第96話 ヤトの一族 re


 ガラス窓の向こうには広大な洞窟が見える。まるで露天掘りの採掘場を思わせる奈落の底に続く縦穴の底からは、資源を採掘している機械人形たちが灯す無数の明かりが見えた。私は歩き心地のいい毛足の長い絨毯の上を歩いて、ガラス窓の近くに並べられているソファーに座ると、ぼんやりと景色を眺めた。


 それから白い天井に視線を向けると、逆さになって天井に張り付いていたハクの姿を見つめる。ハクも〈混沌の領域〉を旅してきて思うことがあるのだろう、螺旋状に掘られた縦穴をじっと見つめていた。


 そのハクの身体は綺麗になっていて、フサフサした体毛も真っ白な毛に戻っていた。旅の間に化け物の返り血や砂埃で汚れていたハクは、施設の機械人形たちによってとことん綺麗にされていた。


 〈混沌の領域〉から帰還して数日のときが流れていた。その間、身体からだを癒しながら〈混沌の領域〉についての情報整理に時間を費やした。〈あちら側〉の世界で発生していたインターフェースの障害によって、カグヤは情報を得ることができなかったが、ガスマスクと情報端末に記録していたデータで、〈混沌の領域〉で見てきた数々の不思議な現象についての記録を得ることに成功していた。


 ガスマスクは〈秩序の守護者〉との戦闘でひどく損傷していたが、データチップだけは無事に取り出すことができていたのだ。



「時間は相対的なモノなの」

 私とハクが混沌の領域から帰還した日、ペパーミントはそう言った。

「特定の条件によって時間の進みは早くなったり、遅くなったりもする。でも、過去には決して戻らないの。だからレイラとハクは時間をさかのぼって、この世界に帰ってきたわけではないはずよ」


「それなら、俺とハクの身には何が起きたんだ」

「わからない。空間だけじゃなくて時間的にも異なる世界にいたのかもしれないけど……」

「それは何となく理解できるよ。俺とハクがいた世界は、地球とは何もかも違う世界だったからな。時間の流れがおかしくても納得できる」

 彼女はうなずいて、それから考えながら言葉を口にした。


「〈混沌の領域〉が私たちの世界を侵食して、すぐそこに実体化していた。これについては疑いようのない事実だった。でも、その領域はひとつだけじゃなくて、そこから更に別の世界にもつながっていた」

「それらの世界をつなぐのは、〈転移門〉として機能する空間の歪みだった」

「ええ、まるで多元宇宙ね」

「転移門は、別の宇宙につながる扉だったのか?」


「ハッキリしたことは分からない。でも不可思議な時間の流れを考えれば、その可能性はあると思う」

「多元宇宙と異次元につながる転移門を監視する〈秩序の守護者〉か……」

 声に出してみると、ひどく稚拙ちせつな物語に聞こえた。


「秩序に連なる神々と、混沌の神々の争いね」

 ペパーミントの言葉にうなずいて、それから言った。

「まさか奇跡や魔法が、一般的な現象として受け入れられている世界が存在するとは思わなかったよ」

「ねぇ、レイラ。それはどんな物理法則のもとで行われていることだと思う?」


 私はしばらく考えて、それから肩をすくめる。

「さぁな、見当もつかないよ。俺たちの常識が通じない世界が無限に存在している。その事実だけでも俺はひどく混乱しているんだ」

「神々の血脈に、深淵から招かれた神さま。それに多元宇宙……とても興味深いわね」

 ペパーミントはそうつぶやくと、綺麗な顔に微笑みを浮かべる。



 意外だったのは〈混沌の追跡者〉たちだ。あの世界で私と別れてから、すぐに一族は拠点がある世界に戻ったという。そこで戦闘を生き残った戦士たちと相談して、私の世界にやってくることに決めたようだった。


 そこで彼らの間で何が話し合われたのか、そして何がこの世界にやってくる決め手になったのかは分からない。あるいは、混沌の影響から逃れるという意図があったのかもしれない。でもとにかく、追跡者たちは混沌の影響を受けない世界で、自由に生きることに決めたようだった。


 そうして彼らは私を頼って、この世界にやってきた。どうして私なのかは分からない。一族が混沌の影響から脱して、前に進むための足掛かりとして私を利用したかったのかもしれないと考えたが、本当のところは分からない。それは部族の選択で、私に害がないのなら、その気持ちを尊重したかった。


