第4話 怪物 re


 倒壊した高層建築物の側まで駆けて行くと、横転した車両の陰に身を隠した。ミスズの息は上がっていたが、まだまだ体力に余裕がありそうだった。


 私は空を仰いで、それからミスズに言った。

「今日はここまでだな。倒壊した建物の先に、野営に適した安全な場所がある。今夜はそこで一夜を明かす」


「えっと……私なら大丈夫です。まだ歩けます」

 そう口にするミスズのひたいから汗が流れるのを見ながら、私は空を指差した。

「もうすぐ日が暮れる。そうなれば廃墟の街は人間が安全に活動できる場所じゃなくなる」

「怪物……の時間ですか?」


『怪物ってなんのこと?』

 カグヤが疑問を口にするが、もちろんミスズには聞こえなかった。

「人擬きのことを言っているのか?」


 カグヤの代わりにたずねると、ミスズは困ったような表情を見せた。

「ひともどき……ですか?」

「呼びかたは色々ある。変異体に不死者、ミュータントに化け物」


「あの……たぶん、その人擬きのことです」

「たしかに奴らが支配する時間帯になるけど、厄介な化け物はほかにもいる」

「他にも……ですか?」


 我々は倒壊した建物の内部を通って、通りの反対側にある高架橋に向かい。そこから高速道路に出なければいけない。瓦礫がれきから突き出ている鉄筋に足を引っかけないように注意しながら、斜めになった窓枠の縁に手をかけ、よじ登るようにして建物内に侵入する。


 そして斜めに傾いた床を慎重に歩いていく。時折ときおり、どこか遠くから銃声が聞こえると身を屈め、周囲に危険がないことを確認し、そしてまた歩き出す。


 倒壊した建物を抜けて、わずかに傾いた高速道路にたどり着くころには、日が傾き世界を蜜柑色に染めていた。


 迫り出した床から高速道路側によじ登ろとしていたミスズに手を差し出し、彼女の身体を一気に引き上げる。


「よくやった。今日はここまでだ」

「……わかりました」と、ミスズは両ひざの上に手を乗せながら息を整える。


 道路の先に放置された無数の車両が重なり、周囲の目から隠れられる空間を作りあげているのが見えた。我々は車両と地面の間を這うようにして、内側の空間に入っていく。


 バックパックから携行食や飲料、汗を拭くための清潔なタオルを取り出してミスズに渡す。それから周囲の安全確認を行っているが、それでも用を足すときは無防備になるので、恥ずかしいと思うけどできるだけ遠くに行かないでくれと説明してチリ紙を渡した。彼女は難しい顔をして紙を受け取った。


 ミスズの反応が理解できないでいると、カグヤの声が内耳に聞こえる。

『その場で済ませられるのかもしれないね』

『その場で?』と、私は声に出さずにカグヤにたずねる。

『彼女のスーツだよ。たぶん脱がなくても用が足せる』


『オムツ的な機能があるのか?』

『スーツの内部に人工バクテリアがあって処理してくれるみたい。そのまま飲料に再利用ができるくらいの再処理が同時に行われる』


『やっぱり、単独潜入に特化したスキンスーツなのかもしれないな』

『うん。さすがに大きい方はダメだと思うけど』

 カグヤの言葉に私は肩をすくめた。


「それで」と、私はミスズに質問する。「どうしてレイダーたちに捕まっていたんだ?」

 ミスズは携行食の板チョコをゆっくり咀嚼したあと口を開いた。

「私たちは……えっと、最初は私ひとりじゃなくて、施設を出たときには他にも仲間がいて……。あの、施設は東京にあるんですけど、そこから――」


「待ってくれ」と、ミスズの言葉をさえぎる。「まったく理解できない」

『たしかに』とカグヤも同意する。

「分かるように、落ち着いて説明してくれないか」


 そもそも東京の施設ってなんだ?

 廃墟の遊園地で聞いたときも意味不明だったが、東京は文明崩壊の際に海の底に沈んだんじゃないのか?


