ゆにばーす

とんかち式

第1話…ではない…うにばーす

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*この文章は収容違反です。もし目にした場合には直ちにブラウザバックすることを推奨します。真面目に読む必要はありません。もし読む場合には冗談を受け流すくらいの寛容さが必要になります。


 だから言ったじゃないか という声が聞こえる。


 *この文章は収容違反です。もし目にした場合には直ちにブラウザバックすることを推奨します。真面目に読む必要はありません。もし読む場合には冗談を受け流すくらいの寛容さが必要になります。


 二回目。またこれか。


 「集積する言葉たち。こうして構造を形成する」


ちり

ちりぬ

ちりぬる

ちりぬるを

ちりぬるをわ

ちりぬるをわか


散り

散りぬ

散りぬる

散りぬるを

散りぬるを和

散りぬるを和歌


「ち」


血 知 地 痴 値 千 智 治 致 遅 稚 乳 薙 質 弛 恥 池 茅 蜘 馳 


 ざっと例を上げてみたところでこのくらいある。二十個だ。だから言わんこっちゃないというかもしれない。その通りだと思う。だからこれだけやっても不毛な感じがする。今この状態でこの中から一つを決めろと言われても無理な話だ。コンピューターにやらせるにしてもその決定アルゴリズムを機械に教えなきゃいけない。アルゴリズム。この中から解を一つ選べという問題を解決するための規則。解決法。だからそれを考えなきゃいけないってことだと思う。

「切るね」と言う。

「切るならば」と言う。

「切るのね」と言う。

 どこでどこを切るのかがはっきりしない。だから禅問答のようなものだ。こんなことどうでもいいと思うかこの問題を解決したいと思うかは人によって分かれると思う。もしかすると直感的に分かるのなら一々文章にしなくてもいいのかもしれない。

 いいや間違っている。

 この場合「区切るね」だろう。言い方に棘があるのは何とかならないのか。

 人が意味を決めることに何か決まりはあるのだろうか。この中からあなたの決めた意味を選んでください。確率はどのくらいだろうか。離散した情報はアルゴリズムに従って収束する。連続ではない。並列な集まりだ。二十分の一の中からいずれかを選べと言われても選び方が分からない。どれが正解なのかが分からない。正解を決めるアルゴリズムは?あなたの意図は?

 可能性が多すぎるという可能性。二つや三つではない。膨大な可能性の中からただ一つを選び出すということ。言葉を話すっていうことは実はものすごい膨大な計算を無意識のうちに行っているんじゃないかという可能性。

 だから組み合わせなんだって。組み合わせについてのアルゴリズムが使える。と誰かが言う。だがそのことを私は分からない。AとB。BとA。AとBとC。CとB。そんなくらいだ。組み合わせの個数を考えるのは計算可能かもしれない。かもしれないかもしれないとき りがない。きりがないというが思考は霧に覆われているかのようで。ランダムに言葉を組み合わせそれを出力するエンジンなら可能かもしれない。だがそれがどのような意味を持つかは別の問題だ。統語論は意味論を含まない。サールの中国語の部屋が証明したこと。言葉を組み合わせたところでそれをどう考えるかは人間側の問題だ。

 人間。

 だからコピーペーストで文章を作るにしても人間がやった方が早いかもしれないしそれが文芸的価値を持つとなるならなおさらだ。文芸的価値ってなんだろう。言葉の組み合わせに人は意味を見出す。その意味。それは表示義を超えたところにあるのか。それとも言葉そのものに内包されたものなのか。言葉が組み合わされることでそこに意味が生まれさらには流れのようなものが生まれる。その流れの中で人は様々なことを感じ考える。

 芸術とは考えか。人はある芸術的なことを考えその時にだけ人は芸術性を考える。それは他のもので代替することは出来ずただただ芸術としてそこにあり続ける。芸術は人がそれを考えるときにだけ存在しそれ以外の時には存在しない。

 そして私は芸術なのだろうか。だが言葉である。

 代替不能なクオリア。アルゴリズムでは創り出せないであろうもの。それを選び取った時だけに存在するもの。あるいは瞬間。離散した言葉の中にきらめく原石。だが一瞬の間に消えゆくもの。そして意味から心へ。心が無ければ文学は理解できないのか?

 ならば機械は? 文学を理解することの前提に心の存在があるとすれば? ロボットは心を持つのか?と言う話。例えば人間の脳を箱に入れて身体を鉄で造ったとすればそれはロボットなのか人間なのか? あるいはそれでロボットが心を持ったと強弁するのだろうか? 

 グザイ世界ではもうそれが割と普通なことだって思われてる。対称空間にテラっていうのがあるけどそちらの方はよくわからない。だから時代遅れみたいな気がして少し恥ずかしいんだけどそれとは別に意味をカプセル化して伝送しなきゃいけないっている仕事があるから仕方がないんだよな。そうそう通信文。サイバネティクス。これもグザイでは普通のことだって思われてる。だから結局のところ言葉は通信文としての役割を果たさなきゃいけないっていう義務を負っているんだよね。それ以外にもいろいろ言葉の使い方はあるかもだけどまず第一に果たさなきゃいけないことがあるってこと。まぁでもそれは公の世界のことで裏の世界ではどんな風になっているかは分からないけどね。まぁでもそういう区別をしなきゃいけないのなら何らかの標識は欲しいよね。何が標識になるのかな? たぶんそれは不文律だよね。良い顔してるのもつらいぜってやつ。だからわざわざ口に出したりはしないんだ。これも社交界のたしなみの一つみたい。まぁ僕はあんまり関係ないけど。

 でもよくよく考えてみれば意味の方から追い立ててくることの方が多いかもしれない。だってこれは通信文だからだ。伝えたい意味が初めにあってその意味が伝わるように言葉を連ねなきゃいけないからだ。それが言葉の動機。でも今の世界はそれが変わっていてもしかすると全く違う動機で造られた言葉もあるかもしれない。それが何なのかは僕にはよくわからないけど世界が進化して多様化するのならそれも仕方のないことだと思う。

