第123話 紅蓮 re


 考えなければいけないことはほかにもあるような気がしていたが、私はしばらく大きなガラス窓の外に見えていた真っ白な砂浜を眺めていた。その砂浜は視線のはるか先まで延々と続いていて、そのすぐ脇には透明度の高い海が広がっていた。


 その海は遠浅で、翡翠ひすいいろに輝いていた。

『ねぇ、レイ。亀がいるよ』と、カグヤの声が内耳に聞こえた。

 白い砂浜を散歩するように、海亀が時折ときおり姿を見せていた。


 ノックが聞こえると、私は大きなガラス窓から視線を外した。しばらくの沈黙のあと、扉が開いた。扉は二重になっていて、奥に分厚い鋼材の板が見える。姿を見せたのは〈ヤン〉のお姉さんだった。


 〈イリン〉はつやのある長い黒髪に、きつねいろの大きな瞳をしていた。

 ヤンほど背は高くなかったが、足が長く傷ひとつない綺麗な肌をしていた。黒ずくめのピッチリとしたスキンスーツに身を包み、その上から鼠色の外套がいとうを羽織っていた。


「ごめんなさい、レイ」と、イリンは耳元に髪をかけながら言った。

「〈老大〉に会う時間がやっとできた。今から会いに行こうと思うんだけど、大丈夫?」


 大きなガラス窓に映っていた砂浜の映像が消えると、猥雑わいざつとした〈紅蓮ホンリェン〉の街並みが眺望できるようになる。

「構わないよ、すぐに移動するのか?」

「お願い」と、イリンは申し訳なさそうに言った。


 私は立ち上がると、窓の外に見えている街を眺めた。広大な地下空間には、廃材を利用した建物が隙間なく並んでいた。その建物の間に確認できる通りは、ゴミに溢れていて汚水でひどく汚れていた。


 無計画で無秩序な増築によって複雑な建築構造になった街は、廃棄物のひと塊にも見えた。地下空間の高い天井部には数えきれないほどの照明が並んでいて、地下街を黄昏色に染めていた。


「この施設には、どれくらいの人間が暮らしているんだ?」

 私の言葉にイリンは頭を振った。

「三万人を超えてからは、正確な数は把握できなくなっている」

 人口の多さに私は素直に驚いた。


「それだけの人間が、この空間で生活するには狭すぎないか?」

「とても狭いと思う。〈紅蓮〉は最深部にある区画まで、人でいっぱいになっている」

「今も地上から人間を受け入れているのか?」


「いいえ」とイリンは黒髪を揺らす。

「以前は砂漠で迷った人や、行き場を失った商人を受け入れていたけれど、御覧の有様よ。とてもじゃないけど、人を受け入れる余裕なんて〈紅蓮〉にはない」


 天井に向かって部屋をぎ足していったような、そんな複雑な建物を眺める。それは今にもとなりの建物に向かって倒壊しそうなほどにかたむいていた。

「施設での暮らしはもっと快適なモノだと思っていたよ」

「〈紅蓮〉が快適な施設だったのは、数世紀も昔のこと。今では無法地帯に変わってしまった」


「無法? 治安が悪いのか?」と私は驚いた。

「とても悪いわ。若い子たちが結成した〈愚連隊〉や、交易で資産を築いている商人の一族が我が物顔で街の支配をたくらんでいる。ううん、彼らだけじゃない。もっと多くの組織が日々、縄張りを広げようと争っている」


「〈紅蓮〉はそれひとつで大きな一個の組織だと思っていた」

「地上に出れば彼らも協力し合うのよ」

「本当に協力し合っていると思うか?」と、私はイリンの綺麗な横顔を眺めながらたずねた。

「……どうかしらね」

「あれだけの警備員がいるのに、それでも治安はよくならないのか?」


 エレベーターでの出来事を思い出しながら言った。我々を迎えに来たイリンの側には武装した数十人の隊員がいて、彼らの装備はどれも優秀なモノだった。有り合わせの装備ではなく、全員が専用の戦闘服にボディアーマーを着用していた。


「数百人の完全武装した隊員がいたところで、〈紅蓮〉の状況は簡単に変わらない。現に私たちは〈フーチュン〉のくわだてに気がついていながら、それを阻止することができなかったんだから」

「フーチュンか……やつは今どこに?」


「正直、分からないわ」とイリンは頭を振った。

「レイに負わされた傷を治療するために、どこかに連れて行かれたみたいだけれど、そのあとのことは誰にも分からない」

「ずいぶんといい加減なんだな」


「〈紅蓮〉には権力者に対する法が存在しない。フーチュンは今ごろ家族にかくまわれているのかもしれないし、すでに鳥籠を離れたあとなのかもしれない」

「もしかして、フーチュンの協力者は警備隊にもいるのか?」

「いるのかもしれない。けどそれを調べることは私たちにはできない」


「どうして?」

「紅蓮の状況は日々悪くなっている。身内を疑うようなことをして、大規模な反乱や暴動を起こしたくないの」

「状況が悪くなっているのは、例の鳥籠との紛争の影響か?」

「ええ」


 大きなガラス窓の外に視線を向けると、天井に設置されていた照明が徐々に暗くなっていくのが見えた。そうして気がつくと、街のあちこちで照明がともり始める。


 カグヤに時間を確認してもらうと、外では日が暮れる時間になっていた。施設のシステムが地下の照明を、太陽の動きと連動させているのだろう。夜になれば施設全体の照明は落とされ、日が昇ると照明が灯されるのかもしれない。


