Please,Mr lostman.

高梨來

Please,Mr lostman.



 なだらかな坂道を上りつめたその先、海を望む小高い丘の上に、水色の屋根の一軒屋は静かにそびえ立っている。

悠然とした佇まいを感じさせるその家が、いまでも少しだけ名のしれている画家が建てたものだということ。現在その家を守っている青年は彼の孫であるということ。特徴的なアッシュブロンドの巻き毛にグレイブラウンの瞳は、画家であった祖父譲りであるということ。

 ――それらひとつひとつを僕に教えてくれたのは、彼自身ではなく、新参ものの僕へ何かと親切にしてくれたこの町の人たちだ。


 幾度となく繰り返し見上げてきた、すこしくすんだ明るい水色の屋根。その色にもどことなく似た古びた原付自動車に乗った僕は、毎日の日課のようにこのゆるやかな坂道を上る。

 彼の元へ――この町に住まう人たちみなの元へと遠くから運ばれてくる手紙や荷物を届けることが、僕に定められた仕事だからだ。

 いつもどおりに定められた夕方の配達の時間、バイクの音が近づくことに気づくその度、二階の書斎にいる彼は、窓辺から静かにそうっと手を振ってくれる。

 まるで懐かしい友人を迎えるかのようなそんな気の置けない態度は、繰り返される無為な日々の中で彩度を落としていくばかりの僕の日常にいつも、ささやかな明かりを静かに灯してくれる。

「こんにちは、郵便を届けにきました。これは書留と小包だから、ここに受け取りのサインを頂けますか?」

「いつもありがとう」

 ペンを手にした指先は、滑るようななめらかさですらすらとサインを記す。すこし骨ばった指には、いつもブルーブラックとグレイのインクの痕がわずかに残る。

「こちらは手紙と郵便です。間違いがないか、いま一度だけ確かめて頂いてもかまいませんか?」

「ええ、」

 しなやかな指先が重ねられた一通一通を丁寧に確かめていく。そのまなざしに、見過ごしてしまいそうなかすかな光が滲むひとときがあることを、僕を知っている。

待ちかまえるようにそうっと息を飲み、僕は『その時』を静かに待ちわびる。決して、気づかれてはしまわないように。

 ――ああほら、思ったとおりだ。

 濃紺のボールペンで殴り書きのようにやや乱雑に記された手紙の文字を見つけたその途端、こわばったままに見えた表情はほんのわずかに緩む。

「――またずいぶん、遠くからだ」

 うねうねとした見慣れない字体での何週間も前の消印と何重にも重ねて貼られた色鮮やかな切手たちは、待ちわびたその便りが海を越えた遙か遠い場所からこの町へとはるばると届けられたことを如実に伝える。

 町の名物か何かなのだろう。高台から見晴らした風景の真ん中には、なめらかなドレープを描く白いローブに身を包んだ彫像の姿が望まれる。

 お世辞にも趣味がよいとは言えない、いかにも土産物屋の隅で埃をかぶっていそうな絵はがきの裏に記されているのは、ひとことふたことの近況報告。――申し訳程度に走り書きで綴られた名前のほかには、宛先はいつも書かれていない。

「絵画の修復士の先生と仲良くなったそうだよ。いまは教会の壁画のおおがかりな修復作業を手伝っているんだって。公開がはじまれば町の新しい名物になるはずだから、その時は見においでって」

 うれしそうにまぶたを細めるようにして教えてくれる言葉に、裏腹に心はざわめきをおぼえる。

プライバシーには詮索しない――いくらそう肝に銘じていても、ことはがきとなれば 宛名を確認するために目にした時、いやがおうにでも文面は目に入ってしまう。それがほんの短い数行に閉じこめられたものならば、言わずもがなだ。