 混乱している姿を見られて恥ずかしかったのか、ミスズはほほをほんのりと赤く染め、それから続きを口にした。

「私と仲間たちは、東京の〈第十七地区核防護施設〉から来ました」


「文明を崩壊させるキッカケにもなった兵器の影響で、東京は海の底に沈んだと聞いていたけど?」

「たしかに私たちの施設は海中にあります。けれど東京都のすべてが海の底に沈んだわけではありません」


『施設の出入口は海上にあるってことか』

 カグヤの言葉に私はうなずいた。ミスズの言うことが真実であるのなら、だけど。


「私たちは特別な任務に就き、船に乗って夜中まで待って街に侵入しました。上陸後、私たちは――」

「ちょっと待ってくれ」と、私はミスズの言葉を遮る。「何度も話を止めて悪い。けど船で侵入ってどういうことだ? それともうひとつ、動く船があるのか?」


「はい。ありますよ」

 まるで私がおかしなことを言っているかのように、ミスズは困惑する。


「私は上陸後に眠ってしまったので、目が覚めた時にはもう船がありませんでしたけど、たしかに船でこの街までやって来ました」


「侵入っていうのはどういうことだ。街の移動に制限なんてないはずだ。ほかの地区の〈鳥籠〉から来た人間なんていくらでも知っているし、彼らが何かに警戒している様子なんて見たこともないし、聞いたこともない」


「あの……でも隊長が……ごめんなさい」と、ミスズはうつむいてしまう。

「いや、悪い。わからないことが多すぎて混乱しているだけで、ミスズが謝ることなんてなにもない。感情的になって悪かった」


 ミスズは小さくうなずいて、それから話を続けた。

「施設の外の人間を――えっと、この場合は地上で暮らす住人のことですけど、その人たちとの接触は不必要な争いに発展するから、できるだけ街の人間に関わらないようにしろ、というのが隊長からの指示でした」


『争いになることが想定された極秘任務ってことかな?』

 カグヤの呟きを聞きながら、私はミスズに質問した。

「任務の内容は言えないのか?」


「ごめんなさい……」と、ミスズはまた俯いてしまう。

「構わないよ。君は軍属か何かなんだろ。細々とした規則がビッシリあることくらいは知っている」


「軍属ですか?」と、ミスズは首をかしげる。「軍事行動の訓練は受けていましたけど……たしかに言われてみればそうですね、私は軍人なのかもしれません」

「まさか記憶喪失とか言わないよな」と、私は苦笑しながら言う。


「いえ、記憶はしっかりとあります。施設でのこともちゃんと覚えています」

 ミスズが頭を動かすと、サラサラした黒髪が揺れる。


「それはよかった。ところで、どうして夜中に上陸なんてしたんだ。ミスズを見れば、それなりの装備でやってきたことは想像できるけど、いくらなんでも人擬きが多く徘徊している夜の時間帯を選ぶなんて無茶が過ぎる」


「それは……」ミスズは先ほどとは打って変わって、ひどく気分を落ち込ませる。「あんな怪物が存在するなんて知らなかったんです」


「知らなかったって……」

 今度は私が黙り込む番だった。


『なあ、カグヤ』と、私は声に出さずに言う。

『人擬きの存在を知らない人間なんて、この世界に存在すると思うか?』


『わからない。私も旧文明期の施設に関係する情報は持っていないし』

『〈データベース〉にある例の機密情報に関わる閲覧権限ってやつか』

『うん。だから私の知らない施設の中には、旧文明以降ずっと封鎖されていて、俗世との接触を完全に絶っている集団が存在していても不思議じゃない』


『ミスズがそういった組織の人間だと思うのか?』と、私はミスズにちらりと視線を向ける。携行食を咀嚼しながら何かを考えていた。

『その可能性は充分にある』


『世界は今も昔も謎で溢れている……か』

『そうだね。秘密で溢れている』


「仲間は人擬きにやられたのか?」

 酷だと思ったが、ミスズに質問することにした。

「あっという間でした。暗がりに仲間のひとりが引きり込まれて、彼女を助けようとして他の隊員が照明を使いました。そうしたら私たちの周囲にあの怪物が……人擬きが沢山いて」


『照明を使うなんて、すごく不用心だね』

 カグヤの言葉に私は肩をすくめる。

『人擬きの存在を知らなかったんだ。仕方がないさ』


『そうなのかもね。この街に前哨基地でも作ろうとしてたのかな?』

『対人戦闘を想定していて、侵攻を目的とした訓練を受けた軍隊なら、あるいは前哨基地くらいは作るのかもしれない。けど夜中に侵入なんてことをするくらいなんだから、隠密行動をしながらの長期の任務を想定していたんだと思う』


「ミスズたちを襲った人擬きは、どんな姿をしていたんだ?」

 私がそう訊ねると、襲撃されたときの恐怖を思い出したのか、ミスズは自分自身を抱きしめた。


「人間のように立っている個体もいました。それから動物みたいに四つん這いで走っている個体もいて、みんなひどくみにくい姿をしていました。皮膚の大部分を失った個体や、内臓が飛び出ていて、手足が欠けていた個体もいました」


