第81話 混沌 re
私とハクは、
私はハクと共に巨木の側で雨宿りをするが、数分後には晴れ間がのぞき、その次の瞬間には月光が森の樹木を白く染めた。
「不思議な場所だな、ハク」と、私は白蜘蛛のフサフサの体毛を撫でながら言う。
『ふしぎ』と、ハクは可愛らしい声で答えた。
〈混沌の領域〉に侵入したのは私とハクだけだった。予測不可能で不安定な領域で全滅してしまわないように、ミスズたちには工場に残ってもらうことにした。もちろん、ミスズは反対して、私とハクに同行しようとしたが、彼女がついて来ることは認められなかった。
戦闘用機械人形を遠隔操作していたウミとペパーミントも同様だった。地球との通信が遮断される〈混沌の領域〉に侵入する以上、機械人形の支援を受けることはできなかった。
そしてそれはカグヤも同じだった。カグヤの支援を受けられない状態で探索するのは初めてのことだったので、正直なところ不安しかなかった。網膜に表示されていたインターフェースは不安定で、ほとんどまともに機能していなかったことも不安に
どうやら、この狂った世界で私が頼れるのはハクだけだった。
「行こう、ハク」
『ん』
私とハクは周囲の動きに警戒しながら、深い森のなかを歩いた。騒がしい
となりの
『これは、すごい』と、ハクは金貨の輝きに魅了される。
その金貨の表面には、塔のようにも見える構造物が刻まれていた。金貨をひっくり返すと、見たことのない文字で何かが書かれていた。親指でその金貨を地面に弾こうとして、思い直してベルトポケットに入れると、我々はその場をあとにした。
大量に放置された金貨を電子貨幣に変える方法があるのなら、役に立ったかもしれないが、文明の崩壊した現在の世界では、金貨にそれほどの価値はなかった。それに所持していても
ハクは残念そうにしていたけれど、
森を抜けると、白い砂浜がどこまでも広がる海辺に出た。空を見上げると、すさまじい速度で動く厚い雲の流れが見えた。それらの雲は死人を思わせる灰色から、
ふと視線を感じて森に振り返った。すると木々の間から、ぎらつく一対の眼がこちらに向けられていることに気がついた。一度気がついてしまうとおかしなもので、今まで見えていなかったモノが見えるようになった。そのとき私が認識したのは、大量の視線だった。
複雑に絡み合う
『ころせ! ころせ!』と、それは
素早くライフルを構えると、得体の知れない獣からの襲撃に備えた。
「来るぞ、ハク!」
砂場に片膝をつくと、アサルトライフルによる射撃を開始した。獣はそれほど大きくはなかった。〈混沌の子供〉のように小柄で背も低かったが、動きは素早かった。セミオートに切り替えた射撃で獣を正確に狙い撃っていたが、カグヤのサポートなしでは、私の射撃の腕は高が知れていた。
群れの中から飛び出してきた獣の唸り声がすぐ側で聞こえたかと思うと、一体の獣が私に目がけて跳びかかってきた。次の瞬間、鋭い痛みと共に獣の鋭い牙と爪が、首筋と腰に食い込むのがわかった。
獣の嫌な臭いで息が一瞬詰まる。獣は体格に不釣り合いな怪力で私の
獣に組みつかれた状態で砂浜に倒れ込んで、その拍子にナイフを取り落としてしまうと、恐ろしい絶望を感じた。が、すぐに獣から解放されることになった。不意に
『レイ、へいき?』
我々に襲いかかろうと機会を
「ありがとう、ハク」
私はそう言うと首筋の血液を拭う。
腰に食い込んだ獣の爪はボディアーマーで何とか防いでいたが、無防備な首筋に噛みつかれてしまい、ひどい傷を負ってしまった。周囲に素早く視線を走らせると、砂浜に落としていたライフルを拾い上げて射撃を再開した。
ライフルの残弾がなくなると、弾倉の装填が間に合わず、ライフルのストックをつかって獣を殴り殺していく。獣の返り血に染まりながらも私とハクは戦い続けた。
砂浜は獣の血液と
冷たい雨に濡れた
「さっきは助かったよ、ハク」