「……楽しみですね」

「あぁ、」

 遠慮がちな会釈を、まぶたの裏へとそうっと焼き付ける。




 ほんの数年ばかり前、ひとつの季節をともに過ごした相手。それが、この奇妙な絵はがきの送り主の正体なのだという。

 ――もちろん、それを僕に教えてくれたのは彼自身ではなく、親切なこの町の人たちだ。

「いいんだよ、別に」

 いつものように、仕事相手から届いたらしい郵便物の束を仕分けながら彼は答える。

「やましいことなんてないんだしね。聞かれたら教えてあげてって、そう言ったのは僕のほうだよ。ほら、当人には聞きづらいことっていくらでもあるでしょう?」

 ちいさな閉じた共同体の中で結ばれた輪の中で感じる飾りのないぬくもりは、傷ついてひび割れた殻をやさしくくるんでくれる繭にもよく似ている。

「勝手に知られたくないことだってあるんじゃないですか?」

 もどかしくひきつる感情を押さえ込むようにしながら告げる問いかけのその上へと、ふわりと羽のようなやわらかさで言葉はかぶせられる。

「知ってくれているんだって、そう思うだけでうれしくなれるようなことだっていくらでも」

 にこり、と柔和に笑いかけるまなざしの奥に宿る光がどこか寂しげな色に染まっていることに、気づかないわけはなかった。




「おかしな男だったよ」

 町に一軒しかないバーのカウンター、すっかり肌になじんだように程良くくたびれた色あせた緑のエプロン姿の主人は答える。

「くたくたになったボストンバッグひとつ抱えてこの町までやってきてね。どこかの町のドライブインで仲が良くなった相手がドライバーをやってるっていう長距離バスに乗り込んでみることにしたら、ここにたどり着いたんだって。そんな適当な理由があるのかってみんなで言ってやったら、ここじゃない場所に行ってみたくなるのに理由なんか必要か? って、そう言うんだよ」

「口のうまい男だったんですね」

「なかなか言うね、あんたも」

 皮肉混じりに告げた言葉は、どうやら意味合い通りに届いていたらしい。

「泊まる場所がないから、出来れば住み込みで働ける仕事でもないかって。酒場にでもくれば、何かあてがあるんじゃないかって思ったらしくて」

 口元に手を添えるようにしながら、記憶の糸を淡くたぐり寄せるようなたおやかな言葉は続く。

「その時だよ、彼がすうっと手をあげて言ったんだ。なんならうちに来ればいい。部屋なら余ってるからって。書庫の整理だとか書類仕事を手伝ってくれればそれでいい、気持ち程度の給金だって出すからってね」

 いつくしむようなやわらかさですうっとまなじりを緩めながら、主人は続ける。

「あの時のことは、その場にいたみなきっとおぼえてる―内心ではそうなればいいって、そう思っていたんだ。言えるわけなんてなくてもね」

 風変わりなその男がこの町を訪れた時期はちょうど、長年病を患っていた彼の母親が命を引き取ってから半年ばかりの時間が経ったころだったのだという。

「時間が解決するしかないことくらい、彼自身がいちばんわかっていた。それでも、気を紛らわせてくれる相手がいるのといないのじゃ大違いだからね。彼のことをすこしも知らないよそものだなんて、あつらえたみたいにうってつけなその役割だった」

 ここではないどこか遠くへと意識を運ぶように、すうっと視線をそらすようにしながら彼は答える。

「子どものころからね、ずっとああだったんだ。ひどく物静かで遠慮がちで、感情を表に出すようなこともほとんどなくって。あの広い家にひとりっきりで住むようになってからだって、それはすこしも変わらなかった。まるでいつもとちっとも変わらないように毅然と振る舞って、すこしも悲しんだり落ち込んだりしているそぶりなんて見せなかった。それでも確かなことがひとつだけあって――すこしも笑わなくなったんだよ。目を合わせた時の、会釈ひとつすらね」

 ぐっと深く息を飲むようにしたのち、ささやき声は静かに落とされる。

「だからみんな、心底ほっとしたんだよ。あの男が、はしゃぎ疲れた犬みたいなくしゃくしゃな笑顔で『ほんとうにいいの?』ってそう尋ねたその時にね―――ほんとうに、ひさしぶりに笑ったんだよ。心からうれしそうな様子で、枕元のプレゼントに気づいたクリスマスの翌朝の子どもみたいな素直な顔でね。正直言って悔しかったよ。ほかの誰にも出来なかったことを、ただぽっと現れただけの新参者があっけなくこなしてみせるんだからね」

「……愛されているんですね」

「あぁ、」

 まなじりをゆるめるようにして届けられる笑顔には、いつくしみだけを溶かしたかのようなおだやかさが滲む。




「言われたんだ、最初に。そう遠くないうちにここを出て行く。戻ってくるだなんて約束は出来ない。あんたを残していく、それだけは変えられない。それでもほんとうに構わないかのかって」

 舞台の上でせりふをそらんじるかのような滑らかさで告げられる言葉たちには、そこに潜む幾重もの心の連なりを読み取らせまいとするかのような、決然とした意志のようなものがひそやかに滲む。

