痛みはいつか過ぎていきます

榎良

痛みはいつか過ぎていきます

木漏れ日の柔い温もりが肌に馴染んでいく夢見心地に浸りながら、二人は並んで切株に腰をかけていた。


風が青々とした空気を伴って頬を撫でる。煽られた落ち葉が足元に引っかかり、一人がそれをしわがれた手で拾い上げる。


「また会えるとは思っていなかった」


指先で落ち葉をくるくると回し、懐かしさを含めた言葉と共に一人は彼女を見た。


「だいぶ、時間がかかってしまいました」


しばしの沈黙を置いて発せられた声は、擦り切れるように乾いていた。二人が視線を交わすと、再び沈黙に飲み込まれる。

一人は俯き、一人は携えた落ち葉を仰ぎ見ていた。


「あなたは何も変わらない、まるで時間から切り離されたみたいに、いつの間にか、わたしも追いついてしまって」


口火を切ったのは彼女だった。その幾重にも重ねた時間を噛み締めるように、老いた自分の手に薄く開いた目を落としている。


「終わりはいずれ来る、私も、君も」

「あなたが、それを言うんですね」

「長く生きていても、退屈な日々の方が多かった、それこそ、いたずらに年輪を増やしただけの、根無し草だよ」

「結構ですよ、生きてさえいれば」


彼女がわずかに頬を緩ませた。もう一人もつられて微笑む。辺り一面ではそれぞれが異なる色に発光する小虫がいくつかの隊列をなし、薄暗いこの場所に極彩色の水滴を垂らしたような幾何学模様を空気中に漂わせている。


華々しい景色を瞳に映した彼女は、首を浅く回しながら精一杯の仰々しい身振りでそれを言った。


「周りにあるじゃないですか、退屈じゃないこと」


その情景を二人で共有することはありふれた日常の一部だった、それが長年を経てようやく実現したという巡り合わせによって、お互いの視界に広がる彩りは以前よりも鮮明に映えていることだろう。


何度目かも分からぬ静寂。会っていない期間と言葉を交わしていない期間が平行線上にある二人は、初対面よろしくぎこちなさで間合いをうかがっていた。


それでも、一人は意を決して口を開いた。


「なぁ、エノラよ」

「どうしました」


聞き慣れた声で名前を呼ばれた彼女は、意表を衝かれたように聞き手の表情を取り繕って振り返る。


体が衰えているにもかかわらず、足労も厭わないで、森から出られない一人のもとへ赴いたという状況からしてみれば、その素朴で純粋な疑問が過るのは必然だった。


「君が、ここへ来たということは?」

一人はそう言いながら、指先で摘んでいる落ち葉を彼女に差し出す。


問いかけを受け止めた彼女は落ち葉を手のひらに寝かせて、郷愁なのか哀切なのか朧気な感情を面持ちに浮かばせていた。しかし、彼女は言い淀むこともなく滑らかな口回しで真意を語る。


「わたしは長く生きました、十分過ぎるほどに、たくさん。きっと、死の間際に悔いることもないでしょう。そして、今わたしを知る人は、あなたを除いて一人もおりません」


だから。


次の言葉を聞いた時、男はある少女の面影を脳裏に浮かばせていた。



※※※※※



「痛みはいつか過ぎていきます」


今にも消え入りそうなほど薄命に見える少女が口にしたその一言は、今でもこびりつくように記憶している。


私はいつもこの開けた森の一角に鎮座し、付き合いの長い虫たちと戯れたり、近辺の村々を遠目で観察するかの惰性的な日課が常である。枝葉を伸ばす範囲も限られているので、それ以上先に視界が及ぶことはない。最初のうちは空の移ろいを木の幹に書き留めたりもしていたのだが、虚しさに負けてしまって続くことはなかった。命の営みと育みを片隅で案じるささやかな慈愛が、私に唯一できる精一杯の生き方だった。


