第6話
はじめてひとりで『ムーンストーン』に入った。通い慣れた場所だけど、隣に雪乃さんがいないだけで緊張してしまう。
カウンター席でいつものようにシンデレラを飲むものの味がよくわからない。見かねた細山田さんがBGMをあたし好みのものに替えてくれた。遊佐未森さんの『夢のひと』。歌姫のように透明な歌声は、聴いていて優しく、そしてせつない気持ちにさせる。
雪乃さんとは『ムーンストーン』で落ちあうことになっていた。雪乃さん経由で真田さんと桃香さんにも連絡してもらい、後で合流することになっている。
「最近緑が丘駅がにぎやかだね。このあいだ通りかかったらお菓子を配ってるひともいて驚いたよ。書いているのはつぐみちゃん?」
「返事を書いているのはあたしです。レシピを書いているひとは別のひとです」
「そっか。じゃあ雪乃ちゃんかな」
「本人は否定してましたけど」
細山田さんと話しているうちに雪乃さんが店内に入ってきた。あたしの隣に座ってジンバックを頼む。
「つぐみちゃんと話してたけど、伝言板は雪乃ちゃんじゃないの?」
「残念ながら。つぐみにも訊かれたけど、カクテルのレシピなんて知らないし。ケーキなんて作ろうとしたこともない。料理関係はからきし駄目なんだよ」
雪乃さんの料理はあたしの機械に似ている。本当に苦手なのだ。以前、雪乃さんの家で泊まったときに一緒に料理をしたことがあり、包丁の持ち方、野菜の皮の剥きかたから危なっかしくて結局全部あたしが作ったことがあった。
「それで訊きたいことってなに?」
「ブログのこと。伝言板の記事の。あれを書いてるの雪乃さん?」
「ああ、あれね。うん、わたしだけど」とあっさりと認めた。
「どうしてあたしの名前を?」
「字は全然ちがうんだけどさ。告げる美しいで告美。ぴったりなハンドルだと思ったんだよ。つぐみのことを意識しなかったといえば嘘になるけど、他意はないよ」
あたしは黙ってうなずいた。
おそらく誰にも他意はないのだろう。伝言板のひとも、あたしも、雪乃さんも誰かに迷惑をかけたいと思っていなかったはず。
「近い将来、緑が丘駅の伝言板ってなくなると思うんだ。早ければ年内とかに。今も残ってるのが奇跡みたいなものだしさ」
「うん」
今度の舞台も、伝言板のことも、そもそもの発端はそこなのだと思う。いずれ消えゆくものを記録しておきたいということが根底にあるのだろう。
「魂のデジタル化はできないけど、想いのこめられた言葉はネットに残すことができる。インターネットはアカシックレコードへの進化の過程って考えがあってさ。さすがに未来の記録にアクセスはできないけど。過去から現在に至るまでの膨大な知識や情報がネットに蓄積されていて、仮にわたしのブログが削除されてしまっても、その記事は別の場所でアーカイブされているんだよ」
「ごめんなさい、日本語で話してくれる?」
「僕もわからなかった」
「つまりブログに書くことで、伝言板のやりとりは半永久的に保存されるんだよ」
SF小説のような用語が多くて正直理解できなかったけれど、伝言板のことがずっと残るのなら単純にうれしい。記録されている場所さえ憶えていれば、いつでも読むことができるのだから。
「ところでつぐみ」雪乃さんがいきなり顔を寄せてきた。「さっきから気になってたけど目蓋が少し腫れている。泣いた?」
「嘘。まだ腫れてる?」
「目立たないけど少しだけ」
『ムーンストーン』に行く前に、時間をかけて目のまわりを冷やして腫れは引いたと思っていたのに。
「細山田さんには気づかれなかったのに」
「このひとは鈍いから」
「酷いなあ」
「なにがあった?」
簡単に事情を話した。駅員さんのこと、そこで聞かされた話の内容、緑が丘公園で泣いたこと、美琴さんの推理のこと。
「ごめん。考えがたりなかった。騒ぎになるなんて想定してなかったよ」雪乃さんは大きく溜息をつく。「でも、その駅員もおかしいね。つぐみを注意するのがわからない」
「あたしがブログを書いてたと思ったからでしょ?」
「ちがうよ。たとえつぐみがブログ主でも注意されるべきはつぐみじゃない。レシピを書くひとでしょ。そこが止まればブログは更新しようがないんだから」
「あ──」
指摘されてはじめて気がついた。動転していて大切なことを見落としていた。駅員さんはこういったのだ。
──きみが最初の日から毎日伝言板に書きこみをしているのを知っている。
伝言板は改札から真正面の位置にある。駅員さんがあたしの姿を毎日みてたのは、たぶん嘘じゃない。けれど、同じ理屈で毎日伝言板にレシピを書いていたひとの姿もみていたはず。
駅員さんはあのひとには注意をしなかった? それとも注意しても書きこみは止まらなかった?
