第90話 不吉な闇 re


 暗闇の中でじっと立っていると、薄暗い世界に目が徐々に順応していくのが分かった。私が立っていたのは広大な洞穴で、となりにいるハク以外の生物の気配はまったく感じられなかった。


 すぐにカグヤとの通信を試みるが、この領域でも〈データベース〉との通信は遮断しゃだんされていた。どうやら元の世界にはまだ帰れていないようだ。ガスマスクの側面を指先で軽く叩いて照明を点灯させると洞窟の天井に光を向けたが、あまりにも天井が高いため、光は暗闇のなかに沈み込んでしまう。


『レイ』

 白蜘蛛の優しい声が聞こえると、そっと体毛を撫でた。

「大丈夫だ。急に暗い場所に立っていたから、少し驚いただけだ」

『ん』

「ハクは大丈夫か?」

『もんだい、ない』


 ハクの体毛を撫でて心を落ち着かせると、底知れぬ闇に向かって歩き出した。

 暗闇を歩いていると時折ときおり何処どこからか突風が吹いて、一緒に吹き込んできた雨粒がガスマスクのフェイスシールドを濡らした。地下水が壁からみだしているのだと考えていたが、どうやら天井が崩落していて、外から雨が入り込んでいるらしかった。


 遠雷えんらいとどろくと、悲鳴にも似た長く尾を引く嫌な音が洞窟で響いた。上方に視線を向けると、暗い空に稲妻が走るのが見えた。天井の割れ目から風が吹きこんでくる騒がしい音と、吹き荒ぶ激しい嵐の音が大音響となって私とハクを包んでいた。我々は期せずして、巨人の宴会場に迷い込んだ小人の気分を味わっていた。


 自分自身の足音さえ聞こえない闇の中、細心の注意を払いながら洞窟を進むことになった。時々、ハクは暗闇に向けて糸の塊を吐き出していた。


 濃厚な闇の向こうに敵性生物の姿を見つけることはできなかったが、ハクには敵対するモノたちの気配を感じ取ることのできる能力があるのか、敵からの襲撃を受けることなく、いち早く攻撃に転じることができていた。


 その証拠に、しばらく歩くと闇の向こうから異形の化け物の死骸があらわれるようになった。いずれもハクが吐き出す強酸性の糸によって身体からだを溶かされて絶命していた。


 不意に図書館の〈司書ししょ〉にもらった能力のことを思い出した。たしかキティが言うには、新たな能力を得た瞳が相手の感情に対して敏感になっているという。そうであるならば、我々に敵意を向ける生物の強い感情を感じ取ることができないだろうか?


 息をゆっくり吐き出すと暗闇に視線を向けた。じっと深い闇を見つめていると、強い痛みと共に一瞬、視界を白く染めるほどのまぶしさを感じた。


 激しい痛みにまぶたを閉じながら明るさに順応するのを待っていると、視線の先にぼんやりとしたもやのようなモノが見えた。どうやらその赤紫色のもやは、暗闇に潜むモノたちの存在を示してくれているようだった。そしてその考えが正しいとするなら、我々に敵意を向けるモノは数えきれないほど存在している。


 さっと視線を動かすと、洞窟の至るところに赤紫色のもやが確認できた。敵意を持つ生物の位置を示すと思われるもやは、壁の向こう側や地中に潜んでいる生物の存在を透かして見せてくれていた。


 次々と増えていくもやに驚愕した。これほどの数の敵意が私とハクに向けられているのだ。そして私が見えているモノたち以外にも、暗闇の中にじっと息を潜めている異形の化け物が存在している。それらは我々のことに気がついていないだけで、ひとたび私とハクの存在を感じ取ったならば、強い敵意を向けてくるはずだった。


 と、瞳の奥に鋭い針を突き刺されるような強い痛みを感じて、私はその場に足を止める。

『レイ?』と、ハクの幼い声が聞こえた。

 敵意にではなく、となりに立っているハクに意識を向けた。子どものようになににでも興味を持つ姿や、薄汚れてゴワゴワとした体毛、それから恐ろしく鋭い鉤爪を思い浮かべた。そうしていると次第に瞳の痛みは引いていき、赤紫色のもやも視界から徐々に消えていった。


「少し待ってくれ、ハク」

 ガスマスクのフェイスシールドを開くと、眼球をマッサージするように指でゆっくり解きほぐしていく。


『いたい、レイ?』

「少しだけ痛い。けど、もう大丈夫だ」

 しばらくして完全に瞳の痛みがなくなると、私は暗闇に視線を向けた。


 もう一度、瞳の能力を発動させる。すべての敵意を認識する必要はないのだ。近くで最も強い感情を向けてくるモノにだけ意識を向ける。そうすると、闇の奥に赤紫色のもやと共に、敵の輪郭がぼんやりと浮かび上がるのが分かった。


