通信が切れると、逆さに彫られた鳥居に目を向けた。
『レイ』カグヤの声が聞こえると、ドローンが姿を見せた。
「どうだった? 何か奇妙なモノは見つかったか?」
『ううん。大樹の上方に危険な昆虫がいるけど、この辺りには比較的大人しい甲虫が数匹いるくらいで、危険な生物は見つけられなかった』
「隠れているのかもしれないな……」
『サクラが話していた悪魔がどこかに隠れてるって考えてるの?』
「ああ、彼女が嘘をつく必要はないからな……。それより、周囲はどうなってる?」
『この先は沼地になっていて、危険な底なし沼も沢山あるみたい』
「沼地なら、子どもたちの集落は近いみたいだな」
『そうだね、集落には――』
そこまで言うと、カグヤの操作するドローンが急に枝の先に飛んでいく。
「何か見つけたのか?」
『さっきまでなかった反応を機体の動体センサーが捉えた』
眼下に広がる緑深い森に目を向けるが、巨大なシダの葉が揺れている以外に何も見つけることはできなかった。
「ワヒーラに頼り過ぎている
子どもたちの近くにいたハクがやってくると、じっとシダの茂みを見つめる。
「何かいるのか、ハク?」
ハクは身体を低くして答える。
『すごく、こわいもの』
名も知らぬ鳥や昆虫の鳴き声で騒がしかった森は、気がつくと死が降ってきたような静けさに支配されていた。鬱蒼と生い茂るシダの葉が揺れると、のっそりと起き上がるようにして茂みから人型の生物が姿を見せた。
それは女性のようにも見えたが、顔と乳房の周囲を除いて全身が灰色の羽毛で覆われていた。しかし骨格が人間に似ているだけで、人間とはまるで異なる種だった。その奇妙な生物が滑るように草陰から出てくると、隠れていた下半身が見えるようになった。
ソレは体長が五メートルを優に超えるヘラジカのような下半身を持ち、前胸から伸びる長い首の先に人型の胴体がついていた。
その生物を目にした瞬間、寒気を感じて全身に鳥肌が立つのが分かった。生物は猫のように細く長い尾で自身の頬を撫でた。その尾には極彩色の羽毛が生えていた。
彼女の
『レイ』
カグヤの声で振り返ると、すでに生物は深い茂みに入っていくところだった。
「行ったのか?」
『うん……あの怪物がサクラの話していた悪魔かな?』
「分からない」と私は頭を振る。
「映像に残せたか?」
『うん。ちゃんと記録した』
「ウェンディゴで待機しているミスズたちにも、怪物の映像を送信しておいてくれ」
『分かった』
興奮し眼を赤く発光させているハクの体毛を撫でると、枝の根元に向かい、眠っていたシオンとシュナを抱き抱えた。
「ハク、すぐにここを離れよう」
『ん』ハクはそう言うと身体を震わせた。
『ちょっと、こわい、だった』
「そうだな」
ハクの背にシオンを乗せてシュナを背負い、ハーネスの留め具の状態をしっかりと確認し、それからハクの背に乗った。
「ハク、集落はすぐ近くだ。もう少しだけ頑張ってくれ」
『もんだい、ない』
ハクは幼い声でそう言うと、となりの大樹に向かって糸を吐き出した。
沼地には横倒しになった木があちこちに転がっていて、ハクは泥深い沼を避けてそれらの倒木の上を伝って移動した。しかし倒木のほとんどが腐っていて、気味の悪いキノコと共にグロテスクな昆虫が巣くっていて、移動に苦労することになった。
森の奥に視線を向けると、倒木の間に幾つかの旧文明の建物の姿を確認することができた。それらは底なし沼のようにも見える恐ろしい場所に、半ば埋まり傾いた状態で立っていた。
拡張現実で
それらの捕食者は泥の中から急にあらわれて、昆虫や他の生物に襲いかかっていて、我々も最大限の注意を払う必要があった。
しばらく黙々と移動していると、シオンとシュナが目を覚ました。ふたりが退屈しないように、フェイスマスクに子ども向けの教育アニメを映してあげた。子どもたちが装着しているマスクは沼地に入るさいに装着させたもので、風にのって漂ってくる臭気からふたりを守るためのものだった。
ちなみに教育アニメは〈データベース〉からダウンロードしたもので、木こりの熊が小さな女の子と一緒に暮らしている、と言った内容の物語だった。なぜか登場するキャラクターは女の子だけが人間で、他のキャラクターはすべて動物だった。シオンとシュナは初めて見るアニメが気に入ったのか、大人しくアニメを見ていてくれていた。
やがて沼に沈み込んでいた無数の古い小屋が見えてくる。
「カグヤ、集落は本当にこの場所で間違いないんだよな?」
カグヤの操作するドローンが飛んでくると、我々のすぐ横で止まった。
『うん、間違いないよ。サクラから入手した情報通りの場所だよ』
「交流が途絶えていた間に、住人は集落を放棄して別の場所に移ったのかもしれないな」
『どうするの、レイ?』
腕を組んで考えたあと、アニメに夢中になっていたシオンに
「この場所に見覚えあるか、シオン?」
「うん?」
シオンは振り向くと、茶色い大きな目を私に向ける。
「ここはね、おはかだよ」
「墓? 集落の人たちのものか?」
「うん。おにんぎょうさんたちが、たくさんねむってるばしょなんだって」
「人と魂を共有している木彫りの人形のことだな。シオンの家がどこにあるか分かるか?」
ダメもとで訊ねたが、シオンはうなずいた。
「しってるよ。ほら、あそこだよ」
