シンクロ

「楓くん、やっぱやってみない?」

 倉庫に着くなりモローは、カフェラーゼを飲んでいる楓の面前に気色ばんだ顔を突きつけた。

「麻耶先輩とゲラソンの分離。ひょっとして、って思うんだけど。いやダメかもしれないけど」

 楓の表情は変わらない。一瞬だけモローを見るが、すぐに両手で保持したカフェラーゼのカップに視線を落とした。

「いやもう、出尽くしたッスよ。ゲラソンと麻耶先輩の細胞がバラバラに混じって静止してるんス。何か操作する度に、時間とともにエントロピーは急激に増大していくッス。場の時空座標を移動できても、実体の時間軸を戻すことは出来ないッスよ」

 すっかりやる気を無くした様子の楓に、なおも畳み込む。

「でも、細胞の一つ一つをアンカリングして、麻耶先輩とゲラソンの細胞塊をいったん分離、その後で記録された初期状態に自律的に戻していく、ってのは可能だと思うんだけど」

「モローさん、細胞っていくつあるかご存知ッスか?」

 楓がカフェラーゼのカップから視線を外してモローに問いかける。光のない目だ。

「麻耶先輩のバイオリッド比率は三十八ッスから、全身の細胞数は約四十兆個。うち九割が崩れて組織の形がなくなり、四割がゲラソンの体内に分散して融合しているッス。そして、その個別の細胞同士も融合してるのが二割以上あるッス。それぞれの高エントロピー状態を個別の細胞や身体の状態に分離するだけで、膨大なエネルギーがいるッスよ」

 楓が面倒くさそうにホロテーブルを撫でる。

「おおよそ、この第八ワームホール域の全都市合計ジラソリウム消費量の半年分ッスね。まあ、現実的じゃないッス」

「もし、分離が済んだら?」

 なおもモローは食い下がる。

「そうッスねえ。バイオリッドは全身分子の状態が逐次保存済みッスから、元の細胞配置と形態に戻すこと自体は可能と思うッスけど、いずれにしろ混じったままじゃ無理ッスね」

 なるほど。まあ、その辺りまでは自分でも想像がつく。とにかく細胞の分離が難関なんだ。

 モローは黙ってホロテーブルをいじった。

「これ、なんだかわかる?」

 いきなり目の前に先ほどのキモい大型フィギュアが出現し、楓はのけぞった。

「うわ! な、なんスか、これ」その拍子にカフェラーぜを取り落してしまう。

「昨日、楓くんにスターティングしてもらったマクスウェルちゃんだ」

「え? まじッスか! あれが、もうこんなに! なんで! っていうかキモっ!」

 落としたカフェラーゼを始末し、新しいカップを出しながら楓がしげしげとマクスウェルを眺めている。

「そう。結局楓くんがスターティングしてから、その後手も付けずに放置しててさ。まあオート設定だったから自律的に色々関連情報集めて成長修飾していったみたいなんだけど、そこに麻耶先輩が絡んでて」

「え? いつの間にッスか」

 眉をひそめながら目の前でゆっくりと回転しているキモいフィギュアを眺める楓。

「多分、二十一世紀に飛んでいる間だと思う。たまにこっちと繋がる隙にか、下手したら亜空間飛んでる最中にコレをハッキングしたみたいで。なんか、タイムレコード見ると一ヶ月以上の間に八回の干渉があるんだよね。で、その度に爆発的に複雑さが増していっている」

