第86話 図書館 re


 混沌から這い出た化け物の死骸をけながら、広場の中央にたたずむ石像の側まで歩いていく。足元の石畳は化け物の血液で赤黒く染まり、ぬめっていてひどく歩きにくかった。遺跡の周辺は相変あいかわらず耳の痛くなるような静寂に支配されていた。


 広場の中央に立っていた石像に動きはない。時折ときおり、何かを思い出したようにビクリと身体からだを震わせていたが、それ以外に石像が見せる動きはなかった。石像を形作り、絶えず流動していた不思議な鉱石も今は動きを止めていた。ふと石像の胴体に目を向けると、湾曲した鏡のような穴の向こうに別の世界の海岸が映し出されていた。


 ずっと気になっていたことを青年にたずねた。

「あの石像は他にもあるのか?」

「言っただろ。あの石像は〈混沌の監視者〉の成れの果てで、世界が〈混沌の領域〉に呑み込まれないように空間の歪みによって生じた〈門〉を監視していた。そしてそれはひとりでできることじゃない」


「今まで石像の破壊を試みた者はいたのか?」

「ああ、そういった資料は存在する。それが真実なのかは分からないが、〈混沌の領域〉から溢れた化け物――つまり魔物に人類の領域が奪われないように対処する話だ」

「彼らがどうやって石像を破壊していたのか知っているか?」

「慌てるな、まだ話は終わってない」

 青年はそう言うと、淡い光を帯びた深紅しんくの瞳を私に向ける。


「俺は慌てていない、ただ知りたいんだ。俺がいた世界では破壊できなかったからな」

 青年はハンドガンにちらりと視線を向けた。

「その武器でも破壊できなかったのか?」

「世界を侵食する際に発生する奇妙な空間と、石像に反撃されて破壊はできなかった」

「だろうな。正しい方法でなければ、あれは破壊できないんだ」

「破壊するための手順でもあるのか?」


 青年は綺麗に編み込まれた月白げっぱく色の髪を揺らしながら石像の前に立つと、その胴体に開いていた穴を眺めた。

「俺が生きている世界には多くの監視者がいた。ほとんど石像と変わらないようなやつらで、異界に続く〈門〉も閉じられていた」

「機能を停止させたのか?」

「俺たちに見えている監視者は、ただの幻影だ。だから破壊することはできないし、たとえできたとしても何も変わらない」


「どういうことだ?」

「実体を持った監視者は、世界を侵食している〈混沌の領域〉の内側にいる。これは分かるな?」

「ああ。俺の世界で見えていたものは幻影だと言われていた」


「貴様が見ていたのは、領域が開いたことで重なり合った世界に映りこんだ監視者の幻影でしかない」

「同じことを言わなくても、それは何となく分かるよ。だから俺は〈門〉を越えて、石像の本体を探しにきたんだ」

「貴様の世界に映りこんでいた監視者がいるところには、こいつが連れて行ってくれる」と、青年は石像を指した。


 私とハクは石像の側まで歩いて行く。これほど近くで石像を見るのは初めてのことだった。ペパーミントが空間の歪みと呼んでいた穴は、やはり緩やかに湾曲した鏡のようなモノにしか見えなかった。


 けれどその先には、こことは違うどこか別の世界の景色が映りこんでいた。薄暗い洞窟や森、それに川岸や埃っぽい倉庫。映りこむ景色が切り替わる時間はまちまちで、そこに確かな法則は見られなかった。