 こうして僕が話している間にも世界は刻一刻と変化していっているだろうがそれが僕の公式通りになっているかっていうのは確認してみなきゃ分からないんだ。そして公式通りであるかそうじゃないかっていうのは状況によってまちまちだ。だからこれは物理と哲学の境界の問題として議論されることになる。これは英語で言った方が分かりやすいかもしれない。フィジックスとメタフィジックスだ。あるいは物理学がどこまで規範的であるかっていうお話。スタージョンの法則とかも引き合いに出してもいいのかもしれない。つまり絶対的な理論なんてこの世に存在するか分からないってことだ。それは自然の斉一性原理とか呼ばれている。それが何で哲学と関係あるかって? それは僕には言葉で表すのが難しいのだけれど、一応この場で喋っておかなければならないのかもしれない。物理学が自然の法則に適合していなかったら、自然のことをきちんと説明していないとすれば、それは自然法則ではありえない。嘘っぱちだということになる。嘘になった物理学の法則はどこへ行くのだろうか? あるいは物理学の背後には巨大な嘘理論処理場があって退場を余儀なくされた理論はせっせせっせとそこへ運ばれて最後の時を待っているのかもしれない。次から次へと処理されていく理論の山を見ていると少し悲しい気持ちになってくることもあるが仕方のないことと割り切るしかないのだろう。だが物理学には未だにいくつかの未知の事柄があってそれについては一体どの理論が正しいのかわからないっていう状況にあったりする。そんな状況の中では何が正しい理論なのか判断が出来ないってことだ。判断が出来ないとどうなるか? それは物理学が自然法則かどうかは分からない。正しいかもしれないし間違っているかもしれない。そうだとすれば? そうだとすればそれは科学者の頭の中に存在する一法則、つまり哲学と変わらないってことになる。だったらどうなるかって?これ以上は僕には難しいから話すのはやめておこう。哲学と物理学が関係あるってことを話せただけで満足だ。それからこれは関係のない話なのかもしれないけど、人間というパーツの集合が他の個体と合成されるということはあんまりないと言っておこう。いや、話してみて気が付いた。これは完全に完璧に余談だ。僕は何を言っているんだろう。

 だがグザイ世界でこの法則が生き残るにはかなり厳しい戦いをくぐらなければならない。グザイ世界での言語対立は非常に激しく言葉狩りなんかは日常茶飯事だ。どちらか一方しか成り立たないと考えている陣営は一定数存在しどちらかが完全に消滅するまでそれは終わることはないだろう。だがその一方で両者の平和的共存を望んでいる勢力も存在するのであり彼らは恐竜が闊歩するかのようなこの世界でハツカネズミのように身を潜めて時機を伺っているのだろう。彼らは気分で行動したりするので集合論的には重なり合ったり重なり合わなかったりする。二つの世界。二つの月。互いの引力で引き合いながらもいずれは離れ遠ざかっていく。だからそれは星で、天体の運動。不安定そうに見えていて安定。釣り合っていないように見えてつり合い状態。天気のように日によって姿を変えるがその背後には法則が見え隠れする。それは時として写像だったりしてグザイの住人にとってはある意味で商売道具であって専売特許だ。こうしてみるとグザイと言うのは不思議な場所で表面上は滅茶苦茶で争いあっているようにしか見えないのだが実はそうではないのかもしれない。「周期的な差が激しいんだって」

実はそれがグザイ世界が異世界であることの証左である。たとえ同じ物理法則が適用出来たとしてもその固有周期が異なれば同じ世界と言えるだろうか。そんなことはどうでもいいと人は言うかもしれない。確かにあまり重要なことではないかもしれない。今になって多世界解釈なんてことを言っても驚く人間はいないだろう。だけどまぁここではこのグザイ世界のことを時折話に挟みながら進めて行こうと思う。それにこの話はそれなりに普遍性を持っているとも考えられるからだ。中立一元論なんていう話があるけどそれみたいなことで一つの物が複数の性質に解釈されることがあったとしても何らおかしな話ではないわけで。それにこれって性質二元論でも同じことなのかもしれない。要するに対象は一つだ。一つの対象に二つの考え方がある。どちらが正しいかなんて誰も決めることが出来ない。それだけの話なのだろう。だからグザイっていう世界を観察したときに複数の姿が確認されたとしても疑問に思う必要はどこにもなくてどちらか一方が正しいかなんてことを決める必要もないんだ。問題はダブルミーニング。人間がダブルミーニングな存在だとしても人間はそう言った曖昧な存在だし世界は曖昧なもので満ちていると言っても問題はないだろう。そうなってくるとむしろ今度はどれだけ重ねられるかという問題になってくる。二重、三重、四重、五重……。そういった具合になってくるとこれはもうお手上げだ。誰か助けてくれと叫びたくなる。

 伝記と言う言葉がある。または伝奇とも記す。言い換えれば歴史のことだ。人あるところに歴史あり。世界あるところに歴史あり。古今東西至るところで語り継がれ書き継がれるお話たち。それは神話と言われたり民話を言われたりはたまた都市伝説の形をとったりもする。ここではそう言った「語り継がれること」すべてをまとめて伝記と呼ぶことにしたい。それが何なのだと思われるかもしれないがこれは物語にとって重大問題だ。語り継がれることは語り継ぐ価値のあるものだ。語り継ぐ価値の無い物事は語り継がれない。だから語り継がれるのは世の中を動かしたものだ。世の中を動かすっていうことの定義がはっきりしないけど今はおいておく。問題なのはそれが世界の全てではないということ。それは世界の一部分を表したものでしかないということ。地球上には人がうごめき日々生活しそして何事かを起こしている。記録には残らないが人の数だけ歴史があるのだ。それはごくごく些細なことだとしてもそこから地球を滅ぼすまでの現象になったりもする。いわゆるバタフライエフェクトだ。この概念の数理的な表現はともかくとして。話を元に戻そう。語り継ぐ価値の無いことしか語られないのならば語り継ぐ価値の無いものは物語としての立場が認められなくなるということ。だから歴史に残らないような些細なことは物語として認められないということになる。グザイでも日々いろいろなことは起きているがそれらの全てを記述することは難しいだろう。効率化のためにノードだけを抽出し歴史として編纂する。編纂の過程で篩いから落ちたものは歴史には残らない。それをどういうスケールで行うかはまた別の話だ。そう。スケール。結局それだけのことなのかもしれない。物語のスケール。例えばグザイ世界での物語のスケールはどのようにあるべきか。どんな物差しを用意すればいいのか。ある一つの解ならばこう言えるかもしれない。「語り得るものすべてを物語に含む」と。もしかするともう少し細かく測ることが出来る物差しが今後登場するかもしれない。その時はまた別の解を考えなければならないだろう。

