第85話 眷属 re


 樹木じゅもくを押し倒しながら森の奥からあらわれたのは、いつか廃墟の街で見たゾウほどの大きさのあるカメムシに似た巨大な昆虫だった。


 遺跡に向かってくる巨大な昆虫に倒された木々は瞬く間に灰へと変わっていった。その灰が雑ざった砂煙で遺跡周辺の視界が悪くなると、異変に気がついたトカゲじみた化け物は甲虫に襲いかかるため、森に向かって大群で駆けだした。


 そのれの側面を叩くように、別の甲虫が森からあらわれて化け物どもを襲い捕食し始めた。仲間が喰い殺されていくのを先頭で見ていた〈混沌の化け物〉は、奇妙なうめき声をあげると、小さな集団に分かれて一斉いっせいに巨大な昆虫に襲いかかった。


 驚くことに化け物は鳴き声を使って意思疎通ができるのか、おとりになる集団と攻撃を行う部隊とで分かれ、なかには昆虫の注意を引くために自ら捕食される個体もあらわれた。そうしてカメムシの注意を他のモノが引き付けている間に、化け物の小集団は昆虫の背中に回り込み、背に飛びかかると鞘翅しょうしの間から昆虫を攻撃した。


 それは見るにえない光景だった。巨大な昆虫は痛みに暴れ、森や周囲の遺跡を破壊していった。化け物同士のむごたらしい戦闘を眺めていると、その隙を突くように、トカゲの化け物が我々に襲いかかってくる。


 私は化け物の首筋に剣を突き刺しながら言う。

「あの巨大な昆虫があんたの援軍なのか!?」

「違う」と、深紅の瞳を持つ青年は頭を振る。

「あの昆虫は遺跡に溢れた死骸と、俺が散布さんぷした粉の臭いに引き寄せられただけだ」


 私は化け物の頭部を蹴りながら、突き刺していた長剣を引き抜いた。

「なら、援軍はどこに?」

「あいつらの羽音が聞こえないか?」

 青年はそう言うと、綺麗に編み込まれた月白げっぱく色の髪を揺らしながら森のはるか彼方を見つめた。


「あれはなんだ……」

 空に突如あらわれた黒い雲を見つめる。

 その黒々とした雲のようなモノは、次第にふく扇状おうぎじょうに広がっていった。頭上の空が黒く染まり出すころには、それが昆虫の大群だと認識できた。


 昆虫のれは広範囲に散らばりながら遺跡に舞い降りてきた。その昆虫の出現にはトカゲじみた化け物も驚いているようだった。彼らは黙したまま空を眺め、そして遺跡に舞い降りて来た昆虫の動きを見守っていた。


 それは巨大なに似た生き物で、体色はさまざまで、れの中には息を呑むほどに美しい個体もいた。各々が大型犬ほどの体長を持ち、フサフサの体毛に覆われたはねは青や紫、赤や金色の色彩で彩られていた。


 低いざわめきを立てていたのは、その美しいはねの下に隠れた半透明な後翅こうしだった。ゆっくりと動く前翅ぜんしと異なり、つねに高速で動いていた後翅は、ハチの羽音を思わせる重低音を響かせていた。


 奇妙な昆虫のれが遺跡に近づくにつれて、周囲の音はいよいよ騒がしくなった。遺跡の円柱に止まり、大きなはねを休めていた昆虫の頭部は攻撃的な形態をしていて、スズメバチのように額に単眼があり、左右に大きな複眼、そして強靭な大顎を持っていて、鋭く残忍ざんにんな表情を浮かべていた。


 しばらく上空を旋回せんかいしていた昆虫のれは、遺跡を目指して一斉いっせいに急降下してきた。そのうちの一匹は我々のそばを目にも止まらない速度で通り過ぎると、強靭な大顎でトカゲの腕を喰いちぎってみせた。


 混沌の化け物は痛みにうめき、野太い叫び声をあげた。するとそれまで状況を静観せいかんしていた化け物のれは、昆虫の攻撃目標が自分たちであることに気がついた。それからは大騒ぎだった。化け物のれは灰にわった森の中に逃げ込もうとした。だがすべてが遅すぎたのだ。