 楓がホロテーブルを撫でてフィギュアの様々なパラメータを確認している。

「こ、これって、もう確認不能なほどの複雑さッスよ。っていうか、ここだけにあるわけじゃないッス」

「そうなのよ」モローも手にカフェラーゼを出す。

「一部、亜空間に散ってるッスね。情報量も複雑さも、このフィギュアのボディやこの通常空間で作れる論理構造に収まりきらないってことッス」

 驚愕の表情をしながらあちこちいじくっている楓。

「これ、するッスよ。ただのフィギュアじゃなくなってるッス」

「そう、そんな気がしたんだ。さから楓くんに見てもらおうと思った。この複雑さ、そして、精緻さ。何らかの目的というか機能がありそうだな、って。で、これ見て」

 モローは麻耶の最後のメッセージを窓に出した。

〈……調べればわかる。あとは任せる……〉

「ここで途切れてるけど、ここね」

〈あとは任せる〉の部分を何度も繰り返し再生した。

「これ、『任せる』だとずっと思ってたんだけど、実は『マクスウェル』じゃないかと」

 モローはまたその部分を繰り返し再生させながら、じっと楓の顔を見る。楓もそれに聞き入っている。

「……確かに、マクスウェルって言って、後に続きそうなのに切れちゃった、って感じッスね」

 波形データを見ても、その後に何か続きそうな余韻がある。

「で、このフィギュアへの麻耶先輩の干渉。それ自体は何か目的があったのか分らないけど、結果として、こういう風になった」

 二人はじっと異形のフィギュアを見つめた。

「……マクスウェルの悪魔」

 楓がぽつりと呟いた。


「これで、できそう? マクスウェルのインターリンク、仮想外部インターフェースは留置カプセルと完全にリンクさせたけど」

「えーと、理論上は、ッス。麻耶先輩の認証コードがついた部分を統合したら、その先にゲラソンと完全に融合する直前に記録された麻耶先輩のバイオリッドシナプスデータも確認出来たッス。あとはゲラソンの方ッスが、こっちはなんとも言えないッスね……。麻耶先輩の細胞がゲラソンの脳組織にまで侵入してて、一部破壊してるッス。こっちのシナプスデータは無いので、分離した後に記憶が戻るかどうかはイチかバチか、ッス」

 モローと楓は互いに同期作業をしながら会話を進める。

「そもそもゲラソン捕獲はゲラソンの記憶からガリアリウムのデータを引き出すためだから、記憶が戻らないとヤバいんスけどね」

 でも、それでもやってみる価値がある。というか、他に何も手が無い。そして、その手の一つを麻耶先輩が残してくれていた。

 だからこれをやるしかないのだ。

 マクスウェルの悪魔。さっき楓が呟いたその言葉には聞き覚えがあった。高エネルギー分子と低エネルギー分子を、エネルギーを使わず分別する仮想の存在だ。その存在自体が物理法則に反する結果を生むため、あくまで思考実験としてのものだ。

 このフィギュアは、楓がスターティングの設定をしてから、マクスウェル関連の知識と派生技術、副次項目をどんどん自律学習し、また麻耶の特異なエッセンスとキシジマ時空での時間重畳効果を得て亜空間にまで拡張されたことで、エネルギーをほぼ使わずに細密物質の識別と分別を効率的に行う機能が実装されていた。これをちょっと応用するだけで、ほとんどエネルギーを使わずに迅速に細胞同士の逐次分別を行う、つまりゲラソンと麻耶の細胞を分離出来るのだ。

「だけどこれ、参照データが無いッスよ。バイオリッドの細胞接着因子の一部は純粋種由来ッスけど、純粋種の現物参照が無いッス。このカプセルの中の二体も、モローさんも自分も、バイオリッドっスから」

「え、でも医療データバンクに無いかな」

「個人情報データベースから純粋種を抽出してそこから再構成して……って出来るかもしれないッスが、自分、まだ学生ッスから、そこまでの権限が無いッス」

「さっきのカタナ男とかジローさんの髪の毛とか落ちてないかな」

「ああ、あの辺は、生体分子は全部完全に掃除されちゃってる筈ッスね……」

 モローは俯いて頭を掻いた。純粋種純粋種……。あ、そうだ!

「ンマムニくんだ、純粋種! 彼をサンプリングすれば!」

「そうッス!」

 と言って、二人は黙ってしまった。

「サケタマ県警にるッスね……」

 しかしまあ、なんでこんな時に。

「室長も、いて欲しいッスよね。これ、自動でマイクロ秒ごとに静止を繰り返してマックスウェルに細胞分離の仕訳を預けるにしても、形態方向の時間微調整なんかは結局は手動ッスから。自分とモローさんと二人だけで同期してもちょっとタスクが追いつかず溢れちゃう可能性が大きいッス」