 見えているもやの数はまだ多かったが、やがて数は減っていき、近くに潜んでいる化け物のもやだけが映るようになった。認識できる距離はそれほど広くなかったが、この深い闇の中では充分に思えた。幸いなことに、目の痛みは我慢できるほどのモノで、瞳の能力を連続で使用しても、瞳の奥にじんわりとした痛みを感じるだけだった。


 瞳の能力は本来、意思の疎通そつうや交渉ごとを有利にするために活用するモノなのだろう。しかし能力を応用すれば、戦闘の助けにもなるかもしれないと考えた。新たに得た能力の可能性を探ろうと、瞳の能力をいろいろと試しながら洞窟を進んだ。


「この暗闇のなかでも、ハクには敵の姿が見えているのか?」

『てき、みえる』

「ハクはすごいな」

 素直にそう言うと、ハクの体毛を撫でた。

「でも敵を見つけても近くにいてほしい。この洞窟で離れ離れになったら大変だから」


『ん。いっしょ、いる』

 ハクの言葉にうなずくと、暗闇に注意を向けた。

 鍾乳石しょうにゅうせきから滴る水滴を避けながら歩いていると、暗闇の中に荒い息遣いを感じた。かすかな音が聞こえる方角に視線を向けると、獣の輪郭が赤紫色のもやとして浮かび上がる。そのもやは岩陰から飛び出して私とハクに襲いかかってきた。


 闇に紛れる獣に向かってハクが糸の塊を吐き出すと、すぐにハンドガンを構えて、暗闇のなかに潜んで我々の様子をうかがっていた敵の動きに注意を向けた。すると洞窟の横穴に潜んでいた二体の獣が急に飛び出してくるのが見えた。


 敵は奇襲のつもりだったのだろう。しかし私には強い敵意がハッキリと見えていた。ショット弾で一体の頭部を吹き飛ばすと、横に飛び退いて獣の突進を避けて、そのまま獣の背に向かって散弾を撃ち込んだ。


 獣は長い手足をバタつかせると、唸り声と共に私を睨んでみせた。そして闇から伸びて来たハクの鉤爪に首を切断されて息絶えた。ドサリと地面に落ちて転がる獣の首をコンバットブーツの底で受け止めると、獣の死骸に照明を向ける。


 その獣はオオカミに似た頭部を持っていたが、毛皮に覆われた身体からだには昆虫のように多数の細長い手足がついていた。気味の悪いことに、その手足の先には人間のモノに酷似した指がついていた。


 すると闇の向こうからまた一体、異形の獣が駆けてくるのが見えた。突進してくる獣の姿が見えると、足元に転がっていた頭部を蹴り飛ばす。頭部を避けようとして獣が横に飛ぶのに合わせて火炎放射を放った。獣は燃えながら地面に背中をつけると、ジタバタと暴れてもがき苦しんだ。


 奇妙な獣が完全に動かなくなるまで炎を放射し続けたあと、周囲に視線を向ける。ガスマスクを装着していたおかげで獣が焼かれていく臭いをがずに済んだが、獣からは相当にひどい臭いが発生していたのか、ハクは風上に移動して不満そうに腹部を揺らしていた。


 獣が燃える炎で洞窟が赤茶色に照らされると、周囲に潜んでいた獣の姿もハッキリと確認できるようになった。どうやら崩落した洞窟の天井から侵入しているようで、彼らの毛皮は雨に濡れ、吐き出す息は白かった。


 弾薬を炸裂弾頭に切り替えたあと、複数の獣に標的だと示すタグを貼り付けて、赤い線で輪郭を縁取る。敵の位置がハッキリすると、よだれを垂らしながら接近してきていた獣に向かって射撃を開始した。


 獣のほとんどは足場の悪い洞窟に慣れていないのか、岩や壁に長い手足をぶつけながら我々に向かって駆けてきていた。そのため、彼らの進行方向を安易に予想することができた。


 おかげでカグヤのサポートがなくても、難なく弾丸を命中させることができた。それでも射殺できなかった獣は、ハクの糸や鉤爪の餌食にされていた。異形の獣は、〈混沌の子供〉たち同様に恐怖というモノを知らなかった。


 それでも戦闘が有利に進むと、慌てて逃げ出す獣もあらわれるようになる。そんな獣の内の一体が、ものすごい勢いで私に向かって吹き飛んでくるのが見えた。咄嗟とっさに飛び退いてけたあと、獣が飛ばされてきた方向に視線を向けた。そこにはこれまでに何度も遭遇そうぐうしていたクマに似た大きな生物が立っているのが見えた。


 網膜に映るインターフェースは、依然いぜんとして正しく機能していなかったが、それでも無理やり記憶させていた獣の輪郭情報を使うことで、そこにあらわれた化け物が以前に出会っていた獣だと確信できた。


 その獣はつばを飛ばしながら咆哮ほうこうする。

「ハク!」

 白蜘蛛は私の声に答えるように、巨大な獣の足元に糸を吐き出した。獣が糸に足を取られ、その場に横転するのが見えると、獣の頭上にある鍾乳石しょうにゅうせきの根元に弾丸を撃ち込んだ。すると砕けた鍾乳石の一部が落下し、ちょうどその真下に倒れていた獣の脇腹に突き刺さった。


