第五部 異海 re

第131話 深い海の底で re


 日の光が届かない海底は、我々が知る海とはまるで異なる世界だという。生命の気配が感じられない暗く冷たい海の底では、生まれては死んでいく時間すらも停滞し漂っている。しかしだからといって、生命が存在しないというわけではない。そこでは我々がまだ見ぬ生命が息づいている。


 薄暗い部屋で目を覚ますと、ゆっくり身体からだを起こして暗闇に順応した目でぼんやりと部屋を眺める。そこには影のない闇が立ち込めていたが、ハッキリと室内の様子を確認することができた。霧がかった曖昧模糊あいまいもことした意識で、しばらく何もない空間を見つめたあと、拠点の最下層にある管理者専用の部屋で眠っていたことを思いだした。


 ベッドを離れると薄暗い部屋を歩いて洗面台に向かう。鏡の前に立つと、人の気配に反応して鏡に取り付けられていた照明が灯る。鏡には地上の天候や気温、それに地下施設の管理情報がホログラムで投影されていた。


 それらの情報を無視して鏡の中の自分自身に視線を向ける。すると照明を浴びて瞳孔がきゅっと収縮しゅうしゅくしてかすかかに明滅するのが見えた。眼球を覆うナノレイヤーの働きで、濃紅色の虹彩をもつ瞳孔が金色の光を放っていた。


 寝汗で濡れたシャツを脱ぎ捨てるとシャワールームに入る。その際、身体からだのあちこちをしげしげと眺める。割れた腹筋に手を滑らせると、激しい戦闘によって身体中からだじゅうに小さな傷痕があるのが確認できた。


 体内にある〈医療用ナノマシン〉によって治療されているからなのか、肉がえぐれたような傷痕は綺麗になくなっていた。砂漠地帯から戻ってきたときに確認した青痣や、酷い日焼け跡も残っていなかった。


 シャワーを終えると、〈ジャンクタウン〉にある軍の販売所で手に入れた真新しい服を着ていく。黒を基調としたインナーは体温調整や耐汚染、そして耐衝撃に優れたモノだった。


 物資を調達するときに、とくに時間をかけて選んだモノが肌着だった。とにかく夏が苦手だった。生暖かい風やジメジメした蒸し暑い気候もそうだが、廃墟の街のいたるところで大量発生する昆虫が苦手だった。だから肌をなるべく露出しないように、ある程度の気密性を確保できる肌着が必要だった。


 購入したインナーは高価なモノだったが、性能には満足していた。肌触りが良く伸縮性があって、驚くほど軽かった。それでいて体温調整などの機能が備わっている。手に入れないわけにはいかなかった。


 戦闘服のデザインは今までのモノと変わらない市街地戦闘用の灰色のデジタル迷彩柄だが、旧文明期の特殊な繊維が使われていて、防刃、防弾耐性に加えて、汚染物質対策が施されたモノだった。戦闘のたびに損傷して使い物にならなくなるので、まとめて何着か購入していた。


 戦闘服と同様の性能を持つ靴下を履くと、新調したタクティカルブーツも履いた。ブーツは紐がなく、素材の伸縮によって足にフィットするものになっていた。軽量で運動性が高く、それでいて通気性を保ちながら、汚染物質と液体に対して高い効果を発揮するモノだった。


 ウォークインクローゼットに備え付けられている鏡で全身を確かめる。そのクローゼットは、数日前まで寝泊まりしていた部屋よりも広かった。本来は高価な服や靴、腕時計やバックが並べられるクローゼットには、代り映えしないデザインの戦闘服と小銃が綺麗に並べられていた。


 リビングルームに戻ると、打放うちはなしコンクリートにも見える壁の正面に置かれたソファーに座る。ソファーの座り心地はとてもよかった。柔らかすぎもせず、固すぎもせず、清潔でクッションの具合もちょうどよかった。

 部屋にいるときには自律型掃除ロボットの姿は見たことがなかったが、不思議なことに部屋は掃除が行き届いていて清潔だった。


 ソファーに身体からだを深く沈めたあと、灰色の壁に視線を向ける。ソファーのそばにある低いテーブルには、ガラス容器に入れられた綺麗な水が用意されていた。グラスに水を注ぐと、冷たい水をゆっくり飲んだ。


 打放しコンクリートにしか見えない壁は、深い海の底が見えるように、徐々に素通しガラスに変化していった。水底は暗く何も見えなかったが、しばらくすると音もなく照明が灯って海底を泳ぐ魚群が見えた。


『おはよう、レイ。今日は起きるのが遅かったね』

「おはよう」と、内耳に響く〈カグヤ〉の柔らかな声に返事をする。

「最近はいそがしかったから疲れていたんだと思う」


 カグヤは軍事衛星に搭載された〈自律式対話型支援コンピュータ〉の一種で、記憶を失った状態で文明が崩壊した世界で目が覚めてから、今日まで一緒に生きてきた掛け替えのない相棒だ。