「無関係な人を混ぜるわけにもいかないしなあ」

 ふう。一難去ってまた一難。

 仕方ない。やってみるか。

 モローは腰を上げると、倉庫での作業が映りこまないよう、いったん警備室に戻った。

 そこで深呼吸して、数秒間目をつぶる。そして奥歯を一度グッと噛みしめると、窓を開いてサケタマ県警の本部長を呼び出した。

「私設ミホロボッチ警備室のモロー、本部長に」

 数秒後、先ほどの偉そうな顔がモローの眼前に出現した。

〈何か用かね?〉

 モローは眉を上げて寄せ、できるだけ困った表情を作った。

「室長とンマムニがいなくて、こちらの業務に支障が出ています。調べのほうは、まだでしょうか」

〈こちらの業務の進捗は公開していないが?〉

 そんなの知ってるよ。

「そこを何とか。見通し、だいたいの目安だけでも。あと三十分とか、一時間とか」

 窓の中の本部長が肩を震わせて笑った。

〈三十分? 一時間だと? そんな時間で終わると思うか? 最低三日、最大は未定だ〉

 まあ、そう言うと思ったよ。

「そ、そうですか……残念です。これじゃあ、警備室を畳まないといけないかもしれません」

 本部長は意地悪い笑みを浮かべながら、小馬鹿にしたように応える。

〈さあなあ。こっちとしては、それでも構わないんだがな?〉

 圧倒的優位に立ってるぞ、っていう態度だ。よし、ここだ。

「ところで、ゲラソンはどうなりました?」

 モローはすっとぼけた表情で本部長に尋ねた。

 本部長がビクっとする。

〈なんのことだ? ここに居るぞ? 目下、記憶捜査のためのインナーダイブの準備中だ〉

 ふむ。まだ隠す気か。そう、本部長は「こちらに勝ってる」と思っている。自分達のポカを認めるわけがない。本当は麻耶先輩のせいだったとしても、責任が問われないということは無いだろう。ゲラソン逃亡を公式発表していないということは、そういうことだ。

 思惑どおり。

〈そうなんですか。実は、先程の、亜空間から出現した謎のバイオリッドと組になって、また別のバイオリッドが亜空間から出てきて、こちらで捕獲してるんです。よく見ると、どうも、指名手配されていたゲラソンにそっくりで。いや、ゲラソンだったらもう県警に捕獲されてるはずなので、たまたま似ている、っだけだと思うんですけどね。あんまりにもそっくりなもので、一応報告をと〉

 そう言った瞬間、本部長の顔色が変わった。

〈そ、そんな筈はない。そいつの顔を見せてみろ〉

 モローはちらりとカプセル内のゲラソンの顔アップを出した。

「バイオリッドDNAIDはこれから調べようと思うんですけど。とりあえず、こちらで把握しているゲラソンのDNAIDと照合するつもりです。まあ、一致するはずは無いんですが、似てますから、一応、ですね。でも一致したらおかしいですね。県警で厳重に留置されていて、先ほどインナーダイブの準備中だとおっしゃっておられましたから。まあ、これは別人でしょうね。この警備室は私設ですが、約款では高度な公共性を持つとかで、指名手配犯の疑いのある人間にDNAID照合をした結果は一般に公開せねばならない規約なんですよね。いまちょっとその準備をやってる最中ですので、しばしお時間を」

 窓の中の本部長が眉間に皺を寄せながら周囲と話をしている。その後こちらを見た。苦渋の表情で睨んでいる。額に光る脂汗まで見える。

〈……いや、公開は差し控えていただけないか〉

「え? どうしてですか?」すっとぼけた顔をしながら、モローは心の中でニヤリとした。

〈そのゲラソン……と似た奴は、何かこっちのゲラソンと関係があるかもしれん。ちょっとそのままこちらに移してもらえないか〉

 モローはしばし考えるそぶりをした。そして、先ほど記録したゲラソンの顔を窓に提示する。

「いやでも、これ、ほら、顔がちょっとまだらになっていますでしょ? なんか病気になってるみたいです。その病気の進行を抑えるために、カプセル内を暫定的に静止固定モードにしてるんですよ。普通にそちらに移送するとエネルギー供給が一時的に変動して、もしナノセカンドでも不安定閾値を超えたら中のバイオロイドが病気で死んでしまうリスクがあるんです」

〈本当か〉

「本当です。こちらのエキスパートに相談し、医学的に確認しました」モローは強く頷いて断言した。

〈……じゃ、どうすればこっちに移送できるんだね?〉

「そうですねえ。実はその調整が出来るのが、そちらにいる、うちの室長だけなんです。それと、こちらのメディカプセルシステムで治療を行う際の触媒になってるのが、ンマムニなんですよ。ンマムニは純粋種ですが、ここのメディカルカプセルに高度に適応変型されています」

