第3話
彼が踏み出したその一歩はしっかりと地を捉え、踏みしめていた。
しかし、その足に伝わってきたものが想像していたものとは全く違う感触であり、到底言葉では言い表せない違和感に苛まれていた。
いや、むしろ想像していなかったからこそ、そう思った、と言うべきか。
それと同時に、先ほど迄と比べ幾らか暗くなった自身の視界に、緑と茶色からなる二色のパノラマが広がっていることに気付き、彼はいたく困惑していた。
「何これ」
思わず彼が溢した言葉は、静寂が何処か遠くへと連れ去ってしまったようだ。
鳥のさえずりのような音が木霊し、張り付くようなひんやりとした空気が肌を撫で、足裏に返ってくるのは柔らかな感触。
自信の眼前にはどこまでも続いているのではないだろうか、と思わず錯覚してしまうほど視界を埋める木々。
そして極めつけが、嗅いだことなどないはずなのに、どこか懐かしさを覚える木の匂いに、少しばかり湿った土の臭い。
それらが、彼に此処が森であるということを教えている。
その事実を否定するために駆使した筈の、自身の五感。
味覚以外のその一つ一つ全てが、寧ろ逆に彼へ残酷に、無慈悲に、その事実を突きつけてきたのだ。
「まじでなんやねんこれ」
思わず関西弁で一人呟く彼は、日本人としては深めの堀りと目力の強さ、そして少し太目の眉が印象的な青年だった。
低いわけでも高いわけでもない平均的な身長、大きめのパーカーを着ているためパッと見ではわからないものの、体格は良く適度に締まった身体をしている。
少し癖の強い短めの黒髪に、強いて言うなら少し顔が整っているというくらいで、誰もが
平均よりはずっと整っているのだろうが、一つ残念なことがあるとすれば、その印象的な目の下には大きな隈があり、彼を少々危な気な印象の人間にさせてしまっていることだろうか。
その隈を携えた目が捉えた眼前の光景に、彼が思わずハッと息をのむのが分かった。
傍らに生えている茂みの一つが、うっすらと光を放っていたことに気付いたのだ。
「やっば、とりま超光ってんじゃん。 ウケんだけど」
恐る恐るそれに近付くと、腫れ物を触るようにツンツンと指でつつく。
すると危険はないと判断したのか、勢いよく葉をぶちっと一枚もぎ取るとそれをつまみ、観察するように様々な角度からまじまじと見ていた。
「良い子の皆は葉っぱをもぎるのを真似しちゃ駄目だぞ、お兄さんとの約束だ! しっかし、光る葉っぱなんてなっかなかファンタジーじゃんか。 はっはーん、さてはこれ、もしかしてもしかするんじゃない!?葉だけに!葉だけに!」
一人騒いでる彼の名前は
ぶっちぎりのゆとらー兼、さとらーである。
彼の人生を語るにはそれ相応の時間を必要とするため、割愛し説明させてもらうなら『約四半世紀、その殆どを脊髄反射で生きてきた男』である。
もっと詳しく言うなれば、『人と比べ運が悪く、頭は回るが抜けている、やることなすこと後悔だらけ、明日やろうのバカ野郎』といったところである。
これまで何も考えずに生きてきた、その結果が今であり、そしてこれからもそのつもりだった。
「ーー異世界転移ってやつだねー、和也さん」
「ビビンバ! い、いきなり出てくんなよ、いるなら最初から言えよな優樹」
「ごめん、ごめんー。 でもドッキリは大成功みたいだねー」
少し間延びした喋り方で和也の後方から歩いてきたのは、
彼の見た目はというと、男性としては低めの身長に和也とは逆にサラサラな長めの黒髪と、中性的な顔をしておりフワッとした印象を与える。
一言で言えば中性的とも言える彼は、見た目に反してなかなか毒舌で、特に和也相手には真価を発揮する。
その割りにマイペースで、彼の独特な空気感と独自の世界観で和也とは違ったタイプの変人臭を漂わせていた。
和也は優樹からドッキリと聞いて少し安心するが、至極当然ともいえる疑問が浮かんだので彼に尋ねてみた。
「ドッキリってこれどうなってんの。 お前主体なの?テレビとかじゃないよな? どっきり大成功とか書かれたやつ出てこないよな?」