「〈門〉のなかに飛び込めば、石像の本体がある場所に出られるのか?」

「貴様がそれを切実に望めば、そうなるだろう」

「またそれか……」

「この不確かで常に変化し続ける領域では、たしかな願いにこそ現実味が宿るんだ」


 会話ばかりでハクは退屈になってしまったのか、私の背中に軽くぶつかって気を引こうとする。私は白蜘蛛のフサフサとした体毛を撫でながら青年にたずねる。

「本体を破壊する方法を教えてくれないか」

「たどり着いた世界で監視者を殺せばいい」

「殺す……? それだけでいいのか?」


「俺は〈門〉を通って監視者のもとに行ったこともなければ、実際に目にしたこともない。けど記録ではそうなっている。まあ貴様の武器があれば何とかなるだろう」

「そうか……もうひとつたずねてもいいか?」

「なんだ?」

「どうして石像は破壊されないように反撃してくるんだ? 〈混沌の監視者〉は反撃しないんじゃないのか?」


「混沌に取り込まれた監視者の幻影は、混沌の意思によって使役されている。幻影はおそらく、混沌が監視者から奪った精神の残滓ざんしのようなモノだ」

残滓ざんし……? つまり監視者としての記憶が彼らに反撃を強いているのか?」


「監視者は〈混沌の領域〉からやってくる化け物どもから世界を守る〈秩序の守護者〉としての役割も持っていた。そうであるなら〈混沌の領域〉に近づこうとする者もまた、彼らの敵として認識されるのではないのか?」


「〈秩序の守護者〉か……それで、その監視者を殺すことができれば、俺はもとの世界に帰れるのか?」


「貴様が探している監視者の本体と、貴様の世界で見えている幻影は、多元世界上では同一の座標に立っている。その理由は分からないが、監視者は貴様の世界と合わせ鏡のように重なっているんだ。本体が無力化されたら、幻影もまた存在できなくなる。そうなれば貴様の世界を侵食している混沌の領域も不安定になって消失する。その際に世界は本来あるべき姿を、そして秩序を取り戻そうとするはずだ」


「それができれば、俺とハクは元の世界に帰ることができるんだな」

「そうだ。だから貴様が生きていた世界と、その世界で見た監視者の幻影を思い浮かべろ」と、青年は偉そうに言う。

「俺が生きた世界ね……」


 文明の崩壊した世界の姿を思い浮かべた。まるでオレンジのしぼりカスのような世界のことだ。その世界は考えるだけでもうんざりする場所だった。

「待て。なにか奇妙だ」

「この混沌とした領域に奇妙じゃないモノなんてあったのか?」

 私は軽口を言うと、石像の胴体に光が集まっていくのに気がつく。


『おぉ』と、ハクも光に魅入みいられる。

「何の光だ?」

 青年がそう言うと、彼の奇妙なマントは、彼を守るように身体からだを包み込んでいった。


「ハク、これから何が起きるのか見当もつかない。だから俺の側を絶対に離れないでくれ」

『レイ、いっしょ』

 ハクは可愛らしい声でそう答えると、私に身体からだをピタリとくっつけた。


 まぶたを閉じていても透かして見えるほどの強烈な光に我々は呑み込まれていった。

 そうして気がつくと、我々は人影のない閑散とした廊下に立っていた。


「この場所はどこだ?」と、青年はひどく取り乱した。

「とりあえず落ち着いてくれ」私はそう言うと、素早く周囲を見渡した。

 廊下の床材は大理石調の白いタイルが敷き詰められていて、壁にも同様のつるりとした建材が使われていた。綺麗に磨かれた床と壁には汚れひとつなく、我々の姿が映り込むほどだった。


 その廊下の両側には太い円柱が立っていて、廊下の先に向かって延々と並んでいるのが確認できた。円柱には金と銀色で装飾された模様が彫られていた。それはイスラムのモスクで見られるような、幾何学きかがく文様もんようにも見えたが、それが厳密になにを意味するのか私には分からなかった。


「カグヤ――」

 口を開いたがすぐに閉じた。カグヤとの通信が遮断しゃだんされていなければ、データベースを使って文様を照合することができたかもしれない。そうすれば、それがどんな文様なのか、あるいはそれが何を意味するのか正確に分かったのかもしれない。けれどカグヤとの通信がつながらない以上、それは不可能なことだった。


