異端者達のフォークソング(後編)
7
誰にも起こされないままむくりと起きて、まだ寝ているみみ子ちゃんを起こす前にベーコンを何枚か焼く。さらにハムチーズトーストを作って皿に盛り付けて卓上に並べ、牛乳をふたりぶん注ぐ。その作業の間に起きてくる。
「おはよう。腰は平気?」
「昨日よりは」
「今日は食べたら島内を散歩しようと思ってる。もしかしたら焼津さんからギターを教えてもらった人が他にもいるかもしれないし」
「わかった」
身支度をして、カテーテル婦人への挨拶と編曲デモのチェックを済ませて、外に出る。みみ子ちゃんがゼリーを食べたいというのでコンビニエンスストアに向かう。
店に入るときに焼津さんとすれ違う。
「あ、焼津さん」
咄嗟に声をかけると、焼津さんはぺこりと一礼してから、少し急ぎ足で行ってしまう。
「なんか、持ってたね。段ボール箱?」
「コンビニ受け取りで配達してもらったんだろうね」
でも、何を? 親族などから野菜が届くとしたら、ストレートに家に届けられそうなものだ。だとしたら通販だろうか。
少しだけ中身が気になったが、本人にわざわざ訊きに行くのも警戒されるだろうし、店員が教えてくれるとは思えない。僕達は大人しくゼリーを買った。
ひんやりとしたフルーツゼリーを楽しみながら歩いていると、焼津さんの住居を通りかかった。その傍で主婦が寄り集まって何やら話していて、少し聞き耳を立ててみると、どうやら焼津さんの話題のようだった。
「あの、すみません」と僕が声をかけるとあからさまに訝しまれた。とりあえず焼津さんの知人だったという設定でいこう。「怪しい者ではないんです。僕は以前、焼津珠さんによくしてもらっていたのですが、しばらくお会いしていないうちに記憶を失われたと聞いて。どういう状況なのか、お訊ねしてもいいですか」
「珠ちゃんねえ」主婦のひとりが言う。「あの人急に記憶なくなったと思ったら、あたし達みんなにビクビクしてて、世話しようかって言ってもいらないって言うし、お風呂、ほら近くにお風呂屋さんあるじゃない、誘っても断るし。正直、あんまり期待しないほうがいいよ」
「世話をしている人はいないんですか?」
「いないはずだけど。記憶なくしてギターの弾きかたすら忘れてるんだから困ってると思ったのに、断るんだもんね」
「ねー」
「珠ちゃんなんだか変わったよねえ、椎夏ちゃん戻ってきて、いなくなっちゃってからよねえ」
「そうですか……ありがとうございます」
「本当に期待はしないほうがショック少ないよ」
「はい。……ああそうだ、焼津珠さんがギターを教えていた人って椎夏さん以外に誰かいましたか」
「さあ……知らないけど」
「わかりました、ありがとうございます」
主婦集団から離れて少ししたとき、みみ子ちゃんが言う。
「ねえ、おかしくないかな」
「おかしい? いったい何が」
「まず、焼津珠さんは記憶を失っている」
「うん」
「手続き記憶もエピソード記憶も消えているから、子供の頃から練習していたギターの弾き方を忘れているし、それまで周囲にいた人のエピソードも覚えていない」
「そうだね」
「だけど通販でコンビニ受け取りを指定して受け取るまでのプロセスについては覚えている。ひとりで出来る。ねえ、どうして?」
8
無難に考えてみる。そもそも習慣になったことや練習してきたことを忘れたのなら独りで生活することは不可能に近いはずだ。どんな道具の使い方も解っていないのだから。
つまり誰かが世話をしている。誰が?
消えたとされていた椎夏さんだろうか。ずっと家のなかにいるからいなくなったみたいになった――ああ、でも、それだったら近所の人のひとりくらいは椎夏さんの存在を認識していてもおかしくないか。代わりに家事をしていると考えたなら外に全く姿をさらさないという訳にもいくまい……物干し竿は庭にあった。
それに、そもそも誰かが世話をしていたとしたら、単独でコンビニエンスストアに行かせるということはしないんじゃないか? 本人が言って聞かなかったとしても付き添うのが普通なんじゃないか?
