森の向こう側(連作「六姫」④:鈴姫)

真花

第1話

 その写真の奥には無限があり、永遠があった。

 鬱蒼とした森。しかし手前は違う。つまり、森の入り口だ。連なる木々は中央のやや右に隙間を形成し、そこを追って行くと左に緩徐に曲がってその向こう側は見えない。獣道だろうか。姿は見えないが動物の息遣いが隠れている。きっと人の手は入っていないのに、入り口のような隙間の、森が始まるほんの少し手前にだけ黄色い花が咲いている。緑と闇と茶色の一面に切り拓くような黄色。その色が光の存在を確信させ、森の上に空が広がっていることを理解させる。空に果てがないように、この森にもずっとずっと奥があり、そこには何が居るのだろうか。人かも知れない。動物だけかも知れない。花畑があるのかも知れない。どこまで行っても森しかないのかも知れない。突き抜けた反対側には楽園が待っているのかも知れない。

 鈴(すず)は展示されている「森」と言う写真の前で動けなくなっていた。

 それは畏怖を伴う、しかし遥かに陶酔の要素が多い。空想が巡る。

 周囲の人のことも、時間も、自分が居る空間ですらも忘れて、その写真と対話をし続ける。まるで森に流れている時空に調和したかのように、その森が蠢いているのを捉えるために存在するように、鈴は立ち尽くしている。

「きっと世界の端にある森なんだ」

 だから向こう側は誰も知らない。だから空想することは幾らでも出来る。でも、確かに向こう側は存在する。いや、永遠に森が続くのかも知れない。どこまで行っても、森。探検は命がけになるだろう。

「道案内をしてくれるのはリスがいいな。けど、森だからサルとかしか居ないのかな」

 くす、と笑う。

「入り口の花、何て言う花だろう。そここそが正しい入り口だと示している。決して摘んではいけない花」

 写真の世界に浸って、それを考え、言葉にして、を続ける。

「すいません、もう閉館になります」

 声を掛けられて、ビクッ、とする。

「あ、はい」

 そう言いながら、写真を撮った人物の名前を確認する。仲谷鉄姫。その「森」。

 家までの帰り道。

 写真が芸術だと言うことはこれまで感じていなかった。でも、私が今受けている衝撃は間違いなく芸術によるものだ。「森」はすごい作品だ。絵でもそれは可能なのかも知れないけど、アプローチが違うように感じる。絵は、リアルにどれだけしたとしてもそれは絵筆、つまり人の呼吸のあるもので形成されている。その呼吸こそが絵の命なんだと思うし、そう信じて今まで描いて来た。でも、写真はそこに、撮る人の呼吸はあっても、何て言うか、絵筆でないからこそのダイレクトさがある。そこにはデフォルメは存在しないし、存在しないものが描かれることもない。全ての営為はシャッターを切る前に済んでいて、そう、切り取るんだ。切り取るからこその凄みがあるんだ。

 歩調が徐々に遅くなる。とっぷり暮れた空。

「だから、写真は現実そのものでは決してない、と言うことだ。だから、あの森も、本物を見たらあそこまでの空想を掻き立てられないのかも知れない。フレームの外がないからこそ、時間が止まってるからこそ、色々を感じるんだ。それはある意味で絵と同じか」

 ああそうか。これが運命の出会いと言う奴か。

 予め用意されていたのか、偶然なのか、それともいずれは出会うことになったのか、そう言うのはどうでもいい。確かなことは、「森」と出会う前後で私が別物になっているということだ。