「争いで多くの隊員が地上に派遣されている状況では、贅沢なんか言っていられないのよ。治安を少しでも改善しようと考えるのなら、今の状態を維持するしかない」と、イリンは悔しそうに言った。


「まるで綱渡つなわたりのような状況だな。それなら警備隊は、フーチュンに対して何もできない状態なのか?」

「残念だけど」

「奴が始めた争いはどうなる?」

 イリンは何も言わず、ただ頭を横に振った。


 〈老大〉と呼ばれる最高権力者の部屋は、〈紅蓮〉の乱雑らんざつとした街を見下ろせる高台にあった。そこに建っていた近代的な建物は、おそらく施設の管理者のために用意されていたモノで、廃材で建てられた小屋と異なり清潔な建物だった。

 高い防壁に囲まれていて、周囲を旧式の機械人形が巡回警備している。イリンの話を聞いたあとでは、機械人形のほうが人間より信頼できるような気がしていた。


 建物周辺は恐ろしく静かで、少し離れた場所にいくつもの犯罪組織がしのぎを削る狂気の街があるとはとても思えなかった。我々は雑草が取り除かれた芝生を横切るように石畳が敷かれた通路を歩く。ちなみに同行していたのはヌゥモだけだった。


「カグヤ。ミスズたちの様子は?」

『問題ないよ。敵対的な勢力に尾行をされている様子もない」

「〈偵察ドローン〉の調子は?」

『良好だよ』


 ミスズとペパーミントは、ナミに護衛をしてもらいながら、施設の商業区に買い物をしに向かっていた。施設の入り口近くには、〈紅蓮〉を訪れる商人のための店がいくつか用意されていて、そこでは〈紅蓮〉周辺の砂漠で発掘された遺物が売られていた。

 ペパーミントは〈ステルス型偵察ドローン〉が発掘されたと聞いてから、〈紅蓮〉の商品に興味を持ち買い物を楽しみにしていた。


 けれど〈紅蓮〉ではすでに襲撃されていたので、彼女たちと離れることは不安だった。だからカグヤが遠隔操作するドローンを使って、周囲を監視してもらうことにした。何か怪しい動きがあれば、カグヤがすぐに知らせてくれる手筈になっている。

 それに、ナミだけに二人の護衛を任せるのは不安だったので、戦闘用機械人形を操作する〈ウミ〉にも、彼女たちに同行してもらっていた。


 老大が待っている建物入り口には、武装した警備員が立っていたが、我々は身体しんたい検査けんさされることなく建物の中に通された。室内は広々とした空間で、白いツルリとした鋼材が壁全体を覆っていて、ペルシャ風の絨毯が敷かれていた。

 我々は歩き心地のいい絨毯の上を歩いて部屋の奥に向かった。それからイリンは扉の前で立ち止まると、壁に収納されていた端末を操作した。


『なんだ?』と端末から声が聞こえた。

「イリンです」と彼女は小声で言った。

「老大が会いたがっていた男を連れてきました」


『入ってくれ』

 端末から声が聞こえると、扉がひとりでにかすかに開いた。イリンはその扉を大きく開くと、私とヌゥモを部屋の中に通した。


 そこも広い部屋で、やはり白いツルリとした鋼材が壁全体を覆っていて、高価な絨毯が敷かれていた。壁に大きなガラス窓があり、そこには白い砂浜と翡翠ひすいいろの海が映し出されていて波音が静かに聞こえていた。


 換気が行き届いた部屋の奥に高級な重役机があって、背の高い革張りの椅子に男性が座っていた。その男性は点滴の管につながれていて、彼のとなりには白いドクターコートを着た看護師だと思われる女性が立っていた。


 男性は〈老大〉と呼ばれていたので、それ相応の年齢の人物なのだと勝手に想像していたが、男性はまだ五十代に見えた。顔色が悪く頬がこけていなければ、今よりもずっと若々しく感じたのかもしれない。


 男性は黒い杖を手に持ち、ゆっくり立ち上がってみせると私のもとに向かってきた。男が身に着けているグレーの背広は、彼が持つ黒い杖同様、とても高価なモノに見えた。


「やっと会えたな、レイラ。さあ、座ってくれ」

 私は男性に言われるままソファーに座った。ヌゥモにも座ることを進めたが、彼は頭を横に振ると私の背後に立った。


「ジョンシンだ」と男性は手を差しだした。

 私は男性の震える手を握り返した。

身体からだのお加減は?」

「良くも悪くもないな。見ての通りの状態だ」


 ジョンシンはそう言うと、微笑ほほえみながら私の対面に座った。彼は細いが強靭さを感じさせる身体からだつきをしていた。しかしやはり体調が悪いのか、身のこなしに精彩さを欠いていた。