 〈秩序の守護者〉との激しい戦いで、追跡者たちは大きく数を減らしていた。それでもこの世界に渡ってきた者たちは四十七にもなった。


「〈深淵の使い手〉、どうだ。私に似合っているか?」

 混沌の追跡者のひとりが私の目の前でくるりと回転した。

 彼女は〈オンミ・ノ・ソオ〉と呼ばれていた追跡者のひとりで、追跡者たちが使う古い世界の言葉で〈波の音〉という意味があるそうだ。そしてそれが彼女の名前だった。


 〈混沌の追跡者〉の名付け方は、我々からすれば特殊なものだったが、それは他の追跡者の部族から見ても異常だったらしい。そもそも〈混沌の追跡者〉は、名前はおろか、言葉すらまともに話せない化け物だったからだ。それだけでもこの世界にやってきた部族がどれだけ異常なのかがよく分かる。


 〈司書ししょ〉であるキティが、一族の知識を奪っていた理由もなんとなく分かった。


 話は戻るが、追跡者たちの名付け方法は興味深いモノだった。子どもが産まれてから最初の満月の夜に、父親となった追跡者が目隠しと耳に詰め物をした状態で、己の意思が感じるままに歩いて、ここだと思う場所で目隠しと耳の詰め物を外す。


 そしてそこで初めて目にしたり、聞いたりした事柄が子どもたちの名前になるのだという。昆虫を捕らえて食べているかえるを見たのなら〈昆虫を食べるかえる〉になり、水辺を跳ねる魚を見たなら〈水辺で跳ねる魚〉になるという。そうやって彼らの名前が決まるそうだ。


 ちなみに〈波の音〉と呼ばれる追跡者が私の目の前で何をしているのかと言うと、ペパーミントが提供してくれた戦闘用のスキンスーツを私に自慢したかったようだ。


 彼女の頭のてっぺんから足の爪先まで眺めたあと、私は答えた。

「似合っているよ」

 彼女が着ていたのは人間用のスキンスーツだったが、彼女は問題なくそれを着こなすことができていた。


 追跡者は人型ではあったが、それでも人間と骨格に大きな差異がある。だから通常ならば混沌の追跡者が、人間のために作られたピッチリとしたスキンスーツを着ることは不可能だった。ならなぜ、追跡者である彼女が普通にスキンスーツを着こなしているのか、それはこの世界にやってきた〈混沌の追跡者〉全員の身体からだに変化が起きたからだ。


 最初に気がついたのは、彼らがこの世界にあらわれてすぐのことだった。

 みにくい顔を隠すのに使用していたみすぼらしい布がハラリと足元に落ちると、そこには化け物の顔ではなく、人間と変わらない顔があった。身体からだにも大きな変化があって、性的区別が外見にハッキリとあらわれていて、一見すれば人間の若者と変わらない姿をしている。


 男性はがっちりとした体格で、二メートルほどの身長があった。女性たちも平均で百八十センチほどの身長があって、すらりとしたスタイルを持っていた。そして男女関係なく、全員が驚くほど整った顔立ちをしていた。老人のようにしわくれた長い首や、異様に長い手足の面影はなかった。


 暗いねずみ色に近い鈍色にびいろの長髪を持ち、まるでヴァイキングの伝統的なヘアスタイルのように、男性も女性も頭部の側面と背面を剃り上げて、頭頂部に残した長髪を複雑に編み込んだりしていた。


 身体的しんたいてき特徴とくちょうの違いは爬虫類はちゅうるいの眼にも似た瞳にもあらわれている。男性は緋色ひいろの瞳を持ち、女性は撫子なでしこいろの鮮やかな瞳をもっていた。どうしてそんなことが起きたのかたずねても、一族はうまく答えることができなかった。


「人間よ、それは我らにも分からぬ」と、族長は頭を振る。

「しかし世界を渡るときに、大蛇さまの姿を見ました。ええ、人間を助けたあの大蛇さまです。きっと大蛇さまが我らのみにくい姿をあわれんで、力の一端を授けてくれたのでしょう」


 けれど私にはそれがただ単にヤトがあわれんでいたから、あるいは追跡者たちを助けるためにやったことではないと考えていた。思うに、一族はヤトの眷属けんぞくにされたのではないだろうか?


