第2話

 学校のほど近くの公園に行くと、既に珠美は居て、誰も他には居なくて、ブランコに乗っていた。

 鈴も隣のブランコに座る。

 キイキイと鎖の軋む音だけが響いて、二人とも何も言わない。鈴は珠美が何を思っているのか全然分からない。チラリと盗み見た彼女の表情が、くすんでいることだけは分かる。

「あのさ」

 珠美の声が嫌にはっきりと聞こえる。

「本当に、絵を描くの、やめるの?」

 もう一度、キイ、と鎖が軋む。

「うん……」

「私、鈴の絵、好きだったんだよ」

「私も、珠美の作る彫刻、好きだよ」

 お互いにお互いの言葉を噛みしめるような沈黙。初夏の風が通り抜ける。

「まだ学校、半分しか終わってないよ」

「もう半分だよ」

「写真、するために、絵をやめなきゃならない、そんなことないじゃん」

「両方やるには時間が足りな過ぎる」

 珠美は正面を注視したまま。

「鈴は割り切れてるみたいだけど、私は全然割り切れない」

「珠美は、ああこれがしたい、そう言うものに出会ったことはないの?」

「……ある。それが今に繋がってる」

 そうか、珠美にもあったんだ。だったら。

「それに私はこの前、出会った。だから、そっちを向く。じゃ、ダメかな?」

 珠美の手が、肩が、震える。涙が、頬を伝う。

「それじゃあ、納得、するしかないじゃない」

「だったらさ、笑って送ってよ。それに、今生の別れって訳じゃないじゃん」

「私はさみしい」

「私だって、さみしいよ」

 交換されたさみしさの余韻が治るまで待ってから、鈴は言葉を継ぐ。

「でも、前に進まなきゃ。別々だけど同じ芸術だもの、本当の別れじゃないよ」

「私は、さみしい」

 もう一度強くつよく珠美は言って、鈴の方を見る。その顔を見たら、「さみしい」がずっと深く染み込んで、鈴も泣けて来る。

 みんなと違う道を歩く不安とか、不確定な未来がより不確定になった足場の悪い感じとか、全くやったことのない技術をこれから身に付けなくてはならない事実の自身への突き付けとか、自分の選択に伴う負の部分が一気に胸を占拠する。

「私だって、さみしくて、不安なんだ」

 珠美がブランコを降りる。鈴の前に立つ。強い、眼。

「だとしても鈴は決して戻ったりしない」

 胸の内の負の部分が、珠美の急な一言で一枚の膜の内側に閉じ込められたような気がした。そこを踏み付けて、ぐんと跳ぶように、言葉にする。

「うん。戻らない。前に進む」

「絶対に、芸術の写真を撮ってよ」

「保証する」

 珠美がぐーんと伸びをする。

「私が言いたかったことは、さみしい、よりも、がんばれ、なのかも知れない」

 鈴が空に放られた珠美の言葉を全部吸収するように、両手で仰ぐ。

「うん。受け取った」

 珠美はもう泣いてはいない。鈴も。

「でも、珠美も、がんばってね」

「うん。がんばる」

 鈴はブランコから立ち上がって、握手をし、珠美は学校へ、鈴は家へ別々に、前に進んだ。


 夕方、家のチャイムが鳴る。

「鈴ちゃん、教室の凪ちゃんよ」

「あ、私出るね」

 きっと珠美から私のことを聞いたのだろう。

 玄関に上がった凪は、澄んだ目を少し腫らしている。硬い表情。

「鈴姉、絵を描くのをやめるなら、私が鈴姉の絵筆を引き継ぐから、頂戴」

 頂戴って、引き継ぐって、それって、私の遺志を継ぐってこと?

「私の情熱は、写真に向いただけで、死んでない」

「絵に対してのは死んだ。だから、鈴姉が今まで積んだ分を私が引き継ぐの」

 冷淡な言い方の中に熱さがある。彼女のためではなく、私のために言葉を発している。それは決して非難ではない。彼女が追いかけていた私が突如不在になることへの悲しさとか、置いてけぼり感とか、そう言うものを全て飲み込んだ上で彼女は一人でももっと先に行くんだと宣言している。