『きっと拠点に対して小規模の襲撃が続いていたから、精神的に疲れていたんだね』

 彼女の言葉にうなずくと、薄暗い照明に浮かび上がる海底に視線を向ける。

 海底の砂を照らすように投光器が動くと、対照的に室内は薄暗くなっていく。その所為せいなのか、海底の反射によって部屋は紺青色こんじょういろに染められる。


「地上の様子は分かるか?」

『拠点周辺を巡回警備しているヤトの部隊から、警備状況に関する報告は受けてるよ。状況を分かり易く理解できるように、情報をまとめておいたから確認して』

「助かる」


 音声データを交えた資料で〈ヤトの一族〉で編成された部隊の活動状況を確認しながら、なんとはなしに、ガラスの向こうに見えていた海底にちらりと視線を向けた。


 小魚が照明を浴びて紅色に輝いている。暗く深い海はその色彩だけでなく、音もまた独特だった。海底は沈黙の世界ではない。特殊なガラスを通して鈍く重たい音が聞こえてくる。すると海底の砂を巻き上げながら巨大なサメが姿を見せる。しかし身体中からだじゅうに細かい傷痕があるサメは、照明の光を嫌うように薄闇のなかに消えていった。


 拠点の最下層にある管理者の部屋に初めて入ったとき、部屋に水槽が設置されていると勘違いしていたが、実際は海底が見えているだけだった。どうやら水中洞窟とつながっていて、時折ときおりこうして魚が姿を見せることがあった。


「襲撃が収まって一週間か……」

 そうつぶやくと、紺青色に染められた薄暗い天井に視線を向ける。

『昨夜も警戒網に入ってきたのは〈人擬き(ヒトモドキ)〉だけだった』

 カグヤはそう言うと、海岸線に続く大通りをフラフラと歩いている人擬きの姿を拡張現実(AR)のディスプレイで表示してくれた。


 ぼんやりと大通りを歩いていた人擬きは、瓦礫がれきに足を取られると顔から地面に倒れる。しかし痛みを感じているようには見えなかった。生きたしかばねのような姿を持つ化け物は顔面から血液を垂れ流しながらお立ち上がると、あてどなく歩いていく。


 人々は廃墟の街で彷徨さまよう不死の化け物のことを〈人擬き〉と呼んだ。ソレは旧文明期以前の人間が作り出した不死の薬〈仙丹せんたん〉によって、この世界に誕生した化け物だ。驚異的な生命力と再生能力によって、基本的に殺すことはできない。だから無力化することを念頭に戦う必要がある。手足を潰したり頭部を破壊して行動不能にしたりと、いくつかの方法が存在した。


 廃墟の街で人擬きに遭遇したときに――大抵の場合は遭遇してしまうが、そのときに注意しなければいけないことは、人擬きに噛みつかれることや、鋭い爪で引っ掻かれてしまうことだ。不死の化け物攻撃で傷を負ってしまった場合、その人間は高確率で〈人擬きウィルス〉に感染してしまう。


 ディスプレイに表示されていたボロ切れを着た化け物も、人擬きに襲われて噛みつかれたことで感染して、グロテスクな化け物に変異した個体なのだろう。


 人擬きは横転した多脚車両の残骸の側にたどり着くと動きを止めた。それから臆病な小鳥のように、素早く頭部を動かして周囲の音や臭いを確かめていた。そして通路の向こうから姿をあらわした〈ヤトの戦士〉を見つけると、突然とつぜん怪物じみた脚力で駆け出した。


 ヤトの青年は焦ることなくレーザーライフルを構えると、人擬きに向かって射撃を行う。ライフルから発射された閃光は、人擬きの頭部を焼き貫いていく。衝撃を受けた化け物は背中から地面に倒れると、陸に打ち上げられた魚のように手足を出鱈目に動かして暴れる。


 ヤトの戦士は頭部を失っても動き続ける人擬きに焼夷手榴弾しょういしゅりゅうだんを放ると、化け物が焼き尽くされるまでその場にとどまり、静かに見守っていた。


 ヤトの戦士が使用した焼夷手榴弾は、サーメートと呼ばれる焼夷弾と同様の効果を持つ兵器だ。テルミット焼夷弾の一種で、短時間だが非常に高い温度を瞬間的に生み出せる兵器だった。しかしヤトの青年が使用したモノは効果範囲が広く、燃焼時間も長い特別な手榴弾だった。


 人擬きを無力化して処分するのに、充分な効果を発揮する兵器だった。高価なモノなので多用はできないが、拠点の地下で試験的に製造したモノだったので、気兼ねなく使用できるようになっていた。化け物を殺せないのなら、原形を失くすまで破壊して無力化すればいい。それなりにコストはかかるが、確実に人擬きを処分できる方法だった。