 自分でも何言ってんだかわからなくなってきた。

〈そ、そうなのか〉

 本部長の顔は困惑している。

 まあ、ついさっきまであんなに偉そうにマウンティング取っていた手前、意味が分らないからってこっちに教えてくれとは言えないわなあ。だいたい、こっちはあの麻耶先輩が設計したテクノロジーを使用したスーパー高度な警備室だっていうことは、本部長も知ってるはずだ。説明されても理解できない、ってことも分かっているだろう。なんせ使ってる俺にもよく解らないんだから。

「室長とンマムニを戻していただけたら、急いでこのバイオリッドをそちらに移送させていただく準備をします。あまり時間がかかると、情報公開約款に引っかかっちゃって、バイオリッドDNAID関連も結果の強制公開になってしまいますし、こっちも困ってしまうんですよ。このまま室長とンマムニが戻らないとここ潰れちゃいますし、潰れたら私は行くところがありませんし」

 しばし沈黙が流れる。

〈……わかった。すぐにそちらに二人を送ろう〉

 そう言うと本部長は目を閉じて顔の汗を手で拭い、窓を切った。

 ふう。

 あとはカフェラーゼでも飲みながら待つかな。


「ただいまただいま」

 早ッ! まだカフェラーゼ半分しか飲んでない!

 室長が頭をかきながら倉庫に入ってきた。後ろからはンマムニが申し訳無さそうに小さくなって入ってくる。また身体がぶるぶる震えている。

「いやあ、ンマムニくんがサケタマ県警に保護されたっていうからさ、問い合わせしたら、半ば強引にお茶を勧められて。飲んでたらうまい具合に閉じ込められちゃったんだよね」

 罠にかかったイノシシかよ!

「これ、ゲラソンかい? 本部長とモローくんの会話をちょいと小耳にはさんでね」

 首をゆっくり左右に振りながら、しげしげと眺める室長。

「それが、実は……」

 モローは、ゲラソンと麻耶が融合していること、二人を分離する必要があること、室長含め三人で同期する必要があること、ンマムニも使わせてもらうことなどを説明した。

「ほうほう、そら大変だったね」

 まるで他人事だ。まあいつものことだが。しかし逆にこれが、いろいろ振り回されずに世の中を渡っていくコツなのかもしれない。これは是非身につけたい。

「じゃあ、始めようか」

 笑顔の室長を見て、ンマムニもフルフルと身体を震わせながら頷く。


 室長と楓が融合体が入ったカプセルの前に並び、モローを挟んで互いに同期させた。モローの中に、二人の感覚が入ってくるのを感じる。モローは室長とも楓とも同期の相性がいい。こればっかりは生来の個体差が大きい部分だ。

 留置カプセル横の椅子に座るンマムニにはメディバイスの子機が接続されている。そこから得られた純粋種の各部位における細胞接着因子の情報を参照しながら、三人は素早く踊るようにホロテーブルを操作した。ホロテーブルの上でゆっくりと回転する奇怪なマックスウェルのフィギュアは、双方向での膨大な干渉データの影響で、精緻な彫刻のようなディテールが尖ったりなめらかになったり、微妙に変化していっている。フィギュア内の情報を一方的に読み出しているだけではなく、ゲラソンと麻耶の融合体からの細胞混合情報のフィードバックを数億のスレッドで同時に並行して受け、それを処理しているようだ。

 フィギュア上方に浮かぶ窓では、融合体の「ゲラソン部分」と「麻耶部分」のマッピング情報が逐次更新されていた。ゆっくりとではあるが、ゲラソンの体内にばらばらに侵入し分散していた麻耶の細胞が、背中の一部に集まっていくのがわかった。

 やった。いけている!

