第十六章 夕焼け色のキンモクセイの匂い 再び(ジーン)

 初めてだった。

 初めて。

 わたしたちは裸で眠った。

 優弥も裸だった。

 わたしも裸だった。

 裸で、くっついて、眠った。

 朝まで眠った。

 幸せ。

 幸せだった。


 次の日の朝。

 薄目を開けると、少し明るくなっていた。

 夜はまだ明け切らなったけれど、カーテンが無くなっていたので、外の光が部屋の中に入り込んでいた。

 静かな朝。

 まだセミが鳴き始めていない時間。

 隣で優弥が眠っている。

 寝息を立てている。

 わたしはしばらくの間、優弥の寝顔を眺めていた。

 幸せな時間。

 そこに。

 あれっ。

 わたしは気付いた。

 ケンケン。

 そこにケンケンがいた。

 扉の前に。ケンケンが。

 「あっ。ケンケン。大丈夫なの? よくなったの?」

 わたしはガバッと飛び起きてから、自分が裸なのに気付いた。

 あたふたと毛布で身体を隠そうと思ったんだけどわたしは毛布にはさわれないので、またあたふたと自分の服を探した。わたしの服。下着。セーラー服。

 そうこうしているうちに、ケンケンはいなくなった。行ってしまった。

 あれ?

 ちょっと待って。

 扉、閉まってる。

 ケンケン?

 どこから入って来た?

 どこ行った?

 わたしはそそくさと服を着て立ち上がり、優弥の部屋の扉を抜けて廊下へ出た。

 そこにケンケンがいた。

 すっくと立っていた。

 凛々しい立ち姿。

 ケンケン。

 「ワ、ワン」

 ケンケンが言った。

 いや、鳴いた?

 「ケンケン、大丈夫なの? よくなったの?」

 わたしは言った。

 「ワ、ワン」

 もう一度ケンケンが言った。いや、鳴いた。

 あれ?

 ちょっと待って。

 ケンケン。

 わたしが見えるのか。

 わたしの声が聞こえるのか。

 「ケンケン、あなた、わたしが見えるの? 声が聞こえるの?」

 「ワ、吾輩…」

 「は?」

 「吾輩」

 「ワガハイ?」

 「吾輩、見えております。真姫さん」

 え?

 なに?

 見える?

 なんで?

 って。

 ちょ、ちょっと。

 ちょっと待て。

 落ち着け。

 ていうか。

 ケンケン。

 あんた喋ってるし。

 鳴いてないし。

 喋ってるし。

 日本語喋ってるし。


 居間に行ってみると、ソファの傍らでお母さまが眠っていた。

 そのソファにはケンケンがいた。

 それとは別に、ここにもケンケンがいる。

 わたしには、二匹のケンケンが見える。

 泥だらけので痩せ細ってソファの上で丸くなっているケンケンと、若返ったように凛々しくシュッとしていて、すっくと立っているケンケンと。

 「ケンケン、あなた」

 「どうもです。真姫さん。ご無沙汰しております」

 「あなた、もしかして」

 「吾輩、どうも、死んじゃった、みたい、ですか、これは」

 「ああケンケン」

 「そうなんですね。もしかして。吾輩。死んじゃったんですね」

 「死んじゃったの? ケンケン」

 「そうみたいですね」

 「ああ。ケンケン」

 「ははぁ」

 と、ケンケンは言った。

 「不思議ですねぇ。いや不思議。摩訶不思議です。死んじゃったんですね。吾輩。死んじゃった。死んじゃったら、こうなるんですねぇ。いやー。こうなるんですかー。不思議不思議。摩訶不思議」

 「シーッ」

 そんな大きな声で。お母さまと優弥を起こしたらいけない。そう思ったんだけれど。考えてみたら聞こえないんだ。わたしたちの声は。お母さまにも、優弥にも。

 「もしかしてもしかして、真姫さん、あなたお亡くなりになってからずっとこっち、このような状態で? ずっと?」

 少し声を潜めて、ケンケンが聞いてきた。

 「そうよ。あれから。ずっとこう」

 「ええええ? ずっと? ずうっと? ずうっとセーラー服で? いらっしゃって?」

 「そうよ。だって、着替えようがないんだもん」

 「そうなんですか。そういうことですか。そうなるんですか」

 「ユーレーはね、さわれないの。この世のものには」

 「ええええ? ほんとうですか。さいですか。まじですか。さわれない? さわれないんでございますか? やっぱり?? 吾輩、実はうすうす少ーしだけわかってはおりましたんですけれども。でもまさかまさか。まさか現実にこれが我が身に降りかかって参りますとはこれ如何に。びっくり仰天玉手箱。で、ところで肝心な質問でございますが。ご飯は? 水は?」

