第5話

 はじめて雪乃さんと顔をあわせたのが緑が丘公園だった。

 その頃の雪乃さんは進路と恋愛のことで悩んでいた。このときすでに半年近くも伝言板で会話を続けていて、おたがい年齢も性別も伏せたままだったけれども、話の流れから雪乃さんの年齢はわかってしまった。気づいてしまうと自分が小学生であることに負い目のようなものが生まれてしまう。六歳差はそのくらい大きい。

『好きなひとが関西の大学を希望してて迷ってる。離れ離れになりたくなくて追いかけたい気持ちもあるし、東京に残りたいとも思う。どう思う?』

 と雪乃さんが訊ねてきたのがきっかけだった。

『ごめんなさい。それは自分で決めるべきだと思います。他人に決められた進路で後悔しても取りかえしがつかないから』

『わかってる。正論だと思うよ。けど、個人的な意見でいいから聞いてみたい。あなたならどうする?』

『難しい質問だけど、恋愛で進路を選ぶのは疑問があります。恋愛がひとの一生を決めることももちろんあるけれど、そうじゃないことが多いです。悲しいけど愛は永遠ではないから。自分が本当にやりたいことを一番に優先すべきだと思います』

『そっか。結構シビアなこというんだね。自分なりに考えているけど、まだまとまらない。一度会って話を聞いてくれないかな』

 あしたの夕方五時に緑が丘公園の噴水で待ってる──。

 一方的に書かれてしまったら行くしかなかった。後ろめたさがあった。年齢を伏せていることが、まるで相手を騙しているようで良心が痛む。

 悪い予感はあたった。

 はじめて顔をあわせたときの雪乃さんの表情は一生忘れない。驚きと悲しさと落胆と、いろいろな感情がごちゃまぜになった複雑な顔をしていた。

 自己紹介をして年齢を伏せていたことを謝って、いくつか言葉を交わした後、雪乃さんに思いきり頬を叩かれた。

「子供にわたしの気持ちはわかんないよ!」

 悲痛な叫びだった。雪乃さんの言葉が胸に突き刺さる。子供に相談していたなんて馬鹿みたいだ、そんな声も聞こえてきそうだった。

「わからないよ。わかるわけないでしょ!」と声をあげる。「あたしはまだ十二歳で、あなたの三分の二しか生きてなくて。人生経験がたりなさすぎて、あなたの気持ちなんてわかるわけないでしょ。でも……」

 そこから先は涙声になってしまった。上手く言葉がでてこなくて、でも、でも、と何度も繰りかえしてしまう。

「でも、好きなひとにはいつでも笑っていてほしいし、しあわせになってほしいし。わからないなりに、あたしなりに一生懸命悩んでいたんだよ。だって、初恋のひとのことなんだから……」

 初恋という言葉で雪乃さんの顔が硬直した。恋愛に悩む雪乃さんには重い一言だったのかもしれない。数瞬ほど動かなくなり、それからうなだれた。

「ごめんなさい。わたしが大人げなかった。それほど大人じゃないけどさ」泣きじゃくるあたしを両腕で抱きしめて「適当にいったんじゃないなんて、少し考えればわかるはずなのにね。小学生が簡単にいえる内容でもないって気づけるのにね。よっぽど余裕がないんだね、わたし」

 声が震えていた。雪乃さんも泣いていた。彼女の腕のなかで、あたしの顔に一滴の冷たい涙がこぼれ落ちる。

「初恋のひとがこんなのでがっかりでしょう?」

「そんなこと、ないです」

 本心だった。小学生相手にきちんと向きあっている。六歳年下のあたしに謝っている。それはたぶん、とても難しいこと。

「いい子だね。でも、わたしはわたしに幻滅した。軽く絶望したよ」

「そんなこと……」

「そんなことあるよ。わたしは高校三年なのに全然子供で、小学生のほうが大人でさ。情けないよ。でも──」と雪乃さんは言葉を継いだ。「こんなわたしでも、これからも会ってくれる?」

