第6話 望む抽出方法
深陽を連れ去ったと思しき神の存在がある。
そうとなれば、道筋はできた。
目の前が開けたようで、先の見えない不安から解放された深陽の心に、少しばかり余裕が生まれる。
硬いパンをどうにか食べ終えると、無意識にカップへと手を伸ばしかけたが、もちろんそんなものはない。
またも椀を拝借すると珈琲を召喚し、そこで、起き抜けにデミタスへ尋ねようとしていたことを思い出していた。
深陽の朝食にとっての最重要事項。
「牛乳はない?」
またしても、不意を衝かれたような表情を見せたデミタス。
それだけで深陽の希望は萎んだ。
「……いや、いいんだ。いつもカフェオレ……牛乳で割って飲むってだけだから」
「ふむ。様々な活用法があるわけか」
深陽の言い訳に、なぜか深く頷いたデミタスは、立ち上がると食事を用意してくれていた人へと声をかけた。
(これも魔法の応用になる、のか?)
複雑な気持ちで見ていた深陽に、振り返ったデミタスは嬉しそうに手招く。
「こんな街の中だ。牛はいないが、山羊を飼ってる者がいるらしい。貰いにいこう」
街の兵士であるデミタスが馴染みのないような物言いをするなら、よほど縁がないのだろうか。深陽の持つ印象からも、家畜を飼うなら街外れにありそうであるし、兵の世話になるような者もないのだろう。それだけでなく、そもそも乳自体を飲む習慣がないというほどの疎遠さを、デミタスの態度からは感じられた。
それはともかくとして、カフェオレだ。
深陽に山羊乳を飲んだ経験はなかったが、チーズを食べたことはある。特に違いを感じたことはないため、牛乳と似たようなものだろうと明るい気持ちでついていった。
珈琲ほどには他の食べ物に頓着しない舌のようだ。
道行く者らと朗らかに挨拶を交わしていくデミタス。
通り過ぎる人々は親しみを込めた笑みを浮かべてはいるものの、どこかかしこまって見える。
思えば、同僚らしい他の兵達にしろ一歩引いているようだった。
緊急時で疲れもあったろうが、見も知らぬ者を連れて戻ったというのに、誰もデミタスに問いかけるようなこともなかったのは、いささか不思議であった。たんに好まれざる人物というには、険悪な雰囲気も見受けられなかったのだ。
誰に報告するでなく、こうして思い立って行動を取れることや、デミタスの顔の広さには理由があるのだろうか。
深陽の頭に浮かんだのは、単純ながら隊長といった上の立場だ。
率直に尋ねると、デミタスはやや眉を顰め、笑おうとしたのだろう口元は歪んで見えた。
「父親が、有名なのさ」
思わぬ事情が飛び出して、内心慌てた深陽は止めようとしたのだが、続くデミタスの言葉の方が早かった。
「領主が最も信頼を寄せる騎士でな。実直な人柄もあり市井では評判だ」
すぐに元の人の好い顔つきを取り戻したデミタスは、さして気にしている風には見えない。
だが、先ほどの、隙をついてしまったから出たのであろう心情も、本心に違いなかった。
「……俺も、下手な姿は見せられないってことだ。おっと、見えたぞ。あの家だ!」
英雄視される親を持つ者、特有の悩みなのだろうか。殊更陽気な声をあげ、デミタスは足を早める。
気が付けば深陽らは、小屋が密集したような地域を歩いていた。その隙間を縫うように進むと唐突に家並みは途切れ、デミタスの指差した他より大きな小屋の前へと到着する。
途端に押し寄せる嗅ぎ慣れない獣臭さに、思わず鼻を押さえる深陽。
大きな小屋の裏手には、街を囲う石の壁と住宅地の狭間を、無理矢理に柵で囲んだような狭い広場。そこには、なるほど、山羊らしきものがいた。
「街の外かと思ってたよ」
「ここらは魔物が多いわけではないが、無防備に住めるほどでもない……奇しくも、昨晩、それが証明されたところだ」
深陽の呟きに返ったデミタスの硬い声に、改めて、ここは別の世界なのだと気付かされたようだった。
小屋の扉に呼びかけるデミタスの背を眺めながら、深陽は、今後の行動に迷いが生じていた。
魔法使いが、旅に出ることが修行として根付いているというなら、身を守る術を当然持っているのだろう。それこそ魔法が、その手段のはずだ。
しかし本物の魔法使いならば、だ。
(ただの珈琲だぞ……)
はからずも役に立ったことが思い出され、あまりの馬鹿馬鹿しい光景に頭痛がしてくるようで、深陽はこめかみ抑えた。
しかも幾ら助けになったと言われようと、実際に敵を退けたのはデミタスだ。
そのデミタスの前、扉が控えめに開いた。
顔を覗かせたのは、つぎはぎの三角巾で頭を覆った若い女性だ。デミタスの姿を認めると不安げに眉を顰めた。
「あら、あら。こんな街の端まで、兵士さんがいらっしゃるなんて、なにかありました? まさか、また魔物が……?」
「いや、そちらは問題ない。別件なのだが――」
デミタスの話を聞くためか、さらに扉が開かれ、女性の全身が露わになる。
深陽は目を瞠った。
くたびれた顔付きには似合わない、堂に入った豊かさを主張する胴に取り付いたこの存在は、どうだ!