「だから言ったんだよ、それでもいいよ。でも、断りもなく黙って出て行くのだけはよしてって。きちんとお別れを言えるさようならのほうがずうっとすくないのくらいは知っているから、君とはちゃんとそれを果たしたい。そう約束してくれるんなら、好きなだけ居てもいいよって」

 瞳を伏せたままぽつりぽつりと重ねられていく言葉には、幾重にも塗り重ねられた追憶の色がきらめくようだ。

「手紙はその時に、約束を?」

 問いかけを前に、黙ったままそうっと首を横に振られる。

「いつか、話に出たんだ。昔見た古い映画でね。年を取って出歩けなくなった老人の元に、世界中を冒険する熊のぬいぐるみの写真が届くようになるんだ。その子の姿は、子どものころによくいっしょに遊んで、いつのまにかお別れをしてしまったはずのくまにそっくりでね。宛先はいつも、子どもの書いた走り書きみたいな字で『君のかつての親友より』。ロマンチックだよね、とは言ったんだよ。まさか覚えてくれているだなんて、思ってもなかった」

 まなじりをすうっと細めるようにしながら、囁くようなやわらかさでたおやかに言葉は落とされていく。

「……一度きりだとそう思っていたから。こんな風に続くだなんて、思ってもいなかったよね」

 ブルーブラックのインクにところどころ染まった手の中には、届けられたばかりの真新しいはがきが、まるで宝物か何かのようにそうっと携えられている。

「手紙って贈り物みたいなところがあるでしょう? 言葉と気持ちだけが、ありのままそこに閉じこめられている。そこにタイムラグがあることも含めてきっと意味があるんだよなって。いまこの瞬間にも彼はもうきっと違う場所にいて、この時に僕に届けようとしてくれた気持ちなんて遠ざかってしまって、自分の中にだってとどめられていないものなのかもしれない。それでも、その時の彼にだけ残せたものが僕の手の中でこうやって息づいている。ほんとうに、すてきな発明だって思うんだ」

 遠い場所を見つめていたまなざしは、ふいうちのようにすうっとこちらへと向けられる。

「君はさながら、年中通して働きづめのサンタクロースだね」

「そんなこと」

 気恥ずかしさからぎこちなく視線をそらすようにしたまま、それでも、視界の端でだけ彼の姿をそうっと追いかける。

「ずうっとむかし……まだうんとちいさい、子どものころのことだよ」

 記憶の糸をたぐるようなたおやかさを携えながら、やわらかなささやき声は落とされていく。

「手紙を書いたんだ。フィンランドにいるっていう、サンタクロースのおじいさんにね。いつもすてきな贈り物を届けてくれてありがとう。あなたはどんな風に過ごしているの? どうしてそんな風に世界中の子どもたちに親切にしてくれるの? あなたにはプレゼントを届けてくれる人はいるの? 僕が大人になったら抱えきれないくらいたくさんのプレゼントを持ってお礼にいかせてくださいって。すこししてから、きれいな外国の切手がたくさん貼られた返事の手紙が届いたんだ。アイボリーの便箋にくるくるカーブした金色の飾り模様がついていて、ちゃんと大人の字で書かれていてね。大人の人からの手紙だなんて生まれて初めてだったから、サンタクロースがほんとうにいるんだってことも含めてすごくどきどきしたよ。いまでもおぼえてるくらいにね」

 やさしいおとぎ話を語り聞かせてくれる口ぶりには、積み重ねてきた年月のありようがやわらかに滲む。

「サンタクロースのおじいさんは言ってくれたよ。君たちが一年いい子にして、贈り物を待ってくれる。クリスマスの翌朝、枕元においたプレゼントに気づいてとびっきりの笑顔でよろこんでくれる。それがいつだって、何よりもの贈り物なんだよって」