 蛾のような巨大な昆虫は、次々と混沌の化け物に襲いかかった。

 逃げ惑う化け物にむらがると、あっという間にはねの下に覆い隠していった。そして無慈悲むじひ殺戮さつりくが始まると、悲鳴や絶叫、断末魔が周囲に響いた。


 後翅こうしが立てる音で周囲が騒がしくなるなか、私はハクを連れて神殿跡だと思われる遺跡に避難した。


 崩れた天井から光が差し込む薄暗い神殿の壁に寄りかかるようにして、一体の古びた機械人形が動きを完全に停止した状態で放置されているのが見えた。その機械人形は戦闘用の機体で、長い間この神殿に放置されていたのか、関節部分や装甲パーツの間からは雑草が顔を出していた。


 〈混沌の領域〉を調査するために、ペパーミントが送り込んだ機械人形なのかもしれない。けれどそれを確認する術も時間も我々にはなかった。


『レイ、みて』

 ハクの可愛らしい声に反応して視線を動かす。


 崩壊していた神殿の天井から侵入したのか、そこには巨大なが逆さに止まっているのが見えた。しかしの化け物はトカゲの肉片を咀嚼そしゃくするばかりで、我々に興味を示さなかった。やがて眼状紋がんじょうもんがある美しいはねを自慢するように開いてみせると、天井の隙間から空に向かって優雅ゆうがに飛んでいった。


『あれ、きらい』

 ハクの背中を撫でながら同意した。

「たしかに、あれはひどく恐ろしい存在に見える」


 トカゲじみた混沌の化け物の中には、に噛みつかれた直後に身体中からだじゅうみずぶくれができて、身体からだを激しく痙攣けいれんさせて白い泡と共に血反吐ちへどを吐く個体もいた。は強力な神経毒のようなモノを持っているのかもしれない。


 爬虫類の化け物はその姿同様、おぞましく、そしてむごい最期を迎えることになった。彼らに救いはなかった。昆虫族の女神がいだいている怒りや憎しみを体現したかのようなの大群は、混沌の化け物をい尽くすまで進撃を止めなかった。


 時折ときおり、地面に固まっているれの中から、トカゲの傷だらけの尾や手足が姿を見せたが、ジタバタと痙攣けいれんすると、すぐにはねに覆われて見えなくなった。


 凄惨せいさん殺戮さつりくなおも遺跡の至るところで繰り返されていた。カメムシに似た巨大な昆虫も標的にされたのか、生きたままに喰い殺されようとしていた。


「あれがあんたの能力か?」

 神殿の壁に背中をつけながら虐殺の様子を眺めていた青年に質問した。

「俺は女神を呼んだだけさ」と、絶世の美女を思わせる横顔で青年は言う。


「ならあれは女神の起こした奇跡なのか?」

眷属けんぞくをこの地に召喚したんだろうな」

「あのみたいな昆虫が女神の眷属なのか」

「そうだ」


「もうひとついてもいいか?」

「ああ」

「俺があの異様な空間で見せられたものは、女神の記憶だったのか?」

「そうだろうな」


「あんたの世界にも、あのトカゲみたいな化け物はいたのか」

「魔物は多く存在するが、そのすべてを把握しているやつなんかいない」

「……あれは〈混沌の領域〉からやってきて、あんたたちの世界を攻撃しているのか?」

「そうらしいな」と、青年は素っ気なく答えた。「あの〈門〉は多くの世界につながっている。そこから連中がやってきていたとしても何も不思議じゃない」


「やつらの目的は?」

「残念だが、その答えを持っているのは神々だけだ」

「……〈混沌の神々〉と、あんたたちの神々とでは、なにが違うんだ?」

「質問はひとつだけじゃなかったのか?」


 私は肩をすくめて、外から聞こえてくるトカゲの断末魔に耳を澄ませた。

「まぁいいだろう」と、青年は鼻を鳴らす。「けどその答えは持っていない。善人と悪人がいる、といった単純な構図じゃないからな。世界が無限に存在するように、神もまた無限に存在する」