「魔法使いのミヨウです! ちち、じゃなかった、ぎゅうにゅ、いや、山羊乳があると聞いてはせ参じました!!」
「え、えぇ!?」
思わずデミタスを押しのけて前に出る深陽。
「おぉ? さすが魔法については、ものすごい意気込みだな!」
謎の感心を見せたデミタスは、本来の用件を切り出す。
「そのようなわけで、魔法の媒介となるそうでな。乳を分けてもらいたい」
分けるなどとんでもないと口を出したくなった深陽だが、ぐっと堪えて笑みを作り、クールを装う。
「まあ、それは光栄です。この畜舎を営む、デカフェィネと申します。どうぞこちらへ」
名は体を表すとはこのことか。いや、別世界の言葉のはずだ、とかなんとか考え、本来の用事を思い出して煩悩を散らす深陽。
つい自ら魔法使いだなどと見栄を張ってみたものの、特になんの意識をされることもない様子を見て、気まずい気持ちを宥めつつ彼女の後に続く。
仕切りの多い小屋の奥には、広い扉が開かれている。その向こうは、そう広さのない柵に囲われた草地だ。
近付いてよく見れば、深陽のイメージする山羊とは少し違った。毛並みが異様に長い。蹄を邪魔しないように足首辺りで揃えてあるのか、小さな足の生えた巨大モップがちょこまかと動いているようだった。
デカフェィネの手前、鼻を覆うことは我慢しつつ、案内された小さな小屋に足を踏み入れる。
そこは酸味を伴う匂いが漂うものの、獣臭さはない。他と比べれば清潔に保たれているように見える。その理由は、湯気の立ち昇る大鍋にありそうだ。
くり抜いただけといった天井の穴から、湯気が掻き消えているのを、ちらと見上げてから鍋に目を落とす。鍋一杯のクリーム色。
話によればチーズを作るための小屋ということだった。今朝絞ったものは、全て鍋にかけてしまったところだという。
「こうして煮たものでも、大丈夫でしょうか?」
てっきり絞って渡されると考えていた深陽は、その言葉に喜んだ。煮沸消毒されていると思えば、気分的には安心できる。慣れない獣臭さから、腹を下すのではないかと危ぶんでいたのだ。
「飲むにはちょうどいいです」
「飲む? 魔法に使うのではないのですか?」
言いよどんだ深陽に代わってデミタスが答えた。
「ミヨウは、薬湯の魔法が得意なんだ!」
「まあ、それは稀有なこと!」
我が事のように鼻高々に語るデミタスを、デカフェィネは賞賛の眼差しで見上げる。
(それ、俺の魔法だから……)
ついツッコミを入れかけて持ち上がった手に、すかさずデミタスからボウルを押し付けられた。
「それで、どのくらい必要なんだ?」
デミタスの指示に、お玉らしきものを手にしたデカフェィネの期待に輝く顔がミヨウを向く。
「あー……、一掬いで」
ただカフェオレを飲みたかっただけのはずが、
周囲の雑多な臭いもあり、香りはよく分からない。
思い切って一口。
チーズを食べた後のような癖を感じられたものの、濃厚で悪くはない。
しかし、肝心の甘みは足りない。
「バリスタ」
「まあ! これが、薬湯ですのね!」
ホット山羊乳に、マグカップ一杯分の珈琲を捻り出し、再び口に含む。
(やっぱり、牛乳の方が合うか。というか慣れたもんがいいし)
珈琲と半々の割合。これが牛乳なら十分に甘みを感じられるのだが、思ったほどの結果は得られなかった。
種類や飼料の問題なのかもしれないが、深陽に知りようもない。
「どうしたミヨウ……なにか、まずかったか」
息を詰めるようにして見ていたデミタスが、結果を問う。
「まずくは、ない」
新たな魔法と考えて緊張しているところ悪い気もしたが、つい正直な感想が出てしまった。
無理を聞いてくれたのだから感謝はしているのだ。慌てて言い繕う。
「これなら胃に優しいだろうし」
「治癒効果が上がったというのか!」
「まあ、素晴らしい!」
ますます誤解を招いてしまったようだ。
しかし、それらに気を払うこともできず、深陽は己の感覚に沈んでいった。
グレードの上がった魔法で、そこそこ美味く入れられた珈琲。そこに混ぜ合わせた、飲み慣れない山羊乳の違和感が、やけに舌に強く残るのだ。
その味覚の不協和音は、たんに好みの話ではない。
(珈琲が無い、場所なんだ)
日々を同じもので満たし、突き詰めることもできる日常。
それが失われたことを、ようやく実感できたようだった。
(新鮮な牛乳も、簡単には手に入らない)
行き先の見通しができたからと、のんびりしてなどいられない。
今はまだ旅行先にいる気分でいられるが、長引くほどに辛くなるだろう。
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