パンタグリュエルの旅路
威岡公平
本文1
『あなたは知っているだろうか』
パンタグリュエルがその短い言葉に出逢ったのは、ちょうど右のメインカメラを取り換えたとき――もう動かなくなった同胞から、それを譲り受けた時だった。
自動機械たるパンタグリュエルたちはその機能を停止すると、使い古した自身の機体のうち、未だ使用に耐える部品の一切を他のパンタグリュエルたちに分配する。
何十万日か、あるいは何百万日か、稼働限界を迎えるまでの時間の長短は、パンタグリュエルたちにとって些末な差異でしかない。宛がわれた役目である奉仕労働を繰り返し、停止した同胞の身体から得た部品と壊れた部品とを交換し、稼働限界を迎えれば仲間たちに部品を分配し、個体としての終わりを迎える。
それはパンタグリュエルたちにとって疑いなど発生しようもない所与の現実であり、電灯に照らされた地底の世界で繰り返すそのサイクルが、パンタグリュエルたちの認識しうるこの世界のすべてだった。
パンタグリュエルの頭部に収まったカメラのもとの持ち主も、そのように機能を停止した無数の自動機械のうちの一機だった。奉仕労働に従事する同胞たちの形成する幾何学的な列からはぐれたかのように、その古ぼけた一機は機能を停止していた。
分配は例によってスムーズに行われ、パンタグリュエルは無事に、いつぞや瓦礫によってひどく傷つけられた右のメインカメラを交換することができたのだった。
間もなくパンタグリュエルは、見慣れないものを回復したばかりの視界の片隅に認めた。
『あなたは知っているだろうか』
短い言葉は、譲り受けた丸く大きなカメラ、そのレンズのふちに小さく彫り付けてあった。
『ドゥオモを遥か離れ』
『なにひとつ隔てるものもなくまっすぐに見つめる』
『満天の星空の、かがやきというものを』
それはパンタグリュエルが今まで知覚した、あらゆる種類の文字からはあらゆる意味でかけ離れたものだった。
パンタグリュエルの知る文字とは、レーザー加工であったり、あるいはプレス機で打ち出されたものであったり、またあるいは印刷されたもの、だった。要するにそれらは自動機械たちによって作成されるものであり、もっぱら情報と命令を伝達することのみに用いられた。正確に合理的に意味を伝えるために、選ばれた字体にあわせて一部の狂いもなく整然と並んだ情報の表象、それがパンタグリュエルにとっての「文字」というものだった。
パンタグリュエルがなんとか「文字」と認識することのできたそれは、あまりにもいびつな形をしていた。端的にそれは、瓦礫に擦られてできた傷や溝や、罅割れのようなものとほとんど同じと言えた。レンズの隅に横並びに四行、ジグザグに並んだその不格好な文章は、自動機械のような精緻な技術と工作道具を持たない誰かが、拙い腕で、拙い道具を使って刻んだであろうことが推察された。
その短い四行の言葉は、複雑な指令を過去何万日にも渡って滑らかに処理し続けてきたパンタグリュエルの電子頭脳を困惑させた。四行を成す単語それぞれの定義を、パンタグリュエルはひとつ残らずそのデータベースの中に認めることが出来たが、そこに記載された説明と、彫り付けられた言葉の訴えるものとは、どうしても符合させることができなかった。
『あなたは知っているだろうか』
自動機械たるパンタグリュエルにとって、文字とは伝え、命令する道具だ。言葉を知る人が表現するならば「問いかけ」とでも呼んだであろうこの言葉に処する方法を、パンタグリュエルは知らなかった。
『なにひとつ隔てるものもなくまっすぐに見つめる』『満天の星空の、かがやきというものを』「まっすぐに」とは、どういうことだろうか?「満天の」「星空」それらはいずれも、データベースに記載された「空に満ちている様子」「星が多く見える空」という記述とは違う訴えを以てパンタグリュエルに迫ってくるようだったし、「かがやき」という言葉の示すものと、パンタグリュエルの世界を照らすライトの照明とは、どうやら同一のものではないらしかった。