 その化け物には心当たりがあった。


「人擬きに変異したばかりの個体と、四足歩行に特化した〈追跡型〉か」

「衣服の残骸を身につけた個体もいました」と、ミスズは下唇を噛む。「私たちは訓練通りに、すぐに応戦しました。けれどいくら攻撃しても血液がわずかに流れるだけで、怪物の勢いは止められませんでした。それで……気がつくと仲間のほとんどが怪物に組み付かれて殺されていました」


「生き残った者は?」

「正確な数はわかりません。私は隊長の掩護でなんとか生き延びることができました」


「その隊長は?」

 ミスズは頭を横に何度か振った。その際、場違いに綺麗な黒髪が揺れた。

「朝日が昇るころには、唸り声をあげて追いかけてくる怪物の姿はなくなっていました。でもそのすぐあとに、武装した集団に囲まれて」


「遊園地の廃墟を占拠していたレイダーたちだな?」

「はい、隊長はその場で抵抗して殺されてしまいました……」


『ずいぶんと勇敢な隊長だね』と、カグヤが皮肉を言う。

「彼らは隊長の装備を……信じられないことですけど、武器だけじゃなくてスキンスーツやボディアーマーも乱暴に脱がして、奪っていきました」


 ミスズの言葉には怒気が含まれていたが、略奪者たちの行為に〝信じられない〟ことはひとつも含まれていなかった。死体から装備をぎ取る行動は、この世界では一般的なことだった。彼女のことを犯して殺さなかったことのほうが、私には信じられなかった。


『レイダーたちは人擬きの襲撃に気が付いていたのかも』

 カグヤの言葉に私は同意した。

『人擬きの襲撃を利用した可能性はあるな』


「それから」と、ミスズは続ける。「私は手錠のようなものを掛けられて、あの場所に連れていかれました」

「連中には何もされなかったのか?」


「はい。たぶんですけど、私が武器を所持していなかったからだと思います。人擬きから逃げているときに、ライフルが重たかったので手放していて……」と、ミスズはあっけらかんと言って見せた。


『武器を手放すのは正しい行いではないけれど』と、カグヤが言う。

『追跡型の人擬きに追いつかれて、食い殺されるのを避けるためなら致し方ないかな』


 しかしミスズは武器以外の荷物も所持していなかった。さすがにそれは生き残るための選択肢を狭め過ぎている。私がミスズに対して抱いているチグハグとした違和感は、こういった彼女の言動から生じているのかもしれない。


「そのあとはご存じの通りです。レイラさんに助けられるまで、あの場に捕らえられていました」

「レイラでいいよ」

「わかりました」と、ミスズは唇の端に笑みを見せた。


『どう思う、カグヤ?』と、私は声に出さずに訊ねた。

『九死に一生に次ぐ、九死に一生って感じ』


『つまり?』

『少し話が出来過ぎてるかな』

『この場合の少しは、ものすごくって意味か?』


『うん。彼女の言っていることが正しければ、軍事訓練を受けた数十名の兵士からなる部隊は、人擬きの襲撃で崩壊、ミスズは運よく生き延びた。でもまた危機におちいる。頼りの隊長は殺されて、あわや性奴隷の人生を送るか、もしくはレイダーたちの食卓に並ぶ料理にされるかもしれない絶望真っただ中に、私たちが現れる。これで出来過ぎじゃないっていうなら、私はお手上げかな』