 「食べれない。飲めない」

 「ええええ。吾輩、空腹なんでございますが。喉も乾いておりますのですが」 

 「残念でした。ユーレーは食べれないし飲めないの。でもね、慣れるわよ。そのうち」

 「ええええ。そんな殺生な。食べれないし飲めないなんて。吾輩の楽しみが。唯一の楽しみが。この世の唯一の楽しみがぁぁ」

 「ケンケン!」

 その時。

 足元で声がした。

 悲痛な声。

 お母さまの声だった。

 ケンケンはソファの上で丸くなり、既に冷たくなっていた。


 「おはよう。全員いるか」

 監督が言った。

 筋肉質で年の割に若々しく、ワイルドな容姿を持つ男。

 石原清。

 尋常学園曙高校野球部監督。

 真夏の太陽が容赦なく照り付けている。

 真夏の太陽が似合う男。

 ミンミンゼミがミーンミーンと大合唱している。

 ミンミンゼミのBGMが似合う男。

 石原清監督。

 夏の高校野球地方大会二回戦。

 曙高校にとっては初戦となる試合が行われる球場の前の、駐車場。

 ここに全員が揃っていた。

 尋常学園曙高校野球部。

 一年生から三年生まで。

 「はい。野球部員六十六名。全員います」

 脇にいたマネージャーの榊原さんが答える。

 「よし。みんな。遂に来たな。闘いの時だ。どうだ?」

 石原監督が聞く。

 聞かれたのは山田君。

 主将でキャッチャーの山田君。

 「はい。万全です」

 山田君の回答。

 「よし。いいだろう。台風、浸水した家もあって大変だったな。でも全員、なんとか無事だった。よかった。台風の後、練習もままならなかったな。ドンマイだ。などなど、いろんな困難はある。でもそんなことは理由にならない。わかってるな?」

 「はい」

 全員が言う。

 全員の返事。

 「野球とは、何だ?」

 石原監督が聞く。

 石原監督の目線の先には、一年生の部員がいる。

 その子が答える。

 「セオリーの実践です」

 「そうだ。その通りだ。野球とは、セオリーの実践だ。どんなセオリーだ?」

 今度は二年生の部員を見る。

 その子が答える。

 「全ての場面で、正しいやり方を選択する」

 「そうだ。その通りだ。それがセオリーだ。野球にはいろんな場面がある。その全ての場面で、正しいやり方と間違ったやり方がある。全ての場面において、正しいやり方を選択する。それがセオリーだ。わかってるな?」

 「はい」

 全員の返事。

 「今から俺は、選手に言う。いいか。耳の穴をかっぽじれ」

 「はい」

 選手。選手とは、今日ベンチ入りする選手のことだ。

 その選手たちが返事をする。

 「お前らは、今から、そのセオリーの一切を、忘れろ」

 返事がなかった。

 えっ、となって、選手たちは返事ができなかったのだ。

 「はははは。意外か? 狐につままれたか?」

 石原監督が笑った。

 狐につままれたかんじ。まさにそんなかんじだった。

 監督がそんなことを言い出すなんて、思ってもみなかったからだ。

 セオリーの実践。それ以外に無い。それが石原野球だった。それが石原セオリーだった。いかにセオリーを実践するか。そればかりをやってきた。野球の失敗は全て間違いの選択から起こる。正しい選択をしろ。それがセオリーだ。石原監督は毎日毎日そればかりを言っていた。二年前に赴任してきた直後の初めての練習の時から、昨日まで。そればかりを言われてきたのだ。選手たちは。