「いいかな?」

 ジョンシンは私にたずねると、銀で装飾された木製の箱に手を伸ばした。

 私がうなずくと、ジョンシンは箱の中から葉巻を取り出した。看護師と思われる女性が注意のために咳払いをしたが、ジョンシンは気にする風もなく、金のガスライターで葉巻に火をつけた。


 それだけのことをするのにも、ジョンシンは気怠けだるげにゆっくりと時間をかけて行っていた。葉巻を指先で回し火が完全についたのを確認すると、ソファーにもたれて煙をゆっくり吸い込んだ。それからジョンシンは身体からだを起こした。


「〈紅蓮ホンリェン〉に招待しておきながら、大変失礼なことを仕出かしてしまった」

 ジョンシンはそう言うと、膝に手を置いて深く頭を下げた。

「顔を上げてください」と私は言う。

「嫌な気分にはさせられましたが、俺たちは何事もなく無事に切り抜けられた」

「そうだな」とジョンシンは顔を上げた。

「……しかし今の我々には、レイラにびることしかできないのも事実だ」


「〈紅蓮〉を取り巻く情勢は、相当に悪くなっているのですか?」

 ジョンシンはガラスの灰皿に葉巻をのせると、苦しそうに息を深く吸った。

「〈五十二区の鳥籠〉は戦争によって資産を失うどころか、戦争によって生まれた商機を逃さず、さらに多くの資金を得ている」


「戦争が経済を活発化させているのですね」

「ああ、連中には製薬工場があるからな。戦争が続けば、おのずと懐もうるおっていく」

「連中には都合のいい展開ですね」


「そうだな」とジョンシンは重々しく言うと、乾いた笑いを発した。

「しかし不思議だとは思わないか? まるですべてが彼らの思うようにことが進んでいる」

「〈五十二区の鳥籠〉が故意に紛争を引き起こしたと、そう考えているのですか?」

 ジョンシンは深くうなずいた。


「連中は俺が〈オートドクター〉を必要としていたことを知っていた」と、ジョンシンは言う。「そして〈紅蓮〉の組織内にくすぶっている欲望のことも見抜いていた」

「フーチュンは利用されたと?」

 私の問いにジョンシンはうなずいた。

「マリーと言う娘を知っているな?」


『マリーって、あのマリーかな』とカグヤが言う。

「〈オートドクター〉探索の依頼主が〈マリー〉という娘でした」

 ジョンシンは天井に向かって煙を吐き出した。

「フーチュンがマリーと呼ばれる娘と、〈ジャンクタウン〉で接触したという情報がある」


「マリーがこの状況を起こした張本人だと?」

「不満を持つ若者をたぶらかすのは、いつだって若く綺麗な娘だと相場は決まっている」

「マリーは〈五十二区の鳥籠〉とも関係を持っている……」

「そういうことだ。我々はあの鳥籠が今以上にさかえるために利用されたのだ」


「争いを止めることはできないのですか?」

 ジョンシンはゆっくりと頭を振った。

「今となっては難しいだろうな。引き続き交渉は行うつもりだが」

「交渉材料として〈オートドクター〉の製法を求めていると聞きました」


「貴重な遺物の製法など存在しない」と、ジョンシンは頭を振る。

「それは〈オートドクター〉の複製に失敗した〈五十二区の鳥籠〉の人間も知っている」

「やはり複製には失敗したのですね」


「〈オートドクター〉の製法をほしがっていたのはフーチュンだった」と、イリンが言う。

「〈紅蓮〉での立場を有利にするための紛争だったのか?」

 私の言葉に彼女はうなずいた。

「それなら、俺は何のために〈紅蓮〉に招待されたんだ?」


「レイラに謝罪をしたかったんだ」と、ジョンシンが答えた。

「謝罪……ですか?」

「そうだ。やつは紛争を始める口実としてレイラを利用した」


「まさか拠点に対する襲撃にも、フーチュンが関わっているのですか?」

「そのまさかよ」とイリンは私の目を見ながら言う。

「そして今の私たちには、彼をどうすることもできない」

『あのときに殺しておけばよかったね』とカグヤが言う。


「そこでだ、レイラにはびとして砂漠での〈採掘権〉を受け取ってもらおうと考えている。本当はもっとマシなモノを差し出すことができればよかったんだがな」

 ジョンシンはそう言うと、葉巻の煙を天井に向かって吐き出した。

「採掘権?」と、私は困惑する。


「そうよ、採掘権」とイリンは言う。

「紅蓮の周辺にある砂漠地帯は、旧文明期の〈遺物〉が発掘されることで有名なの。知らなかった?」

「それは知らなかったよ」と、私は頭を横に振った。

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