第97話 秩序と混沌 re


 小雨を降らせる灰色の厚い雲がゆっくりと流れて、高層建築群を覆い隠していく。雨にけむる高層建築物の側では、炭酸飲料の巨大な瓶のアニメーションが立体的なホログラム映像で投影されていた。その巨大な広告を表示する投影機は故障しているのか、またたいては消えて明滅を繰り返していた。


 〈混沌の領域〉から帰還して数日、我々は現在、仕事の報告をするためジャンクタウンに向かっていた。


 外の景色を透かして見ることができる〈ウェンディゴ〉の車内では、ヤトの一族のヌゥモ・ヴェイが壁際に立っていて、遠くに見える炭酸飲料のホログラム広告に緋色ひいろの瞳をじっと向けていた。


 私はヌゥモのとなりに立つとたずねた。

「あれが珍しいのか、ヌゥモ?」

「はい」と、デジタル迷彩の戦闘服に身を包んでいたヌゥモはうなずく。

「遺跡で埋め尽くされた世界には何度か行ったことがありますが、遺跡であのような光の魔法を見るのは初めてのことです」


 ヌゥモが遺跡と呼んだ廃墟の街に私は目を向けた。たしかにそこは遺跡だった。街で暮らしていた人間は、はるか昔に消失して、今では異形の昆虫と、過去の記憶に囚われた不死の化け物が彷徨さまよい支配する廃墟の街に変わってしまっていた。


「あれは魔法じゃないんだ」と、私は苦笑しながら言った。

「それより、親父さんの警護をするために拠点に残らなくてもよかったのか?」

「問題ありません。レイラ殿の拠点にはハクさまがいます。それに、私の次に戦闘に長けたオンミ・ノ・ソオをオヤジの警護に残してきました」


「波の音……確か、ナミのことだよな? ヌゥモが剣や槍の達人だってことは知っていたけど、ナミも実力者だったのか」

「はい。だから心配する必要はありません」


 それからヌゥモは口を閉じて、私の瞳を見つめたまま何かを考えていたが、やがて廃墟の街に視線を戻した。ウミが操縦するウェンディゴは、廃車やヴィードルの錆びた車体、そして建物から落下してきたと思われる瓦礫がれきに埋め尽くされた通りに入っていった。


 ウミはそれらの瓦礫がれきを、まったく意に介さずに踏み潰しながら通りを進んでいった。

「親父に言われました」と、ヌゥモは景色を眺めながら言った。

「なにを?」

「親父はレイラ殿の世界に留まるつもりです。だから我々が骨を埋めることになるかもしれない世界を、レイラ殿と一緒に見て来い……と」


「骨を埋めるか、ずいぶんと思い切ったんだな」

「親父は頑固者ですから」

 ヌゥモはそう言うと頭を横に振った。


「この世界は平穏と呼べる生活から、ずいぶんと遠い場所にある。最近は混沌の化け物もあらわれるようになっている。それでも、ヌゥモたちはこの世界に残るのか?」

「はい」と、彼はうなずいた。


「そうか……それなら、これからは誰かを殺すために追いかけてばかりの人生じゃなくて、自分たちのためになるようなモノが手に入れられる生活が送れるようにしよう。それでいつか、この世界が自分たちの故郷だって呼べるような、そんな場所が見つけられるように頑張ろう」

「はい」と、ヌゥモは力強くうなずいた。


 自由を追い求めた少年がたどり着いた世界は、決して手放しで喜べるような世界ではなかったが、他人の意思に縛られずに生きられるのなら、この世界は案外、悪い場所ではないのかもしれない。


 そこで私は、ふと図書館で読んだ書物のことを思いだした。〈わざわいの国〉と呼ばれる領域の影響は、〈混沌の領域〉に生息する混沌の化け物たちにも及ぶかもしれないと書かれていた。ひょっとしたら、この世界に一族がやってこられたのも、彼らの願いが聞き届けられたからではないのか?


