第2話


 舞台は2019年10月某日。

 日本、東京。


 これはまだ和也が異世界エレメントに来る直前の話しーー。


 今日は生憎の曇り模様、十月半ばとは思えない程朝から冷え込む。

 どうやら強い寒波が日本を襲っているらしい。


ーーったく、いい迷惑だよ。


 一日の始まりとしては少々幸先の悪いスタートではあるが、幸いにも前日に天気予報はチェックしていたので寒さで震えずに済みそうだ。

 急遽用意した薄手のジップパーカーに袖を通すと、ブルッと不意に震えた携帯を手に取り確認した。


 画面には10:26とLimeから新着通知一件の表示。

 通知を開くと本日の待ち合わせ相手から、『もう向かってるよー』と送られてきていたため、履歴に残っていた『了解!』のスタンプだけを送り返す。

 即座に既読の文字がつき『遅れないでね!』と一言の返信。

 

「分かってますよ」と口ずさみながら再度同じスタンプを送ると、携帯に差していたイヤホンで周囲の騒音を遮断した。

 リュックを背負い、お気に入りのスニーカーを履くと、和也は池袋に佇むマンションの自室からスキップのような足取りで飛び出した。

 しかし、思った以上に寒かったのだろう、


「うへぇ、思ってたよりさみぃ」


 まだ二、三歩しか進んでいないというのに重さを増したようにその足取りはかなり鈍いものとなる。

 まだ10月だと言うのに吐いた息が白くなったことに驚きを見せる和也だが、これからもっと寒くなり、毎朝同じ思いで出勤しなければいけないのか、と取り越し苦労で憂鬱に浸っていた。


 まだ大分先の、悩む必要の無いことで悩むお気楽な男は、手を擦り合わせながら歩くこと15分、最寄りの駅へと到着した。

 家から少々距離はあるが、これも都会に住むためのやむを得ない犠牲だと、既に何度目になるか数えるのもバカらしい言葉で自分を言い聞かせた。

 


 和也が地下へと潜り改札を抜けると、見計らったようなタイミングで電車がやってきた。


「ぐれ~と~!」


 鼻唄混じりに呟くと、一段飛ばしで階段を降りていくが、思っていたよりも早く発車の電子音が鳴り始めたため、少し駆け足で電車に飛び乗る。

 直ぐに扉が閉まり、電車は走り出すが、平日の昼過ぎということもあってか人は流石にまばらであった。

 誰に見向きもされない優先席に一人陣取り、イヤホンの中の音楽に耳を傾け、副都心線で揺られること約10分。

 本日の待ち合わせ場所、新宿三丁目駅に到着した。

 


「(待ち合わせの予定時刻まであと7分か、ちょっとだけ早かったか)」


 しかし、待ち合わせ予定の場所に行くと相手は既に到着していたようで、携帯をにらめっこして和也を待っていた。

 待ち合わせの相手は和也の親友である美作 優樹みまさか ゆうき

 今日彼らは、とある目的のために集まっていた。



 B2出口からぬっと地上へ出てきた二人は、相変わらず人通りの多い新宿通りに、地中から顔を出したモグラのように顔をしかめた。

 ガヤガヤと足早に行き交う人々の喧騒、車のエンジン音に鳴り渡る電子音。

 雑多に溢れた音と視界を埋め尽くす人、人、そして、人。

 老若男女問わずその殆どが、まるで新宿という街と行き交う人を拒絶するようにイヤホンやヘッドホンで耳を塞いでいた。

 ある意味、この街においてはそれくらいの方が丁度良いのかも知れない。



 時折、彼らの身体へ強いビル風が吹き付けた。

 それは秋の背中を押し、駆け足で訪れんとする冬の気配を感じさせるものであった。

 昨日までの暑さは、一体、何処へ行ってしまったのだろうか……。

 一日、それもたった十数時間の間に、実に15度近くも気温を落とし込んでいた。

 前日、天気予報に目を通した和也がいなければ、今頃ここにいる和也は一桁台になった寒さでその身を震わせていただろう。


 とはいえ、実際の気温よりずっと寒く冷たく感じるのは、何も気温のせいだけではなく、無機質とも言える人間とコンクリートに囲まれていることもきっと理由の一つだろう。



 今日彼らが集まった目的というのは、二人の愛してやまない作品のアニメ化記念イベント、その先行上映会を観ることだった。

 それ故彼らが浮き足立ってしまうのも無理はないが、楽しみにするあまり一時間以上も早く集合してしまったというのは流石にいかほどのものか。

 せめてもの救いは遅刻するよりはまだまし、ということくらいだろう。


 集合して早々に二人の口を突いたのは、やはりと言うか後悔の念であった。


「いや、それにしても集合すんのが早すぎたって訳よ」


「そだねー、三十分前集合でも良かったよねー。 まぁでも集まっちゃったもんは仕方ないしー」


「それもそうなんだけどな」



 そう呟きながら街を闊歩し始める和也に、優樹が少し遅れて隣を歩き始める。

 小学生でもわかるようなことで悩む彼らだが、余りに余った時間、しかし何かするには足りない絶妙に微妙な時間を潰すため、目的もなく歩き始めた。

 特に欲しいものがあるわけでもなくフラッと服屋に入ってみたり、雑貨屋に入って冷やかしていた。


◇◆◇◆◇◆◇


ーーイベント開始15分前。



「いやー、今期あのアニメは大当たりだったな」


「わかるー、ってかそれよりもあの作品の実写化、想像してた以上につまんなかったねー」


「それなオブザイヤー案件すぎて、まじそれな」


 