「楓くん、エネルギー収支は大丈夫?」

「大丈夫ッス。これほどのことを、たったこれだけのエネルギーでやってるなんて。ちょっと自分が知る範囲の理論では信じられないッスよ」

 室長は話す余裕がないのか、無言で手を動かしている。額に汗が滲んでいる。年齢的にはちょっとしんどいか。腰も悪いと言ってたし。

《分離率:二十二パーセント》

 カプセルの窓に進捗が表示された。内部を見ると、ゲラソンの背中の盛り上がりが少しずつ大きくなり、麻耶の身体の一部とおぼしきものがじわじわと出現してきているのが分かる。二十一世紀の衣服が、平坦なものから次第に立体を帯びてくる。麻耶の細胞が集まり、元々あった場所――衣服の中に徐々に移動していっているのだ。

 マクスウェルは、ディテールが変化しつつあった。部分的に尖った部分が鈍になり、また細密な格子模様が崩れ、少しずつ全体的な緻密さの均質性、対称性が損なわれていっているように見える。

「楓くん、マクスウェル、なんかちょっと変型してるみたいだけど」

 楓もまた額から汗を流しながらマクスウェルをちらりと見る。

「そうッスね。詳しくは分らないッスけど、相互フィードバックの一部が亜空間をループして、そこでエネルギーを回収しているようなので、その影響で現実空間に存在する情報の連結が少しずつ崩壊している可能性はあるッスね」

「え、崩壊って、このまま進めて大丈夫?」

 楓は両手を素早くリズミカルに動かしながらしばし黙った。

「……まあ、他にやりようが無いッスから。それにもう、後戻りも出来ないッスよ」

 そりゃそうだ。

 モローも黙って作業を続けた。

「半分超えたッス! みんな、辛抱ッスよ!」

 表示窓には、分離率は五十八パーセントと出ている。

 麻耶の身体は、上半身は頭の後ろ半分から首、背中、胸にかけてはゲラソンの背中から分離した。残りの腰から先の下半身と肘から先の腕、そして顔面は額の部分がゲラソンの身体に埋まっている。その様子はまるで、小学過程のころに見た、昆虫の羽化のようだ。頭には丁度緑色のカツラがはまっていきつつある。

 時折マッピングと見比べてもじわじわと分離が進んでいっているのが分かる。顔面の分離した部分では、まぶたが固く閉じられ、まだ意識の有無は分らない。

 だめだ。段々疲れてきた。

 室長のほうを見ると、汗をかきながらも意外に保っている。どういうことか。耐久性が高いのか。バイオリッドではなく、純バイオロイドだからか。

 ンマムニのほうを見ると、椅子に座ったままリラックスした様子でカフェラーゼを飲んでいた。時折カプセルの中を覗き込んでは、ニコニコ笑っている。なんて奴。まあ、参照されてる間は、特に何もすることもない。寝ていてもいいくらいだ。

「楓くん、麻耶先輩の脳は、どう? 再現されてそう?」

 息切れしながら楓に声を掛ける。

「あ、大丈夫ッス。マクスウェルの中に記録されていたシナプスの最終状態もちゃんと再現されつつあるッス」

 モローはカプセル上の窓で、ゲラソンの再現度を確認した。脳部分からは麻耶の細胞は消失しつつあるものの、なんだか部分的に黒っぽくなっているところがある。

「ゲラソンの脳は? 大丈夫?」

 楓は、ちょっと間を置いてから口を開いた。

「……ちょっとヤバいかもしれないッスね。侵入していた麻耶先輩の細胞が破壊した部分の再現は難しそうッス。断続的な静止固定の状態では意識を確認出来ないので、なんとも言えないッスが」

 七十二パーセント。

 はあはあ。あと四分の一ほどだ……。

「君たちは何をしてるのだね?」

 いきなり倉庫の入り口から声がした。

 振り向くと、サケタマ県警の本部長がいた。

「さっきは納得したものの、やはりなんだか怪しいと思って、捜索しに来た」

 本部長は蛇のような目でモローを睨みつけた。青白いバイオロイド顔に血走った目がくっきりと浮かび上がる。

「ちょ、と、取り込んでまして」モローが息も絶え絶えに応える。

「これ、ゲラソン……のようなハイブリッドか。もう、運び出せそうかね?」

 モローの返答を無視するように、カプセルをジロリと睨める。

「ま、まだ、処理、いや準備中で……あと残り二十パーセントほどです。ま、待って下さい」

 だ……だめだ。疲れた。意識が遠のく。

 モローはその場に倒れ込んでしまった。

「モローさんッ!」

 楓の声に目を開く。だが、身体が動かない。

 もうだめだ。

 作業は中断してしまった。楓も動きを止めた。モローを挟まないと、室長とは同期がうまくいかない。

 ふとカプセルを見ると、麻耶と目が合った。

 目が合った?