シオンの小さな指が向けられた方角には、十五メートルほどの高さの木々が立ち並ぶ森が見える。森の中に森があるのもおかしな話だが、そこは小さな森にしか見えなかった。
百メートルを超える大樹が近くになく、沼の中心に取り残されたようにポツリと孤立していることも、小さな森だと思わせる原因だったのかもしれない。その森にだけ生えている低い木々は、長く
「あの小さな森に見覚えがあるのか?」
そう訊ねると、シオンはコクリとうなずいた。
「ありがとう」
シオンの頭を撫でると、ハクに頼んで奇妙な森に向かってもらう。
密集する枝を避けながら森を進むと、数軒の掘っ立て小屋が見えてくる。
「ここにシオンたちの家があるのか?」
人影のない集落を見ながら訊ねると、シオンは嬉しそうに言う。
「そうだよ! ここにおうちがある!」
ハクの背から降りると、背負っていたシュナをシオンの後ろに座らせた。
「ここでハクと待っていてくれ」
私はそう言うと、静かすぎる集落に目を向けた。
「もう少しアニメをみていてもいい?」
シュナの質問に「もちろん」と答えたあと、国民栄養食の未開封のパッケージをバックパックから取り出してふたりに手渡す。
国民栄養食はチョコレート味のビスケットタイプで、ブロック状のものより幾分か食べやすいものだった。
「水筒も渡しておくから、喉が渇いたら飲んでくれ」
「ありがとう」とふたりは笑顔を見せた。
「ハク、集落を見てくるから、その間、ふたりのことを頼む」
『ん、まかせて』白蜘蛛は緊張した声で言う。
ハクも森の静けさが気になっているのだろう。ライフルのストックを引っ張り出すと、ライフルを構えながら不気味なほどに静まり返った集落のなかを進んでいく。するとカグヤの操作するドローンが音もなく飛んでくる。
『人の姿は確認できなかったけど奇妙なものを見つけた。ついてきて』
ドローンは屋根が崩壊した小屋に入っていく。小屋は荒らされ徹底的に破壊されていた。天井を支える支柱には、太い縄で吊るされた人擬きがいた。ここに住んでいた人間が変異したのかもしれないが、身体は半分腐っていて、男か女かも分からない状態だった。
その人擬きは腹を裂かれていて、小屋の床に内臓が撒き散らされていた。そしてその血液で文字にも見える奇妙な記号が描かれていた。
『気をつけて』とカグヤが言う。
『この状態でも人擬きは生きてるから』
口をパクパクと動かす人擬きを見ながら地面にしゃがみ込むと、そこに描かれた記号を確かめる。
「カグヤ、人擬きの足元にある記号も記録しておいてくれ」
『了解』
血液に濡れた室内を見回して、それからカグヤに訊ねる。
「他の小屋にも人擬きはいたか?」
『ううん。この小屋だけだったよ。他は全部、もぬけの殻だった』
「……集落から住人がいなくなったのは、この人擬きが関係しているのかもしれないな」
ハンドガンを抜くと、人擬きの頭部に銃弾を撃ち込んだ。
『もしかしたら――』と、カグヤが言う。『子どもたちは口減らしにされたんじゃなくて、人擬きから守るために森の外に連れて行かれたのかもしれないね』
「他にも人擬きがいたってことか?」
小屋を出ながら訊ねた。
『それは分からない、もっと邪悪で恐ろしいものがいたのかも』
「さっき見た〝森の悪魔〟とか?」
『可能性はある』
「悪魔が人擬きを吊るして、血液で警告を促す記号を描いた?」
『たしかに変だけど、でも、もしもあれが警告じゃなかったら?』
「けどサクラは――」
『記号が本当は何を示しているのか、サクラも分からなかった』
「悪魔が何かの儀式でもしていたのか?」
『わからない。けど、ここは静かすぎる』
たしかに異様な場所だった。
「そうだな……すぐにこの場所を離れよう」
扉が開いたまま放置された小屋を横目に見ながら、ハクのもとに戻った。
「おひっこし?」
シュナが首をかしげる。
「そうだ」と私は言う。「だから集落に人はいなかったんだ」
「どうしよう?」シオンが目に涙を溜めた。
「大丈夫だ」慌てながら言う。「集落の人たちを見つけられるまで、俺たちが一緒にいる。だから何も心配しなくてもいい」
「でも……」と、シュナが泣きそうになる。
私はシュナを抱っこすると、彼女の茶色の瞳を見ながら言う。
「大丈夫。何も心配することはない。シュナとシオンのことは、俺たちがちゃんと守る」
『だいじょうぶ』とハクも言う。
『しんぱい、ない』
ふたりが落ち着くのを待ってから、素早くシュナを背負い留め具の確認を行う。
『レイ、あれを見て』
カグヤの声に反応して集落の通りに目を向けると、内臓を引き摺って歩く人擬きが森から出てくるのが見えた。人擬きの胸には枝が突き刺さっていて、目と舌がなかった。昆虫に喰われたのかもしれない。
「あの人擬きも腹が裂かれている……」
『うん、小屋にいた人擬きと一緒だね』
「行こう、ハク」
白蜘蛛の背に乗ると、不気味な森に目を向けた。
恐怖や緊張と共に重くのしかかるようになった静寂を破るように、乾いた枝を踏み抜く音が森の奥から聞こえた。その瞬間、全身に鳥肌が立ち得体の知れない〝何か〟の強い視線を感じた。
そこに〝何か〟がいるのは確かだった。けれど強い吐き気と
我々は恐怖に追い立てられるように、その集落をあとにすることになった。
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