太い枝に逆さにぶら下がっていたハクは空中でくるりと回転しながら着地すると、私の側にやってきて、
『レイ、たすける』
「頼もしいよ」と、私は思わず笑顔になる。
しばらく海を眺めながら休んでいると、ズキズキと痛んでいた首筋の痛みが徐々に引いていくのが分かった。体内のナノマシンは正常に機能しているようだった。私はホッと息をついた。インターフェースがダメになっているから不安だったが、これで簡単に死ぬような事態にはならないだろうと安心することができた。
もちろん即死するような攻撃を受けたらどうしようもないので、注意を
月明りもなく、押し寄せる波音だけが聞こえる真っ暗な海を眺めていると、ハクの緊張した声が聞こえる。
『うみ、よくない』
「そうだな。すぐにここを離れよう」
森に入ってしばらくすると、日が昇り、どこからか名も知らない鳥の
なにかを踏み潰すグチャリとした音に、私は足元に視線を落とした。
枯れ葉だと思っていたものはイモムシにも似た生物の大群で、どうやら私は知らずのうちにその生物の大群の中心に立っていたようだ。後方に素早く飛び
額に流れていた汗がぽたりとフェイスシールドに落ちた。ガスマスクのシールドを展開して汗を拭った。いつの間にか森は、亜熱帯のジャングルを思わせる蒸し暑さに支配されていた。
「地面は危険だな」と、私は極彩色のイモムシが
複雑に絡み合う
ハクにピタリと
『いたい! くるしい、あぁ、いたい!』と、獣はもがき苦しむ。
巨大な獣はどす黒い血液を吐き出しながらドサリと倒れ、のたうち回りながら死んでいった。
『たすけて、どこ、みえない! たすけて、くるしい……』
真っ黒な毛皮と、太い骨を残しながら徐々に獣は羽虫の大群に
ハクは私を抱きかかえると、長い脚をそろりと動かしてその場を離れた。
どれほどの時間をかけて移動したのかも分からなくなっていた。
深い森を抜けて、
まるでカイコの
『レイ、ねる』
〈混沌の領域〉にやって来てから、もう長い間眠っていなかったことを思い出した。
「そうだな……ハクはどうするんだ?」
『いっしょ、ねる』
「そっか」
フカフカの糸でつくられた巣に入ると、ハクはそっと私を抱きしめた。
「狭くないか、ハク?」
『へいき、レイ?』
「どうした?」
『あめ』
私は草原に降る雨音に耳を澄ませた。
「たぶん……雨が降るときには、激しく降らなくちゃいけないんだ」
『うん?』
「なんでもないよ」
私はそう言うと、瞼をゆっくり閉じた。
波間に
それは激しく瞬き、やがて月明りに変わった。
■
「レイ、起きて」
「ミスズ?」と、私は
「どうして〈混沌の領域〉にいるんだ?」
彼女は何も言わず、海に向かって走っていく。
草原にいたはずだったが、どうやら眠っている間に世界はまた姿を変えたようだ。
私はハクの脚をそっと
「見て、レイ。本物の海を見たのは初めて。レイはこの海に何を願うの?」
花が咲いたような笑顔を見て、私は彼女がミスズではないことに気がついた。たしかに似ている。姉妹と言っても信じられるくらいに彼女はミスズに似ていた。目元や口元は生き写しのようにそっくりだった。
けれど濃紅色の瞳だけは、ミスズのそれと異なっていた。
「あんたは誰なんだ?」と、私はハンドガンを抜きながら言う。
「うん?」と、女性は首を傾げた。「何を言ってるの、レイ。私だよ」
「だから誰なんだ」
なぜか私はひどく苛立っていた。
「どうして私に銃を向けるの?」
女性の言葉を無視して、彼女にハンドガンの銃口を向ける。
「それでミスズに化けているつもりなのか?」
「ミスズ?」
女性は困ったような表情を見せると下唇を噛んだ。
「変だよ、レイ。どうしてそんなことを言うの?」
「あんたの言うように何もかもおかしい。でもそれは今に始まったことじゃない」
すると女性の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
彼女の泣き顔を見た