「もう、『森』を知らない私には戻れない。知ると言うことは恐ろしいね。知らない状態には絶対に戻れないんだもの」

 鈴は駆け出す。何かを振り払うように。

 私は知ってしまった。あれが、写真。

 坂道を一気に駆け抜けて、息が切れて、止まる。

 空の真ん中に半月を見上げて、大きく息を吸って留める。

 私はもう、絵は描けない。それはもう、やりたいことじゃなくなった。

 ゆっくりと息を吐き出す。また留める。

 私は写真をする。鉄姫さんのような写真をやる。

 もう一度吸う。

「私は、写真家になる」

 呟くよりはもう少し大きな声で、自分に宣言した。


 家に帰ると、両親が揃っていたので、話があるとテーブルに集合して貰う。

「お父さん、お母さん。今まで画家になるために美術系の高校に行かせて貰っていたけど、私、画家にはならない」

 父親も母親も、あまり驚いた顔をせずに、ふうん、と言う。一世一代の方針転換の話なのに、何でそんなに平熱なんだろう。

「鈴、そう言うってことは、他にやりたいことが出来たってことだろう?」

 父親が当然のことを述べるように言う。

「うん」

「それを教えて欲しいな」

 母親も頷いている。

「あのね、今日すごい写真を見て、展覧会で、それで、私も写真がやりたいって、思ったんだ」

「ほお、写真か」

 父親の納得に水を差すように母親が疑問を挟む。

「でも、写真って、今ネットでアップしたりで誰でもやってるものじゃないの? プロになるってのは、つまり結婚式とか、食べ物撮ったりとか、そう言うことを生業にするってことよね?」

「違うの。ネットでアップはしてもいいんだけど、私は芸術としての写真をやりたいの」

 父親が首を捻る。

「芸術としてやるってのは、プロではないってこと、そう言っているように聞こえるけど……」

「そうなの。他人のために写真を撮るのがプロでしょ? それって芸術性を要求されない、と言うか自分の芸術を押し付けちゃいけない場面だと思うの。だから、私はプロにはならない」

「画家を目指しているときはそれで食べていきたいって言ってたよね?」

「それは、誰かのために絵を描くプロってのがそもそもないから、逆にプロこそ自分の絵を描くって言うシステムだったからで」

 両親はふむふむと頷いている。

「もし芸術としての写真で食べられるなら、それでプロでもいいとは思う。でも、多分そう言うことになるのはかなり先か、来ないかのどっちかだと思うから、私は芸術をするためにアマチュア写真家であり続けることを選ぶの」

 父親が、ぽん、と手を打つ。

「話が見えた」

「私は見えないわよ」

 母親が拗ねた顔をする。

「つまり、絵を描くのをやめて、写真家になる、ってことだよね。それで、学校を辞めることを考えてるんだね」

「その通りです。もう、絵を描くことに時間を費やすのは出来ない」

「辞めてどうするつもりなんだい?」

 鈴は言ってしまったら戻れない言葉を放つ覚悟を決めるために、ほんの数秒息を留める。

「芸術系ではない大学に行って、就職する」

 両親が顔を見合わせて、ニッコリとする。あれ、苦い顔を予想してたのに。

「鈴、お前は本当にちゃんとしてるよな」

 父親が嬉しそうに笑う。

「話の流れから行ったら、ニートになって写真だけする、って言いかねないシチュエーションだったのに、就職するって。しかも大学まで出るって」

「生活の基盤はしっかりさせないと、アマチュア写真家で居られないと思って」

「最終的に自分の力で立とうと自然に考えている。お父さんは嬉しい」

 褒められるとは思ってなかったので、受け取ったそれのやり場に困る。

「ちゃっかり大学までは俺達の世話になるってことまで含まれてるのが、またいい」

 少し嫌味のように感じる。母親が大声で笑う。そんなこと言ったって、高校中退で働くって、長期的に見たら生活し辛くなるリスクが高いじゃない。もちろん、大学出たからっていい仕事に就けるとは限らないけど。

「大丈夫だよ。そこまでは予定通りだから。お父さんも定年までまだ大分あるし」

 笑い終えた母親が身を乗り出す。

「どうするの? このままの高校で受験勉強するの? 転校するの? それとも辞めて高卒認定試験受けるの?」

「高校辞めて、認定試験受ける、を考えてる。……で、お願いがあります」

 両親は余裕の表情だ。

「何?」

「塾に行かせて下さい」

「いいよ、もちろん」

「早っ」

「鈴が目標を持って、しかも現実的な内容で、頭まで下げてるんだ。断る道理がない」

 鉄姫の「森」に出会って半日、鈴は人生を急角度でカーブした。

 次の日には退学届を提出したが、鈴の勤勉な絵との付き合い方を見て来た先生達は、信じられないと口を揃える。鈴は友達関係に一通り挨拶をして、訊かれたら理由を答えて、荷物をまとめて学校を後にする。

 帰り道に携帯が鳴る。見れば珠美だ。

「鈴、学校辞めるってのはさっき聞いたけど、やっぱりちょっと納得出来ないから、今から会える?」



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