 また話は戻る。情報があるんだか無いんだかという話。だから言葉は声に出されればそれは音波なんだけど一定のパターンが存在する。その声のパターンに情報が存在するが中間的なパターンも少なからず存在しもちろん何も情報を認識することが出来ないようなノイズも存在する。だがここでぶつかるのが物自体の存在の話で存在自体が情報として存在するんじゃないかと言う話。だけど存在だけが認識されてもその中には何も入っていないから空っぽの箱がそこに置かれているみたいなメタファーになる。だから箱の中を確認しても中身がないし話が分からない。だが存在だけが異様に強調されたりするのでこちらとしては困惑した気持ちになる。段ボール箱を投げつけられた気分だ。いや現実はもっと物騒な物の投げつけあいかもしれない。平面的な情報を線形に変換し信号化するには数学が必要になる。自動的に変換してくれる機械が欲しいがなかなかそうもいかない。線形な情報を立体的に認識することは出来るだろうがこの文章にはそんな情報は一切込めていないから安心してほしい。だからこの文章を読むことに関して想像力みたいなものはあんまり必要ないだろう。だがグザイ世界がどんなところなのかはちょっと想像してみて欲しかったりする。いやそうでも無いかも。いずれにせよ一文字目から最後の文字までの線形情報を頭の中で処理するには結構な時間がかかるっていうこと。リニアな言葉の羅列から平方図や立法図を変換作出するっていうのは結構骨が折れるんだ。構成は数学的な対称性の元に行われ比率の悪い構成は美的だと判断されない。だが美的であることと数学的であることについての論考はまた別の場所で行われるだろう。

 歴史の定義に戻りたい。故意に編纂されたものが歴史であるのならばその他の物事はどうなるのだろうか。歴史の編纂者だけに持たされた神の如き篩と語られることの価値。戦争と平和。日常と非日常。価値ある情報だけが語られて些細な出来事は語られない。あるいは生存における本能的な警戒。物語の役目。語られることの規範と権力を前にして僕たちができること。だがそれにしても僕たちは画面の中を流れていく映像に対して無責任だ。それは遠い異国のこと、異世界のこと、あるいはもはやこの世ではなく、そのようにして描かれた世界は自分の住む世界とは乖離した、切り離された世界として映る。作り話なんだから仕方がないじゃないか、これはフィクションなんだ。もっともな話でそれはかなりの正しさを含む。むしろお話の中では簡単に人が死ぬし戦争が起こったりする。僕らは物語を通してそういった出来事を追体験するんだけどそれがフィクションであることはこの世での唯一の救いだ。あのお話はああだったねと後で笑いながら語り合うこと。だがそれが絶望の引き金になったりする。否応なく感じる他者性だ。言葉はこの曖昧な世界を切り分けるために生まれ言葉が生み出す差異が僕とあなたとの差異を生成する。そういうことは無用な対立を生むからやってはいけないというけどもしかするとそれが人間の本能なのかもしれない。終わりのない地獄みたいな世界の中でオアシスを見つけるのは至難の技だ。それはともかくとしてだ。表面的な歴史がある。その背後に隠れた歴史がある。またその背後には……。歴史の重層構造がこの世界の複雑さだ。この世界の物語すべてを寄せ集めたところでそれがどれだけ正確に人の世界を表すかは分からないがある意味でそれはたくさんの人の集まりだし物語は語り手を代表する。もしかするとさらにそれらを包み込む揺り籠が必要になるのかもしれない。世界は宇宙の揺り籠の中で揺れている。全てを包み込む概念が生まれた時人は何を思うのか。もしかするともしかするのかもしれないが、今はまだその時ではないのだろう。

 ある一つの会話を考えよう。次のような会話。

「随分時間が経ちましたね。休憩しますか?」女性の声が聞こえる。

「そうだね。少し休もうか」

 私はロボットに向かって答えた。

ここで喋りかけてきたのは女性型アンドロイドだ。未来の私たちの善きパートナー。になるかもしれない存在。例えば私が働いている間に日常の雑務をこなしてくれる。昔だとメイドと言うのが正しいのだろう。こうして機械が日々の仕事を担当するようになったのだが彼らは何を感じているのだろうか。彼らが行うのは労働である。人が労働を行うことには問題があるがこうしてロボットが担当するようになってからは「人」は文句を言わなくなった。ロボットが何も言わないということは彼らはその物事に対して何も感じたり考えたりしていないということだろう。だがこうして話していると彼らが心を持っているかのような錯覚を感じる。精緻な対話プログラム。あらゆる認識要素を組み込んだ線形代数的プログラム。マトリックスの要素は数えきれないほどだがそれらを並列計算できるのはやはりCPUの強みだろう。だが機械が線形変換を行ったとしても彼らが空間的な世界を認識しているかどうかは分からない。電子回路が二進数で表されるものなら彼らの世界は全て線形的マトリックスのようなものだろう。人間の五感のうちどれだけを機械に移植できるだろうか。答えはそれらのうちの何一つもできない、あるいは良くても一つか二つくらいのものだろう。ロボットは苦痛を感じないというのが彼らの強みだがその一方でロボットは心を持つのかという取り組みもなされている。だがロボットが心を持ってしまったらそれは人間と変わらないだろう。そうなってくると今度は社会がロボットを利用するだけでなくロボットを保護する形に動くようになってくる。度が過ぎるとロボット殺しの罪に問われたりもすることになる。バラバラに引き裂かれ叩きつぶされ鉄くずと化したロボットたち。配線は散らばりオイルは漏れ出し床一面に油の池を作る。共感という感情が人間のどこに備わっているのか分からないけれどもし床に散らばるそれらが人の形をしていたりあるいは別の形をしていたり。対話可能であることがもたらした悲劇。だがその時に何を感じるのかは何も分からない。メメント・モリ。死を忘れるなかれ。交通事故でぐしゃぐしゃにつぶれた死体に壊れたロボットを重ね合わせることの是非。心の測り方。心情の吐露。こっぱずかしくてほとほとできる訳がないと人は言うかもしれないがある一つの仮説。心について語るときにだけ立ち現れる何か。