そしてある日、木々の間から平凡な空を悠然と眺めていた時に、その出会いは突如として訪れる。


突風が草木を激しく揺らし、長く伸びて見窄らしくなった白髪が翻る。私は息ができなくなり、咄嗟に両手を泳がせた。

やがて風の勢いは引いていき、呼吸を落ち着かせて塞いだ目を開ける。


「……あ」


左手に乾いたような感触を覚えた。割れ物に触れる慎重さでゆっくりと握っていたものを覗き見る。


それは、ひとひらの落ち葉。

私はそこで再び息が詰まった。


飛ばされる落ち葉を掴み取った偶然性から来るものではなく、落ち葉の向こう側で一人の少女が木の幹に背を預け、静かな眼差しでこちらを見据えていたのだ。


少女と目が合う。反射で目を逸らす。


人々の生活を一方的にうかがうことは多々あったが、実際に会うのは初めてのことだった。恐るおそる視界を戻すと、少女の視線は揺るがず私へと向けられている。表情は少し惚けているようにも見て取れた。


「もしや、私が見えているのか?」


あくまでも冷静を装って呼びかける、少女の表情は依然として変わらない。一帯は水を打ったように静まり返り、そよ風が二人の間隙を埋めていた。


「誰かとお会いできるとは、思っていませんでした」


返ってくる言葉には、玲瓏で涼やかな声色を持つ濁りのない美しさを湛えていた。

乳白色の髪色に純白のワンピース、上にカーディガンを羽織った容貌は、幼気でありながらも奥ゆかしく、それと同時に、そこはかとなく破滅的な側面を持ち合わせている印象を受けた。それが正しい形容かは分からないが、人形のように精巧な佇まいだった。


「見かけない顔だが、この辺の子なのかい?」

「ええ、あまり……外へ出ないので」

「迷子ではないのか?」

「少し、歩き疲れてしまったんです」

「どうやってここまで来れたんだい?」

「とても綺麗に光る虫を見かけて、後を追いました」

「一人で帰れそうかな?」

「心配には及びません、お気遣いありがとうございます」


手探りで少女との対話を試みる。言葉を発しては口を噤み、間隔を見計らって再び言葉を発する。要領を得ない一問一答がしばらく続く中、少女の方から私への問いかけがあった。


「あなたの方こそ、この森の奥で何をされていたのですか?」

「私か? 私はただ、ここで見守っているだけだよ」

「神様……みたいなものでしょうか?」

「大それたものではない、せいぜい妖精がいいところだろう」


至って純朴に告げると、無機質な少女の頰がかすかに緩んだ。いや、実際には定かではなく、そう見えただけなのかもしれない。


「もし良かったら、名前を聞いてもいいかい?」

なりゆきで尋ねようとした私の誰何は、肺の中に留まり吐息となって口角から漏れた。


遠くから鐘の音が聞こえてくる。

一つ。

二つ。

三つ。


遠くから鐘の音が聞こえてくる。

一つ。

二つ。

三つ。


重々しくけれど澄み切った一糸乱れぬ鐘声、その甘美な心地よさを意識の隅にやりながら、私は少女を見る。


眼前の小軀はどういうわけか身を屈ませていた。か細い呻きと震える肩。真綿のような白い肌に汗を滲ませ、華奢な体を揺さぶって自らをなだめている。


「だ、大丈夫か?」


慌てて少女に歩み寄るが返事はなかった。何が起きているのか皆目見当がつかない私は、そんな素っ頓狂な言葉をかけることしかできない。少女は湧き上がる吐き気を抑えるためか、口元を手で塞いでいる。しかし、指の隙間を通って押し出される空気はしとどにこぼれていた。入れ替わるように私は少女の背中に触れ、苦しみの奔流が過ぎ去るのをかたわらでひたすらに待つ。


「ごめんなさい、もう行かないと」


おもむろに振り仰いだ少女は、白銀の睫毛を瞬かせて立ち上がる。私はその時ようやく、少女の背負う業の一片を把握する。羽織られたカーディガンで気が付かなかったが、少女の左腕は肘から先が欠けていた。少しばかりの余念を過ぎらせつつ、私は少女を見送ることに専念する。


「あいにくだが、私はこの場を離れることが出来ない、虫たちに案内をさせる」


人差し指で円を描くと、それを合図に周囲の茂みの中から種々の発光体が次々と浮かび上がる。きらびやかな装飾をまとった斑点はいくつもの光芒を走らせ、意思を持ったように胎動しながら宙を優雅に大挙していた。