「そうか……」と、私は気落ちする。


「どうした?」

「あの〈門〉が無限に存在する世界につながっているのだとしたら、果たして俺とハクは無事に帰れるのだろうか?」

「それに関しては心配する必要はないだろうな」


「どうして」

「言っただろ、この世界はどんな望みも叶えてくれる。貴様が帰りたいと願えば、元の世界に――それがどんな世界なのかは分からないが、きっと帰してくれるさ」


 私は青年の言葉を信じることにした。他にこの世界を知っている人間なんていないのだし、考えても仕方ないことをいつまでも胸の内に抱えていたくなかった。

 ハクの背中を撫でると、ふと思いついたことを口にした。


「昆虫の女神か……それならハクの母親に近い存在だったんだな」

 青年は深紅しんくの瞳をハクに向けて、それから頭を振った。

「〈深淵の姫〉はそれ自体が〝神〟のような存在だ。そんなモノに母親がいるとしたら、それは神よりもはるかに特殊な存在だ」


「ハクが神?」と、私は驚きながら言う。

「〈深淵の母〉と呼ばれる異形の魔神が、深淵の闇から我々の世界にやってきたのは、〈神々の時代〉だったとされている」


「待ってくれ、〈神々の時代〉ってなんだ?」

「〈第一紀〉のことをそう呼ぶモノたちがいる。神々が人々と同じ世界で生活し、自由に生きていた時代だったと」


 神殿の入り口に巨大なが止まると、まるで威嚇いかくするように我々に向かって血に濡れたはねを広げ、大顎を鳴らして笑ってみせた。


 その笑い声は年若い女性の声にも、気狂きぐるいの笑い声にも聞こえた。が、次の瞬間にはピタリと笑うのを止めて、紺碧こんぺき色のはねを広げて飛び去っていった。


 青年は私に深紅しんくの瞳を向けると、何を考えているのか分からない表情で話し始めた。

「〈深淵の母〉が記録に登場するのは、神々が自ら創り出した子どもたちと共に戦争に明け暮れていた時代だとされている。そしてその時代、絶滅に瀕した種族がいた。己の神を滅ぼされた哀れな民だ」


「それは神話なのか、それともおとぎ話のたぐいか?」

「まさか。俺の世界で実際に起きたことだ。そのあわれな民は敵対する国の人々と、残り少ない自らの民を生贄いけにえとしてささげて、空に広がる深淵しんえんの闇から魔神を招いた」


「それがハクの種族?」

「いや、最初にやって来たのは〈深淵の母〉だけだった」


 廃墟の街で遭遇そうぐうした怪獣のような大蜘蛛のことを思い出した。ハクが母親と呼んでいた大蜘蛛も、〈守護者〉たちに〈深淵の母〉と呼ばれていた。世界は違えど何か関係があるのかもしれない。


「〈深淵の母〉は哀れな民の願いを聞き入れ、敵対する神々を喰らい、それを糧に娘たちを産み出した」

 青年はそう言うと、ハクに冷たい視線を向けた。

「神殺しの話か。もはや神話だな」

「もっと厄介なモノさ」


 私がハクのゴワゴワとした体毛を撫でるのを見て、青年は話を続けた。

「〈深淵の娘〉たちは、たちまちのうちに敵対種族の帝国を滅ぼした。住民は喰い殺され、廃墟の城塞と街だけが荒廃した国に残された」

「悲惨だな」


「〈深淵の母〉を呼び寄せた民も同様に喰い殺された。彼らの間で交わされた誓約せいやくどおりにな」

「守らなければいけない民の魂をささげるなんて、いったい何のための争いだったんだ?」

「底知れない〝憎しみ〟さ。他種族によって奴隷にされ続けられた哀れな民の憎しみ」

「憎しみほど厄介なモノは存在しないな」


「貴様の世界を俺は知らない」

 そう口にする青年のひとみあやしく明滅する。

「だから貴様と一緒にいる〈深淵の姫〉が、どこからやって来たのかなんて想像もできない。けど俺の世界は、そうやって出現した〈深淵の娘〉たちによって、さらに危険な世界に変わった。大蜘蛛は世界中のどこにでもいるからな」