 混沌の領域についてあれこれと考えたあと、廃墟の街をじっと見つめるヌゥモをひとりにして、座席に腰かける。すると、ジュリがやって来て私のとなりにちょこんと座った。

「見てくれ、レイ。たぶん間違っていないと思うけど、カグヤにも確認してもらいたいんだ」


 ジュリに差し出されたタブレット型端末に視線を落とす。

「これは、ジャンクタウンで売却する物資のリストか?」

 私がたずねると、ジュリは私の目を真直ぐに見てうなずいた。

「うん。武器は最近の相場を見て見積もりを出した。それから……こっちはヨシダの店で買う予定の資材がどれくらい必要になるのか書いてある。それとウェンディゴで運んでも怪しまれない物資の量と、今の資金で購入できる資材の合計値も計算しておいた」


 ディスプレイに表示されている品物名や数字をカグヤと一緒に確認していく。正直に言うと品物が多すぎてよく分からなかった。兵器工場へ向かう道中に、〈不死の導き手〉のモノだと思われる大量の物資も入手していたし、ペパーミントからも在庫処分のつもりなのか、旧世代の小銃を大量にゆずり受けていた。


 だから端末に表示されていた品物の数は多くてリストも長かった。しかしジュリがせっかくまとめてくれた資料だったのでしっかりと目を通すことにした。


 ヨシダの店で仕入れる資材は、ヤトの一族の仮住まいを建てるために必要なものだった。ちなみに一族の住まいになる建物は、拠点の地中に埋まっている建設機械で用意する予定だ。我々が拠点にしていた廃墟の保育園には、ハカセがたがやしている畑を含めて、まだまだ土地が余っていたからちょうどよかった。


 リストを一通り確認すると端末を見ながら言った。

「たぶん大丈夫だよ。そうだよな、カグヤ?」

『うん、問題ないよ。計算も間違ってなかったし、よくできてる』

「そうか!」と、ジュリは笑顔になる。


「ジュリのことは信頼しているから、これからはもっと気を抜いても大丈夫だよ」

 私がそう言うと、ジュリは納得のいかない顔で私を見つめた。

「そんなに簡単に他人を信じていいのか?」

「簡単?」と、私は頭をひねる。

「どういうことだ?」


「俺がお金の計算を誤魔化したりしないか心配にならないのか?」

 ジュリは短く切りそろえられた茶色い髪を揺らした。

「心配してないよ」

「それは変だよ。レイは時々ひどく間抜まぬけになる……。その内、誰かに騙されて痛い目を見ることになる」


 向かい合わせの席に座っていたミスズが何かを言おうとして口を開いたが、私はミスズに手のひらを向けてそれを制した。

「たしかに俺は間抜まぬけなのかもしれない。必要のない問題をよく抱え込むし、面倒事は尽きない。でも基本的に他人に興味はないんだ。だから騙されるほど深く関わったりしないから、心配しなくても大丈夫だと思う」


「興味がないのに、どうして俺のことを助けたんだ」

「ジュリのことを気にいったのさ。それにジュリだって人を騙すような人間じゃない」

「でもいい人なんかいない。みんな優しい顔の裏では、いかにその人を蹴落として自分を有利にするのかだけを考えて生きているんだ」


「自分の力だけでこの世界を生きてきたジュリがそう言うのなら、きっとそうなんだろう。けど、せめて信頼できる人間たちとの間では、そういった駆け引きを失くしたいと考えている。どういうことか分かるか、ジュリ?」

「何となく……」


「気持ちの探り合いなんて面倒なことをしたくないんだ。俺の側にいることが嫌なら去ればいいし、俺を騙せると思うのなら騙せばいいんだ。俺は後を追わない。騙されたら悲しいし落ち込むと思うけど、そのときは他人を信じた自分が浅はかだったって諦める」

「なんだか冷たいんだな」


「ジュリは俺に泣いて後を追いかけてほしいのか?」

 ジュリの頭を雑に撫でながら揶揄からかう。

「でも。誰かに信頼してもらいたいのなら、その人に対して心を開いて、自分から歩み寄らないといけないんだと思うんだ。つまり態度で示すんだ。俺は味方で裏切ったりしない、だから君も俺のことを信頼してくれって」


「それでも裏切られたらどうするんだ?」と、ジュリは言う。

「さっきも言っただろ、そのときはあっさり諦めるよ」

 ジュリはそっと視線を落として、それから私に視線を戻した。


「俺のことは信頼して大丈夫だ。レイみたいに信頼してくれる人がいなかったから、すこし戸惑っただけだ」

「わかってる。そうだろ、カグヤ?」

『うん。ジュリはうちの可愛い商人だからね。ちゃんと信頼している』

 彼女はうなずくと、頬を赤くした。


 いつも不安げで、ウミにくっ付いて所在しょざいなく日々を過ごしていたジュリに変化があったのは、ペパーミントに会ってからだったと思う。兵器工場では二人が一緒に行動しているのを何度か見かけていた。二人の相性がよかった理由は分からない。けれどそれが何であれ、結果的にジュリにいい変化を与えてくれたのは事実だった。


 〈混沌の領域〉に関する問題が片づいたら旅に出たいと言っていたペパーミントは結局、兵器工場に残ることになった。〈混沌の領域〉について不安が残っていたからと言っていたが、本当のところは分からない。ペパーミントの依頼でひどい目にもあったが、長い目で見れば私は彼女にとても感謝していた。