『イタイ! イタイ!』と獣はわめいた。

 獣の言葉を無視して駆け寄ると、腰に差した剣を引き抜いて、勢いよく剣を振り抜いて獣の喉を裂いた。噴き出す返り血を避けるために後方に飛ぶと、巨大な獣がもう一体、闇の中からヌッとあらわれるのが見えた。けれど獣の胴体からは、背中側から飛びついていたハクの脚が突き出ていた。


 動きを止めた獣の懐に飛び込むと、大きな顎の下から剣を突き刺した。剣が脳に到達した際の反射なのか、獣はビクリと震えた。剣を引き抜くと、ふらついていた獣の近くから離れた。獣は弱々しく吠えると、口と傷口から大量の血液を噴き出した。そしてガクリと膝をつくと、目から光が消えて地面にくずおれた。


 素早く周囲に視線を向けて警戒したが、近くに敵意は感じられなかった。

「ハク、大丈夫か?」

 クマにも似た恐ろしい獣の上でじっと動かないハクを心配して声をかけたが、必要なかったみたいだ。


『まずい』ハクはそう言って獣の血を吸っていた。

 白蜘蛛は獣の側を離れると、軽く身体からだをぶつけてきた。

「満足したのか?」と、ハクを撫でながらたずねた。

『ん』

「それなら、先を急ごう」


 暗闇のなかを進み続けると、洞窟の壁に巨大な横穴が見えてくる。その横穴は周囲よりもさらに暗く、光を吸い込んでいるかのような粘度の高い闇に覆われていた。


『くらい』

 ハクを撫でると意識を集中して敵意や悪意を探したが、瞳は何もとらえられなかった。気がつくと、騒がしく聞こえていた吹き荒ぶ風の音や、嵐の音も聞こえなくなっていた。


 静寂だ。

 私とハクは完全な静寂の中に立っていた。その横穴の中に潜んでいるのは、途方もない年月をかけて、ゆっくりと降り積もっていった時間のしかばねなのだろう。


「穴の奥に目的の石像があるのかもしれない。準備はいいか、ハク?」

 ハクは地面をベシベシと叩いて私の質問に答えた。

『こわす、だいじょうぶ』


 私は太腿のホルスターからハンドガンを引き抜くと、弾薬を〈重力子弾〉に切り替えた。正直、崩落の危険性がある洞窟で〈重力子弾〉のような強力な攻撃は使用したくなかったが、石像を守るシールドを破壊するために必要な火力だった。


 ガスマスクの照明装置は最早もはやなんの役にも立たなかった。

 視線の先には深い闇ばかりが広がっていた。それでも私とハクは濃厚な闇の中を進む。ちなみに私の手にはハクと離れ離れにならないように、ハクが吐き出して触肢しょくしに巻きつけていた糸が握られていた。


 この糸を握っている限り、自分自身の手さえ見えない暗闇でハクと離れてしまっても、糸をたどってハクと合流できるようになっていた。ハクが吐き出す白銀色の糸は頑丈なので、途中で切断されるような事態になることは心配していなかった。


 視線のずっと先に、崩れた天井から光が差し込んでいる場所があるのが見えた。

 洞窟の天井に開いていた大きな穴からは、月光が差し込んでいて、まるで暗い海に浮かぶ無人島のように、光が差し込む空間だけがポツリと暗闇に浮かび上がっていた。月の光は死人めいた青白いあやしい輝きを放っていた。


 その空間の中心で月の光に照らされていたのは、この旅で見慣れてしまった石像だった。

 半球状の広大な空間に出て石像に近付く、その過程で私は嫌な汗を掻いた。石像の側には、巨大なヘビが半ば白骨化した状態で放置されていた。


 その怪獣じみた巨大なヘビの他に目立つものは周囲になかった。大蛇の青緑色と赤の毒々しい斑模様のうろこには、数えきれないほどの裂傷があり、死にいたるまで相当に苦しんだことが推測できた。


「ハク、気をつけてくれ」

 我々は暗闇と不気味な光の中を進み、石像の側まで歩いて行った。

 その間、石像はまったく動かなかったが、その身体からだを構成する不思議な鉱石は絶えず流動していた。石像の胴体に視線を向けると、世界のどこかを映し出していた〈転移門〉が開いていることが確認できた。


 地面に転がっていた石を適当に拾い上げると、石像に向かって勢いよく投げた。案の定、石像の周囲には旧文明期のシールドにも似た力場が展開されていて、投げた石はシールドの薄い膜にぶつかって粉々に砕けた。


「どうも雲行きが怪しい」独り言のように言葉をこぼした。

 深紅の瞳を持つ青年は、〈混沌の監視者〉は反撃をしてこないと言っていた。しかしどう考えても、石像の側で死んでいる巨大なヘビは石像によって殺されていた。それとも、私がまだ見つけられないでいる脅威が付近に潜んでいるのか?


 不吉な闇に目を向けると、そっとハンドガンを構えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る