『……そうだな』

 私はそう言うと溜息をついた。


「ごちそうさまでした」と、ミスズは食事を終えると手を合わせた。

 彼女のそんな姿を見て、私はひどく動揺した。

 この世界で目覚めて、恐らく初めて「ごちそうさま」を口にする人に出会ったのだ。もしかしたらミスズは「いただきます」も口にしていたのかもしれない。


 そこで私は頭を殴られたような衝撃を受けた。


 ミスズは確かに東京と言っていた。

「ミスズは日本って国のこと知っているか?」

「日本……この国ですよね? あれ? ここって横浜ですよね」

 ミスズの表情に困惑が浮かんだ。


『気が付いていたのか、カグヤ』

『もちろん』


『どうして教えてくれなかったんだ?』

『今みたいに動揺しちゃうからだよ。戦闘中に冷静さを欠くのは命取りになる』

『そうだな……悪い』


「どうしたのですか、レイラ」とミスズは首をかしげる。

「日本のことを知っている人間に会ったのが久しぶりだったから。少し驚いている」

「普通は知らないのですか?」


「ほとんどの人間は知らない、生きていくのに必要のない情報だからな」

「そうですか……私は施設の学校で習いましたよ」


「学校があるのか?」と、私はまた大袈裟に驚く。

「はい。可愛い制服が着られるから、施設の子たちにも人気がありましたよ」

 彼女はあどけない表情で微笑む。


「そうか……この世界の歴史なんかも習うのか?」

「いいえ、ほとんど習いません。戦争に関することは禁則事項だとかで、習うのは一般常識ですね。字の書き方とか、計算の勉強をしました」


「それと軍事訓練か」

「はい」


 ミスズが暮らしていたという東京の施設がますます気になってくる。

『戦前と同じような環境を維持している施設で、生活していたってことだよね』と、カグヤが疑問を口にした。『それってつまり、旧文明の遺物が多く残っていて、それを扱う人間も沢山いるってことだよね?』


 そんな組織が任務のために人間を地上に派遣した。

 何が目的だったのだろうか。


「ミスズはこれからどうするつもりなんだ?」

「わかりません」ミスズはそう言うとうつむいてしまう。「仲間のことを見失って、みんなが生きているのかも分かりません。任務遂行のための道具と情報を持っていた隊長はもういないですし……何より、船がなければ私は施設に帰れません」


「そうだな……とりあえず安全な〈鳥籠〉まで一緒に行こう。そのあとのことは、安全な場所でゆっくり考えればいい」

「とりかご……ですか?」


「旧文明の施設の周囲につくられた集落のことだよ。そこでは多くの人間が、変異体や略奪者たちからの脅威にさらされることなく安全に生活している」

「そうですか……。あの、レイラ。助けてくれて、本当にありがとうございました」

 そう言ってミスズは丁寧に頭を下げた。


「どういたしまして。それより今日はもう休んでくれ。一応、見張りはするけど、この場所は安全だから遠慮せず眠ってくれ」


 極度に疲労していて、それに追い打ちをかけるように、略奪者に捕らわれていたミスズは、彼らから解放されたことで緊張の糸が切れたのか、人形のように眠ってしまった。


 それからしばらくして、闇の中でいずる〝何か〟の気配に気がついて、私は薄闇の向こうに視線を向ける。


厄介やっかいなのが来たね』

 カグヤがそう言うと、対象の輪郭が赤色の線で縁取られる。


 痛みに喘いでいる声にもならない声が、薄闇の向こうから聞こえてくる。それは何かを引きる音と共に我々に近づいてきた。その這いずる何かに視線を向けたまま、私は眠っているミスズの側に近寄ると彼女の肩をゆする。


「レイラ……どうしました?」

 目をこするミスズを静かにさせる。


「人擬きが近くに来ている。けど慌てないでくれ、静かにしていれば襲われることはない。だから決して声を出してはいけない」

 ミスズは不安そうにうなずいた。


 痛みに喘いでいた声が、今では悲鳴に変わっていた。それは男性の声にも女性の声にも聞こえる。そんな不気味な声で人擬きは泣いて、そして苦痛に悲鳴を上げている。

 ミスズは恐怖に息を呑み、私の腕をつかんだ。彼女の身体からだは震えていた。


 月明りの空の下、それは私たちの側を這いずりながら、ゆっくりと通り過ぎていく。夜の闇の中でも鮮明に世界を見ることができる私の瞳には、グロテスクな人擬きの姿がハッキリと映っていた。


 かつて人だったモノの集合体。


 それの皮膚のない胴体からは無数の手足が飛び出ていて、奇妙に曲がりくねっている。不規則に脈打つ心臓は脂肪の間から飛び出た骨盤に絡まり、それが動くたびにブランコのように揺れている。ブヨブヨとした身体は粘液質の体液に濡れ、ズルズルと地面を進む。


 いくつもの命が奇妙な化け物の姿をつくる。身体中に数え切れないほど存在する瞳に映るものはなく、身体の至る所にある口が大きく開くと、悲痛な悲鳴をあげる。


 それは殺すのがひどく難しい生物だった。跡形もなく消滅させない限り動きを止めることがない。それらは廃墟に潜み、暗闇をあてもなく彷徨さまよい続ける。


 ミスズにとって今夜が、人擬き〈肉塊型〉と遭遇そうぐうした初めての日になった。

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