 そしてそれはペパーミントが、ヤトの一族全員分の装備を無償で提供してくれたからという理由だけではない。世界の裏側で起きていることに、気がつかせてくれたからでもあった。


 当初の目的だった旧文明の遺物である〈オートドクター〉を彼女から受け取ると、我々は兵器工場をあとにした。けれどまたいつか会えるような気がしている。だからこそジュリも落ち込んでいないのだろう。


 ジャンクタウンに到着すると、ヨシダの店に向かうミスズとジュリの護衛にウミとヌゥモをつけた。〈カラス型偵察ドローン〉で上空から監視することになるが、それだけでは不安だった。


 ヌゥモは人間ではないが、鳥籠で目立つようなことはないだろう。ジャンクタウンには人体改造した人間がたくさんいるのだ。少しうろこが見えたくらいでは誰も騒いだりしない。同様に機械人形が歩いていても不思議じゃない。


 彼女たちを見送ると、マリーと会う予定になっていたホテルに向かう。ふるいにかけられたような小雨が降るジャンクタウンの大通りは、いつものように多くの人間でごった返していた。私は人の波を避けながら歩いた。


 仕事の依頼主である〈マリー〉にはカグヤが事前に連絡を入れてくれていた。拠点を出るときにも、一度連絡は取っていたので問題なく会えると思っていたが、念のためにもう一度連絡をしてもらった。


 ホテルの部屋の前には黒い背広を着た男が二人、しかめ面で立っていた。背広の二人は人体改造しているのか、怪しく発光する義眼と高そうな義手を装着していた。目に見えない部分も改造しているのかもしれない。しかしそれは私には関係のないことだった。


 専用の端末で所持品検査されたあと奥の部屋に通された。武器の有無を確認したかったのだと思うが、私はハンドガン以外に武器は所持していなかったし、ハンドガンはそういったたぐいのセンサーには反応しないようになっていた。そして私は懐にハンドガンを隠していたので彼らは気がつきもしなかった。


 マリーの部屋は広く、街一番の高級宿を自称するだけあって、調度品もいいモノが揃えられていた。部屋に入った私を見ると、彼女は恋を知ったばかりの少女のような笑顔を浮かべた。


 適当な会話のあと、注射器が入っている角筒をことりとテーブルにのせた。

「それは?」

 マリーは十五センチほどの角筒を眺めながら首をかしげた。

「モノは小さいが、マリーがほしがっていた遺物だよ」

 私はそう言うと窓の外に目を向ける。細かい雨粒が窓を濡らしているのが見えた。


「本当にオートドクターを手に入れたのね……」

「無理だと思っていたのか?」

「ええ」と、マリーは正直に言う。

「たくさんの人間に依頼したの、でも誰も帰ってこなかったから」


「運が向いていたのさ」

「運だけではどうにもできないことがある。依頼を受けた人たちの中には、傭兵組合に所属する名の知れた人間も多く含まれていた。でも、遺物を回収できたのはスカベンジャーを自称するレイラだけだった」