いや、焼津椎夏さんの人格によっては解らないかもしれない。
理解したいのなら、もっと焼津椎夏さんについて知るべきなのだ。
そういう訳で僕とみみ子ちゃんはカテーテル婦人の部屋に行き、焼津椎夏さんについて詳しく聞かせてもらった。顔は母親似だった。
「ざっと経歴を教えますが、椎夏さんは乳幼児の頃から焼津珠さんと共に撲殺島に渡っていて、小学校から高校までずっと島内の学校で学んでいました。非行歴はなく品行方正で、これは珠さんの教育の賜物でしょうか。しかし部活動などでは活発に取り組んでいて、学校祭においては演劇部の出し物の盛況に一役買ったとか。そしてその劇が恋川からやってきていた社員の目にとまり、椎夏さんの就職に繋がりました」
「へえ。なかなかに綺麗な経歴ですが、性格のほうはどうだったのでしょう。品行方正というのは振る舞いであって性格ではないと僕は思います」
「振る舞いも性格の大事な一部分だと、このカテーテル婦人は思います。それはさておき、そうですね、実は何度かお会いしたことがあるのですが、はっきり言って、臆病な方でした」
「臆病」
「その臆病さが、親から仕込まれた技術や振る舞いをひたむきに身につけさせていたのでしょうね。自分の意思や好き嫌いで取捨選択をするなんて怖くてたまらないでしょうから」
そう表現されると、なんだか――。
「なんだか、私とは正反対だね」みみ子ちゃんは言った。「私は自分の意思と好き嫌いを封じて唯々諾々になることのほうが怖い。言われてることが本当に正しいのか、私を幸せにするのか、考えて取捨選択したい」
「みみ子さんは素敵ですね」
カテーテル婦人は朗らかに笑った。カテーテル婦人はみみ子ちゃんの人間性に手間をかけさせられた側のはずなのに……それを言ったら僕の人間性もそうなのだろうけれど。
「あと、もうひとつ思ったこと言ってもいいかな」
「ええ、なんでもいいですよ」
とカテーテル婦人が言うと、あのさ、とみみ子ちゃん。
「私、どういうことが起こっているのか解ったかも」
9
そして夕方、焼津さんの家の前でみみ子ちゃんに言う。
「何か危ないことが起こったら、なるべく大きな物音を立てるから、すぐ通報してほしい」
「うん。ねえ、本当にいいの、ひとりで」
「大丈夫。どうにか上手くやるよ」
僕はみみ子ちゃんの頬っぺたにキスをして、焼津さんの家の呼び鈴を鳴らす。
「はい、はい。……ええと、たしか、ギターの」
「はい。以前訪問しました萩木です。アポイントメントを取らず申し訳がありませんが、今回、焼津さんに持ちかけたい取引があってきました」
「……そう言われましても、あたしは記憶がおかしいもので、役に立てることなんてありませんよ」
「いえ、そう身構えないでください。安心してください、害意はありません。そうですね、説明のためにお見せしたい資料がありますので、ひとまずお邪魔させていただけませんか」
「……そうですか、では、お入りください」
焼津さんはそう言って僕を招き入れた。ふむ。
玄関から廊下に足を踏み入れてみると、なるほど、これはたしかに散らかっている。マニキュアの瓶や書籍や紙やぬいぐるみなどが散乱していて、まるで子供の独り暮らしのように見える。
まるで掃除や片付けをしていないみたいだ。
掛け軸や絵が飾ってある部屋に通される。向かい合って座布団に座る。
「それで」焼津さんは言った。「取引というのは」
「ああ、それは嘘です」
「え」
「おっと怒らないでください。嘘に嘘で対抗しただけですよ、焼津椎夏さん」
「……失礼ですが、人違いをされているのではないですか。というか、失礼です、帰ってくれませんか」
「いいえ……僕は人違いなんてしていませんし、人殺しに比べたらだいぶマシな行いだと思います」
「さっきから、なんなんですか」焼津さんは僕を睨みつけた。「あなた、記憶喪失のあたしをからかっているんでしょう。あることないこと吹き込めば、混乱してくれると思っているんでしょう」
「それでは焼津さんにお訊きしたいのですが、あなた、今朝コンビニエンスストアで配達物の受け取りをされていましたね。コンビニ受け取りということは恐らくは通信販売の荷物だと考えられますが、ギターの触りかたも覚えていないあなたがどうしてその行程を辿れたのですか?」