「また、来てくれないか?」

出会いのきっかけとなった落ち葉を、少女に差し出す。


今言えることではないのかもしれないが、年端もいかない少女の苦痛に歪む表情、触れるとたちまち溶けていく粉雪のような儚さを目の当たりにして、見過ごすことなどできるのだろうか。それは、果てしなく長い時間を生きてきて初めて抱いた感情だった。


少女は手渡された落ち葉を見るや否や押し黙る。戸惑いなのか、ためらいなのか、それは知る由もない。先ほどの発作が尾を引いているのか、少女の額はまだ汗で潤っていた。


「ええ」


息を吹くようにかすれた声でささやき、今度ははっきりと聞こえる声でそう繰り返す。良かった、と安堵に胸を撫で下ろして、再び虫たちに合図を送った。


「次に来る時は、森の中で『アルフレード』と口にしなさい、そうすれば、虫たちが安全にここへ連れてきてくれるだろう」

「アルフレード……」

「私の、名前のようなものだ」


そう言うと少女は浅く会釈をし、仄暗い森の中を照らす虫たちの先導に従っていった。



※※※※※



しばしばではあるものの、彼女は私のもとを訪れるようになった。


ここへ来るのは決まって夜明けで、正午の鐘が鳴るとすぐに帰っていく。そんな渡り鳥のような往来を、代わり映えのしなかった日々における唯一の楽しみとして、毎日を待ちぼうけていた。私は会う回数を重ねていく度に口の動かし方を覚えていき、一方で彼女の口数も少しずつ増えていった。


けれど、彼女には愛想笑いを浮かべるほどの余力は残っておらず、以前に見せた発作に苦しむ姿も何度か目の当たりにしていた。掬えるほどに弱々しい彼女の悶える様子を、断腸の思いで見ていることしかできない自分の不甲斐なさをいたく痛感する。虫たちと対話することはできても、魔法を使えるわけではなかった。


「幻肢痛……?」


馴染みのない言葉の連なりに、私はつい腑抜けた疑問符を浮かばせてしまう。断端部を服の上から抱擁するように撫でている彼女の青い瞳は、わずかばかりの暗がりを帯びている。


「ないはずの……体の一部、腕が、手首が、手のひらが、指先が、そこにあるかのように、痛むんです。ぐじゅぐじゅ、びりびり、ひりひり、ぷちぷち、どくどく……わたしでさえも、よく分からないままです」

「今も、痛んでいるのか?」

「はい、少し………。ぼんやりではありますが、形も捉えています。いくらか力を入れることも……喪くした左腕は、確かにここにあるんです」


無表情のまま訥々と語る彼女の声は、冷たく重い。


「君のことを知っている人は、周りにいないのか」

「気にかけてくれる人はいても、向き合ってくれる人は、いなかったと思います。まるで、壊れものを見るような……その気が無かったとしても、善意を装った好奇の目が、視線が、どうしてもわたしには、刺さってしまうんです」


私も彼女のことはもっと知りたい。しかし、その行為が、傷口を抉って無理やり吐かせることと同義ならば、それ以上言及することは野暮ったく感じる。


彼女の抱える痛みを理解することは、到底できない。分かち合うこともできない。同情する資格すらも、私にはない。哀れみを向けても、それは彼女のためにならない。私が彼女の心の門を叩ける日が来るとすれば、それは彼女と同じ境遇に立った時しか成し得ない。それ以外の全ては、ただの無責任であり、ただのお節介になる。


口に出すことはないが、それでも「代わってあげられたら」と今まで何度思ったかは分からない。その小さな体で背負っている一切を、ほんの一部でいいから、私にも分けてほしいと矢も楯もたまらない限りだった。痛みを軽くすることは叶わないが、苦しみを和らげることはできるかもしれない。