 私はマリーの碧い瞳をじっと見つめて、それからテーブルに置かれていたグラスを手に取る。グラスにはマリーの飲みかけのウィスキーが入っていたが、構わず口に含んだ。

「それで、これから俺はどうなる?」

 グラスにウィスキーを注ぎ足しながら、素っ気なく質問した。


 マリーは部屋を見回して、それから小声で言った。

「私に何を言わせたいの?」

「サプライズが嫌いなんだ。だから問題が起きるのなら、あらかじめ教えてほしい」

「何を言っているのか分からない」

「大丈夫だ。外の連中に会話が聞かれないようにしてある」


 部屋に入る前に、カグヤに頼んで室内を盗聴するために使用されていた装置を遠隔操作で停止させていた。

 マリーは神経質そうに手を合わせて、それから言った。

「レイラはこれから〝彼ら〟に命を狙われることになる」

 グラスのウィスキーを一息に飲み干すと、彼女の瞳を見ながらたずねた。


「彼らね……それが誰なのか教えてくれないのか」

「権力者たちよ」

「たとえば、この仕事の依頼主とか?」

「そうね」


 彼女は私の手からグラスを取り上げると、ウィスキーを注いだ。

「目的の〈オートドクター〉が入手できたのに、連中は何が不満なんだ?」

「入手できたことが問題なのよ……〈オートドクター〉は他にもあるんでしょ?」

「ああ、いくつか手に入れたよ」


「つまり、レイラはどんな病でも癒せる〈遺物〉を所持していることになる」

「……残りの遺物を奪うために、俺を襲いにくると?」

「ええ……」

 彼女は琥珀色の液体に視線を落とすと、グラスをじっと見つめる。


 私は彼女の長い睫毛を見ながらいた。

「あんたは結局、何者なんだ」

「誰でもないわ。あなたのように依頼を受けて、器用に立ち回っているだけの人間」

「身を粉にして、大切な人のために働いている人間でもある」

 私の言葉に彼女は肩をすくめた。


 それからマリーは金髪を揺らしながら立ち上がると、大きなベッドの向こうに回り込んで金庫を操作した。四角くて重そうな金庫だった。彼女はその中から無骨な端末を取り出すと、それを持ってテーブルの側までやって来た。


「IDカードをお願い」

 マリーにカードを手渡すと、彼女はカードを端末に差し込んで操作を行う。電子貨幣の移動が行われている間、私は黙って彼女の顔を見つめていた。


「これでレイラの仕事はおしまいよ」

 マリーが差し出すカードを受け取ろうとすると、彼女はもう片方の手で私の手をそっと握って、それから身体からだをピタリと近づけた。ふわりと甘い花の匂いがした。

「気をつけてね。レイラは放棄された鳥籠に侵入して、無事に帰って来られた唯一の人なの」

「ひとりじゃなかった」

「ミスズのことを言っているの?」

「ああ、それに頼もしい仲間がいた」

 彼女はじっと私を見つめて、それから言った。


「それなら、その仲間たちにも用心するように警告したほうがいい」

「なぜだ?」

「放棄された鳥籠の情報は誰もがほしがっている。もしも貴重な情報を持っている人間がうろついていたら、どんなことをされると思う?」

 私は彼女の瞳を見つめて、それから溜息をついた。ハクやウミが狙われる心配はないと考えていたが、用心するに越したことはないだろう。


「分かった。マリーも何かあったら連絡してくれ」

「私のことを心配してくれるの?」と、彼女は目を丸くする。

「俺たちは依頼を受けて、器用に立ち回ることしかできない人間だ。そうだろ?」

「そうね……助けがほしいときは、かならずレイラに連絡する」

「ああ。遠慮はいらない」


「待って」

 部屋を出て行こうとすると、彼女に手首をつかまれる。

「レイラのことが心配なの」

「わかってる。だから警告してくれたんだろ?」

「面倒事に巻き込んだのに、それでも私の言葉を信じてくれるの?」


「マリーは俺のことは信じてくれるか?」

「ええ。あなたの言うことなら、なんだって信じられる」

「なら、今はそれ以上のことを考えるのは止そう」

「そうね……さよなら、レイラ」

 彼女の蒼いひとみに見つめられながら部屋を出た。



 遠くに見えていた高層建築群が深いきりに覆われてかすんでいるのが見えた。相変あいかわらず雨は降り続いていたが、今日は久しぶりに晴れ間が覗いていた。ハカセはせっかくの晴れ間を無駄にしないため、拠点での畑仕事に精を出していた。