「あなた、あたしの記憶喪失を疑っているのね」
「はい。答えてください」
「そんなこと、忘れていてもインターネットで調べればすぐじゃない」
「へえ、インターネットで調べればすぐ。なるほどなるほど、つまりあなたはインターネットで調べればすぐ通販について理解できるくらいには、独りでコンピューターとブラウザを立ち上げ検索するための文字を打ち込むプロセスを記憶している訳なんですね」
「揚げ足とりみたいなこと言わないで。教えてもらったら解ります」
「教えてもらったら――どなたにですか? 聞けば、あなたは近所の知人だったであろう方々と距離を取り、援助の手も断っているそうじゃないですか。どこの誰に教わったのですか? まさかたまたま読んだ本に書いてあったとでも?」
「たしかに近所の人とは話してないけど、この島にいる以上、最初はカテーテル婦人に頼る必要があるでしょう? そのとき生活の基礎として――」
「ああ、もういいです。これ以上は聞くだけ無駄ですし、語るだけ墓穴ですね、焼津椎夏さん」僕は彼女の目をじっと見て言った。「何故ならあなたは、インターネットそのものがロクなものではないと断言するカテーテル婦人が、可哀想な記憶喪失者に、自分が信頼していないツールを推薦するとお思いなのですから」
「何、何? 何が言いたいんだか解んない!」
「あなたは記憶喪失者のフリをしている」
「はぁ!?」
「焼津珠のフリをするために――記憶喪失者のフリをしている、嘘つきなんでしょう? 殺して成り代わるにあたって、周囲の人間関係やエピソードとの齟齬が起きないように」
10
「あ、あた、あたしが誰を殺したって」
焼津さんは信じられないようなものを見る目をしていた。僕は一度、みみ子ちゃんの推理を脳内で反芻してから、口を開いた。
「焼津椎夏さん、あなたは実の母の焼津珠さんを殺した。シングルマザーで厳しく育て、『品行方正な娘』として仕込んだ珠さんのことだ、きっと娘の行動に『どこに出しても恥ずかしくなさ』を求めたことでしょう。そこまででもなかったとしても、カテーテル婦人いわく臆病な椎夏さん、あなたは、仕事を辞めて実家に無職で戻ってくることがとても怖かった。だから精神を責められることなく島で暮らすために、母親を殺した。そして自分が焼津珠になり、焼津椎夏は失踪したと見せかけた」
「そんな……そんなこと、そんな簡単に殺すとか、それに、成り代わるって、親子の年齢差があるから普通は無理ですよね。でたらめやめてください」
「椎夏さんは珠さんに色々なことを仕込まれました。字の書き方や礼儀作法に始まり、身体の動かしかた、化粧の塗りかた、絵の描きかた、歌の唄いかた、楽器の弾きかた。ここで重要なのは化粧の塗りかたと絵の描きかたです。……そこにある掛け軸も絵も、椎夏さんの名前が入っていますね?」僕は部屋のなかのそれらを指差した。「とてもとてもお上手だ。絵なんてとくに、写実的で、陰影や質感の表現が素晴らしい。どこか硬い気がしますが、これらが珠さんの仕込みなのだとしたら、その矯正感も頷けますね」
「だから、何?」
「絵でこれだけのクオリティを出せるのなら――その技術の加算されたメイクはさぞハイレベルなのでしょうね。そう、演劇部で美術とメイクの係なんかやったら大活躍、制作会社にスカウトされてもおかしくないくらいなのでしょう――顔を老いさせるメイクだって余裕で出来ちゃうかもしれません」
元から母親似の椎夏さんなら、老いさせてから多少肉を増やしたりするくらいでいいはずだ。殺したばかりの母親の顔を見ながらやれば完成度は保証される。
「コンビニ受け取りを使ってまで注文したのは、消耗してしまったメイク道具でしょうか。あなたはそうして、焼津珠の人生を、どういう計画かは知りませんが、手に入れたんですよ」
焼津さんは何も言わない。少し待ってみる。ここで包丁でも持ち出してきたら、あるいは首を絞めようとしてきたら、こちらはどうにかガラスを割ってみるつもりだが。
