第153話 雨 re


 まぶたを閉じると、甲板を叩く静かな雨音が聞こえてくる。

 しとしと降り出した雨の匂いが、記憶を運んでくる。



 それが自分の記憶なのか、いつのことなのかもハッキリと分からない。時の流れと共に記憶は色褪いろあせ、意味を失くした夢のようなものに変容していく。そしてある日、感情の波と共に暗い意識の底から浮上して、私をひどく混乱させた。


 彼女は雨が好きだった。雨が降ると決まり文句のように、いかに雨のことが好きなのか嬉しそうな表情で語った。雨の感触が好きだと言う。その音も、雨と一緒に空から降ってくる匂いも好きだと言って笑う。彼女は一通り雨について語ると、困ったように下唇を噛んだ。


「でも、この場所では本物の雨は降らないから……」

「なら」と、私もあらかじめ用意していた科白せりふを口にする。

「俺と一緒に本物の雨が降る世界に行こう」


 彼女は足元に視線を落として、それから私を見上げる。

「本当に?」

「ああ、約束する」


「ありがとう、レイ」

 彼女はそう言うと私の頬にそっと触れる。

「私はレイのことが好き」


「知ってる」と、思わず視線をそらしながら素っ気無く言う。

「ねぇ、レイ。ここはすごく寂しい」

「……そうだな」

「とても怖くなることがあるの」


 何かを言葉にしようとするが、なにを言えばいいのか分からない。

「まるで悪夢を見たあとの静けさのなかにいるみたい。レイは……レイはひとりでいて、怖くなることはないの?」

「怖いさ、とても怖い」


 彼女は私の頬からかすかに震える手を離すと、そっと目をせた。

「レイに会いたい」

「迎えに行くよ」

「でも、レイは――」


「大丈夫だ」と彼女の瞳を見つめながら言う。

「必ず迎えにいく」

「そうね」彼女は精一杯せいいっぱいの笑みを作る。


 彼女の下手へたな作り笑いを見るたびに、胸が締め付けられて、気がつくと涙を流しそうになっている。どうしてそんな気持ちになるのかは分からなかった。けれど感情が抑えられなかった。そういった感情の波が私を混乱させるのかもしれない。


 彼女は私に目を合わせて、それからすぐに視線を外す。

「どうしたんだ?」

「ううん」彼女は頭を振る。


 それからじっと何かを考えて、思い切って言葉を口にする。

「もしもまた会えたら、そのときはレイの腕でしっかり私を抱いてほしい。私だけを愛してほしい」


「今だって――」

「ごめんなさい……。そうじゃないの。私はただ、レイを愛したいだけ。君の側にいたいだけなの」


 彼女の姿を立体的に投影していたホログラムが消えると、私は力なくその場に座り込んだ。偽物の雨に打たれながら、空虚くうきょな部屋を見渡す。彼女の声はもう聞こえなかった。彼女の動きに合わせて流れる黒髪も、花が咲いたように微笑む唇も、やわらかな身体からだをぴったり押し付けてくるときに感じ取れる優しい温もりも、この場所には何ひとつとして存在しなかった。


 この場所は空虚で冷たく、どこまで行っても孤独が続く世界だ。どうして私はこんな場所にいるのだろうか?


 まるで壊れた羅針盤らしんばんを手に広大な海を彷徨さまよっているような、そんなひどい気分だった。荒波に立ち向かい、嵐を越えて、数百の夜をまたいだ。しかし壊れた羅針盤らしんばんは何処にも連れて行ってはくれなかった。