 カプセルの中の麻耶はじわじわと表情を変え、そしてニヤリとした。

 断続的に、パルス状の信号がカプセル内からホロテーブルに流れてきた。

「あ……これは、麻耶先輩の」思わず声を上げるモロー。

 やった。

 おでこと膝下がまだ融合しているが、麻耶の意識が戻っているようだ!

「こ、これは。麻耶ミホロボッチだな? ちょうど良い! 一緒に来い!」

 県警本部長がカプセルに両手を付け、中の麻耶に大声で叫ぶ。

「いいから手伝って下さいッス!」

 楓がいきなり本部長の腕を掴んだ。

「ちょ、おま、何をする!」

 楓が同期させようとしたようだが、本部長は拒絶しているようだ。同期は、相手の同意がないと出来ないのだ。

「ほ、本部長、これが出来ないと、ゲラソンも、麻耶先輩も、どっちも駄目になってしまうんです」

 じろりとモローを見る本部長。怒りの表情は変わらない。

 カプセルの窓では、作業が中断されたせいか、各種パラメータが不規則に動き、様々な色の警告が表示され始めた。

「本部長、お願いしますッス! 同期を承認してくださいッス!」

 楓と室長二人では、同期させることは出来ない。モローはもう動けなくなっている。

「本部長だけが頼みの綱なんです!」力をふりしぼって叫ぶモロー。

 その気迫に気圧されたのか、本部長が楓の方を見た。そして目を一瞬閉じると、掴まれた腕を振った。

「よし、承認してやったぞ」

「ありがとうございますッス!」

 楓が先ほどの動きを再現しようとする。しかし、うまく統制がとれないようだ。てんでばらばらの動きで、本部長の顔も困惑している。

「何だ? せっかく承認したのに。同期できないのか?」

「ちょっと本部長と私ではシンクロレベルが低いッス、これじゃ、三人の同期の維持は無理……」

 窓のインジケータ類が激しく明滅し、アラートが鳴りっぱなしだ。マクスウェルも、ところどころが赤く発熱し始めている。

「処理の中断で、亜空間摩擦エネルギーの行き場が失われて、フィードバックループが暴走し始めてるッス! もう、駄目ッス!」

 モローは手を伸ばそうとするが、もはや腕を動かす力もなくなっている。これじゃ同期しても操作ができない。

 窓のアラートは全面真っ赤となり、ところどころで灰色から黒に変色しはじめていた。その部分はもはや処理の修復が非可逆的に不能となり、「死んだ」部分だ。それが少しずつ増えている。まるで地獄へ通じる穴が増殖しているような、世界が少しずつ異次元に飲み込まれていくような、不気味な光景だ。マクスウェルの本体に目を移すと、赤くなったところから形を失い、少しずつ崩壊が始まっていた。

 その時、いきなり本部長の背筋がピンと伸びた。

「ど、同期されたッス! 続き、いきますッスよ!」

 何が起こったのか解らず焦った顔の本部長を無視して、楓は作業を再開した。踊るように動き、撫でるようにホロテーブルを操作する。

 室長と合わせて三人は一緒に両手を動かし、そして段々と激しく、リズミカルになっていく。手だけではなく、上半身から体全体、頭の動きまでがぴったりと一致し、さながらザイロフォンとヴィブラフォン、マリンバによる芸術的なパーカッション・アンサンブルのクライマックスのようだ。

「いけるッス。意識が戻った麻耶先輩から、シンクロ補助の信号が送られてきて、それで同期できたッスよ。何とか本部長を媒介にして同期を維持していけそうッス。本部長、すみません、ありがとうございますッス!」

 九十八パーセント。

 麻耶はもう、頭全体と上半身が完全にゲラソンの背中から離れ、おんぶされる子どものような形になっていた。足首から先だけがゲラソンの背中に食い込んでいる。

「麻耶先輩!」床にへたり込んだままのモローが叫ぶ。

 百パーセント。

「よし、静止固定を解除するッス。麻耶先輩とゲラソンが離れた瞬間、間に隔壁を入れるッスよ!」

 楓が言った直後、麻耶の身体がズルっと背中を滑り降りた。その瞬間、二体の間には透明な隔壁が出現し、その滑らかなカーブに沿って麻耶はひっくり返った。

「あつつつつ……」

「麻耶先輩!」「麻耶さん!」「麻耶ミホロボッチ!」皆がてんでに叫ぶ。

 麻耶はカプセルの中で立ち上がると、クルリと一回転した。そして目をカッと見開き、全員を指差しながら大声で叫んだ。

「マーヤ!」

 そして、呆気に取られる五人を前にして、静かに続ける。

「ケッチラ」

 や、やった!