「綺麗事を言うつもりはないが、君の傷が癒えることを願う」

「……痛みはいつか過ぎていきます、時間が全てを連れていってくれるんです、遅かれ早かれ」


風になびく彼女の横顔が、肩まで伸びたヴェールに包まれる。表情はうかがえないが、声色は相変わらず冷めていた。


私は最初その言葉をそのままの意味として飲み込んだが、文脈の最後に置かれた一言で察する。


彼女の持つ痛みは、限りなく無実である。この無垢な少女にどのような科があって、これほどの災いを背負わせたのか。彼女は決して死ぬことを望んでいない、いずれ終わりが来るその瞬間を想望して今を耐え忍んでいる。果たしてそれが意地なのか諦めなのかは彼女だけが知っている。だからこそ私はやるせなかった。それでも彼女の生き方を尊重し、寄り添うことがやぶさかでないことは確かだったのだ。


そして、慈しみを込めた私の行動は仇となった。

彼女の断端部に触れようとして、指先がかすれたそのとき──。


「痛っ!」


彼女は甲高い声を上げると、衝撃を受けたように上体を跳ねらせて腰を丸める。色白の肌を小刻みに震わせ、喘鳴と呻吟がわだかまる。急な出来事に興奮したのか、周囲の虫たちはひしめき、うごめき、激しく明滅していた。


自分の手で痛みを激化させた罪悪感に咎められた私は、彼女を気にかける言葉さえも思い浮かばず、呆然とその場に立ちつくしてしまう。杓った小鳥を勢い余って握りつぶしてしまったような、命の重さを見誤った迂闊さに、ただただ打ちひしがれていた。


遠くから鐘の音が聞こえてくる。

一つ。

二つ。

三つ。


遠くから鐘の音が聞こえてくる。

一つ。

二つ。

三つ。


折悪しく、彼女を呼びつける時報が彼方で響き渡る。その整っていて清らかな鐘声が、今だけは雑音に思えて、自分自身に憤りを感じてしまう。


過呼吸に身悶えする彼女は、深く息を吸い無理やりにでも呼吸を整える。報せを受けて間髪いれずに立ち上がろうとするが、ふらふらと安定しない体幹は彼女を薄く生い茂る地面へと引き寄せた。私は我に返る。


「すまなかった」


両肩を受け止めて背中を支える。良心を損なって眉をひそめる私に、彼女はただ一言。


「大丈夫です」

と、重怠さを含ませた言葉だけを残し、おぼつかない足取りで去っていった。


その表情は白糸の髪で覆い隠されて確かめることはできない。私は後を追うように、虫たちを彼女に付き添わせた。

一条の虹が輝かしい線を描いて、その先の道を示していく。


「私は、君の味方だ」

体に残るありったけの勇気を捻出した一言は、既に遠くなった彼女の背中に届くこともない。



※※※※※



それからしばらく、彼女はここに来なかった。


胸にぽっかりと穴が空いた気分だった。遥か昔から続いてきた生涯の中で、彼女という存在が、ほんの一抹の彩りが、私の心を豊かにしていたことを鮮烈に実感していた。浅はかな行動一つで、築いてきた関係はたちまちに壊れていく。別れ際の彼女にどんな感情を抱かせてしまったのか、それを知ることができなかった後悔は、今日まで長く波紋を広げている。


私は待ち続けていた。

あくる日も。そのあくる日も。

じっとしていることは、皮肉にも苦にならない性分だった。


日は昇り、やがて沈んでいく。それがどれだけ繰り返されたかまでは数えていないが、数え切れないほど見届けたことは違いない。


そして、幾日が過ぎ、渡り鳥は帰ってきた。

ある日、茫然自失としている私の視界に、ひとひらの落ち葉が割り込んでくる。


「……どうも」

「ああ」


雪のようにきめ細かな衣装を身にまとい、木立の隙間から差し込む日の光は血の気の失せた柔肌を更に白く染め上げ、それは病的でありながらもこの上なく美しい。紛れもなく彼女はそこにいた。