 すうっとまなじりを緩めるようにしながら、ささやき声にくるまれた言葉は続く。

「見えもしないものを信じて受け止めてくれるだなんて、サンタクロースのおじいさんは魔法使いか何かなのかなって思ったよね」

 かすれたインキで殴り書きのように宛先を書かれた絵はがきを手にした指先が、わずかに震える。

 いつものように、そこには返事を送り届けるための宛先は記されてはいない。






「あなたは、怖くはならないの?」

 不躾に投げかけたその言葉を、僕はいまでも時折思い返すことがある。

「これだって、いつかは届かなくなるかもしれないでしょう。返事を返す宛てだってなければ、当人が帰ってくるかなんてこともわからないんだし」

「……まあ、」

 曖昧に首を傾げるような仕草とともに、告げられるのはこんな言葉だ。

「言うじゃない? 便りがないのが良い知らせって。それに、永遠に続くものだなんてこの世にはどこにもないんだし」

「そうかもしれないけれど」

 曖昧に口を濁らせるこちらを前に、歌うような軽やかさをまとったささやき声が落とされる。

「それよりももっと怖いことならほかにあるよ。たとえばほら、僕の瞳が急に見えなくなるだとか」

「……そんな、急に」

 戸惑いながら投げかけるぶざまな返答にそうっと蓋をするかのように、たおやかに言葉は続く。

「なにが起こるのかがわからないものでしょう、人生って」

 口元を緩めながら、いつもどおりの涼やかさで彼は答える。

「もしそうなったら、君に読んでもらえばいいのかな?」

いたずらめいたかろやかな響きに、あっけないほどに心は揺さぶりをかけられてしまう。

 口の端をいびつに持ち上げた、精一杯の不器用な作り笑顔とともに僕は答える。

「練習しておくよ、期待してて」

 遠慮がちに返される会釈を、まぶたの裏へとそうっと焼き付ける。




「昔に聞いたことがあるよ、そういう仕事があるらしいって」

 些細な思い出話を前に、職場の同僚が聞かせてくれた言葉がそれだ。

「高齢者や視覚障害者向けのサービスでね。本を朗読したり、手紙を読んで聞かせたりだとか」

「信頼関係が問われそうだ」

 書類の整理の傍ら、ふう、と思わず息を吐きながら漏らす僕の言葉を前に、斜め前の座席からはわずかに眉根を寄せた不可思議そうな様子の苦笑いが漏らされる。

「どういう意味合い?」

 首を傾げて見せる姿を前に、僕は答える。

「だって、聞いている側は内容を確認出来ないんだよ。いくらだって取り繕えるってことでしょう、それって」

「届いていない手紙を、あたかも偽ってみせたり?」

「――感心出来ないけれど」

 ちいさく頷きながらそう答えた途端、ちくりとわずかに胸を刺すような痛みに気づく。

 わずかにもつれた指先をぱたりと止めて見せるこちらへと、いやに思わせぶりなゆっくりとのまばたきとともに告げられるのは、こんな言葉だ。

「大丈夫だよ、職務違反だなんて無粋なことは言わない」

「きみ、」

 わずかに眉根を寄せながらささやく言葉をかき消すように、パンパン、と掌を叩いてみせる乾いた音が響きわたる。

「ちょっとそこ、おしゃべりがすこしすぎるよ? 夕方の配達の時間までに片づけるように言ってあったのはおぼえてるよね? もうすこし集中して」

「はあい」

 とたんに漏らされるいい子のお返事に、思わず笑い出しそうになるのをそうっとふたをして押さえつけるようにする。

「リデル、返事は?」

「――了解致しました」

「そうこなくっちゃ」

 満足げな笑顔に、さあっと胸の奥があわだつ。

「うかうかしていたら配達の時間に間に合わなくなるよ。すれ違いになりたくないでしょう?」

「えっ」

 首を傾げて尋ねてみせる僕に、かぶせるように意味深な言葉は続く。

「いけばわかるよ。直接聞いたほうがいいじゃない」

 とんとん、と木机を叩いて見せるリズミカルな音色にあわせて、わずかに心臓がはねあがる。




「ああ、よかった。ちょうど支度をしていたところなんだ。すれ違いになるところだったね」

 いつもどおりの所定のコースの最終目的地、なだらかな坂道の上にゆうゆうとそびえ立つ水色の屋根の一軒屋の主人が、僕の姿を目にしたとたんにかけてくれた第一声がそれだ。

「おでかけ、ですよね」

 いつも目にしていた見慣れたよそおいとは明らかにちがうその姿を前に、息をのむようにしながらそう声をかける。仕立てのよそさそうなグレイのスラックスに、細身の革靴、ボタンダウンのシャツにジャケット。ふだんなら洗い晒しのままの髪は、なでつけるように品よくセットされている。