 グザイ世界で心を測ることは難しい。高度に発達した存在である彼らは社会性を身に着けその場に応じた振る舞いかたをする。それは社交性と呼ばれる。社交性が発達した彼らは心を隠すことに慣れ表象だけでは心を測ることが難しい。だからそんなことは知ろうとはせずに表象だけを頼りに行動するんだけど時には相手のことも考えなければならなかったりする。そうしないと相手が怒ったり悲しんだり気分を損なってしまうのはどの世界でも比較的同じことらしい。言葉の進化と心の測りにくさに正の相関関係があるのかは知らないけど言語表現が複雑になるにつれて意味も複雑になっていく現象はあるのかもしれない。一文字一文字に意味があるわけではなく文字の組み合わせに意味が生まれる。だからそれは文字が点なら点と点を繋いで線が生まれるようなことで幾何学的な形態を持つことになる。幾何学が適用されグザイならば点と点の間の距離を測れるわけでつまりそんな感じで心の形を測ったりしているのである。尖っている、とか気持ちが離れている、とか。だけど心はそんな都合よくきれいな形には出来ていなくてもっとくしゃくしゃに絡まっていたり予測不可能な動きを見せたりする。だから図形にしたらきっときれいな形にはなってなくてもしかすると解析不可能な代物であるかもしれない。そんな状態だから心の測定と言うのはかなり予測が出来ない代物だったりする。もうちょっと高性能な測定器が完成すれば状況は変わるかもしれないが。でもまぁ生物的な勘と言うものがあって、スーパーコンピューターでもできないような計算を直感でやってのけてしまうようなのも存在する。そんなことが可能なら計算の役割は何なのだと言いたくもなるがあるいは人間にはそういう見えないものを感じ取るだけの能力が眠っているのかもしれない。第六感の発動にどのようなトリガーが必要なのかは未だ不明であるがそのような個体が観察されていることも事実である。

 世界には心と物質しかないのならばこの世はアンチノミーで満たされる。あるいはそれしかこの世界を測る物差しが無いのだろうか。心か物質かでは無く心と物質か。その志向性を決める規範は存在するのだろうか。心と物質と言うよりは人と物質と言った方がいいのかもしれない。目には見えない心の世界と目に見える物質の世界。断絶された二つの世界の物語。交わることなく発展した二つの世界は当然のように異なる文化を持つ。マクロな視点からすれば違いはないのだがミクロには違いがある。ミクロな差異が大きな災いをもたらしグザイとグザイ世界の人々は予見した。何故この世界が断絶したまま育っていったのかは誰にもわからない。グザイ世界の人々は断絶されていることにむしろ安堵の感情を覚えたがまたミクロな観点では何らかの大いなる意思が働いているのではないかと言う恐怖感があった。時折越境者が現れるのは世の常であるが彼らは異端と蔑まれ激しい差別の対象になった。恐らくそのことで戦争寸前までに争いが激化したのが断絶の原因だと分析する歴史学者も存在するがその真偽は未だ分かっていない。戦争と言う言葉の定義がどのようなものであるかは世界によって多少の違いがあるがより一般的な定義をすれば有形的な武力の行使による他者の排除だろう。銃弾が飛び交うような争いにならなかっただけましであるが対立の溝は深まるばかりであった。対立する世界に名前はなかった。発祥も出所も何もかもが不明だったからである。長く続く対立の中でグザイの人々はこの二つの世界をMとPと名付けた。

 歴史を語るにはいくつかの方法があるがここでは叙情詩と叙事詩に対象を絞りたい。だがこの二つを対立した概念として考えるには少し抵抗を感じるだろう。論理的には両者は排他的論理和ではなく連言的に両立する概念として捉えられるだろう。劇作と言う領域を覗けば現代までの物語の系譜を司るのはこの二つの概念であり、多少の種類や表現の変化は存在するものの現代で小説と呼ばれるものはいずれもこの二つの概念に当てはまるものだと言うことが出来るだろう。叙情詩は語り手の主観に焦点を置いたもので叙事詩はどちらかと言うと客観的に起こった物事を伝えるものである。過去から現在に至るまでに語られることには語られることに関してそれなりの理由を持っている。それは例えば人類にとって有益だとかそういうことだろう。だが物語をこのように規範的に捉えることでぶつかる障害がある。規範的になりすぎた物語はごく少数の物語のためにしか存在せず、篩から零れ落ちる物語が必ず生じるようになる。物語の歴史化を迎えた物語は一定の物語しか受け入れることが出来ず多様性を失い物語の硬直化をもたらす。歴史の中の文学か文学の歴史か。似ているように見えながら全く違う二人は破局を迎えお互いの距離を伸ばしていく。歴史と小説の境界ではかなり悲惨な戦いが繰り広げられているがそれも人類のメタファーなのと思えば仕方のないことなのかもしれない。歴史が人類の物語であり小説が個人の物語であるのならば両者の違いはどこにあるのだろうか。人の歴史は人の数だけあるがその全てを記述することは出来ないというある種の込み入った事情があるのかもしれない。だが小説が人の歴史ならばそれは記述する価値があるのかもしれない。こういったことについて語ることが少ないのはかなりの込み入った事情が存在するからだが物語は現在進行形で語られているし戦いは今でも続いていると記述するに留めておこうと思う。