 石原監督が続ける。

 「セオリーを忘れろ。今ここで。全て忘れろ」

 あっけに取られている選手たち。

 「なぜですか」

 山田君が言った。

 選手たちを代表するようにして、山田君がその疑問を口に出した。

 石原監督が山田君を見た。

 普段なら、監督から射抜かれるような鋭い視線が返ってくるところだった。

 ところが。

 今日は違っていた。

 石原監督はニッコリとしていた。

 「はははは。わからないか? 山田。セオリーはな、もう必要無いんだよ。お前らには」

 「え」

 「お前らは今まで、セオリーを頭に叩き込んできた。セオリーを頭に叩き込んで、そのセオリー通りに身体が動くように、訓練を積んできた。そうだな?」

 「はい」

 「その結果、全てのセオリーがお前らの身体に入ったんだ。全てのセオリーが身体に入って、血となり、肉となったんだ。お前らの身体はセオリー通り動く身体になったんだ。だからな、今ここで、お前らの身体からお前らの頭を切り離せ。頭を使うな。セオリーを考えるな。身体に任せろ。お前らの身体に任せるんだ。わかるか」

 「はい」

 「頭で考えると、時として身体の動きを邪魔することがある。だから、頭で考えているうちは身体が百パーセント動かなくて、能力が制限されてしまうんだ。お前らは今まで、そんな状態で練習を積んできた。言ってみれば、お前らの身体にお前らの頭という養成ギブスを嵌めて、強制していたようなもんだ。これを変える。今日から変える。お前らの身体を、お前らの頭から解放する。養成ギブスを外す。お前らをセオリーから解放する。そうするとだ。そうするとどうなるか、わかるか」

 誰も答えない。

 答えられない。

 わからないからだ。

 そんな経験が無いからだ。

 「能力が出せるんだ。お前らの能力が。百パーセント以上出せるんだ。身体から頭の制限が外れるからな。だからお前らは、セオリー以上の野球ができるようになるんだ」

 おおお、という声が出た。

 「そうするとどうなるか、わかるか」

 そうすると、どうなるのか。

 「勝てるんだ。絶対に勝てるんだ。負ける訳が無いんだ。わかるか」

 「はいっ」

 「いいか、みんな。限界を超えろ」

 「はいっ」

 「そして、勝つ」

 「はいっ」


 それが朝の訓示だった。

 初戦を迎えた朝の、石原清監督の訓示。

 わたしは。

 ケンケンと一緒に、それを見ていた。

 山田君の後ろに、長身の優弥がいた。

 野球部員たち。

 尋常学園曙高校の、野球部員たち。

 感慨深かった。

 わたしはユーレーになってからずっと、優弥に密着していた。

 ずっと優弥に密着して、野球部の練習を見ていた。

 石原清監督は理論派で、選手をセオリーで理詰めで責め立てるものだから、何か冷たい人だという印象があった。

 でもほんとうは、そうではなかった。石原監督は理詰めで責め立てることで、選手に養成ギブスを嵌めていたのだ。それがわかった。

 そして今、石原監督は、「勝つ」と言った。

 この言葉を監督の口から聞くのは、これが初めてだった。監督は今まで、この言葉を言わなかったのだ。「勝つ」とは言わなかったのだ。

 監督が今までの二年間+数か月で選手に求めていたものは、セオリーの実践だけだった。試合に勝っても負けても、そんなことは二の次だった。勝つとか負けるとか、そんなことにはこだわっていなかった。とにかく、その試合で、その練習で、セオリーが実践できたか否か。セオリーが実戦できていれば褒められるし、できていなければ叱られる。それだけだった。ただそれだけを求め続けていた監督だったのだが。

 ここに来て初めて、「勝つ」と言った。

 選手たちも意外だっただろう。

 それを聞いて。

 「勝つ」という言葉を聞いて。

 監督の口から。

 意外な言葉。

 「勝つ」。

 勝ちに行くんだ。

 今回は。

 この大会は。

 尋常学園曙高校野球部は。

 勝ちに行くんだ。


 選手たちが球場へ入っていく。

 その背中。

 何か少し、大きくなったような気がした。

 養成ギブスが外れた選手たち。

 選手たちの背中。


 残された控えの選手たちに、石原監督が語っている。

 「お前ら、いいか。お前らは今の俺の言葉を忘れろ。お前らはまだセオリーが身体に入っていない。だからな、セオリーを忘れるな。セオリーを頭に叩き込め。今から始まる試合で、選手の動きをセオリーに照らし合わせて見てみろ。それがお前らの勉強になる。わかったな?」