「拠点の警備は問題ないみたいだな」

『そうだね。ジャンクタウンで購入していた各種センサーも設置したし、拠点で整備していた機械人形も巡回警備に参加してる。それに廃墟の街で回収した特殊なシートも使ってるから、準備は万全だよ』


「特殊なシートって、光学迷彩の効果があるやつか?」

『そうだよ。迷彩効果を付与するための装置も回収していて、すでに廃墟を改修して設けた監視所で使えるようにしてある』

「拠点に対する襲撃が続いていて作業のために人手が割けない状況だったから、大変な仕事だったんじゃないのか?」


『すこし大変だったけど、回収した装置やらを運搬するときには、〈ウェンディゴ〉を使ったし、設置さえ終われば装置の設定は簡単にできるからね』

「そうか。作業を手伝ってくれたヤトの戦士たちに感謝しないとダメだな」


 ちなみに〈ヤトの一族〉は〈混沌の領域〉と呼ばれる異界を旅したときに出会った戦士の集団だ。一族とは敵対していたが、異界に存在する数多の神の一柱とされる〈大蛇ヤト〉との不思議な縁で、今は一族と仲間になっていた。


 ガラスを通して海の底を眺めていると、不思議な感覚にとらわれる。

 水中洞窟の先にうっすらと岩棚が見えていて、さらなる深みに続いていた。その薄闇のなか、得体の知れない生物の姿を見た。

 それは照明の光を反射させて、周囲を明るくする。それは一瞬のことだったが、海底の砂や岩の起伏が残像として目に残るほどの鮮烈な色彩だった。


 じっと薄闇を見つめていると、闇の向こうから生物が姿をあらわした。それは初めて見る生き物だった。いや、そもそもそれは私が知る世界には存在しない生物だった。細い胴体に二本の腕、ヤモリに似た頭部をしていて下半身には尖った吸盤きゅうばんがついた触手しょくしゅが生えていた。三メートルほどの大きな身体からだを持つソレは、ゆっくりとガラスに近付いてくる。そして大きな白濁はくだくした四つの目を私にじっと向けた。


 素通しの特殊なガラスは、マジックミラーのように反対側からは灰色の壁しか見えないようになっていた。しかしその生物は私の姿が見えているかのように、じっと私を見つめて、それから身をひるがえすと暗い海の底に帰っていった。その生物の視線からは、深い闇の中から這い寄るような、そんな邪悪な意思を持った暗いよどみが感じられた。


『不思議な生き物だったね』

 カグヤの言葉にうなずく。

「たしかに不思議だった。でもそれだけじゃない。俺はアレが恐ろしかったよ。厚い壁にへだてられていてもなお、あのおぞましい生物に恐怖を感じた」


『……もともと深海に生息していた生物かな?』

「わからない。でも異界から迷い込んできた生物だって言われたら、俺は何の疑問も持たずに信じるよ」

『〈混沌の領域〉に通じる空間のゆがみが、深い海の何処どこかにあるのかもしれないね』

「あるいは、そうなのかもしれないな」


 私は深い海の何処か、人知れず開いた〈神の門〉のことを想像した。

 そしてその暗い穴の中からい出す異形の生物の姿を見たような気がした。それらの生物の眼は私にしっかりと向けられていた。そして現実に彼らの気配を感じることさえできた。水中洞窟の至るところから視線を感じる。深い欲望が生み出すねっとりとした視線は、私をじわじわと窒息させていく。


『レイ!』

 ずっと遠くからカグヤの声が聞こえるような気がした。

「どうした?」

『大丈夫?』


 問題ない、そう言いかけて口を閉じた。

 視線の先には、つい先ほどまで水中洞窟を泳いでいたおぞましい生物がいた。その生物は触手しょくしゅをくねらせながらガラスの側まで泳いできた。


 まるで生物に魅了されたかのように、私の視線はその生物に釘付けにされていた。

 私は生物の眼が虹色に僅かに発光するのを見た。


『レイ!』

 カグヤの声がもう一度聞こえると、海底が見えていた素通しのガラスは、なんの特徴もない打放しコンクリートにも似た灰色の壁に戻っていった。


『魚の鑑賞はまた今度にしてさ、食堂に行こうよ。レイは起きてからまだ何も食べてないでしょ?』

 カグヤの心配する声にうなずく。

「ああ……そうだな。そう言えば、お腹がすいていたよ」

 私はそう言うとソファーから立ち上がった。部屋を出る時にちらりと灰色の壁に視線を向けた。


 ソレの姿を見ることはできなかった。

 しかし私にはソレの存在が確かに感じ取れた。

 それは今も深い海の底で、私のことをじっと見つめていた。

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