まあ仮に僕の殺害に成功したとしても、みみ子ちゃんという目撃者がいるお陰で「焼津家に入ってから失踪した」というリスキーな現実を産み出すだけだ。どちらにしよ、有効な手はないように思える――理性的に考えるなら。
さてはて焼津椎夏は感情的に行動した――動き出すことなく、肩を震わせて泣き出した。
「通報したかったら、たかったら、うふ、ぐす、すれば、すれ、すればいいでしょ」
「……通報?」
「あたし、もう、頑張ったもん。いっぱい頑張ったもん。真面目にやるために頑張ったし、優秀になるために頑張ったし、どうにか楽しい劇を作れるように頑張ったし、社会人として役に立てるように頑張ったし、みんなのために色んなこと我慢できるよう頑張ったし、ちゃんと幸せになれるよう頑張ったもん。でも、もう、駄目なんだ、駄目なんでしょ、うぐ、けっきょ、結局あたし、お母さん、お母さんがいないと頑張ったって駄目なんでしょ、お母さんから離れてから全部駄目だもんね、頑張ったって駄目なら、もう諦めるから、捕まえてよ」
「勘違いしないでください。通報なんてしません。僕はあなたの悪事を暴きはしても、裁きはしません」
「え、え、え?」焼津椎夏は涙の流れる目を白黒させてまごついた。「じゃあ、何? 何がしたいの、何?」
「あなた、ギターは弾けますか。スチール弦ギターです」
「え、まあ、少なくとも素人よりは、子供の頃からやってたから」
「結構です。じゃあ明日、僕の作ったデモと譜面を渡すのでいい感じに録音してください」
「え、なんの話」
「僕はただ、あなたの弱味を握ってることを伝えたら無料でギターを弾いてくれるだろうと思っただけなんですよ」僕は立ち上がり、正座している焼津椎夏の頭をそっと撫でた。「あなたは僕のギター奴隷としてずっと僕の曲のギターを弾くんだ。そうしている限りは警察にはつき出さないから、のうのうと生きていればいい。平和に焼津珠として生きていればいい」
そこまで言ってから、別に取引って言うのは嘘じゃなかったな、と思った。まあ、嘘から出たまこと、ということでひとつ。
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翌週、カテーテル婦人への納品を無事に終えて、残りのお金を受け取る。島のレストランでみみ子ちゃんと贅沢なディナーをする。
「そういえばギター奴隷ってあれからどうなったの?」
「焼津さんのことギター奴隷って呼ぶことにしたの? いいけど。んー、まあ、もしかしたら屋敷の離れに引っ越すかもね」
「え、そうなの?」
「うん。僕がカテーテル婦人に掛け合ってみたんだ。だってあのままじゃあ、いずれ生活費もメイク道具も尽きちゃうからさ。刑務所よりも幸せな生活をさせないと自首するかもしれないでしょ?」
「へえ」
美味しいご飯を食べ終わり、悠々と支払って外に出ると、これから入店なのだろう、五月蝿と遭遇する。《宇宙人》。
「よう、バター犬。カテーテル婦人なんかに媚売って稼いだ金で豪遊かよ」
「そうだよ。いいだろ、一曲で二十万以上だ」
「ちぇっ。こっちはこの島での最後の夜に旨いもん食おうって意気だってのによ」
「え、そうなの? どうして?」
「ふざけんな。あのクソ女とお前が作った曲が撲殺島の島歌になるってんだろ? 住める訳ねえだろ馬鹿野郎」
不機嫌そうに入店する背中を見送り、僕とみみ子ちゃんは坂を下る。夜の静けさと涼しさが手を繋ぐ僕達を取り囲む。空が澄んでいて星が見える。みみ子ちゃんはじっと星屑を見つめていて、僕はその睫毛をじっと見つめている。
「ねえ、みみ子ちゃん。好きだよ」
僕がそう言うと、
「私も好きだよ、君のこと」
と言ってくれる。
12
そして屋敷に帰って、部屋に戻ってベッドに潜って、眠る前にふと、
「それにしても五月蝿って、この島の外でどんな風に生きていくつもりなんだろうね」
と言ってみた。
するとみみ子ちゃんは僕に背中を向けて、こう言った。
「興味ない」
それな。
了
異端者達のフォークソング 名南奈美 @myjm_myjm
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