「先のこと、なんとお詫びすれば良いのか」

「いえ…分からなくて、当たり前なんです、当然なんです……そんなに気に病まないでください」


うなだれる私を見かねたのか、逆に気を遣わせてしまったことにいたたまれなくなる。

私は落ち葉を受け取り、彼女はそのまま腰を下ろした。


「やっぱり、今も感じているのか、喪くした腕を」

「……はい、痺れているような、少し膨らんでいるような……不思議な、感じです」


向かい合う彼女は例に漏れず気怠げな様子で、カーディガンの上から断端部へと指を這わせ、優しい力加減でさすっていた。


お互いの言葉が早くも行き詰まる。木々の擦れ合う乾いたさざめきが、私たちの間を縫うように長閑な世界を演出していた。どうにも落ち着かなかった私が、会話の糸口をつかむために「あの」と発したとき──。


「この腕、事故で喪ったんです」

彼女は言下を継ぐように言葉を被せてきた。


「乗り物から投げ倒されて……対向から来た車輪に踏まれたんです。気づいたら、わたしの左腕はちぎれていました、それこそ、本当に、ものみたいに」


私は開きかけた口を閉じ、聞き手の姿勢をとる。その彼女の語り口は、これまで耳にしてきた中で、最も滔々としているように思えた。


「わたしの住む家は由緒ある名家だったのですが、このことがきっかけで、両親は、もともと病弱でもあったわたしのことで喧嘩をしてしまって……のちに屋敷と、わずかな執事だけが残されました」


枝葉に身を潜める虫たちは華やかな光彩を放ち、木漏れ日が降り注ぐ暖かな陽気の中に紛れている。この子たちも、彼女のことを気にかけているのだろうか。


「痛みが出始めたのも、この時です、今は遠縁の叔母が面倒を見てくれています」

「義肢という選択を、後見人は考えてくれなかったのか?」

「ただでさえ、腫れもの扱いでしたから………でも、可能性があったところで、それは…駄目なんです、それだけは……」


彼女は神妙な面持ちで首を横に振り、否定の意を示す。


「痛みが消えてほしいと願ったことは…何度もあります。でも、無くなるということは、このまやかしの腕も、同時に喪うことになります。わたしにとっては……痛みが一緒についてくるだけで……以前と何ら変わりは、ないんです。それを本当の意味で喪ったとき、片腕はおろか、今度は、自分自身を…見喪ってしまいそうで」


彼女の声は途切れとぎれで、言い終わると徐々に上体をたたませた。きつく噛み締める唇からは生ぬるい息を漏らし、にじり寄る痛みを受け止めている。


「ごめんなさい…………意識をすると、どうしても…疼くんです」

「もう、古傷には触れなくていい」


彼女はいま自分の身の上を吐露してくれたが、恐らくこれまで受けてきたおびただしい冤罪の仕打ちは、他の人が束になって罪過を差し引いたとしても、彼女を免罪することはできない。なぜなら彼女は、無罪の痛みに苦しんでいる。孤独と濡れ衣と喪失に縛られている目の前のか弱い女の子は、その受け皿になる決意を既に背負っている。救いたいというような美辞麗句は言わない。私はあえて、一つの疑問を投げかけた。


「先の会話で君は言っていた、痛みはいつか過ぎていく、と、それで…いいのか?」


静かな時の流れが漂う。彼女は無言のまま、何度か小さくうなずいた。


「考えに、悔いはありません、本当に怖いのは、死の間際……息を引き取るその瞬間に、手を握ってくれる人が誰もいないこと…………でも、わたしは、人を心から信じることが、できずに、います」


内側で暴れる痛みが目の端からあふれている。苦し紛れの返答だった。「彼女をこれ以上、傷つけないでくれ」と、どこに届くこともない懇願を胸の内に秘めながら、私は気取られないように平静な顔で彼女を見つめる。息も絶えだえの彼女は、しかしそれでも、沸き立つ苦痛を押しのけるように声を振り絞った。


「だから、あなたが落ち葉をくれた時…わたし、すごく嬉しかったんです、左腕を喪った意味を、ようやく見出せたような………気がしたんです」


耳を傾ければようやく聞こえるぐらいの声音。それはほぼ、ささやきに近い。


私の想いとは裏腹に、混じり気のない心からの言葉と、初めて見る、彼女の精一杯の微笑み。光が透けるほどの冷艶な容貌は、青空を鏡で写したように澄み切った碧眼を際立たせている。私は、その脆くも芯の通った彼女の強さに、尊敬の念を抱かざるを得なかった。