「すこしだけ遠くまで旅立つことにしたんだ。君にはちゃんと言っておかないといけなかったのに、うっかりしていたね」

「お似合いですよ、とても」

 人違いかと思ったくらいに。付け足すようにそう答えて見せれば、ぎこちない会釈が返される。

「局長に――、」

 ためらいがちに視線をさまよわせながら、僕は続ける。

「早くいかないとすれ違いになるかもしれないよって、せかされていて。どういうことだろうって思って」

「彼なら言いそうだ」

 ぱらぱら、と手にしたダイレクトメールの束を仕分けながら、ささやくようなひそやかさで言葉は続く。

「すこし前にバーで会った時に話したんだ。覚えてくれてたんだね」

 すうっと細められたまなざしは、ここではないどこか遠い場所を見つめている。

「たまにはね、ここを離れてみようと思ったんだ。別に、そんなおおげさなものなんかじゃないんだ。ほんの三日くらいだけね」

 ぱちり、とささやかなまばたきを投げかけられながら、続けざまに紡がれていくのはこんなせりふだ。

「ねえ、手紙を書いてもいい? ちょっとした記念になるでしょう」

「なんで僕に?」

「出したい相手がいないんだ、君くらいしか」

 届ける宛がないから? 『彼』には―喉元までせり上がった言葉をぐっと飲み込み、ふかぶかと息を吐く。

「光栄です、すごく」

「よかった」

 子どものように無邪気に笑いかけながら、ささやくようなやわらかさで言葉は続く。

「大人になってもまたサンタクロースに手紙を届けられるチャンスがくるだなんて、思ってもなかった」

 細められたまなざしの奥に、幼い子どもの影がちらりと覗く。











「これが、彼からもらった手紙のうちの一通だよ」

 少しばかりよれた絵はがきを懐から取り出しながら彼は言う。

「あれ以来ね、年に数度ばかり短い旅に出るようになったんだ。町のみんなは驚いていたよ。元来遠くに出たがらない性分で、あの家にひとりきりで暮らすようになってからは輪をかけてそうだったのにって。その都度、こうして彼からは絵はがきが届いた」

 濃い深緑のインクで記された、癖のないなめらかな筆致。返事を送る先の住所はいつも記されないまま、宛名には一言だけ『君の隣人より』

「不思議だよね、毎日のように顔を合わせていつだって話ができる間柄なのに。それでも、彼が選んでくれたのがほかならぬ僕だったことが何よりもうれしかった」

 たとえそれが違う誰かの代わりにすぎないのだとしても―伏せられたまなざしは、言葉よりも雄弁にそう語りかけてくれる。

「長く続いたんだよ、それも。ほら、この日付をみて」

すこしばかりの皺の寄った節くれた指先が指し示してみせる消印は、ほんの数年前のものだ。

「彼は――、いまは?」

遠慮がちに尋ねるこちらを前に、そうっと息を飲むようにして彼は答える。

「肺を悪くしてね。彼の祖父もかかった病気なんだ。家系なら仕方ないねって言って、そう笑っているよ。あまり外には出歩けなくなったけれど、その代わりにと訪ねる人はたくさんいる」

 すっとなめらかにまなじりを細めながら、ささやき声は落とされる。

「まだ届いているんだよ、あの手紙は。ずいぶんとペースは落ちたけれど、相変わらずいつもばらばらな場所からね。おなじだけ年をとったはずなのに信じられない、どうかしてるねって言って笑ってる。もしかすれば、誰かほかの相手に代替わりを頼んだのかもしれない。でも、それでもいいんだ。約束を絶やさないことのほうが、何よりも大切なんだから」

 はらはらと崩れ落ちていくかのような言葉が、うすい暗がりにぼんやりと溶ける。


 ギムレットのグラスにそうっと手をかけるようにしながら、彼は答える。

「年寄りの昔話につきあってくれてありがとう。こんな風に話をしたのは、もしかしなくても君がはじめてだよ」

「……光栄です」

 肩を竦めて答えて見せる僕に、ささやくようなやわらかな言葉は続く。

「それでね。最後にひとつだけ、君にお願いがあるんだけれど」






 親愛なるあなたへ


 こんにちは、ご無沙汰しています。

 突然の手紙だなんてびっくりしたよね。それにはすこしだけ理由があるのでよろしければこのまま聞いてください。

 こないだ、取材旅行も兼ねた船旅に出ることになったことはたしか君にも話をしたよね?

 いまから話すことは、その時に乗船したフェリーの中のバーで出会った、かつて郵便配達人だったという紳士が聞かせてくれたお話です。



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Please,Mr lostman. 高梨來 @raixxx_3am

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