 鈴は微かに微笑む。凪は表情を変えない。まるで気を抜いたら涙が溢れてしまいそうな顔。

「ちょっと待ってて」

 鈴は絵の具のケースを取りに二階に駆ける。昨日、さよならと呟きながら仕舞ったケースを手に取る。

「ありがとう、じゃあね」

 ケースをギュッと抱きしめてから、階下に向かう。

 私の絵の終わり方が、こうで、よかった。

 凪の前に立つ。三つ下の彼女がとても大きく見える。

 腕を真っ直ぐに突き出して、ケースを凪に渡す。

「後は、任せた」

「任された」

 凪の口元だけがクッと引き締まる。真っ直ぐな目。

「またね」

 鈴の掛けた声に深く一礼して、凪は出て行った。一度も振り向かなかった。

 珠美から受け取って、凪に渡して、私の画家への道は本当に終わったんだ、じわりじわりとその実感が強くなる。少しの余韻を今だけは大切にしたくて、鈴は胸に手を当てた。


 高校二年生の夏に美術系から一般の受験生に転向する。それは困難と分かっている。だけど、私はやる。

 中学校までは学年トップクラスだったので自信はあるが、一年半のブランクを埋めて、かつ、それなり以上の大学に受かるレベルまで自分の学力を上げなくてはならない。だから、行動の優先順位は学業が最初は上に来る。

 塾を決め、今後のスケジュールが決まったところで、初めて鈴は写真のことを始める。

 当然ながら、カメラがない。

 ネットで調べると仲谷鉄姫はデジタル一眼レフカメラを使っているらしい。では、私もデジタル一眼を使おう。出来れば鉄姫と同じカメラがいいな。

 大まかに言って、本体とレンズとアクセサリーに大別されるカメラ関連用品。調べて初めて知ったけど、高い。

 ……アルバイト。

 目的のための手段なら、それもありかも知れない。

「ダメ。アルバイト禁止」

 父親に相談したら却下された。

「でも、カメラが買えない」

「お父さんが買ってやるよ。アルバイトする時間があったら勉強しなさい」

 家電量販店のカメラコーナーに父親と二人で行く。二人きりで遠出をするのが久しぶりだからか、父親がはしゃいでいる。

 下調べをしていた機種を実際に手に取り、レンズも付いていて、試しに写真を撮る。

 ゲンナリするくらいにつまらない写真が撮れた。

「お、ピントはオートなんだ?」

 父親が覗いてくる。見ないで。これは私の作品じゃない。

「使いやすい感じがするし、当初の予定通り、これで行くね。で、レンズなんだけど、単焦点の標準レンズが欲しい。なるべく明るい奴で、ネット曰く『目で実際に見たのと同じように撮れる』と言われてる、これ」

「うん。レンズは今日は一個までな。二個目以降は以後相談ということで」

「アクセサリーは買ってもいいでしょ?」

「よく分からないけど、いいよ」

 カバンと、ストラップと、レンズに付けるフィルターと、液晶の保護ガラスと、替えのS Dカード、三脚。流石にフラッシュはやり過ぎだと思ってアクセサリーには入れなかった。

「結構あるね」

「お父さん、太っ腹」

 勢いで内容を見ずにいいよと言ってしまった後悔の滲む父親の顔。

 下がりかけたテンションを持ち上げようと「素敵」「最高」と褒めまくったら、父親に「嬉しいけど下心がミエミエ過ぎて、もうお腹いっぱい」とさらに苦い顔をされてしまった。

 時給1013円で働いたら、いったい何日かかるのだろうという金額がレジで提示される。父親は澄ました顔でカードを出していたが、やっぱり生活の基盤以上に自由に使えるお金があることは、アマチュア写真家をするのには必要なことだ、そう刻み付けられる。

 家に帰り、早速カメラの充電をしながらアクセサリーの設置をする。

 カメラの扱いに慣れるまでいろんな条件で撮りまくる必要がある。但し、何でもいい訳じゃない。それは絵筆の扱いを覚えるときと同じ筈だ。つまり、基礎練を積む必要があるのだ。ゼロから何かを始めると言うことの最大の強みが、システマティックにロジカルに、癖を付けていくことが、まっさらだから、出来るということ。

 だから充電の残りの時間を利用して、その方法をネットで検索する。大手のカメラメーカーから個人まで、たくさんのサイトで説明がされている。鈴はそれを幾つも、ノートに書きながら比較して、「およそ正しいと考えられる方法」にまとめる。

 結局その比較とまとめに丸一日かかり、カメラのデビューは明日までお預けとなった。


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