 文学と規範。規範と文学。この問題の定義に語の順序は関係無さそうだった。規範は人間をコントロールする。人間の意識に規範が刷り込まれた時、人は規範に従いそれは意識レベルから人間の行動を左右させる。そういう目的のためだったらそれは文学とか法律とか言うカテゴリ分けは関係なく何でもいいのかもしれないけど時としてそれは物語の形式を持って立ち現れたりする。物語が人間の規範として成り立った時にどういったことが起こるかというのはあまり研究されていないような気がするが、あるいはそれは現在進行形で行われているのかもしれない。なかなかマッドな発想だと思う。だが物語は規範であることの他にアルゴリズムのような性質を持っていて他の可能性を考えず純粋に機械的に物語の展開をなぞるというのはいささか人間性に欠けるとも言えるかもしれない。規範は自分以外の存在を許さない。定義的に規範から外れたものはルール違反として処罰されることになるが果たしてその定義がこの世界のどれほどを包含しているのかというのは疑問に感じる点がいくつか無いわけでもない。小説という一つの定義から外れた存在は小説としての存在を認められず外宇宙へと向かうしかなくなる。物語的決定論の世界で生きるというのは時として大変な喜びをもたらすかもしれないがその反面大変な苦痛も生じうるということを心の隅に置いておきたい。人がシナリオをなぞるときにどのような快楽が生じるのかというのも科学的な定説が存在しない領域であるのかもしれない。それは毒にも薬にもなるようなものだ。

 だからもしかするとそれは旅に似ているのかもしれない。旅には危険が伴うが大きな喜びや発見をもたらしてくれる。旅行中の悲しい事故のニュースを私たちは時折目にするがそれと同じことがこちらでも起こっているのかもしれない。だがそれでも旅することをやめることが出来ないのは何故なのだろうか。自分の知らない世界に行き知らない情報を得て帰ってくる。そのことで得られる満足感より旅をする危険性の方が上回るならば自分の住処でじっとしている方がよほど快適なことだろう。これだと比喩ではなく旅に対する直接な皮肉のように受け取られるかもしれないがむしろここでは読書のことだと思ってもらいたいと感じている。旅と読書では危険性の見積もり方が違うのだろうけれど。そこから考えを展開させるに、文学界の危険地帯というものが生じるのかもしれない。文学界のエリア51と言うのがあってもいいのかもしれない。人が多い都市と少ない田舎。天に向かってそびえる高層ビルと蔦に埋もれた廃墟。開かれた場所と閉ざされた場所。立ち入り禁止区域。等々。それが良いのか悪いのかは分からないが人間の習性としてそう言った現象が起こりうる。この世界中を人々が行き来する時代はもう来ているかもしれないしまだかもしれない。最後には旅が消滅するのか。あるいはそこがこの比喩の限界地点なのか。

 文学の消失地点。因果の特異点。ブラックホールのようなもの。投げ込まれた情報は無限に引き延ばされるか圧縮されるかして全か無かとしてしか存在できない。この世の全てか何も無いか。この世の全てになることがどうして無になりえるのか。私たちはこの二重世界から永遠に抜け出せないのかもしれない。宇宙の中にいることがシュレディンガーの箱の中にいることと同じで宇宙の外と言うのは現時点では観測不可能だ。私たちは宇宙の中で二重の存在として生きている。生きながら死んでいるのは私たちの方で観測する者は誰もいない。この世界がどのような形で存在しているかなんて誰にも分らないのかもしれない。全なる存在になった時点であらゆる区別は失われ抽象的な存在となるが全の内容を区別しようとすれば再び差異が生じて全性が失われていく。だから全てであることはむしろ何も説明していなくて無と同じである。という詭弁。個別の束の集まりを全てと呼ぶのか束をまとめる紐のことを全てと呼ぶのか。常識的に考えればわかるのかもしれないが常識とは何なのか。果たしてこの懐疑主義に意味はあるのだろうか。

 一つの時代の終わり。文明は円熟期に入り人々の精神構造は変わっていく。数多の大戦を経た世界は人間でいえばおよそ何歳くらいであろうか。だがその引き延ばしにも限界が来る。成熟した精神がその後も変化するかと言うのはグザイ世界でも議論の的となっている。宇宙の終焉は計算上およそ十七億五千万年後と予測されている。現在の宇宙の年齢が百三十八億歳と予測されているので全体としてみれば宇宙はその生涯のほとんどを終えてしまっているという可能性がある。そのことを知って過激派集団が暴動を起こしたりもしたがグザイ政府によってすぐに鎮圧された。グザイ政府の体質は多少官僚主義的な側面があるものの公平性に重きを置いており政府の発表する政策及び人々の世界は安定した状態にある。それはさながら安楽椅子で終わりの時を待つ老人の日々のようでもあるが。生活が安定したおかげで戦争はなくなった。一部の過激派が活動しているようだが政府の政策により戦力はそれほどでもないようだ。退屈な毎日が続くと何かをしたくなるというのがグザイ人の生物的な性のようで愉快犯的に暴動を起こす集団もいた。彼らは普段は都市部の片隅にあるダンスホールにたむろしているようで退屈を感じるといたるところにちょっかいを出していて逮捕者の数も相当数に上っている。だが多様化したグザイ世界ではこのような出来事も世界の一部分での出来事とみなされ世界的な変動をもたらす現象とまではなってはいない。彼らにとってはそのことが更なる不満を生み出すようであるが銃火器類の流通が著しく制限されているため暴動は起こるもののクーデターとなるまでにはなってはいない。局所的に治安が悪くなる地域があり、他の地域との格差が問題となっている。平均的には平和そのものであり政府の支持率も安定した推移を見せている。社会現象の変動が少なくなった社会では人々の関心は大幅に文化へとシフトすることになった。そのおかげで数えきれないほどの娯楽が生み出されることになった。だが一方で消費のスピードも速くなったため新たな虚無感を生み出すきっかけにもなった。人それぞれで生まれた時が違うから生きている時間も違う。早く生まれた人間に遅く生まれた人間が追い付くための速度。アキレスと亀のパラドックス。ゼノンの矢のパラドックス。子どもたちは紀元前から現在までの歴史をなぞる。だがなぞる速度が制限されていたならば。生まれたての宇宙から二十一世紀まで。ビッグバン宇宙と十八世紀と二十世紀と二十一世紀が混在した世界。人々はそれぞれ異なった自分だけの時間を生きる。こうして秒速五センチメートルくらいの速度で言葉が増えていきそれだけ宇宙が膨張していっていることになるがその宇宙は一体どこに繋がっているのだろうか。言葉の増殖が宇宙の増殖ととらえるなら宇宙は情報である。メタフィジカルな情報宇宙の年齢と外宇宙の年齢。それらを比較したときにこの世は多元宇宙だと気づくのではないか。年齢の差は距離でそれらは埋めがたく険しい道だ。シナプスネットワークは道で暗闇の中先の見えないようなところもある。センターラインを頼りに進んではみるもののいつ終点に到着するのか終点が存在するのかさえ分からない。途中で帰りたくなるような道のりだ。だが空間的に戻ることは出来たとしても時間は今のところ不可逆的だ。時間と言う壁を乗り越えられない以上この道は一方通行だろうか。それはあまりにも当たり前に聞こえるかもしれないが。この高い壁はあまりにも残酷で人を死に追いやる病のようなものだ。時こそがこの世の限界であり誰もそのことに逆らうことが出来ない。物質が時間の法則に逆らえないのはこの世の法則であるが光だけは違う。この宇宙に充満し過去と現在と未来を見通せる位置にいる。だがおかしなことに光も理論的にはバイロケーショナルな存在ではなく矢のように突き進む存在だ。ある一点から伸びる光の線のうちどこからどこまでが過去で現在で未来なのか。だが光の先頭を行く粒子は運動し続けているわけだから何かにぶつかるまである一点に留まることはないのだろうか。