 ハクは円柱を登ろうとして、その場にドスンとひっくり返った。

『ちょっと、まちがえた……』

 ハクは恥ずかしそうに言うと私の側に戻ってきた。


 ハクが登れない場所を見るのは二度目だった。一度目は兵器工場の地下にある謎の白い壁だった。その壁と同じような素材なのかもしれない。それなら、この場所は元の世界で見た兵器工場なのか? そう考えようとして私は頭を振った。空気までもが異様な空間が、私の知る場所だと考えるには無理があった。


 視線の先には長い廊下が続いていた。目を凝らしても果てがないように見えた。その廊下の左右に並ぶ円柱の間には、木製の重々しい扉が確認できたが、そのほとんどが施錠されていて開かなかった。我々は廊下の先に進みながら扉を片端から確認していった。


「どうやらここは貴様の世界とも違うようだな」

 落ち着きを取り戻した青年に私は扉を押しながらいた。

「あんたもこの現象は初めてか?」

「ああ、そうだ」


『レイ、みつけた』廊下の先にいたハクが扉を押し開くのが見えた。

 重そうな木製の扉は、ハクの長い脚に押されてゆっくり開いていった。


 その先に見えたのは図書館だった。高い天井には特殊な建材が使用されていて、青空が透けて見えていた。光量が調整されているのか、図書館全体が明るくなっていた。不思議なことに雲は流れていたが、太陽の姿はどこにも見えなかった。


 壁を透かして景色が見えるのは、大型ヴィードルの〈ウェンディゴ〉に搭載されている旧文明の技術に似ていたが、こちらは圧倒的に規模が大きかった。そして図書館は、先ほどまで我々がいた廊下に引けをとらないほどに広く果てがなかった。


 ハクは綺麗に並んだ本棚の内のひとつに登っていくと、その上から周囲を見渡していた。それから天井に続く空間に足を延ばした。するとハクの脚は半透明な膜状の何かに触れた。

『つめたい』


 おそらくシールドのようなモノが展開されていて、紫外線や強い日の光から本を守っているのかもしれない。もちろんそれは私の予想でしかないのだけれど、そもそも図書館の天井が透けている意味が分からなかった。


「どうやら〈門〉は、あんたの願いを叶えてくれたらしいな」

 私の言葉に反応して、青年は頭を横に振った。

「俺が欲しかったのはセラエノの書物だけだ。こんなに大量の本があっても、目的の本がなければ意味がない」


 私は肩をすくめると、無限に存在するとも思える本棚の間を歩いた。

 そこは海の底のように静かだった。聞こえるのは我々のかすかな足音だけだ。その本棚には、当然のことだが〝本〟がぎっしりと、そして丁寧に収められていた。私は本の背表紙に書かれていた文字をぼんやりと眺めていた。


 それは今まで一度も見たことがない文字だった。けれどそのなかには、どうしても文字として認識できないモノが存在することが分かった。言葉のまま認識できない模様なのだ。


 視界がかすんで文字が踊るように揺れる。私は本棚から件の本を引き抜こうとして手を伸ばして手を止めた。そして血液やら泥で汚れた手袋を外すと、再度本棚に手を伸ばして、棚から分厚い本を引き抜いた。


 どっしりと重たい本で、触り心地のいい象牙色の短い毛皮で装丁された地味な本だった。パラパラと頁をめくるが、書かれている内容は少しも理解できなかった。そもそも文字が認識できなかったのだ。私は諦めると本を元の位置に戻して歩き始めた。


『レイ。おもしろい、みつけた』ハクの声が本棚の上から聞こえた。

 私は白蜘蛛のあとを追うように本棚の間を進んだ。

 しばらく歩くと、本棚から降りていたハクの姿が見えた。ハクが見つけた場所は、さまざまな大きさの長机と椅子が並ぶ不思議な空間だった。その木製の机や厚いクッションが敷かれたイスは、図書館を利用する者たちが読書のために使うものなのだろう。