 「はい」

 言い終わると、石原監督も選手に続いてベンチに向かって歩いていく。

 その後ろに、マネージャーの榊原さんが続く。

 榊原浩菜さん。

 選手と同じ、曙高校野球部のユニフォームを着ている。

 のばした髪を後ろでまとめて、ポニーテールにしている。

 かわいいじゃん。

 似合うじゃん。

 榊原さん。

 榊原さんもベンチ入りするんだ。

 選手と一緒に。

 優弥と一緒に。

 いいな。

 いいじゃん。

 榊原さん。

 それで。

 その手。

 榊原さんの、その手。

 その手に。

 わたし。

 わたしがいる。

 わたしの写真。

 松本家にご本尊として祀られていた、わたしの写真。

 榊原さんが手に持っている。

 両手で、丁寧に。

 持ってくれている。

 わたしと一緒に入場してくれるんだ。

 榊原さん。

 わたしと一緒に。

 ありがとう。

 榊原さん。

 ありがとう。

 榊原浩菜さん。


 「さ、真姫さん。行きましょう」

 ケンケンが隣でうやうやしくそう言って、歩き出す。榊原さんの後を。

 でも。

 わたしは。

 「あれ? 真姫さん、行かないんですか?」

 振り向いて、ケンケンが聞いてきた。

 「うん」

 わたしは答える。

 「え? どうして?」

 「もういいの。もう十分」

 「え。だって。優弥さんとの約束が。甲子園へ行くって。甲子園へ行って、恋人になるって。約束が」

 「約束ね。破っちゃった。わたし。昨日。昨日の夜」

 「あ」

 ケンケンが口ごもってしまう。

 「ケンケン、さては。見たなー」

 「いえいえいえいえ。見てません見てません見てません。吾輩、何も、見てません」

 「あははは」

 「わ、吾輩、そ、そのような趣味は。の、覗きなんて。そのような趣味は」

 「しどろもどろになってるじゃん」

 「いえいえいえいえいえ。決して。そのような」

 「いいの。ケンケンにだったら。見られたって」

 「ええええ」

 「あははは。うそ」

 「もー」

 「見ちゃダメよ。ああいうのはね。減るから」

 「はい。決して。そのような。そのようなことは」


 サイレンが鳴った。

 試合が始まった。

 球場の中で、チアの第一声が響いている。

 懐かしい。

 わたしを変えたチア。

 わたしを育ててくれたチア。

 三年生になって、リサが部長になっていた。

 一年生の時に、わたしと一緒にチアを始めたリサ。

 リサもすごく成長したね。

 尊敬できる部長になったよね。

 今年はきっと甲子園へ行くから、例年に増してチアもがんばらなくっちゃね。

 がんばれ、リサ。

 わたしは心の中で、リサにエールを送った。


 「さ、行くよ」

 わたしは言った。

 まだそこでこっちを振り返ったままのケンケンに向かって。

 「え、行く? 行くって、どこへ?」

 「火葬場」

 「火葬場? 火葬場って、もしかして、もしかして」

 「そうよ。火葬場に行って、犬バスに乗るの」

 「えええ。行くんですか。行っちゃうんですか」

 「そうよ」

 「犬バスに乗って?」

 「そう」

 「て、て、」

 「天国へ」


 わたしは思い切り地面を蹴った。

 ギュン。

 空へ上がる。

 真夏の空は晴れ渡り、ずっと向こうに入道雲が見えていた。

 眼下に球場が広がる。

 チア部と吹部が音を出している。

 さすがだ。

 さすがリサ。

 今日は音が違う。

 声が違う。

 気合入ってるね。


 その球場の真ん中。

 ピッチャーズマウンド。

 優弥。

 松本優弥。

 我らがエース。

 松本優弥。

 優弥が投げている。

 バビューン。

 すごい球だ。

 打てないだろう。

 誰も打てないだろう。

 優弥。

 甲子園へ行ってね。

 信じてる。

 夢を叶えてね。

 あなたの夢を。

 優弥。

 いっぱい生きて。

 せいいっぱい生きてね。

 優弥。

 わたし。

 天国へ行ってる。

 一応、あなたを待ってる。天国で。

 一応ね。

 一応、って言ったのはね、あなたがおじいさんになって、寿命が来て、天国に来る頃に、もしかすると、わたしを忘れてしまっているかも知れないじゃない?

 そう思わない?

 わたしも考えたのよ。

 だからね、一応、一応って言ってみたの。

 あなたはこれから、この世で生きていく。

 生き抜いていく。

 力強く生き抜いていく。

 たぶんきっと、この先、恋をして、よい人を見つけて、結婚だってするでしょう?