 それを物語るように、追跡者たちの肌には人間にない特徴があり、それぞれが色合いの異なったヘビのうろこに覆われていた。そのうろこ身体からだ全体ぜんたいにあるわけではないようだったが、首筋から肩口にかけてうろこが広がり、白い波紋はもんのような綺麗な模様がハッキリと確認できるようになっていた。


 つまり、言葉は悪いかもしれないけれど、彼らは混沌の化け物を止めて〝蛇人間〟になったとも言えるのだ。


 それからこれは一族の男性にも女性にも共通してあった特徴だったが、左目のすぐ下、左頬から首筋にかけて薄っすらと白い鱗が見えていて、それは筆で描いたような印象的なヘビの模様を作り出していた。


 一族がヤトの支配下に置かれたと、そう思うキッカケになったのは、一族の瞳がヘビのように縦に割れた瞳孔を持っていたからでもあった。それはヤトが私に見せた瞳と同じだった。だから私は一族のことを〈混沌の追跡者〉ではなく、これからは〈ヤトの一族〉と呼ぶことにした。


「まるでヘビが海を泳いでいるようだな」

 〈波の音〉の名を持つ女性の頬を見ながら言った。スキンスーツから覗く彼女のうろこは鮮やかなつゆくさ色で、頬に浮かんだヘビに似た模様が青い海で泳いでいるように見えた。

「そうか!」と、彼女は撫子色の瞳を私に向けて微笑む。

「私もそう思っていたんだ」


「あっ!」と、ミスズの声が聞こえた。

「やっと見つけました。射撃訓練の時間ですよ、ナミさん」

「待ってくれ、ミスズ。〈深淵の使い手〉に私を見てもらいたいんだ!」と、ナミは言う。彼女の名前が波の音だから、ナミと呼ばれているのかもしれない。


「レイラはどこにもいかないので、それはあとにしてください」

「しかしだな……」と、ナミは眉を寄せる。

「ナミさんは、レイラの役に立ちたいのですよね?」

「そうだ! 私は〈深淵の使い手〉の戦士になるんだ!」

「なら射撃訓練をしないとダメですよ」


「あれは苦手だ」

 ナミはそう言うと、腰に挿していたナイフを叩いた。

「私はこいつが得意だ!」

「わかってます。でも苦手だからこそ訓練するんですよ」

「……わかった」

 ナミは不貞腐れたような顔をみせたが、渋々しぶしぶミスズのあとに続いて部屋を出ていった。



 ミスズがヤトの一族の言葉を理解しているのは、言葉を同時通訳してくれる端末を使っているからだった。そこで使用されるソフトウェアには、ペパーミントが組んだプログラムが使われていた。


 ヤトの一族たちの言葉を理解していたのは私だけだったので、ソフトウェアの開発には私も協力することになった。旧文明期の優れたシステムは、あっという間にヤトの一族の言葉を学習していった。しかしそれにもちゃんとカラクリがあって、私が装着していたガスマスクのデータチップに、一族の言語情報のすべてが記録されていたのだ。


 私はその情報について何も知らなかった。壊れたガスマスクからデータチップを取り出して、情報を読み込んだときに判明したことだった。それはキティが私のために保存してくれた情報だったが、それがいつ行われたのかは分からなかった。


 まるで先の展開を見越していたかのような気遣いに困惑したが、キティならそれくらいのことは簡単にできるかもしれない。そのキティの存在に、ペパーミントは尋常じゃない興味を示していた。データチップに記録されていた不思議な図書館の映像を何度も繰り返して見るほどだった。


 ちなみにヤトの一族には、体温と熱、それに光で充電される小型情報端末と、耳を塞がなくても使えるイヤーカフ型のイヤホンをペパーミントから支給しされていたので、ヤトの一族は私以外の人間とも会話することができるようになった。


 興味深かったのは、端末にばかり頼るのではなくみずから日本語を学ぼうとしたヤトの一族がいたことだ。〈混沌の追跡者〉でありながら、ヤトの一族だけが混沌の意思から逃れられた理由には、他の部族が持ち合わせない知識欲や探求心といったものが関係しているのかもしれない。そう思わせるには充分な出来事だった。


 その覚えのよさもあって、ミスズとウミは一族に銃の扱い方や整備の仕方をキッチリ教え込むことにした。さすがに銃火器やレーザー兵器が主流の時代に、剣と槍だけで戦うにはいささか心細かったからだ。