 不思議だったのは、本棚とその空間をへだてるように床にみぞがあって、そこに水銀のような液体が流れていることだった。

 その場にしゃがみ込むと、ボディアーマーの胸元にしていたナイフを引き抜いて、そのナイフを使って水銀に見える液体をすくってみた。もちろん何も分からなかった。


『何かお探しですか?』

 突然声が聞こえると、私は驚きながら振り向いた。


 そこに立っていたのは巨大で奇妙な生物だった。それは猫のような愛らしい頭部を持っていたが、その身体からだはとても大きく、私は空を仰ぐようにその生物を見なければいけなかった。そうでもしなければ、その生物の顔が見られなかったのだ。


 大きな身体からだは白いローブで隠されていて、司教が使用するストラに似た金色の布を肩にかけていた。奇妙なのはローブから出ている生物の一部だ。それは触手しょくしゅのようなモノで、太い触手は毛皮に覆われていて無数に存在していた。


 私は後退あとずさりながら言う。

「本を……本を探していたんだ」

『そのようですね』

 ハクのように念話ができるのか、生物の静かで、それでいて知性に溢れた声が頭の中で響いた。


 私はナイフをゆっくり胸元の鞘に収めると、周囲を見回してハクの姿を探した。

『〈深淵の姫〉なら、先ほど何処どこかに行かれましたよ』

「そうか……」

 まともに会話ができる生物だということが分かると、安心してホッと息をついた。


『どのような本をお探しで?』

「ここに来たのは書物を手に入れるためだと思っていたんだけど、今は自信がない」

『どうしてですか?』と、子猫特有の丸っこくて可愛らしい頭部で生物は言う。

「探そうにも、本が多すぎるんだ」


 生物はコクリと相槌あいづちを打つ。

『では、私が探すのをお手伝いしましょう』

 生物は本棚ひとつひとつに視線を向けながら触手を使ってスルスルと移動する。

「本の題名をまだ言っていない気がするけど……」

 私が声をかけると、不思議な生物はゆっくり振り向いて愛らしい表情を見せた。


『言わなくても分かるので大丈夫ですよ。欲しいのは〈セラエノの書物〉ですよね』

「心が読めるのか?」

『種族特有の能力とでも考えてください。あるいは魔法でも、奇跡とでも』

「種族? 他にもたくさんいるのか?」

『えぇ、もちろん、他にもたくさんいますよ。我々はこの領域の管理者であり、支配者でもありますから』


 私は生物の背を早足で追いかけながらたずねた。

「ここはどんな世界なんだ?」

『――をする――です』と、不思議な生物は言う。

 けれど言葉が理解できなかった。


 言語が理解できないとか、早口で理解できないとか、そういった類の問題ではなくて、本当に言葉が音として理解できなかったのだ。音が歪んで意味を持たなかった。それは決して無音ではなかった。静寂の中で吹く風の音に近いモノなのかもしれない。私はその言葉の中に、風に吹かれる草原を見たような気がした。


『理解できませんか?』と、生物はクスクスと笑った。

「ああ、分からないよ」私は正直に言った。

『安心してください、そういうものなのですから』

「そういうもの?」

『昨日、あなたが人間だったように、今日もあなたは人間なのですから』


 彼女……と言っていいのか分からないが、その生物が言ったことについて考えたあと、ずっと気になっていたことをたずねることにした。

「あんたは何者なんだ……いや、あなたたちに名前はあるのでしょうか?」

『もちろん名前はありますよ』

 生物は立ち止まると、高いところからすっと愛らしい顔を私に近づけた。


『キティ』と、生物は言った。

揶揄からかっているのですか? それとも、それは何かの冗談なのでしょうか?」

『本気ですよ』と、キティは言う。『そもそも、あなたには私の名前を正しく発音することはできないのです』


「それはさっき、キティが使った特殊な言語の所為せいなのでしょうか?」

『そうです。でもいいですね、キティって響き。私は好きです』

 キティはクスクスと笑った。

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