 いいの。

 それでいい。

 わたしはあなたを応援したいの。

 あなたの人生を。

 優弥の一生を。

 あなたが好きだから。

 だからね。

 わたしがここにいて、あなたの隣であなたをずっと見ていたら、きっとわたしは辛くなる。

 我慢できなくなる。

 応援できなくなる。

 あなたの隣にいられなくなる。

 だからわたしはね、天国へ行っていることにしたの。

 わたしがここにいたら、あなたも辛いでしょう?

 わたしの運ぶ匂いを嗅いで、わたしを思い出して、懐かしいと思って。

 でも、辛いでしょう?

 わたしを思い出すのは。

 わたしを思い出すたびに、辛い思いをするでしょう?

 わたしはあなたを応援したいの。

 ほんとうなんだよ。

 わたしは。

 応援したいんだよ。

 優弥を。

 だけどね。

 だけど。

 それがあなたを苦しめることになってしまう。

 あなたに辛い思いをさせることになってしまう。

 だからわたしは天国へ行く。

 そう決めたんだ。

 優弥。

 一応、待ってるからね。

 でもね、いつかあなたがおじいさんになって、天国へ来た時、わたしを忘れていたとしても、わたしはあなたを恨まない。

 恨まないと誓う。

 わたしはあなたを恨まない。

 だからね。

 いっぱい生きて。

 せいいっぱい生きて。

 わたしの分まで。

 いっぱい生きて。

 せいいっぱい生きてね。

 それが願い。

 わたしの願いです。


 「ねね、真姫さん」

 「ん?」

 「何か、匂いませんか?」

 「何?」

 「甘い匂い」

 「ほんとだ。甘い匂い。キンモクセイ」

 「いい匂いですね。この匂い」

 「なんでかな。夏なのに。キンモクセイの季節じゃないのに」

 「好きだなあ。吾輩は。この匂い」

 「うん。わたしも。キンモクセイの匂い。この匂いは夕焼けの色なんだよ。橙色なの。わかる?」

 「わかりますわかります。そのかんじ」

 「お、いいねケンケン。話わかるね。ていうか、あなたも匂いがわかるのね?」

 「わかりますとも」

 「さすが、犬。笑」

 「そういえば。この匂いと言えばですね、あの夜にですね、この匂いがしたんですよね」

 「あの夜?」

 「台風の、嵐の、あの夜に」

 「へえ」

 「我々ロフトに避難していてですね、天井まで水が来ちゃって、アップアップしていた時に、この匂いがして。それで吾輩、吠えたんですよ。ワンワンワンワン、って。そしたらですね、救助隊が来てくれたんです」

 「そうなんだ」

 「そうなんです。それで我々助かったんです。命拾いしたんです」

 「よかったじゃん」

 「よかったんです。あの匂いが無かったら、今頃、優弥さんも優子さんも吾輩もお陀仏だったところでした。しかし不思議だったなぁ。あの時。この匂いがして」

 ケンケンはほんとうに不思議だという表情をしている。

 えええ、とわたしは思う。

 わかってなかったんだ。この犬。笑。

 どこからともなく漂ってくるキンモクセイの匂い。

 夕焼け色。

 わたしたちは球場の上空に留まって、しばしその匂いを嗅ぐ。

 眼下の球場では熱戦が繰り広げられている。

 「ね、ケンケン」

 「はい?」

 「あのさ、わたし、応援してもいい?」

 「応援、ですか」

 「そう。ここから。野球場の空の上から。応援」

 「したくなっちゃったんですね? 応援」

 「したくなっちゃったの。応援」

 「はいはい。どうぞどうぞ。ご自由に」


 野球場の空の上。

 青い空の上。

 スカートを風にたなびかせて。

 大きく足を広げて。

 大きく手も広げて。

 久しぶりだった。

 わたしは。

 腹から声を出す。

 腹から声を出して応援する。

 それがチア。

 チアの基本。


 フレー! フレー! ア、ケ、ボ、ノ!

 フレー! フレー! ア、ケ、ボ、ノ!

 

 フレー! フレー! ユ、ウ、ヤ!

 フレー! フレー! ユ、ウ、ヤ!

 

 応援してる。

 優弥。

 生きて。

 いっぱい生きて。

 わたしの分まで。

 優弥。

 サヨウナラなんて言わない。

 待ってる。

 わたし。

 待ってるね。



<END>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

匂わせ女ユーレー奇譚 宇南 @unangp

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