「〈深淵の娘〉と亜人たちは敵対しているのか?」

「亜人だけじゃないさ。ありとあらゆる生命と敵対している。娘たちはすべてをらい尽くす、やがて世界も呑み込むのだろうな」


 青年の皮肉を無視して私は質問する。

「ところで、あの空間で異界の女神は俺に何をしたんだ?」

 昆虫の女神に触れられたときのことを思い出していた。あのとき、女神は〝風〟を意味する言葉を口にしていた。


 不思議な現象だ。実際に体験していなければ信じられないような出来事だ。

「古の盟約めいやくに従って、貴様に加護を与えてくれたんだ」

「加護?」

「矢を反らす簡単な御呪おまじないさ」

「矢反らし?」


「なんだ、気に入らないのか?」

 青年は顔をしかめる。

「女神に会って加護を授かっただけでもとんでもないことなのに」

「俺の世界では、矢を射る人間なんてもういないんだ」


 いや、私が知らないだけで、本当は使い手がいるのかもしれない。コンパウンドボウは威力が高く、銃にも見劣りしないと言われていた。

 青年は私を見て笑う。神殿の外で今も虐殺が行われていることを考えれば、それはひどく場違いな笑いに思えた。


「たしかに、そんな武器を使うやつを俺は今まで見たことがない。それは何かの魔術か?」

 青年はそう言うと、私が肩にげていたアサルトライフルを興味深そうに眺めた。

「よく知らないけど、科学の成せる業だよ」と、私は適当に誤魔化す。

 実際、私も〈重力子弾〉については何も分かっていないのだから。


「科学か。錬金術師どものやることは、どの世界でも理解するのが難しいみたいだな」

 彼の言葉に私は肩をすくめた。


「けど」と、青年は続けた。「その加護は矢を反らすだけじゃない」

「他に何を反らしてくれるんだ?」

「それなりの速度で向かってくる矢が防げるんだ。飛んでくる大抵のモノから身を守ってくれるはずだ。そうだろ?」


「それはこの領域でしか効果が発揮されないのか?」

「どういうことだ?」

「つまり……俺の世界には神の概念は存在するけれど、神が実在していたなんて話は聞かないんだ」


「神のいない世界か……」

 不思議だな、と青年はつぶやく。

「貴様は加護が世界を渡るのか知りたいのか?」


「そうだ」

「わからない」青年は正直に言った。「けれど、この世界で何かを願い、手に入れた者たちは、それを自分たちの世界に持ち帰っている。なら加護の効果も継続するんじゃないのか? そもそも〈混沌の領域〉に女神を召喚できたんだ。何が起きても不思議じゃない」


「願いを具現化する領域か、つくづく奇妙な世界だ」

 そこで私は周辺から聞こえていた化け物の断末魔や悲鳴が聞こえなくなっていたことに気がついた。かすかなうめき声やゴリゴリと何かを砕く音はまだ聞こえていたが、それだけだ。今や遺跡は静寂に支配されようとしていた。私はそのことが気になり、神殿の外に視線を向けた。


 惨憺さんたんたる広場は血に濡れ、あたり一面に肉片が散らばっていた。血溜まりの中心に石像の姿が見えた。その石像には無数のが群がり、美しいはねを休めていた。しかし石像は微動だにしていなかった。


 石像の周囲に展開されていたシールドのような障壁も消えていて、が自由に石像の周りを飛んでいることが確認できた。やがてそれらのも、れと共に空に舞い上がり、地上に大きな影を作りながら飛び去って行った。


 すべてのがいなくなったことを確認すると、我々は神殿の外に出た。まるで悪魔を召喚する儀式のように、広場の至るところに肉片が積まれていて、トカゲ肉の小山ができていた。地面のあちこちに転がるグロテスクな臓物や肉片を避けながら、我々は広場の中心に向かった。


「静かだな」

「限定的に作りだされた空間の中とはいえ、この地に神が降臨したんだ。まともな生き物ならば、その残り香を感じ取って、この近辺には近づかないはずだ」

 青年の言葉を聞いて、私はある神話の一節を思い出していた。


 それは神々が人里に天降あまくだる話だ。そこにはこう書かれていた。神々が降りて集うとき、人や生き物はすべて逃げ去った。なぜなら、いと高き神々の、その声を聞いたものは精神を病み、姿を見た者は皆、盲目になったからだ。

 私は遺跡に広がる静寂にゾッとして身体からだを震わせた。

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