 そしてなぜかジュリも彼らに交じって訓練していた。ジュリに戦闘を行わせるつもりはなかったが、自衛のために学ぶのは悪くないと思い、彼女にも訓練させることにしていた。



 ミスズと一緒に歩いているナミの背中を視線で追うと、彼女の身体からだを美しく見せるスキンスーツを眺める。

「すまないな、人間よ」と、となりのソファーに座った一族の長が言う。

「オンミ・ノ・ソオは、まだ若い子で多感な時期だ。お主と守護者の戦いを見て、何か感じることがあったのだろう」


 私は肩をすくめたあと、族長に視線を向けた。ソファーに座る彼の背後には、彼の息子が背中で手を組んだまま直立していた。


「とくに気にしてないよ。それより本当にかったのか? 無理に俺についてこなくても、一族はこの世界で自由に生きられるんだぞ?」

「我らはお主について行くことに決めたのだ。それに一族の者も全員了承してくれた」

「頑固だな」と、私は彼の黒檀色のうろこを見ながら言った。

 族長は鼻を鳴らすと、ソファーに背中をつけるように深く座り込んだ。


「お主に惚れこんだのだ。守護者とまともに戦える者など、神々以外に我らは知らぬ」

 族長は〈レオウ・ベェリ〉という名だった。意味は〈緑色の豹〉だと言う。

 つまりレオウ・ベェリが産まれたとき、彼の父親は緑色の豹と対面していたのだ。果たして彼の父親は、その緑色の豹に遭遇して無事で済んだのだろうか?


「ところで」と、私はレオウ・ベェリの後ろに立つ彼の息子にちらりと視線を送る。

「ヌゥモは射撃訓練しなくてもいいのか?」

「はい。射撃訓練は一通り完璧にこなせるようになったので、今は親父の警護を優先しています。マズかったでしょうか?」と〈ヌゥモ・ヴェイ〉が言う。

 彼の名前の意味は〈赤い雲〉だった。


「いや、自由にしていいよ。一族のきたりや、文化に口を出すつもりはないからな」

「ありがとうございます」と、ヌゥモ・ヴェイは握った両拳を胸の前で合わせた。

「俺に対する態度も、そこまでかしこまらなくていいよ。俺はそんなに偉い人間じゃない」

「〈深淵の使い手〉にぞんざいな口の利きかたはできません」と、彼は首を振った。その際、彼の首元から赤紅色の鱗が見えた。


「レイラって呼んでくれ、〈深淵の使い手〉になった覚えはないし、それが何を意味するのかも知らないんだ」

「ヌゥモ」と、レオウ・ベェリが言う。

「儂もレイラ殿と呼ぶことにする。ヌゥモもそうお呼びしなさい」

「わかりました」とヌゥモはうなずいた。


 彼の緋色の瞳を見ていると、深紅しんくの瞳を持つ青年のことを思い出した。結局のところ、私は彼の名前をたずねることはなかった。どうして名前をかなかったのかは、いまだに分からない。カグヤに彼の名をかれて、初めて青年の名前を知らないことに気がついた。


 不思議だったのは、青年の映像を見たミスズやペパーミントが驚いていたことだ。なんでも、深紅しんくの瞳を持つ青年は私にひどく似ていたというのだ。私には分からなかったことだが、たとえ彼と私の間に何か関連があったとしても、何ら不思議じゃない世界に私はいたのだ。


 それから私はガラス窓の向こうに視線を向けた。巨大な縦穴の奥では〈混沌の領域〉に続く〈転移門〉が閉じた今でも、恐ろしい化け物がひしめいていた。結局、石像を破壊することはできなかった。それが後にどんな結果を残すのかは分からない。だから兵器工場では、これからも〈混沌の領域〉に関する警戒は続けられることになる。


 私はその奇妙な世界のことを思った。

 異界で見たすべてがまるで幻のように頭を過る、すべては夢だったのではないのかと思うこともあった。


 しかしその幻が残した印象を、私は頭からすっかりぬぐることができなかった。確かに〈混沌の領域〉は存在していた。しかしそれは存在の不確かな隣人がいるような、曖昧模糊あいまいもことしたモノだった。気持ちの晴れない、鬱々うつうつとした気持ちで私はガラスの向こうを見つめ続けた。

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