パンタグリュエルの電子頭脳にただひとつ明確な意味を伴って迫ってくるのは、『ドゥオモ』という一語だけだった。パンタグリュエルたちすべての自動機械にとって、ドゥオモ、という語はこの世界でたったひとつの重要で、ある意味では神聖なものを指し示す言葉だった。そこにはパンタグリュエルたちの生みの親である『人間』たちが住んでいて、何百何千万日かの日々を超えて再び『地上』に戻る日を待っているのだ。同心円の区画の奥深くに住む彼らの生活環境をその日まで守ることが、自動機械たちの唯一の存在意義だった。
ほとんどがそうであるのと同様に、パンタグリュエルが人間に見えたことは一度もない。『人間』と『ドゥオモ』は自動機械にとっては予め電子頭脳に最重要として刷り込まれる情報で、パンタグリュエルの製造を手掛けたのは同じ自動機械の同胞だった。何千万日か前、人間が最初に拵えた自動機械が自動機械を製造し、製造された自動機械がさらに自動機械を……という再生産のプロセスを経て、パンタグリュエルたちはこの世界に生れ出た。
ドゥオモを中心として同心円状に伸び出る回廊と、放射線状に伸び出る直線通路。等間隔に敷かれたそれらが形成する扇形のセクション。各個体に宛がわれたその扇の内側だけが自動機械にとっての世界であり、同胞たちは製造・配備されてからの日々のすべてをそこでの奉仕労働に費やし、やがて朽ちる。持ち時間のすべてを彼らのために費やしながら、パンタグリュエルたち自動機械は、造物主たる人間に接触することもなく徹底して無関心なものだった。
パンタグリュエルはふとメインカメラを傾げ、カメラの元の持ち主が機能を停止していた場所を見た。その場所は扇形のセクションからはすこし遠ざかっていて、ちょうど奉仕労働に従事する自動機械たちの形成する整列からはみだしたように持ち主は倒れていたのだった。倒れたその姿からは、扇の外縁を突っ切って、中心部であるドゥオモから遠くその先を目指していたであろう足取りが窺えた。
パンタグリュエルは、電子頭脳に刷り込まれたセクションの地図を脳裏に浮かべた。精緻なその地図は、細かに分割された扇型が寄り集まって大きな円形を形成するものだった。大円の中央に位置する小さな円――これがドゥオモを指し示す――を何重にも取り囲むように同心円状の階層が連なり、パンタグリュエルがいるセクションは、大円の外縁から中心まで三分の一ほどの位置にある。
パンタグリュエルが再び頭部を傾げる。カメラは外縁部へと至る直線通路を映した。自動機械の高度なメインカメラにもその行き当たりをを見せることなく長く続くその通路と、彫り付けられた短い四行とが、パンタグリュエルの視界の中でちょうど重なった。
『あなたは知っているだろうか』
『ドゥオモを遥か離れ』
『なにひとつ隔てるものもなくまっすぐに見つめる』
『満天の星空の、かがやきというものを』
観るものに終点すら見せないその直線通路は、かつての持ち主が、気の遠くなるような長い道程の旅の末、この場所で力尽きたことを暗示していた。その長い旅路の始点において、造物主たる人間のうちだれかが、命令や情報という自動機械たちのための言葉以外のなにかの意図をを持ってその四行をレンズに彫り付けたであろうことも。そしてその長い旅路の中で携えていた四行の言葉は、いまカメラとともにパンタグリュエルに譲り渡されていた。
扇状の円環の中で日々を繰り返しやがて朽ちることを、所与のものとして植え付けられたパンタグリュエルの現実に、いまその不格好な四行の言葉は、揺らぎを与えていた。少なくとも、もはやパンタグリュエルにとって、その地図や直線通路を己の現実と実質的に関係を持たないただの地理的情報だと以前のようにとらえることは、もはやできなくなっていた。
ややあってパンタグリュエルは歩みはじめた。同胞たる自動機械たちが形成する奉仕労働者の列の円環から抜けて、大円の外へと。それはパンタグリュエルが自己の認識において所与の現実としていたものすべてを擲つことに等しかったが、言語化も説明もつかない確信めいた動機が、いまや彼を動かしていた。
結論から言うと、彼は二度と戻ることはなかったが――パンタグリュエルが自分自身の旅路というものを持ち、どこかへ去ったのは紛れもなくこの時に他ならなかった。
パンタグリュエルの旅路 威岡公平 @Kouhei_Takeoka
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