「麻耶……マーヤ、よくぞご無事で!」

 室長がよろよろと麻耶に近づき、そしてカプセルに手を付く。

 モローもなんとか身体を起こし、片手を支えにして倒れ込むようにパイプ椅子に座った。

 楓はまだホロテーブルを操作している。よく見ると、ホロテーブル上のマクスウェルのフイギュアは、高さ十五センチほどの何やら灰色の不定形の山のようなものになっていた。もはや情報とエネルギーの抜け殻……残骸だ。全てを出し切ってしまい、形態情報の合理性を維持できなくなって視認可能な構造が崩壊してしまったのだ。

「みんな! ありがとう! しかし、あれがよく分かったわね! さすが我が優秀な後輩たち!」

 麻耶が灰色に崩れたマクスウェルに目をやり、モローたちのほうをぐるりと見つめる。そして、両手を腰に添え、胸を張って言った。

「そう、まずはケッチラを治すわよ! 正直、もうケッチラ言うの疲れた」

 そうだ。麻耶先輩には、ガリアリウム変性症に罹った身体が亜空間を通過した時に発症した、亜空間転移後遺症が残ってた。それがあるうちは、定期的にケッチラを言わないとグネグネの不定形になってしまうのだ。

 楓がカプセルをなでると、麻耶の側のカプセルが消えた。麻耶はカプセルから出てンマムニに近づき「ちょっと借りるケッチラよ」と言いながら接続されているインターフェースを外して自分の頭部に装着した。

「じゃ、麻耶せんぱ……マーヤ、いきますよ」

 ホロテーブルの上で踊る楓の腕。次々と窓が開き、様々なクラスタと同時にコンタクトを取っているようだ。楓の周囲に、各分野を横断する十数人の教授陣や専門クラスタリーダーの顔が次々と現れ、続けざまに指示が出されていく。それを受けながら手早く処理していく楓。

 そうか。ゲラソンの件とは異なり、ガリアリウム変性症はもちろん亜空間トラブル自体も通常ありうる事故だ。他のクラスタに相談しても問題はないってことか。しかし、そっち方面の繋がりと判断力はさすがに大したもんだ。さすがハイパー医学生。

「さ、これでケッチラの後遺症が修正されたッス。もうケッチラ不要ッス」

 麻耶に向かってサムアップする楓を横目に、ふとカプセル内に残るゲラソンの方を見る。静止固定は解除されているはずだが、あまり動きがない。何だかボーッとしている印象だ。

「げ、ゲラソンを連れていっていいかね?」

 先ほどの「同期」で体力を使い果たしたらしく、本部長がフラフラしながら立ち上がり、ギリギリに絞り出すような声を出した。純バイオロイドだからって疲れにくい、ってんでもないようだな。同じバイオロイドでも室長はかなりタフだが。

「あ、どうぞどうぞ。あとは県警でゆっくり調べてください」

 本部長がゆるゆるとカプセル表面をなぞり、接地を解除した。するとカプセルはゲラソンを中に載せたまま、するすると動き出した。

 まあ、アレは収まるべきところに収まった。あとは、向こうは向こうでガリアリウム変性症の情報捜査をするだろう。

 ふう。ゲラソンは県警に、麻耶先輩は現代に。これで全部もとどおり、だ。

 さてと、休むぞ!