 この宇宙にあるのは、身の凍るような暗く冷たい地獄だけだった。



『レイ』と、聞き慣れた声が内耳に聞こえる。

『起きて、レイ』


 まぶたを開くと、曖昧模糊あいまいもことした暗い意識で海岸を見つめた。

「悪い、カグヤ」と、自分の状況を確かめながら言う。

「眠っていたみたいだ」


『大丈夫だよ。カラスを使って集落の監視は続けていたから』

 雨粒が頬に当たると、暗くなり始めた空に視線を向けた。

「雨か……」

『うん。雨が降るかもしれないって言ったでしょ』


「そうだったな」

『何か気になるの?』

「いや、なんでもない。大丈夫だ」

 砂浜に打ち寄せる波のように感情の残滓ざんしがやってきて、そして静かに去っていった。もう思い出せることはなかった。


『……そっか。そう言えば、さっきジュリから連絡がきたよ』

「拠点で何か問題が起きたのか?」

『ううん。ペパーミントと話をしたかっただけみたい』


「拠点にペパーミントがいなかったから、寂しくなったのかもしれないな」

 私はそう言うと、凝り固まった身体からだを伸ばす。

「ハクとペパーミントは?」


『ハクならペパーミントを連れて、砂浜にあらわれたカニを捕まえに行った』

「カニ?」

『うん、ちっちゃいやつだよ。すぐに帰ってくると思うから、心配しなくても大丈夫。ふたりの位置情報は発信機からリアルタイムで送られてきているから、見失うこともない』


 網膜に投射されていた地図を確認すると、ふたりの位置をしめす青い点がすぐ近くで点滅しているのが見えた。

「あのカニも、やっぱり変異体なのかな」

『きっとそうだよ』と、カグヤはクスクス笑う。


 空が青紫色にまたたいたかと思うと、遠くに見えていた高層建築群の間に雷が落ちるのが見えた。まるで空を引き裂くような亀裂が生じると、廃墟の街に轟音が響き渡る。私は立ちあがると、集落の監視を続けていたジョージのもとに向かった。ぼんやりとした篝火かがりびの明かりで照らされた集落を眺めながら、ジョージにたずねた。


「集落の様子はどうだ?」

馬鹿騒ばかさわぎが終わったところだ」

「馬鹿騒ぎ? 連中は宴会でもしていたのか?」

「ああ、やつら人間をつまみに酒を飲んでやがった」


「酒なんてどこで手に入れたんだ?」

「行商人からか奪ったモノだろうな」

「……それで、今はどうなっているんだ?」と、〈カラス型偵察ドローン〉から受信する映像を確認する。


「騒ぎはだいぶ落ちついたが」と、ジョージはドレッドヘアーを揺らす。

「忍び込むなら、もう少し様子を見たほうがいいな」


「そうか……」

「まだカラスを使って、集落の様子を確認しているのか?」

「この辺りの海岸にはカラスが多く生息しているからな。軍艦の残骸にカラスが一羽止まっていたとしても、連中に怪しまれない。それに、集落に侵入したときに効率よく動けるように、集落の詳細な地図がほしいんだ」


「たしかに地図があったら便利だけどよ」

「ジョージの端末を貸してくれ」

「うん? ああ、いいぜ」

 ジョージは人がいいのか、少しも疑うことなく私に端末を手渡した。


 接触接続で端末に接続したあと、カード型端末をジョージに返した。

「集落の地図を転送しておいた。集落に侵入するさいには、それが役に立つはずだ」

「接触接続ができるのか!」と、ジョージは大袈裟おおげさに驚いてみせた。


 自分自身の迂闊うかつさに舌打ちしそうになった。まさか接触接続について知っている人間がいるとは思わなかった。

「そんな怖い顔するなよ」と、彼は陽気な笑みをみせる。

「接触接続ができるってことを隠したい気持ちは分かるぜ。そいつはあまり役に立たない能力だからな」


「役に立たない?」と、思わず顔をしかめる。

「ああ、そうだ。軽いデータの転送と、セキュリティ対策がしていない端末との接続にしか役に立たないからな」

「それしかできないのか?」


「ある種のセンスがあるやつなら、IDカードの偽造ぎぞうくらいはやってのけるだろうけな」

「それが普通なのか」

「違うのか? 高価なインプラントを手に入れても、糞の役にも立たない上に大金を失うから、みんな隠したがるんだ」


「それが隠す理由になるのか?」

「そりゃ誰だって、そんな素人みたいな失敗をして恥をかきたくないからな」とジョージはニヤつく。「安心しろ、俺は口が堅いんだ。レイラの秘密は墓まで持っていくつもりだ」


「口が堅いね……」と私は眉を寄せる。

「本当は俺をかついでいるんじゃないのか?」


「まさか」とジョージは言う。「俺は口が堅いって有名だぜ」

「そうじゃなくて、接触接続のことだ」


「いや、騙すつもりはないぜ。だって何もできないのは事実だろ? 義眼とセットで手に入れたやつが言うには、接触接続を生かして大掛かりなことをやるのには、なんとかって権限と、高価なインプラントパーツを脳に埋め込む必要があるらしいぜ」


「高価なインプラント……もしかして、生体チップのことか?」

「そうだ。そいつは腕のいい傭兵だったが、まともに字が読めない奴だったんだ。だから網膜に投射される字や記号が理解できず、結局なにもできなかったんだ」


「ジョージなら、そいつの代わりに字が読めたんじゃないのか?」

「そいつとは酒の席で喧嘩別れして、それ以来会ってないんだ」

「喧嘩別れ?」


「ああ」と、ジョージはニヤつく。

「あいつが接触接続のインプラントパーツを腕に埋め込んだことを、傭兵仲間にうっかり話しちまったんだ」


「うっかりね」

「酒を飲むと、誰だって口軽くなるものさ」


『ジョージは嘘ついていないと思うよ』とカグヤの声が内耳に聞こえる。

『鳥籠で生活する人々の〈接触接続〉に関する認識にんしきはその程度だと思う。〈データベース〉の特定の接続権限がなければ、レイにもできないことはいっぱいあったからね。知識も権限も持っていない人間ならなおのこと』