 二人の趣味丸出しな会話は、新宿の喧騒では少々異色とも言える色の花を咲かせていた。

 和也の中ではまるでラスボスの如く猛威を振るった45分間に対し、


「エンドレスフォーティーファイブ……手強い相手だった……」と素直に心の内を吐露する和也。


「あれま、もうそんな時間かー。 それじゃあ向かい始めよっかー」    


 そこは流石親友というべきか、和也のその一言だけで意味を理解し、優樹が提案する。


「うぃー、んじゃそこの信号渡っとこうぜー」


「おけまる水産」



 言葉が先か足が先か。

 既に向かい始めた二人は、まだ誰もいない信号を前に陣取った。

 優樹が携帯を弄り始めたため、手持ち無沙汰になった和也が彼にならい、上映前最後の通知確認に勤しもうと携帯を右手に取ると、突然何かを思い出したような表情を浮かべる。

 忘れないうちに、と逸る和也は、いつもより長い顔認証に少々苛立ちを覚えたが、怒っても仕方ないと心の内で言い聞かせ、画面に映る間抜け面を眺めていた。


 その顔が消えると、親指がTwinnerと書かれたアイコンをタップし、カッカッと小気味いいフリック音を絶え間なく響かせ始めた。


『これから待ちに待った上映会!誰よりも先に作品を目に焼き付けて来るぜ!お前らのその悔しさ、その炎に身を焼かれてな!』


 どこか色んな意味で危うさを感じさせる一文を綴ると、タタタタターンッとキーボードのエンターよろしく投稿と書かれているボタンを勢いよくタップする。

 

「Oh...私としたことが、マナーモードにし忘れるところだった……」


 ホォンッと投稿完了を知らせる独特な音が響いたことでそれに気付いた和也は、自分の携帯がブルッと振動したことを確認すると、すぐに視線を優樹へと向けた。

 先の独り言には暗に『おめえもマナーモードにはしたんだろうな?おぉん?』と確認の意味合いも含んでいたのだが、その呟きは拾われることはなく、ガヤガヤとした喧騒に飲まれ消えていった。



 少々寂しさを感じた和也は、『への字眉』と『下唇突き出し』と、『拗ねてますよアピールランキング』堂々の一位と二位の必殺コンボを見舞うが、見向きもされず悲愴感を募らせるだけに終わってしまう。


 一通り確認を終えたのだろう、優樹は右手に持っていた携帯をジーンズの右ポケットに押し込むように仕舞うと、その視線を上げた。


「(気付いて優樹、お願い、優樹)」

 

 あの手この手で気付いてもらおうと必死な和也は、両手を頬で合わせねだるようなポーズを取ると、目をぱちくりさせ優樹へと熱視線を注ぐ。

 それにはどこから用意したのか、キラキラと光るエフェクトが掛けられていて眩しさを感じる。


 そんな和也にきちんと反応してあげる優樹はなんだかんだ彼に甘いのだろう。

 和也へと視線を向けると、


「眩しい」


 とその口からピシャリと冷たい一言が告げられた。

 やはりそんなことはなかったようだ。

 しかし相手はこの男、そのくらいではめげない。


「やっと気付いてくれたね、優樹くん!ぼくは信じていたよ!」 


 そんな反応でも、反応は反応である。

 喜びを全面に出す和也の姿に、ちぎれんばかりに尻尾を振る犬の姿を重ねた優樹は、『もしそうなら、全力で飛びついてきて更に鬱陶しいだろうなー』と心の中で呟く。

 そんな和也は優樹の考えなど露知らず、その場に浮かんでいたキラキラエフェクトを一つ一つ回収していく。


「あ、それ自己回収しないといけないタイプなのね……」


 若干の呆れと共に呟いた優樹が正面へ向き直ると、「あぁ!そんなご無体な!もっと見て!」と性犯罪者じみた言葉を口にする和也。

 一種の美しさすら感じさせる見事なスルーっぷりを見せる優樹と、それに涙を隠せない和也を尻目に、通りを行き交っていた車の群れがゆっくりとスピードを落とし始め、やがて流れを止めた。


 まるで勿体ぶるようにもたつく信号も漸く色を変え、電子音を鳴り響かせ始める。

 目の前に伸びる、白と黒のコントラスト。

 そこに向かって歩き始めた優樹に、「待ってぇ~!」と追いかける形で和也が踏み込んだ第一歩。

 その二人の足が同時に白線部分に触れた瞬間、たった数メートルの短い向こう岸はこの世で最も遠い距離となったのだ。

 二人の足が都会のアスファルトを踏むことは、もう二度とかなわない。

 


「何これ」


 物語は、幕を開けたーー。

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