エピローグ

「モローさん、立ってくださいよ。ゼミ終わったッスよ」

 楓の声に反応して、薄暗く混沌とした脳に若干の光が差し込んだ。

「あ、楓くんじゃないか。なんだここは」

「バイオリッド生命倫理ゼミです。もう終わってみんな切っちゃったッスよ」

 あたりを見回すと、いつものがらんとした警備室だ。

「なんで楓くんはリアルにここにいるんだっけ?」

 楓は呆れたという仕草をしながらカフェラーゼを手元に出す。

「バイトの合間に遠隔でゼミ受けるから監視サポートしてくれ、ってモローさん言ってたじゃないッスか。そして丁度自分も取ってるゼミだからペア参加しましょう、って」

「う、お。寝てた? ひょっとして」

「どこまで覚えてるんスか?」

 モローは記憶をたぐる。確か、ハイブリッド混合率でパフォーマンスの差が……とかいう辺りで途切れている。

「結局、いいとこ取りでバイオリッド最強、って奴だっけ」

「ちょ、それでレポート書けるんスか?」

 空中を指でなぞる。ぱらぱらと窓が出現するが、すぐに消滅する。

「できそうだよ。何とか」

「そう言うッスけどね、これ、落としたらヤバいッスよ。こないだも寝過ごして試験受けなかったじゃないッスか」

 そうなんだよ。いっつもこうだ。

 例の麻耶の尻拭いでてんてこ舞いの一日の後、モローは疲れて次の日は丸一日寝てしまっていたのだ。結局その日にあった試験はサボったことになって受けられず、履修歴がリセットされた。二年の履修歴がパーだ。

 ふう、おじさんは、疲れたよ、もう。

 結局、残り三単位はそのまま。どころか、うち一つはリセットされてしまった。最初から受け直しだ。もっと取りやすいのを探そうか。「中年疲労学講座」とか、無いもんだろうか。

 そこに、アラートが飛び込んできた。またか?

《ガリアリウム変性症、第八ワームホール域で駆逐宣言》

「おー! 早かったね!」

 変なアラートじゃなくてホッとした。

 楓も感慨深そうに、周辺に提示される関連項目に目を通している。

「しかし麻耶先輩、半端ないッスね……」

 確かに。だいたい、逃げるゲラソンを匿おうとしたセイラが抱き合ったまま一緒に亜空間に落ちたもんだから体格データに大きなズレが生じて、その後がややこしくなった。そしてそれを回収し切った麻耶先輩の能力は、想像を絶する。たった一つの次元移送転移装置を二人で使うために、わざと自分の細胞接着を緩めてゲラソンと融合するなんて。

「いや、ゲラソンと融合してることが分かった時は、全身が凍ったよ。もうダメだ、って思ったもんね」

「しかしモローさんも、よくマクスウェルに気づいたッスね」

「ああ、あれね」

 カップを握る両手に力を込める。カフェラーゼの温度がじわりと伝わってきた。

「気づかなかったら、ヤバかったね。終わってた。二十一世紀から勝手にイジられてるなんて、思ってもいなかった。麻耶先輩に聞いたら、単なるストレス解消だった、って言うんだけど、それだけであれだけの物作るんだからなあ」

 モローは脳裏に完熟したマクスウェルちゃんの禍々しい姿を思い出していた。

「そうそう、ジローさん、出納帳うまく使えたッスかね」

 ふと楓が話題を変えてくる。

 そいやジローはメディカプセルで楓の治療を受けていた。

「あの時、ジローさんに脳の損傷が起きたよね。十七世紀の食べ物の毒素とオムニペーストが反応して、って。俺と楓くんと同期して治療したの、その後はうまくいってるかな」

 楓の表情がわずかに曇る。

「ああ、ありましたね……」

 前も言いにくそうだったし、その後も妙な態度だった。ここで掘り下げていいものか、迷う。けど、気になる。それに話題に出したのは楓のほうだ。

 そんなモローの感情を察してか、楓がゆっくりと口を開いた。

「隠しておくつもりだったッスけど、ちょっとひとりで抱えきれなくなってきたッス。あれ、実はこっそりバイオロイドのシード細胞を改変して遺伝子に組み込んでジローさんの脳に発現させたんスよ」

「え! バイオロイドの! そんなことしたの!?」

「いったんジローさんの生殖細胞に標準バイオロイドシードの遺伝子を導入してから増殖させて、生成されたハイブリッド細胞を脳に移植、軽く位相エネルギーで刺激して遺伝子を発現させてバイオロイドニューロンに分化、直前のスキャンデータからシナプスの状態をエミュレート、ってやったんス。その時にモローさんと同期させてもらったんスよ」

