深夜の路上

韮崎旭

深夜の路上

 年始にならんとしている中で、食行動はなかなか避けて通るにはむずかしい代物であり、食堂の揚げ油の、其れで揚げられたものを食べたら胸焼けという単語に思い当たる節がない人でも胸を悪くしそうな匂いに、早速気分が悪くなった。なんで俺は正月早々、いやいつだって年中無休でそうなのだが、こんな食堂に、その場に居合わせるというだけであろうがかかわりを持たなくてはならないのかと胸に胃酸がこみ上げてくる気分だった。Phagio-phobia、と適当なギリシア語を捏造する。実のところがファジー、またはファギーでもいいのだが、この時点で知れようがこいつの綴りが分からないため、何を書いているのだか自分でもわからないが、この気分の悪くなるような常時揚げ物を供しているくせにその揚げ物が油のしみたぞうきん並みに絶望的に不味い食堂においてはそんなことをしたくなるのももっともではないかと思う。実際食べたことはないがこの食堂のメニューは常に不味い。誰も食べないからだ。近くのコンビニの食えるが不味い蕎麦や、近くのコンビニの食えるが不味い天丼などを持ち込んで飲料水だけ利用する人間しか見たことがない。しかも、17時ごろに。実はこのところ何につけても、というのはこの食堂のくそ不味い食事でなく、食べることに違和感を持たないで済むのでその実質がいいことが後に知れる類の食物であっても、食べるとひたすら吐きそうになる。量を過ごしているのかもしれないし、やはり自分が意識的に「年末年始」を気にかけて行動しなくても、周囲の行動や雰囲気に安易に引きずられるのは手放しに誉められたものではないと思うのだが、そうではあろうが、床がドブネズミのしぼり汁のような灰色がかったマゼンタ(そんなものはマゼンタではもちろんなく、薄赤紫という感じの色であり、『赤紫色の島』はブルガーコフの小説か、または戯曲だったはずである)である薄汚れたうらぶれた食堂の石膏ボードの天井と手元のノート飲み水の死骸の集積所のような文字群を交互に睨みつけながら、反射的に煙草を出しそうになり、ここは禁煙で、しかも自分は喫煙者ではなく、当然喫煙の習慣もたばこへの依存も持ち合わせていないことに気がついた。それにしても照明(蛍光灯と思われる)が暗い。まずい食事をいやいや位に押し込むのに十分な明るさではあり、しかし蛍光灯独特のスペクトルが偏った冷色の光が食堂を1984年じみた印象にしていた。ジョージ・オーウェルであり、ジョージ・オーウェルだな、という作品が『折りたたみ北京』に収録されているのだが、どれだったかわからないうえにどれの題名も記憶になく、そのうえどこに置いたかわからない。そう、どこに置いたのかわからないのだ。この食堂の食器のように……というのは冗談で、食器の置き場所は呆れるほど明確で明白なのだが、そのどことなく哀愁すら感じるプラスチックの、餌箱のような素っ気ない(簡素でもなく、簡潔でもなく、質素とも違い、素っ気ない)食器は誰が見ても犬でもナメクジでもわかるように的確に配置されていたのだが、……。大抵のものはどこに置いたのかよくわからなくなる、注意力に問題があるのではないかと思い何らかの検査を受けたら確かに注意力が書けていることが判明したのだがだからといって注意力が向上することはなかったので、常に注意力が書けたまま生活しており、眼鏡、書物、筆記用具などを頻繁に探し、探すことで一日のかなりの時間が消費されており、見つかると安心してその辺に置き、自分の記憶力に関して慢心しているので見つけなおすことを確信しており、そして記憶力の悪さに裏切られてまた物を探すことになる。この食堂のメニューはいつも決まっており、描き方も簡単なので、特定の料理を探すのには苦労しない、まあ、食べたいと微塵でも思うならという話だが、先に述べたように、とにかく脂が酸化しているのか、もとから質が悪いのか、両方なのか、使い方が悪いのか、もしくはそのすべてか、判然とはしないが、においだけで胸焼けがするような代物なのでここの油ものを食べようなんて全く思えないし、かといって油もの以外のメニューもネズミの揚げびたしと大差ないように思われ、薄い紅茶にはきっと灯心の滓が浮いているのだろうと思えるから、まずここでは食事をしないことに決めている。確かにこの近くのコンビニの弁当は神饌にしたら翌年劇的な天候不良と自然災害に見舞われそうな代物だったし、食べるたびに惨めになったが、その油と塩ばかりがごてごてと塗りたくられた食事は、食堂のメニューよりはすこしだけましに見えた。煙草の灰を吸い込みながら、それが本当かを考慮することもなく、机に広げたノートに向かう。年始も近いとあってこのうらぶれた雰囲気全開の食堂は、時間帯の聖もまたあり客というか人間がまばらで、その分話し声の反響が静けさをかきたてていた……近くの棟の耐震補強工事が時間帯のせいで休工中であるがゆえに。そうであれば、なくしものを探してばかりで、しかし自分はとくに汚いと思うことで、好意としての食を憎んでいるというのは確かなのだが、問題は、そんなドブネズミのしぼり汁のような食堂に自分は何の関係もないので、足を留めたのも偶然で、あり得ない高架下の空間に作られてもおらず、本当になぜ迷い込んだのかはわからなくいけれど、きっとひねくれた気取り屋の性質が、年末年始のスーパーマーケットのあまり好ましい印象を持っていない寿司の大量に並んだ売り場のケースからこの食堂を生み出したのだろうと思い返すに、そこは深夜の路上なのだった。

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深夜の路上 韮崎旭 @nakaimaizumi

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