「もちろん」

 この日をきっかけに雪乃さんと頻繁に会うようになった。伝言板のとき以上にいろんなことを話すようになった。受験のことや恋愛のことはもちろん、演劇のことや、あたしの進路のことなど。姉と妹のような関係ではあるけど、対等に接することができる、とても不思議な関係。

 駅員さんの言葉は、雪乃さんとの大切な思い出も否定するようで悲しかった。


「落ち着いた?」

 顔をあげると隣に美琴さんが座っていた。心配そうにあたしの顔を覗きこんでいる。

「図書館に本を借りにきたら、つぐみちゃんが泣いているんだもの。驚いちゃった」

 なにを借りたんですか、と訊こうとして、上手く言葉にならなかった。涙は止まったものの声がしゃくりあがってしまい全然喋れない。

「借りた本? 吉本隆明の娘さんのばなな。『キッチン』と『N・P』と『アムリタ』と『ハチ公の最後の恋人』。どれがお勧め?」

 そのなかだと『N・P』が好きなのだけど、誰かに勧めるのであれば『キッチン』。表題作も好きなのだけど同時収録されている続編の『満月』もお気に入り。と声にだそうとしても上手く言葉にならない。

「ごめんね、まだ落ち着いてないみたいね。話せるようになったらいろいろ聞かせて」

 飲む? とペットボトルの紅茶を差しだされた。受けとって蓋を開けようとして力が入らなくて開けられない。苦笑いをした彼女が代わりに開けてくれた。

 受けとった紅茶を一口飲む。とても甘く、同時にものたりなさがあった。ここ数日、伝言板で紹介されたものを飲んでいたせいかもしれない、ストレートの紅茶だけだと舌がさびく感じる。伝言板の存在の大きさをあらためて知り、うれしさと心苦しさが半々の複雑な気持ちになる。

 半分ほど紅茶を飲んでから蓋を閉めて深呼吸をする。

「今度はちゃんと落ち着いた?」

 こくり、とうなずいた。

「こんなとこで泣くなんてよっぽどのことがあったのよね。失恋?」

 首を横に振る。

「伝言板のこと?」

「……はい」

 ゆっくりと、時折言葉につっかえながら今までのことを話した。雪乃さんのこと、伝言板のこと、駅員さんのこと。あたしがブログのことを知らないこと。

「ブログのことは知らないけど、たぶん誰が書いたか簡単にわかるんじゃないかな」

「……え?」

 インターネットが匿名性の高い世界なのは、さすがにあたしも知っている。それなのに書いたひとがわかるなんて。

「IPアドレスとかで調べるんですか?」

「まさか。IPで相手の正確な情報を知りたければプロバイダとの照合が必要だから、一般人にはまず無理かな」

「そうなんですか」と返事をしたものの正直理解はできなかった。やっぱり機械関係は苦手。

「もっとシンプルに考えていいんだよ。今回の場合、ブログのひとはたぶんこの三パターンのどれか。

 一、伝言板に書きこみしているひと。

 二、伝言板のことを記録したいひと。

 三、アクセスアップを狙ってるひと。

 このうち三は消していいよね。アクセスアップのために面白いネタを探すひとはいるだろうけど、最初の日から今日までずっと同じネタを続けるとは思えないし。

 一の可能性もあるけど、ブログに書きこむのなら、なぜわざわざ先に駅の伝言板に書くのかがわからない。

 だから可能性が高いのは二の記録したいひと。そして、たぶんそれはつぐみちゃんの言葉を記録したいひと。心当たりあるでしょう?」

 あたしの言葉を記録したいひと──。

 伝言板はどんなに遅くても翌日には消えてしまう。手紙やメールのように、後で読みかえすことができない。メッセージを記録したい、言葉にこめられた想いを記録したい。そう願っているひとはひとりしか知らない。

「雪乃さんだ」

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