前者なら、どうして注意をしなかったのか疑問が生じる。あのひとと駅員さんがどこかでつながりがある? まさか。そんなはずはない。
「雪乃ちゃんも毎日伝言板みてたわけだけど、注意はされなかったの?」
「全然。わたしは携帯で写真を撮るだけで、後でそれをテキストにするだけだから、立ち止まるのは一瞬で終わるんだよね。メッセージを残さないから、たぶん目立たなかったんだよ」
「なるほどね」
「駅員さんが記念撮影といってたから、たぶんそれが雪乃さんなんだと思う」
「だろうね」
雪乃さんはうなずいた。
自信は揺らいでいた。けれどこの考え方でおそらく間違いはないはず。
「駅員さんのことは伝言板のひとに直接訊ねたほうがいいと思う。伝言板のひとは、たぶんわかるから」
駅の伝言板、シンデレラ、緑が丘駅。これらのキーワードはあの日『ムーンストーン』で話していたものばかり。偶然に偶然が重なることも当然あるだろうけど、メッセージが書かれたタイミングを考えれば、その場にいた誰かと考えるのが自然。
今まで伝言板で紹介されたものを整理してみる。
シンデレラ。プッシー・キャット。ゴゴリッ・モゴリッ。ジンジャーアイスミルクティー。苺のラッシー。ショコラミルク。ほうれん草のスポンジケーキ。キャベツのバウムクーヘン。かぼちゃのチーズタルト。チョコバナナココア。チャイのホイップフロート。
どちらかというと女性向けのものばかり。特に野菜を使ったお菓子は女性的発想じゃないかと思う。
「ちょっと待って。世の中には女性的な男性っているよ。つぐみの好きな北村薫だって男性でしょ? 女性だとずっと勘違いしてたひと多いみたいじゃない」
「うん。そういう作家さんはいるよね」
「ネットの知り合いにもそういうのいる。それだけで女性と断言はできないよ」
「けど、真田さんはそういうタイプ?」
「いや、あいつはそうじゃないけど。でも、細山田さんは可能性はある」
「細山田さんこそないよ」あたしはきっぱりと断言をした。これは自信を持っていえる。「もし、細山田さんがお菓子も作るなら、『ムーンストーン』で絶対お菓子作りの日があるもの」
細山田さんは自分のやりたいことに対してはおそろしく忠実だ。インターネットテレビで『魔法少女まどかマギカ』の一挙放送があると聞いて、パソコンと大きなテレビモニタを接続して大画面鑑賞会をお店でやってしまうようなひとだ。定期的に「書道部の日」をやってしまうひとだ。お菓子も作るなら、お客さんも巻きこんでイベントをする。絶対に。そういう空間だからこそ、下北沢の秘密基地たりえるのだから。
「確かにそういう趣味があればイベントはやるだろうね」と細山田さんが笑う。
雪乃さんは何度も否定しているし、料理が苦手なのも知っている。だから、
「伝言板のひとは消去法で桃香さんだよ」
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