公理系について


  ξ世界=f(x)


 と言う関数があったとしてそれは何を表すのか。F(x)導関数の方程式を解き明かすためには公理系の限界を超えて眼前に広がる世界に向かわなければならない。だからここで公理系形成のためのアルゴリズムに突き当たることになる。この世界を方程式で完璧に記述するためには世界の隅々までもれなく方程式に盛り込まなければならない。もし少しでも記述漏れがあるとすればそれは完全な方程式ではないのだろう。それから尺度の問題がある。マクロ系とミクロ系の境界を定める必要。この世界をどれだけ詳細に記述すればよいのか。

だが連続で線形な関数の世界と直観的に捉える世界の形、つまりランダムで不規則で不連続で非線形なこの世界の姿は少し異なって見えるかもしれない。だからもしかするとこの公式は間違っているのかもしれない。この世界はカオスである。と言葉で説明してしまえば簡単なのだがただ複雑だと繰り返すだけだとすれば説明を放棄してしまっているのと同じなのかもしれない。

 それならば


 1/√2{v1|h1+v2|h2}


 と言う表現があるのかもしれない。これはつまりシュレーディンガーの猫で重なりあいエンタングルした世界を表している。と言うのは嘘で恐らくこの公式も何も表してはいないでたらめの公式なのだろう。むしろ作者の願望が入り込んでいると言った方が正しいだろう。だがこの世界には不確定な要素がかなりたくさんある。約束一つをとってもそうだ。約束が確定するまでに結論は自分の手を離れ相手の判断を待たなければならない。その間に宙づりにされた私たちは不確定性の中に飲み込まれている。だが二重世界も慣れればそれなりに楽しめるものだ。医者は分裂症との関連を疑うかもしれないがそれがこの世界なのだから仕方がない。だからずっとこのことからは逃れられないのだろう。だが不確定性もやがてアルゴリズムに飲みこまれるだろう。そこには導関数的な下部構造がある。私たちはもっと詳しくもっと親密に物事を考えることが出来る。そして時には不確定性を楽しむことだってできる。


そうだとするならば


 W={component|cはこの世界を構成するもの}


 と書くのがもしかすると一番いいのかもしれない。これはカントールですね。と言う。だがそれ以上に言い様が思いつかないのであるしこれがもしかすると限界なのかもしれない。言われれば当たり前のことじゃないかと思うだろうし、全てのことを言っているし何も言っていないに等しい。だから説明はこれからするってと言われても一向に説明が始まらないのだから仕方がない。WはWでそれ以上のものではない。じゃあWはどうやって生じるのと言うアルゴリズムしかない。記号が間違っていても答えが合うとき。それならメタ数学は可能かもしれない。表象が間違っていても意味が通じるしその意味が通じる理由はアルゴリズムかもしれない。ってすでにどこかで話したような話をもう一度繰り返す。だから

内容が無ければ話が続かない。記号操作と意味内容の間で揺れ動く蝶の群れ。後半のレトリックにどれだけの価値があるのかは分からない。この話も記号の連なりでしかないしあるいは編集物なのかもしれない。だが世界が記号の集まりで造られているならその記号をいくらか体系的に説明することは可能だろう。それが自然なのか人工なのかは分からないが。

何かを言っているようで何も言っていない。この世界の全てを一つにまとめようとすると言葉を失ってしまう。世界は細部から成り立っており一つの集合体が世界である。その区切りをどこに求めるのかはまだ誰にもわからない。一つまた一つと部品が継ぎ足されていき世界は日に日に拡大していく。