 彼女の言葉にうなずくと、視界のはしに表示されていた周辺地図で、ハクの位置情報を確認した。

「どうしたんだ?」とジョージが言う。

「ハクが帰ってきた」

「ハクって、あのモフモフした白蜘蛛だろ。どこにいるんだ?」


「ジョージの背後だ」

 彼が驚いて振り向くと、闇の中からハクの長い脚がそろりとあらわれる。


『レイ』とハクは言う。

『かに、つかまえた』

「どんなやつだったんだ?」と、私はたずねた。


『このくらい』

 ハクはそう言うと、脚の先に巻き付いていた糸を引っ張った。

 すると、薄闇の向こうからゴツゴツしたカニが姿を見せた。灰汁色のキチン質の堅い甲殻は、ツノのような突起物に覆われていて異様に大きかったが、たしかにその生物はカニに似ていた。


「デカいな……ところで、ペパーミントはどうしたんだ?」と、周囲に目を向けながらたずねた。

『にもつ、とる』

「ヴィードルから荷物を取り出しているのか?」

『ん。すぐ、くる』


「それで、ハクはそのカニを食べるのか?」

 ハクは糸で雁字搦がんじがらめにされていた大型犬ほどもあるカニから、丁寧に糸を剥がしていた。

『かに、おいしい』


 ハクの口元からバリバリと何かを砕く音がして、カニの殻がパラパラと甲板に落ちた。

「そのカニ、本当にうまいのか?」

『ちょっと、くさい……』

 ハクは心なしか、落ち込んだ声で言った。

「そうか……臭いのか」


「なあ、レイラ」とジョージは言う。

「本当にハクと話ができるのか?」

「ああ」と私はハクを撫でながら言う。

「声が直接、頭の中で聞こえるんだ」


「通信機器でも、頭に埋め込んでいるのか?」

「違う。それに聞こえるのは俺だけじゃない。ハクと親しい人間はみんな、ちゃんとハクの声が聞こえている」

「はぁ、まるで魔法みたいだな」とジョージは感心する。

「俺も聞いてみたいな」


「それなら、ハクと仲良くなるしかないな」

 ジョージはハクに目を向けたが、ハクがジョージに向ける眼は相変わらず赤く発光していて、敵意を持っているようだった。


「これは当分の間、無理そうだな」

 ジョージが頭を振ってみせると、私も肩をすくめた。

 ハクがジョージを警戒している理由は私にも分からなかった。


「レイ」

 薄暗い船内からペパーミントが歩いてくるのが見えた。彼女はこの暗闇の中、ライトを使用せず階段を上がってきていた。おそらく彼女が使用するガスマスクのフェイスプレートには、ナイトビジョンの機能があるのだろう。


「ヴィードルからレインコートを持ってきたよ。雨が強くなる前に早く着て」

 ペパーミントはそう言うと、私に外套がいとうを手渡す。

「ありがとう、ペパーミント」

 外套を受け取ると、素早く羽織はおった。


 それは〈環境追従型迷彩〉の機能を備えたモノだったので、集落に潜入するときに役立つはずだ。ちなみにペパーミントもレインコート代わりに同様の外套を羽織っていた。


「ペパーミントもそのカニを食べたのか?」

「食べる訳ないでしょ」と、彼女は頭を振る。

「ハクは何匹も捕まえて食べていたけど」


「そんなに食べたのか?」

「お腹を壊すから止めなさいって言ったんだけど、全然聞かなくて」


 お腹を壊す? ハクは排泄するのだろうか?

 蜘蛛くもにも肛門があって排泄することは知っていた。けれどハクは蜘蛛に似ているだけで、厳密には蜘蛛じゃない。それに深海の生物には口や肛門、消化器官すら持たないのに生きている生物もいる。ならハクだって……いや、そもそも私は何を考えているんだ?


「レイ?」と、ペパーミントが困ったような表情で私を見た。

「あぁ、どうした?」

「ぼうっとしてたけど、平気?」


「ああ、大丈夫だ。少し考え事をしていたんだ」

「きっとすごく重要な事を考えていたのね。でも集中して、そろそろ集落に行くんでしょ?」

「そうだな」と外套がいとうのフードを下ろした。

「雨が激しくなる前に移動しよう」


「ねぇ、レイ。ヴィードルはどうするの?」

「近くまで乗って行ってくれるか?」

「そのほうがいいかもしれない。ここに置いていくのは、なんだか嫌な感じがする」

 彼女はそう言うと、不気味な闇に支配されている船内に目を向けた。


「ジョージ、いけそうか?」

「大丈夫だ。すぐに動ける」

 彼はそう言うと、重そうな対物ライフルを肩にかついだ。


「まずは集落に潜入する。マリーの確保を優先して動こう」

「マリーが集落にいなかったら、例の洞窟まで一緒に来てくれるのか?」

「乗りかかった船だ。最後まで付き合うよ」

「助かる」と、ジョージは気のいい笑顔を見せた。

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