 モローは椅子をコンフォートモードに切り替えた直後、麻耶の声が響いた。

「さ、後は、ガリアリウム変性症の治療ね!」

 またですか。

 麻耶の方を見ると、ニコニコしながらくるくると踊っている。なんつーパワーだ。

「え、でも、ガリアリウム変性症の情報はまだゲラソンの脳内にあるッスよね……」

 楓が不思議そうな顔をする。

「それがね、ノンノン!」

 麻耶が指を立てて左右に振った。

「実はね、ゲラソンと私が融合してたとき、私の神経組織が一部ゲラソンの脳内に侵入してたの。その時に、ザッとゲラソンの記憶がスキャン出来ちゃったのよ。その中に、ガリアリウムの生成法から分解法からいろいろ見えちゃったってわけ。そこから、ガリアリウム感染生体組織の非可逆的修正プロトコルを組み立てたわ。これだけ揃えば十分。あとは」

 そういえば、さっきゲラソンの立体像に個々の細胞を簡易マッピングをしたとき、麻耶の細胞の一部がゲラソンの脳組織に侵入していた。あれが、そうか。

「この情報は、全宇宙域のメディカルクラスタに公開するわよ!」

「え、いいんッスか? 県警には……」

 楓が不安そうな表情になる。

「いいに決まってんじゃないの。これには、数百億のバイオリッドの命が掛かってるのよ。県警のための情報じゃないわ。オープンソースよ。これが、科学だわ」

 窓の教授陣がざわめき、窓の子窓、さらに孫窓と、倉庫の壁と天井に大小様々な無限の窓が出現した。

「さあ、早速、情報を取り出して公開するわよ!」

 麻耶が両手をホロテーブルに乗せ、そして撫ぜる。

 まるでピアニストだ。さっきの楓の律動的な動きよりも遥かに複雑で優雅、そして美しい。モローの脳内には、いつかホロコンサートで聴いたフランツ・リストのピアノ曲、ラ・カンパネラ――無数の鐘の音が激しく鳴り響きつづけていた。

 倉庫内の無限の窓という窓が反応し、光が次々と伝搬してうねり、同心円を描き、反射し、サイクロイドを描き、分裂し、融合し、ライフゲームのようにリスミカルに生成消滅を繰り返す。まるで倉庫全体が生きて呼吸し、いくつかの大きな窓から倉庫内に網の目のように伸びて張り巡らされた血管が脈打ち、それが末端のすべての小さな場所へとひとつ残らず新鮮な血液を流し込み続け全体を癒やしていっているかのようだ。

「クラスタの意見も一致したようね。このプロトコルは、理論的に有効! よし!」

 麻耶はメディカプセルを出すと、中に入って胸を反らす。緑色のカツラが揺れる。

「そして、最初の実験台は、わたし!」

 右手を上げた。

 無数の窓の中でひときわ大きな十二の窓から、一斉にカプセルに向かって信号が注がれた。

 カプセルの中の麻耶は、目を閉じて両手を広げて立っている。そこに様々なインジケーターの光が反射し降り注ぐ様子は、まるでワームホールから波状に放射される位相摩擦オーロラのきらめく羽衣を全身にまとっているかのように見える。しばらくすると閉じられていた麻耶の目がうっすらと開き、少しずつ口元に笑みが浮かんできた。アルカイック・スマイルだ。手応えがあったのか。

 そしてその直後、全てが静かになった。

 最後に麻耶がカプセル内から何かを操作している。最終チェックのようだ。

 カプセルが開き、麻耶が出てきた。

「終了。ガリアリウム変性症、根治!」

 麻耶が宣言した。数秒の静寂の後、うおおおんと倉庫内がうねった。先ほどのうねりが更に何十何百倍にもなり、倉庫自体が焼き尽くされるような熱狂が渦巻いて吹き荒れ、そして次第に静まっていく。やがて窓たちは、ランダムにまたたく満天の星空のように明滅を繰り返しながら、一つまた一つと減っていった。この治療に参加したほとんどの人間が自分達の仕事をすべく、いるべき場所に戻って行ったのだ。自分が関わる他の何千何万ものガリアリウム変性症患者を治療するという仕事だ。

 倉庫内の空気に圧倒され振り回されていたモローは、その段階に至ってようやく冷静さを取り戻した。思考が頭の中に少しずつ立ち直り、言語化できるようになってきた。残った思考は、とても単純なものだった。

 やった。終わった。ふう。疲れた。もう、本当に、本当に疲れた。体も心も、疲れた。疲れ果てた。

 モローはコンフォートモードのパイプ椅子に全身を預けると、カフェラーゼを出した。そしてそれを両手で保持したまま、眠りに落ちた。

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