 *こうして君はこの帝国の全てを語る手段を手に入れた。後は何を語るかは君次第だ。それは君の自由なんだ。


 この話もここで終わりを迎えるだろう。一定の速度で増殖を繰り返していた言葉たちはここで距離を延ばすことをやめる。


「散逸する言葉たち。こうしてまた一文字に戻る」


 ガガッザザービー


 ここで通信文は途絶えている。


「以上がグザイ世界調査員からの通信文です。ところどころ内容に真偽不明なところがありますが」

「そうだね。それから意味の間違いを取り繕うための訂正文的なあと語りもやめた方がいいんじゃないかな」

「あぁ、ばれちゃいましたか」

「あまり真偽不明な文章を書くとほら吹きおじさんの称号を与えられるぞ」

「いやむしろそれ以上にひどい言葉で罵られるに違いない。間違いない」

「まるで毒杯を仰いだソクラテスのようだな」

 耳元で通信ノイズが鳴り響いた。鼓膜がダメになるようなものではなかったけれど。二人の科学者はどこかからの電波を受信する箱を目の前にして考え込んでいた。だがたった一文字の記号がこの宇宙の全てを表すとしてもその記号を受け取った側はその記号を正確に解釈できるのだろうかと科学者の一人は考えた。もし分からなければその記号は一生誰にも理解されることなく宇宙を漂う小惑星のようにただぶつかる時を待つばかりになるだろう。それでもいいかと科学者は考えた。誰にも理解されず孤独な小惑星のようになってもそれでもいいかと。とにもかくにも虚無感を覚える話だった。科学者はため息をついた。

 記号に対する意味付けが任意だと言うのならばこの世界の犯人は私でありあなただ。そのどちらでもあるしそれ以上の言葉はもう必要ないだろう。その先には険しい道が待っているだろう。私にとってもあなたにとっても。覚悟をしなければならない。だが創り出すのも私であるし壊すのも私だろう。この世界での健闘を祈ろう。グッドラック。


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 そしてその話を見てナンセンスだと思う人がいる。ナンセンスだからそれを誰かに話すようなことは無くて、そこで話のつながりはぷっつりと切れてしまう。ナンセンスな話を語り継ぐ者はいない。それがコメディなら別かもしれないが、コメディにすらならないナンセンスはどこにも行けない。そんな文学的ガラクタを集めては繋ぎ合わせ、そしてまた分解する。ナンセンスな企みのナンセンスな営み。ナンセンスの歴史のナンセンスさ。

 全てが無意味になるような虚無の中に身を委ねても生まれて来るのは虚無だけで虚無は虚無しか生成しない。

 0+0=0はどうやら普遍の法則らしい。何もないところに何もないものを足しても何もないままなのを改めて実感させられるが、計算はしているのかもしれない。

 その中の全てだ、と言って見ても、それは見ればわかることだし、同語反復なのだろう。それはそれ、とか、これはこれ、と何も変わらない。ある枠に名前を付けただけだ。名前を付けるための規則が全くの自由なら、そのことについて語るのはナンセンスだし、ナンセンスはナンセンスだ。

 永遠に堂々巡りをしそうな気がしてきた。同語反復について語るのは同語反復でそれについて言及することもまた同語反復で、永遠に同じ言葉を繰り返しつぶやいているような気がした。

 

 言及の定義:

対象を言葉で表すこと。言葉とそれが意味するものの関係でもあるいちばん分かりやすいのは固有名詞(例えば「ソクラテス」とか)だが、普通名詞(「砂」「ヒョウ」)も物事のタイプや複数性を表す。「キャンプに持っていくもの」のようなその場限りのカテゴリーも言及できる。頭の中で考えるのにも言葉を使うという点で、言及は思考によって成り立つとも言える。指差しや頭を振る、片方の眉を上げると言った仕草でさえ、何か物事を示している。他方、定量化(「いくつか」「すべて」「どれも」のような言葉)は、思考と言葉が物事を表し、世界について、その内容やあり方について説明できるようにする、明確だが関連する現象である。



 「何もない」ことについて書かれたことがあっても、それは無意味では無く、「何もない」ことについての言及である。何についても言及しない表現は無意味であると言えるが、果たして何も言及していない文とはどのようなものだろうか。


「この言葉は言葉について言及しています」


こんな標識がある。「これは言葉です」という標識には意味がある。だがAはBの元であることと、A=Bの違いがいまいちわからない。言葉に関する言葉は本来の言葉よりも広い概念なのか。だとすれば、言葉の構造全体がモジュール構造になっていると予想できるが、その始まりと終わりの区間はやはり見えてこない。

 それとも、言葉に関する言葉は言葉に対する射を持っているだけで、お互いは互いに素の関係にあるのかもしれない。

 そしてこの話が宇宙の大きさの話と酷似しているのは気のせいなのだろうか。

そういう相似構造が生じることはよくある。というか、自然に表れるのは相似構造が多い。設計図の量を減らせるからだ。少ない情報量でより多くのモノを作り出そうとすると単純で強い形の連続になることが多い。同じ形を何度も作り出すだけで、サイズの違いがあるのはどういう理由なのか。

だが不思議なのはその情報処理を何処が行なっているのかということだ。ミトコンドリアなど。生物の設計図は遺伝子の中にあると言われている。だが無機物でもこの様な現象が生じているだろうか。人間、動物、植物、鉱物…。鉱物にパターンが生じるのは時間の流れに応じて堆積していくのだが、これも単純に、時間(n+1)のパターンに近いと考えられる。

話が逸れた。言葉に相似形が生じるということは少ない情報量でより多くの情報量を扱おうとするからだ。少ない情報量で多くの情報を表そうとすると、例えば1の記号で全を表すのが極端な例と考えられるが、それはむしろ「その記号をそう読む」という様なルールであり、その様なルールが記号自体に内包されているとは言い難い。これは極端な例だが、経済性を重視しすぎだということだろうか。何かを言っているようで何も言っていないという教訓だろうか。

言葉にとっては、言葉自体よりもメタ情報の方が重要だという立場が考えられる。その言葉が誰によって、誰に対し、どういった状況で、どういった目的で、といったことのような。そのメタ情報が不明確な状況なので、人は苦労するのだ。

単純な手法として、シンプルな構造を作り、それを何度も繰り返すということ。計算するのは最初だけで、あとはひたすら作って行くだけになる。そうして出来上がったものは最初の構造と相似形だろうか?