「そうか、そうか」

「良かったです、あなたに話せて」


誰かに存在を認められる多幸感と、儚くも健気な振る舞いへの慈悲。彼女の痛みを伴う告白にどれだけの勇気を必要としたのかは、凡庸な生き方に徹してきた私の思惟では、とても及ばない。しかし、彼女は勝ったのだ。それだけは明白だった。私もその気持ちに応えようと思った。


「私はこれまで、ただ与えられた寿命を消費することばかり考えていた。無為に樹齢を増やしていくうちに、私は…決定的な、そう、言うならば、右腕を喪った気がしたんだ。そんなときに現れたのが、君だ。誇りを持って生きる君のような人と出会うことを、ずっと望んでいたのかもしれない。礼を言わなければいけないのは、私の方だ」


落ち葉を彼女に返す。痛みの肩代わりはできない。だが、言葉を使わなくても約束はできる、また来てほしいと。


遠くから鐘の音が聞こえてくる。

一つ。

二つ。

三つ。


遠くから鐘の音が聞こえてくる。

一つ。

二つ。

三つ。


鐘が打ち終わった後も、彼女はゆっくりと時間をかけて呼吸を落ち着かせてから、ようやく立ち上がる。私は遠巻きで見張り番をしてくれていた虫たちに黙って号令を出した。


「エノラ………ニコラバート」


彼女が去り際につぶやいた一言が何を指した言葉なのかが分からなくて、私は思わず首を傾げる。


「わたしの、名前のようなものです」


そう言い残し、煌々と閃く虫たちの川に沿って歩いていく。

初めて会った時に感じたその破滅的な人相が、最後に見る姿となった。



※※※※※



決して朽ちることのない、色鮮やかな追憶。彼女はなぜ行方をくらましたのか、最後に見せたわずかな陰りは何だったのか、男は気に留めることをやめる。彼女がここへ来てくれたという事実だけで、もう十分すぎるほどに心は満たされている。


「手を、握っていてくださいませんか」

「ああ」


お互いに喪うものはあっても、手と手を取り合うことはできる。男は落ち葉を携えた彼女の右手に、注意深く、そっと手のひらを重ねて包み込む。彼女に流れる血脈は、既に温かみを失いつつあった。


「今だけで結構です、離さないでください」

「ああ」


男と彼女を繋いでくれた、ひとひらの落ち葉。二つの老いた手の内に、鋭くひしゃげた音がこもる。喪うばかりでもない、やがて大地の一部となり、次の命に託される。


「…エノラ」

しばらく返事は来なかった。


「はい……なんでしょう」

声がようやく耳に届いたと言わんばかりに、その応答は不明瞭だった。


「君の生涯は、どんな色をしていた?」

これは詮索でも追及でもない。彼女のこれまでを讃え、看取るための通過儀礼。


「とても、素敵な…眺めでしたよ、あなたがいる、この場所のように」

彼女の両目は開かない。代わりに深く息を吸い、芳しい森の香りは鼻腔へと抜けていく。


遠くから鐘の音が聞こえてくる。

一つ。

二つ。

三つ。


彼女は動かない。


痛みはいつか過ぎていきます。

男のかたわらで眠っている彼女の寝顔は、さながら無邪気な子供のように、とても安らかに見えた。


遠くから鐘の音が聞こえてくる。

一つ。

二つ。

三つ。


彼女は帰らない。


痛みはいつか過ぎていきます。

彼女から飛び立つ痛みが、空を駆け巡り羽ばたいていくことを、ひとり切に願った。


辺り一面に燦然とした色とりどりの光沢を滲ませる虫たちは、彼女へ手向けを捧げるように、絢爛な輝きをほとばしらせる。周囲を取り囲む灯火の花々を見やりながら、男は鎮魂の言葉を口ずさむ。


君を祝福する、エノラ・ニコラバート。

私の心の中で、永遠の安らぎを。

最後の最期の瞬間は、君だけのもの。

受難が、君の勝利となるとき。


痛みはいつか過ぎていきます。

彼女が遺してくれた意志の強さを、男は何度もなんども反芻していた。

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痛みはいつか過ぎていきます 榎良 @kitasan919

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