 ひとしきり話すと、楓がカフェラーゼをすする。

 要は、現代のテクノロジーを八百年前に残して……というか、渡してしまった、か。とにかく、ちょっとまずい状況に思える。

 楓が目を上げ、説明を続けた。

「それで、とりあえず意識は戻ったってわけッス。これ、純粋種を後天的にハイブリッド化する方法、理論上は可能だと思って数年前からアイデアを自分で温めてた奴なんスよ。自分でももちろん実際にやるのは初めてだったのもあって、凄く興奮しながらやって、うまくいって、逆に後悔したんス。失敗したほうが良かったんじゃないか、とか考えちゃって」

 まあ、そうかもしれんなあ。単なる人体実験と同じだ。ただ、どんな医療技術でも、初めて使う時にはそうなるものといえばそうかもしれない。しかも今回の場合は、緊急避難ともいえるかもしれないかな、とも思う。

 そもそも、俺が勧めたオムニペーストとジローさんの腹の中にあった十七世紀の毒素が反応してしまった、というのもある。俺としても複雑な思いを持ってはいる。

「でもさ、楓くん。もしあのままだったら、ジローさんはあの後なんの活動も出来なかった。生きていても、意識が無かったんだから。すると、出納帳を使って悪人を追い出すことも出来ず、団子工場も発展せず……要はこの文明、世界も無かったわけで」

 楓を慰めているようでいて、実は自分のやった事に対する贖罪のつもりなんじゃないか。そんな妙な感情も同時に湧いてきていた。

「まあ、そうッスね。なんだか罪悪感あったんスけど、そう言ってもらえて、ちょっと気が楽になったッス」

 楓の表情がすこし和らいだ。まあ、バイト仲間の心の荷がおりたのなら……。

 ふと、モローは大事なことに気づいた。

「ち、ちょっとまって楓くん。ジローさんの生殖細胞をハイブリッド化したのね。じゃあ、そのジローさんの子供……というか、代々、そのハイブリッド細胞が遺伝していっちゃうわけか」

「でも、組み込んだバイオロイド遺伝子を発現させるのには、位相エネルギーが要るんス。それが使えるのは二十四世紀になってからッスよ。その頃には、大半の人がバイオロイドとハイブリッドしてるッスから、導入した遺伝子も拡散して、ほぼ無効化されてる筈ッスよ」

 まあ、それならいいんだが。いやまてよ、ちょっと引っかかる。何かが引っかかる。

 モローは両手の中でカフェラーゼを再加熱しながら、その引っかかりとほぐそうとした。

 そうだ!

 モローは、以前麻耶が二十一世紀から報告してきたことを思い出した。

「確か麻耶先輩が、二十一世紀のキシジマに位相エネルギーを浴びせてしまって能力を解放してしまった、普通はそんなことはないはず、おかしいけど結果オーライみたいなこと言ってたよね。あれって」

 モローの説明を聞いた楓の表情が変わった。目の前にいくつもの窓を出して、手を激しく動かす。

「あれって、ひょっとして」同じ言葉を繰り返したモローは、話を途中で切った。

 楓は無言で沢山の窓を見つめている。

 モローも楓と頭を並べて窓を見つめる。モローの知識では、内容の細かい部分はよく分らない。だが、訊こうにも声をかけてはいけないような空気だ。

 ふと思いつき、モローは横を向いて例の「出納帳」を窓に出した。

 ゲラソン逃亡と確保の情報が公開された後、ヤープン歴史クラスタに接触して翻訳してもらっていたのだ。その中には、工場で働く人間に払う報酬の一覧もあった。その名簿の中に、「ジローエモン」の名を探す。

 あった。「別巣次郎右衛門」と書いてある。

 いつの間にか覗き込んでいた楓も、ゆっくりと頷いた。

「……ジローさんって、やっぱキシジマの先祖だったッスね。遺伝子上の特徴も、そうなってたッス」

 やっぱりか。

 あのとき楓がジローに組み込んだバイオロイド遺伝子が子孫に伝わり、二十一世紀で麻耶に位相エネルギーを浴びせられて発現、能力が解放され、そしてあのキシジマが生まれた、ということだ。

「なんか、やっちまった、って感じッス……」

「まあでも、おかげで、この世界があるってことよ。それにしても、疲れたねえ」

 誰にともなくそう言いながら、モローは自分の行動を振り返る。

 そうか。俺がジローさんにオムニペーストを食べさせたのも、こんなふうに関わっていたのか。つまり結局、あらかじめ、全ては決まっていたのだな。

 モローはパイプ椅子の角度を調整し、カフェラーゼを一口すすった。

 カフェラーゼは、地獄のように熱かった。

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なぞの出納帳 ンマニ伯爵 @nmani

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