そう言いながら周囲に隠されたカメラがないか、物色しだした和也。
「あ、ごめん。 和也を驚かすって意味のドッキリであってこの状況は僕のせいじゃないし僕もわかってないよ。 まぁさっき言った通りだとは思うけど」
優樹は首を振って否定すると、思案顔で自身の考えを口にした。
するとあからさまに落胆の色を見せ、ため息をついた和也が、
「異世界転移ってことか?いくらなんでもファンタジーなのは頭の中だけにしとけよ、それに完全にソロ案件だと思ってたわ」
「大体こういうのには一緒にいた人が巻き込まれってのがセオリーでしょ。 それに異世界転移って先に言おうとしたのは和也だったじゃんー」
「ファン!ファン!ファンタジィイ!」
ズキュウン!と効果音と共に、和也を指差す優樹の鋭い指摘に反論が出来ず、奇声を上げることで難を逃れようとする和也。
普段から理論的に物事を考えるのではなく、グルーヴなノリで生きていることがよく分かる。
近くの木に止まっていたであろう、声だけの鳥たちが和也のその声に驚き、一斉に飛び立っていく気配がした。
羽ばたきが辺りに木霊し、やがて無音が場を支配した。
「……って、てかそれじゃあ私が一人で超ギャルってたの見てたし聞いてたってわけ!? なんて男なの!趣味悪くな~い?感じ悪くな~い!?」
ことさら人をイラっとさせることに関しては定評のある和也は、自身の発言が盛大に滑った腹いせで、優樹をバカにするような口調で言葉を続けた。
「ギャルってたかどうかはさておき、一部始終、全部見てたよねー」
「あひぃん!」
やったつもりがやり返され、悲鳴とも取れる叫声がその場に木霊する。
直前まで和也の鼓膜を震わせていた都会の喧騒は、今ではすっかり消え失せてしまっている。
その騒がしさが心地よかったのだ、とばかりに彼の耳が周囲の音を必死にかき集める。
しかしそれすらも虚しく、誰かさんのせいで今では鳥のさえずりさえも消えてしまい、さやさやと風が木々を揺らす音のみが耳に届けられる。
一昔前ならマイナスイオンを含んだ、と表現されていたしっとりと重みのある心地よい空気が和也の総身を包み込んでいる。
その空気の清々しさからか、思わず、
「んー、空気が美味ゴン。メルメルメ~~」
と現実逃避を始めた和也、最早思考はどこか遠くへ置いてきたようだ。
露ほどにも役に立たない彼に早々と見切りをつけた優樹は、自身の置かれている状況を確かめるように辺りを見渡し、思考していた。
そんな彼の様子が面白くなかったのだろう、見覚えのある不満げな表情を顔に浮かべる和也だが、それすらも無視されてしまったため一人でショボくれていたが、気を取り直して優樹にならうと、辺りに目を向け思考の海に深く潜った。
緑、緑、緑。
その視界のほとんどを緑で埋め尽くしているが、それを一言で緑と言い切るには難しい。
ライトグリーンの見たこともない形の野草に、エメラルド色に輝く、文字通り淡く光る葉を生やした茂みが所々に見受けられる。
極めつけは、彼らの頭上に深緑の葉がこれでもかと隙間なく伸びており、地上を照らすはずの光を完全に遮断している。
それらの色はくすんだ色をした木の幹と、養分の豊富そうな濃い色をした土の対比によって、より引き立られている。
何度見ても和也の眼前にはそれが広がり、そして周囲を取り囲んでいる。
二人が先程迄いた場所はコンクリートジャングルであって、この様に木々の覆い繁るジャングルではなかったことは確かである。
だが今はどうだ、目の前にはまるで最初から生えてましたとばかりに木々が乱立し、その事実を真っ向から否定している。
現代を生きる都会人にとって、あまりにも馴染みのない長閑な風景だが、それは暗くどこまでも広がっているようで、まるで彼らの心に巣食う不安を表しているようだった。
〖連載〗俺だけ理不尽な異世界生活ですが、スキル『危機改戒』《ききかいかい》で面白おかしく生きていきます。 @dokonjoooo
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