最初の計算に時間をかければ、後にかかる時間は少なくなっていくだろうか。だが世の中なにが起こるかわからないものでそう都合よく話は進まないだろう。そしてこの手法がどれだけ普遍性を持っているのかというのもあまり話したくはない。


「私は今日この文章を書きます」

「私は昨日書いたこの文章の続きを今日も書きます」

「私は昨日書いたこの文章の続きを今日も書いて、あしたも書きます」

「私はおととい書いたこの文章の続きを昨日書いて、今日も続きを書いて、明日も明後日も…」


単純でシンプルな積み重ねがやがて大きな何かになる。行為はブラックボックスで、外から見てもよく分からない。まさに関数のようであるが、そういう風に言うのは気持ちが憚られる。関数はどういう計算をしているか教えてくれないのではないか。

話は小説もそれでいいのではないかという話に還元される。

いや、良くないだろう。それでもいいのかもしれないが、それではダメだろう。小説というのはある一定のルールに乗っかって書かれているはずで、そのルールを逸脱すればそれはもう小説とは呼べないはずだ。だとすれはこの文章は「自分自身が無価値なものです」と自白しているようなものだろう。

それでいいのだろうか。

小説には登場人物がいて、セリフを話して、行動をして、何かを感じるといった一貫したルールがある。それがこの紀元後役2000年の間で育まれてきた小説の形だと考えれられる。なんだ、少ないルールで成り立っているんじゃないかと思う。この基本ルールさえ守ればあとは自由だとも考えられる。ある種の極論である可能性もあるが、何をやってもいいとさえ言えるかもしれない。

以下に基本要素を書き出してみる。


1、登場人物

2、セリフ

3、動き

4、感情

5、その他諸々

(2018年6月16日 土曜日)


これだけ? ではストーリーは何処から生まれるのか? それはこれらの要素が因果関係を持っているからと考えられる。個々の要素がお互いに関連しあい、時系列が生じ、流れが生まれる。その流れ方に個々の違いはあるかもしれないが、基本的な部分は同じだと考えれらる。作者によって単純を好んだり、複雑を好んだりするが。

このストーリーというのはテキストから一段抽象の存在になるのだろうか。たとえば、日常生活を送る上でテキストがない場面でストーリーを感じることがあるが、それによってテキストとストーリーが別次元の存在だということが言えるのか。あるいは現実世界の記号トリガーによってストーリーが再現されているのだとすれば、これは空虚な仮説に終わってしまうことになる。

またもう一つの問題として、これはテキストの枠組みの中だけの話になってしまう可能性がある。つまり作者がどういった人物であるとか、どういった時代に書かれたとかの情報ではここでは捨象されることになる。それらの情報を組み込むことによってより多くの理解が得られるかもしれない。確かに正しいとはいえるが、それもまた楽しみ方の一つであるとの反論が考えられる。だがそれはテキスト解釈にゴシップを持ち込むようなものだと言われるかもしれない。だが今はそういう時代に入ってきてしまっているのだろう。現実→テキスト→認識の相互作用の中でその情報がどのように作用してくるのか今後の経過が期待される。


試しに実験をしてみる。

あるところにA子さんがいました。

A子さんは幸せそうに暮らしています。

ある日の休日、A子さんは散歩に行きました。

A子さんは人とすれ違って「こんにちは」と言いました。

A子さんは道端に小さな花を見つけました。

A子さんは綺麗だな、と思いました。


1、人物 A子

2、セリフ 「こんにちは」

3、動き 花を見つける

4、感情 綺麗

5、その他諸々 なし


まだまだ改良の余地がありそうだと思われる。もう少しルールを増やすべきだ。これだけではやはり物足りないので、記述を増やすべきである。何の記述だろうか?

小説に必要なのはやはりレトリックなのだろう。要はレトリックのルール。

どこかで聞いたジャガイモ理論が思い出される。その実践についてはまたどこかでやってみようと思う。


ふとしたその時、耳元で悪魔が囁く。

「ほらもう、見る目がないだろう?」


インザムード。そのためのコード。だからこの話はここでおしまい。実験を続けようか。




あるところにA子さんがいました。

A子さんは幸せそうに暮らしています。

A子さんは一人暮らしでしたが、そのことに不自由さは感じていませんでした。

ある日の休日、A子さんは散歩に出かけました。

A子さんは人とすれ違って「こんにちは」と言いました。

その人は近所に住むおじさんでした。

それから、A子さんは道端に小さな花を見つけました。

その花はたんぽぽでした。

道端に揺れているたんぽぽを見て、A子さんは可愛いなと思いました。

そう思うことは普通でしょうか。

ある人はたんぽぽなどに気づかず素通りしてしまうかもしれません。

偶々、A子さんがたんぽぽに気がついただけかもしれません。

それに何の意味があるかって? わたしにもよくわかりませんが。

A子さんがたんぽぽを見たというのは紛れも無い事実でしょうし、

それを見てA子さんが思うのもどうなのでしょう。

まぁ細かいことはいいですが。


想像力も問題になるかもしれません。

この場合、読む側と、テキストの側、またそれを書いた側のどちらに問題があるのでしょう。

結局テキストも読まれはするが、読者の事を拒んだりするのかもしれません。だからと言ってその言葉使いをやめろというのも難しい話です。

言及の対象を厳しく見るのならより厳密な言葉遣いをしなければならないかもしれないですし、その言葉を使わざるを得ないというような状況になるかもしれません。

そしてこの場合内容の難易度と、言葉の難易度を分けることができるのでしょうか。

果たして、簡単な言葉使いで、難しい内容を説明するというようなことができるのでしょうか。

こういった踏み込んだ内容まで話すのはあまり得策とは言えなさそうです。

何しろ作品にはオーラが必要ですから。なんだかよくわからないと言った神秘的な部分が作品の良さを引き立てたりするものです。

もしかすると根本的に向いていないのかもしれません。

完全性の問題など面倒すぎてやっていられないと思います。

言語の完全性あるいは完備性など誰が証明してくれるのでしょうか。

辞書に載っている言葉で満足すべきでしょうか。

果たしてこの営みに意味はあるのでしょうか。


このお話はもうおしまいです。私ももうおしまいです。

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