 しばらく掘り返される土の音に耳を澄まして、雨に湿った土の匂いをかいだ。するとカグヤのやわらかい声が内耳に聞こえる。

『どうしたの、レイ?』

「何が?」


『なんだか最近、ずっと元気がないみたい』

「元気だよ。ただ……〈混沌の領域〉ではいろいろなモノを見てきたから、嫌なことばかり考えてしまう」

『いろいろなモノか……たとえば、どんなことについて考えるの?』


「〈混沌の監視者〉と呼ばれる石像や、あの世界で見てきた奇妙なモノについて」

『その考えからは抜け出せそう?』

「わからない」

 私は頭を振って、それから畑仕事をしていたハカセに質問した。


「なぁ、ハカセ。俺とハクが〈混沌の領域〉で出会った〈秩序の守護者〉と呼ばれる石像は、人造人間たちと何か関係があるのか?」

「関係ですか?」

 ハカセは掻いてもいない汗をタオルで拭うと私を見つめた。

「ああ、俺たちは〈人造人間〉のことを〈守護者〉と呼ぶだろ?」


「そうでしたね。しかし、とくにつながりはありませんよ」

「そうか……ちなみに、混沌の神々についてハカセは何か知っているか?」

「研究はしていましたが、残念ながら多くは知りません」

 ハカセはそう言うと、金属製の頭蓋骨を横に振る。

「何か気になることでも?」


「おかしなことを言うようだけど、秩序と混沌の神々が争う宇宙で、俺たち人類の立ち位置を知りたかったんだ」

「立ち位置ですか……」

「ああ。人類がどちらの勢力に属しているのか気になったんだ」

「それは難しいですね」

 ハカセはそう言うと、青い瞳をわずかに発光させた。


「最近、ふと考えるんだ」と、私は溜息をつきながら言う。

「神だか何だか知らないけど、大いなるものがいるのなら、その慰めにすがりつきたくなるときがあるんだ」


 ハカセはうなずいて、それから空に視線を向けた。

「我々の肉体は滅びて、いつか〝塵〟になってしまうのだから、安らぎを求めるために信仰しんこうにすがりつきたくなる気持ちは分かります。しかし、ずいぶんと弱気ですね。いつものあなたらしくない」


「自分自身の心のずっと深いところで、何かを切望しているのを感じるんだ。だけど記憶を失った俺は、それがどんなモノなのかも分からないんだ。だからせめて、たしかな答えがほしかったんだ。それはたとえば、地球が太陽の周りを回っているといった揺るぎない現実的な答えだ。混沌とした世界にも救いがあるのだと告げてくれるような何かを」


 もう一度深い溜息をつくと、ずっと遠くに見えていた高層建築群に視線を向けた。人々のいなくなった世界で、ホログラムの広告映像だけがむなしくまたたいていた。


「物事に秩序がないとするならば、俺たちは混沌を受け入れざるをえなくなる。しかし混沌の中にあって、我々は果たして希望と呼ばれるモノや、絶望の深い闇の中で光を見出すことができるのだろうか?

 それとも、荒廃した世界に生きる我々は、とうの昔に善なる神々に見捨てられていて、己の呪われた運命を受け入れて混沌にすがり生きていくしかないのだろうか?」


「かつて人類が思い描いたように、全知全能の神がいるのだとしたら、きっとそのような悩みを抱えて生きていくこともなかったのかもしれませんね」

 ハカセの言葉に私はうなずいて、それから言った。


「廃墟の街で身重みおもの女性が無残にはらを裂かれて、未熟児が瓦礫がれきに吊るされるのを見ても、神はなんとも思わないのだろうか。文明が崩壊した世界に適応して、他人をしいたげる者たちばかりが生き残る世界でも、神は平気なのだろうか。

 違う……そんなことがあっていいわけがないんだ。でも現実はどうだ? 世界は悪意に満ちているじゃないか」


「秩序に連なる神々が失われたと、不死の子は感じているのですね」

 優しい声でそう言ったハカセに、私は力なくうなずいた。

「〈混沌の領域〉を旅して見てきた異形の化け物や、荒廃した数々の世界は、混沌が優勢だと認めるには充分すぎるものだったよ。いや……そうじゃないな。そもそも俺は混沌なるモノがなんなのかも分からないんだ。それが俺たちの価値観で悪とされるモノなのか、それともぜんと呼べるモノなのかも」


「善悪は時代や個人の判断、そして思想で決まるものです。しかしだからと言ってすべての悪事が許されるわけでもない。だからこそ不死の子は、廃墟に埋もれた世界で戦ってきたのではないのですか」

「戦う……か」


「ええ。あなたは無垢な魂を持つ人々のために戦ってきた」

「だけどそれは――」

「それでよいのです」と、ハカセは私の言葉をさえぎりながら言う。「あなたは自分自身が信じる世界のために戦えばいい。そのうちおのずと見えてくるはずです」

「何が?」

「己の身を置く場所です」


 私はハカセの瞳をじっと見つめる。

「身を置く場所か、ハカセの言いたいことはなんとなく分かるよ」

 けど、と言いかけて私は口を閉じた。それを言葉に出したところで、どうにもならないことだと思ったからだ。神々にさえ制御できない世界なのに、一介の人間に何ができるというのだろうか。


 ゆっくり息を吐き出して気合を入れると、私は立ち上がり、そして壁に立てかけてあったクワを手に取った。


 ハカセが言ったことは正しいのかもしれない。何もできないからと言って、耳と目を閉じて、口をつぐんだ人間になる必要はない。私は英雄にはなれないのかもしれないが、救いを求める人々のために手を差し伸べることができるのだから。


「ありがとう、ハカセ。それがどこであれ、その場所が見つかるまで、ここで畑をたがやすことにするよ」

 私の言葉にハカセはそっと微笑んだ。



 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 いつもお読みいただきありがとうございます。

 これにて第三部は終わりです。

 楽しんでもらえましたか?


 【いいね】や【感想】が頂けたらとても嬉しいです。

 執筆の参考と励みになります。

 それでは、引き続き第四部を楽しんでください。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る