今にも泣き出してしまいそうになりながら、私は必死にその衝動に耐える。
わからなかったのだ。
この衝動は、そしてこの悲しみはなんなのだろうと、感情の冷静な部分で考えた。
「変だよ、レイ」と、ミスズに似た女性は言う。「だってミスズは――」
■
突然後方に引っ張られるようにして、私は
『レイ、あぶない』
ハクの声が聞こえると私は上体を起こした。ハクの糸が腰に巻き付いていたことに気がついたのは、そのときだった。
女性に視線を向けたが、彼女の姿は消えてなくなっていた。それにそもそも私が倒れていた場所は砂浜ではなく、どこかの山の
「すまない、ハク。助かったよ」
私は立ち上がると、ハクの巣に向かって歩き出した。
眠るとき、我々は草原にいたはずだったが、今では
『ゆめ、みてた?』
ハクが私に
「わからない」と、私は頭を振った。「夢を見ていたような気がする。けど、もう思い出せないんだ」
冷たい風が吹くと、ハクは身を寄せてフカフカの体毛で風から守ってくれる。
私はゴツゴツとした灰色の巨石が転がる光景を眺めて、それからハクに
「気がついたときには、ここに移動していたのか?」
『ん。おきる、ここ、きた』
ハクの巣にちらりと視線を向けると、たしかにそれは平原でハクが作ったモノに見えた。眠っている間に
先ほど見た夢について考えようとしたが、私はすぐに諦めた。きっとこの狂った世界が見せた幻なのだろう。崖の縁に座って、山々の
食料が尽きる心配はまだしていなかったが、水はどこかで確保しなければいけないだろう。私はハクに腕を差し出して、少しばかりの血液を与えると、しばらくハクの巣の中で大人しく休むことにした。
ハクは探索に行きたがっていたが、この世界で別れてしまったら、ハクと二度と合流できない気がして、それは諦めてもらった。ハクは素直に私の言うことを聞くと、大人しく巣の中で休んでくれた。
■
我々は何処かの砂漠地帯を歩いていた。女性の夢を見てから、どれほどの時間が過ぎたのかも分からない。何週間、あるいは何ヶ月か、とにかく時間の感覚は曖昧になっていた。乾燥して切れてしまった唇に、水筒の飲み口をつけると、最後の水を一息に飲み干す。
「大丈夫か、ハク?」
『……ん』と、心なしか元気のないハクが答えた。
ハクの真っ白でフワフワとした体毛は、今では茶色に薄汚れていてゴワゴワとしていた。脚の先は殺してきた多くの獣の体液で汚れていた。そして恐らく私も同じ状態なのだろう。自分自身の臭いは分からないが、きっと
「次に水辺を見つけたら、少し休もう」
『ん、やすむ』
いつも間に立ち込めていた
それらの影は、奇妙な形をしていて大きさも種類もさまざまだった。不思議な影を生みだしていたのは、青白い光を放つ巨大な太陽だった。その太陽に手をかざしていると、触手を持つ生物が私とハクの上を通り過ぎて、大地に巨大な影を落とした。
しかし藍白色の空に視線を向けても、影を落とす生物の姿はどこにも見当たらなかった。それなのに荒涼とした大地には、絶えず生物の影が映りこんでいた。まるで海底を歩いているような感覚がした。そこで泳いでいるはずの生物は透明で姿が見えなかったが。
『レイ』とハクが言う。『ひかり、みえる』
ハクの脚が指す方向に視線を向けると、砂丘の向こう側に、空に向かって伸びる光の柱が見えた。
「行こう、ハク。でも敵に警戒しながら、ゆっくりだ」
『ん、ゆっくり』
砂に足を取られながら砂丘の斜面を登ると、光の柱の根元が見えてくる。青白い光の中心には石像が立っていた。最後にその石像を見たのが、もういつだったのかさえ思い出せないが、たしかに坑道の奥で見た石像だった。
「見つけた」喜びと興奮で声が震えていた。
石像を破壊したからといって、帰り道が簡単に見つかるとは考えていなかった。それでも今までの長い旅が、無駄ではなかったことが純粋に嬉しかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます